偽
今日は、京都支部の家庭法座。今年最後のご法座である。
毎年、12月23日に、西大路七条のM家で開かれている。もう何年になるのだろう。法座のあと、当家のご好意で、皆さんと会食して、法談するのもいつもの恒例だ。
ご法話は、東海支部でも話した、「いのちを喰らう」。特に、昨今の「食」を巡る不信や乱れは、さまざまなところに影響を与えている。良くも悪くも、世間での関心も高い。当然、皆さんの、日常の身近な話題だけに、また法話のあとに会食をすることもあって、自ずから、そんな話題が賑やかに続いた。
法話の枕に、「偽」ということで話した。
先日、京都の清水寺で、今年を象徴する漢字が、発表された。投票総数の20%近くを集める圧勝で、「偽」(ギ・いつわる・にせ)となった。「「なーるほど、うまいなー」と妙に納得したのは、たぶんぽくだけではないだろう。2位以下も、「食」「嘘」「謝」などが続いたが、「食」を中心に(しかも老舗や大手に関わらず)、政治や経済も、偽りや嘘が跋扈し、謝罪や釈明会見が、連日のように大きく報道された。そんな日本の風潮を歎き、モラル、社会道徳の低下を憤り、正義感の溢れる論説やコメントが続いている。
でも、その追求の論調に同感しながらも、何か違和感を感じずにはおれない。ほんとうに、一部の企業や政治家だけの問題にして、正しいことを、安全なところで、人ごとのように言い続けているだけで、ほんとうにいいのだろうか。
1)いつわる。だます。「偽悪」「偽証」「偽善」。
2)にせ。にせもの。「偽作」「虚偽」「真偽」。
3)人のしわざ。作為などの意味する「偽」
ぼくなど、親が子供に、先生が生徒に、または年長者が若輩ものに、「これも、あなたのためですよ」という正論の大方が、「あなたのため」、「あなたのため」と言うけれど、ほんとう? 「自分のため」じゃないのと言いたくなる。「人」の「為」こそ、「偽りだなー」と皮肉ぽく思えてしまう。
どこかで、ぼくたちは、いちばん、「偽り」「諂」(へつらて)っているものを忘れてはいないのか。
いや、忘れているんじゃないなー。「まこと」に出会わなければ、ほんとうは分からないほど、迷っているのじゃないかなー。
親鸞様は、「真実」のご左訓に、「真というふは、偽り、諂わぬを真というなり」。「実といふは、必ずものの実となるなり」とある。偽らないことが真実であり、ものの実、つまり命をもっているものの実(身)となってくださるのが、真実だといわれる。
ああ、そうか。ぼくにはそんなまことのかけらもないのだー。まさに、「真実の心は有り難し、虚仮不実のわが身にて、清浄の心もさらになし」の姿が、浄土真実の教えに出会って、アリアリと知られてくるだけだ。
世間の常識からみればおかしなことだけれど、真実に出会って、わたしの偽装、偽善、そして虚仮不実の身を教えていただけたことは、なんと大きな幸せだろうか。だって、それが、私の「まこと」の姿なのだから…。
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