« 2007年11月 | トップページ | 2008年1月 »

2007年12月の25件の記事

草刈り

 大晦日。

 ちょっとモタモタして、今日もまだ年賀状を書いていた。いつもより、2、3日遅い。1月の法座案内、文化教室の案内、そして個人の分と、だいたい420枚程度ある。あの人、この人の顔を思い出しながら、一筆添えていった。多少、重複している人は、どちらかに書いたが、有り難いことに、皆さんのお顔と、その方のだいたいのご心境が、思い浮かぶ。ご無沙汰している方は、どうされているのだろう。高齢になられたり、体調が悪い方もおられる。なかには、聞法に挫折されている方もある。歎異抄の7章のご文、論註の一文、ご文章などを添えた方もある。

Img_1973  午後も大慌てで作業して、中央局へ寄り、食材などこまごまと買い出した。そのあと、玄関お大掃除。玄関のタイルを磨く。勢いで、向かえの雜草を刈ったり、枯れ草拾いをした。かなりあったが、やりだすと徹底的にやる主義だ。きれいになって満足。思わず、写真をとった。でも、AFTETRだけ。これなら、BEFOREも写すべきだった。通り掛かった母がいった。「あっ、そうだったかなー。前に草あったか?」。ちょっとがっかり。それにしても、殺風景な写真ダナー。

  今日は木枯らしが強い。でも、京都はまた雪にはなっていない。

 家の中も少しだけ掃除をした。煩悩のごとく、掃いても掃いても、また湧き出ている。

  2007年も残すところ、あとわずか。

 今年も、いろいろとご声援、ご支援をいただきました。ありがとうこざいます。

 来年も、どうぞよろしく。もうしばらくは、続けていこうと思っています。

あす、元日は、1時30分から5時まで、「修正会」です。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

朱蝋燭

 世間は、仕事納で、年末年始の休みにはいった。華光会館も、事務の方は今日から、1月7日までお休み。華光会館も、修正会などの迎春準備と、1月2週目の報恩講の準備がある。ただ、それ以外は、行事も、地方法座もないので、専念できるのだが、今年は、予定外の事態になって、思い通り進まない。どうも愚痴っぽくなっちゃうなー。

 隣の工事にも年末はないらしい。最終工期が迫っているのだろう。工事関係者の立場なら、「ご苦労さまです」ということになるが、近所としては、こんな年末まで「ガアーガー」と騒音や振動がするのはたまらない。急いでられるので、荒っぽいくなって、会館の前はドロだらけだ。この1年、まったく説明や断りがないのも、イライラの一因だ。今日のところの愚痴はこの程度で、前に進もう。

Img_1969  雨の中、修正会と、報恩講の法要のために、注文していた朱蝋燭を取りにいく。碇型の十五匁目のもの。華光会館の仏壇は小さいので、寺院用としては、小振りの部類。在庫がなく、しかも、年内は材料いっぱいしか造れないとのことで、やっと六本分だけお願いできた。丁寧に二重、三重に包装されている。

 ロウソクといっても、ひとつひとつの手作業。しかも、伝統工芸士によるもので、それなりのお値段はする。「京の和ろうそく」は「京仏具」のひとつとして伝統工芸品に指定されているのだろうか。京都は、伝統工芸品の指定数でも、工芸士の数でも、全国一位の伝統ある職人の町でもある。華光会の役員さんの中にも、一位一刀彫で活躍されている、飛騨の匠がおられる。華光会のHPにもリンクされているが、改めてご紹介を。http://www.h5.dion.ne.jp/~higasi-k/

 店頭に並ぶ絵ロウソクを見ていると、小川未明の童話『赤いろうそくと人魚』を思い出した。人間の欲深さ、醜さと、なんともいえぬもの悲しい、寂しい気分に誘われる作品だが、一面、うつくしい話でもある。

 外は、夕闇に包まれている。冷たい雨が、京都の町に強く降っていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

