« おかげさまで一山越しました | トップページ | 自分の気持ちは脇に置いて »

カウンセリング研修会~高山法座(2)

 今回は、人生を4989されている方からの要望で、もう1泊して、3日目の朝のカウンセリング研修を持ちました。1人を除き、子育て中の、30代後半から40代前半の同世代の8名が集いました。生活実感の問題意識に共通点があります。職場での人間関係とか、家庭での連れ合いとか、子供とのコミニケーションで、悩んでおられる方もある。この現代社会では、普通に生きている誰もが、悩み、苦しみを実感するところです。

 希望は、少しつっこんだ聞き方のコツ。そして、自分との向き合い方でした。でも、いきなりカウンセリングという言葉を聴くと、身構えて難しくなるので、まずはからだほぐしから。40分ほど「自力整体」を誘導しました。30分の予定でしたが、気持ちよすぎて、思わず延長。これはいいですね。

 で、そのあとすぐ実践というのも、また難しいだろうから、いまのカラダの感じ、気持ちをチェックインしたあとで、そこで出た感じに則して、ぼくから40分ほどお話しました。もしかすると、カウンセリングやグループ経験がないと、実感としてはチンブンカンプンの話題だったかれしれません。でも、さすがは、華光の座談を実践的に体験されている方もあって、「ア、そうか。なるほどね」と感心して聞いていただけたようです。

 今回は、主に、「自己一致」-言葉、気づき、体験過程の構造についてお話しました。もちろん、ぼく自身のお味わいも含めてのオリジナルの部分もかなりあります。

 そして、そのからだが感じている感じ。言葉になる以前の、モヤモヤしたり、ドッーしりしたり、ザワザワしたりするような、フェルトセンスと呼ばれるカラダの感じをとらえて、大切にして聞き、概念化(言語化)し伝えていくことを具体的に考えました。自分の中にある、ある問題を向かうと、モヤモヤしたり、ガサガサしたり、グーと重かったり、とにかくこの否定的な感じは、嫌なので、自分の外に出したい。その際、

1)押さえつけたり、目を背けて「ない」「なかった」ことにしようとするか、

2)逆に、自分のすべてがその感じに支配されて苦しみ、その縁を作った相手や身近な人にその感じを乱暴にぶつけて、ますます自分も回りの人も傷つけて、結果、こころを閉ざしてしまう(こころといっても、実際に人を避けたり、家に閉じこもる人も大はやり)パターン、そんなムードが世の中に蔓延しています。

でも、3)正確には、それも自分の一部なんですが、全部ではない。そう感じている部分が、からだにあるというふうに、まずしっかり受けていく。そして、その問題と対話していける、傾聴していける適切な距離を取っていく。ここが大事やね。問題に巻き込まれすぎると、2)になったり、柔軟な対応も難しくなりますから。実は、その否定的な、ネガティブな感じも、私に、何かを伝えようとする、大切な友人なんです。友人ならば、大事に、大事に声をかけてあげてほしい。すると、大切に接することで、(自分で自分に)安心感が芽生えるんです。するとその微妙で、繊細なモヤモヤさんが、ぼく自身に、しっかり何かを伝えて来てくれます。不思議なほどです。ハッと気づかされます。たとえば、ぼくの場合なら、その否定したい感情が、実は、ぼくの奥にある、すごいか弱い、雨に濡れて震えている子鹿のようなぼく自身を、護ろうとするいちばんの味方だったことが、ハッキリ聞けたりします。そして、怒りに支配されていたのが、実は、とても怖かたやなーというような感じで、ますますピッタリした言葉になっていくこともあるわけです。事柄や出来事よりも、感情、その感情も単純な喜怒哀楽といわれるものより、もっとからだが感じている原初的な感じですね。

 でも、ところが、そこが難しいね。やっぱりネガティブな感じは、否定したいし、(自分で自分を)攻撃したりもする。「○○であるべきだ」(大人なら、親なら、男なら、先生と呼ばれるのだから)、まったく、外の役割や思考で、「○○ねばならない」と、頭で作られた正論を振りかざす。人にじゃないですよ。自分が自分自身にです。そして、自分を、自分で、「ダメだ、ダメだ」と否定していくんだから、そりゃしんどくもなりますよ。

 でも、阿弥陀様はどうおっしゃっているのかなー。それを直してこいとも、改めてこいともおっしゃってない。それどころか、究極的に、受容し、包み込んでくださているじゃないですか。これはすごいですね。何も、今生事って否定する必要もない。だって、いまの、私を、-人も嫌がるような、自分で自分が許せない、親や先生だって、仏様だって殺しかねない恐ろしい、いやらしいこころの持ち主の私を、いま、ここで、まるまる受けとめてくださっているわけですから。オオ、ビックリします。 

 そこに支えられているということも、すぐ忘れがちですが、人間に生まれて、この阿弥陀様の大悲のこころに出遇ったことが、ぼくのすべての原点ですからね。

 そして、人の話を聞くのも、事柄ではなく、また単純な喜怒哀楽の感情でもなく、お互いが、そのまだ言葉にならないそこの感じを伝えたり、聞いたり、言葉にすることを援助し合うわけです。だから、目先の問題解決、問題の除去ではなく、その問題に立ち向かうその人自身を理解し、その成長を願い、常に寄り添い、共に歩み励まし合う、育ち合う営みが、ぼくが学んでいるカウンセリングだと理解しています。単純な問題解決の相談ではないんです。その聞き役、理解役が、今生の生活では、具体的には、先生になったり、カウンセラーになったり、連れ合いだったり、信頼を寄せる人だったりするわけです。でも、後生にむかえば、究極的には、阿弥陀さんやね。比べることもできませんが…。

 でも、どれだけ理解的であっても、あくまで、この娑婆の荒波を歩いていくのは、誰でもなくこの私自身。逆に、人やご法に頼ってもダメということですね。ここは厳しい。自分が立ち向かっていくしかないが、そこを支えてくださる、理解し、寄り添ってくださるお方に出会ったわけですからね。その仲間にも出会えた。だから、その力に支えられて、歩ませていただけるじゃないてすか。勿体ないほど、大きな力です。

 もちろん、話はできても、実際の自分はどうか問われると、常に、失敗し、傷つき、傷つけ、そして学ぶことの連続ですわー。でも、おかげざまで、前を向いて歩かせてもらっています。

 まあ、こんなことを骨子に、もう少しカウンセリング寄りに、具体的な話題提供をして、あとは、2人組で、聞き合い、伝え合いの練習をしました。少人数でしたが、なかなか内容の濃い集いでした。あとの反響もよかったです。

|

« おかげさまで一山越しました | トップページ | 自分の気持ちは脇に置いて »

法座と聞法」カテゴリの記事

カウンセリング・DPA」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: カウンセリング研修会~高山法座(2):

« おかげさまで一山越しました | トップページ | 自分の気持ちは脇に置いて »