オスカー・ピーターソン

 クリスマスを前にした、今年12月23日、ジャズ・ピアノの巨人、オスカー・ピーターソンが亡くなった。82歳。一般紙でも、かなり大きな記事の扱いだった。

  どのアルバムも、安定感があり、ウルトラ技巧派であり、力強く、ハッピーな演奏をする。ただ、日本人に好まれるマイルスやコルトレーンのような翳りとか、破天荒さ、難解さの陰は薄い。キャリアの初期も、中期も、そして晩年も、だいだいのアルバムが、85点以上はとっている優等生といったイメージがある。それもかなり明快で、ハッピーな優等生である。ほんとうは評価されることなのだが、長いキャリアがあるジャズ・ジャイアンツのわりには、けっしてナンバーワン、ピアニストとしては取り上げられない。長生きしたのも悪いのかもしれんなー。どう考えても、パウエル、ムンク、そしてビル・エバンスの方が人気があるし、現役のチック・コリア、キース・ジャレット、ハーバー・ハンコックなどの扱いに比べると、どこかその次ぎという感じは歪めない。確かに、彼らのように常に新たな地平、時代を切り開くというオピニオン・リーダーのイメージではない。むろん、彼も偉大なクリエイターなのだが、時代に左右されない、個性的な奏法、安定感、一貫性という方が、目につくからだろうか。もちろん、それはほんとうはとてもすごいことなんだけれども、これだけでは、なかなか日本での高い人気とは結びつかない。聞き手は、すこぶる飽き易いのだ。もちろん、キャリア相当の人気、評価(グラミー賞7回、日本でも世界文化賞の受賞など数々)も高いし、日本のジャズ、秋吉敏子、小曽根真、そして今をときめく上原ひろみなどの日本人ピアニストに与えた直接の影響も計り知れないのだが、なんとなく、少しジャズに詳しくなると「明快なピーターソンはもう卒業」という生意気な感じがあるなーというお話。

 で、200枚以上あるという作品の、ほんの一握りのものしか聞いたことがないが、その中から、お気に入りものを紹介。

 まずは、一般の方のイメージにある、スイングするジャズぽい雰囲気なので、聞き易いものから。一家に一枚の定番では、なんといっても、『プリーズ・リクエスト』(①)。この邦題、なんとかしてくれーと言いたいがね。なかなか購入するが恥ずかしくて、いろいろ揃ってから、CDでゲットした1枚。でも、まず、ここから入門するのが王道だったですね。

 『ザ・トリオ』も定番中の定番。ライブですね。世にさまざまピアノトリオあれども、「THE TRIO」で、通用するのは彼のピアノトリオだけ。レイ・ブラウン(b)、エド・シグペン(ds )のトリオは、ジャズのピアノ・トリオの最高峰の評価を受けている。

 『ソロ!』(②)は、MPSというレーベル。音がいいですね。有名スンダードを中心にしたソロアルバム。ジャズに詳しくなくても、「すごいなー」と聴けばすぐにわかる、超ウマです

 個人的にぽくが好きなのは、ライムライト原盤の『カナダ組曲』。全曲オリジナル。カナダ人の彼の祖国への敬愛と、リリカルな一面が聴ける一枚。

  パヴロ時代では、さまざまなトランペットの名手たちとディオしたもの。なかでも、これで、グラミー賞をとったのかなー、『オスカー・ピーターソン & ディジー・ガレスピー』。これもよく聞きました。マーキュリーのピアノトリオと、トランペッターのクラーク・テリーとの共演盤も好きでした。(『オスカー・ペータソン・トリオ+ワン』)

Img_1971 また、歌伴の名手でもあり、アニタ・オディ、エラ・フィッツジャラルドなど、名盤のバックには彼がいる。数々好きなのがある中でも、『Ella & Louis(③)。ジャズの王様、ルイ・アームストロングと、女王、エラ・フィッツジェラルドの共演。超一流同士だもの、バックも超一流じゃなくっちゃね。もうこれは、ジャズとか、スタイルとかを超えた名盤です。これは、ピータソン云々じゃないけれど、大好きにして、お勧めの一枚だ。

  彼の余芸というのには、あまりに玄人肌すぎるヴォーカルが楽しめる『ロマンス』(④)ジャケの雰囲気、彼が敬愛するナット・キング・コールばりの、甘い美声が楽しめます。こちらは、ドラムではなく、ギター(バニー・ケッセル)入れのピアノ・トリオ。ツボおさえた、歌伴奏の名手だけのことはあるなー。このアルバム、けっこうお勧めしています。

 以上、わりと有名盤ばかりなので、Amazonなんかでも、入手可ですね。でも、その手の紹介で、小銭を稼ぐ気はございませんので、各自でお探しくださいなー。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

新年号の発送

 今日は、華光誌の発送でした。大方は、年内には届くと思います。しかし、年末年始のメール便事情で、年内のお届けの確約がありません。このところ、時間がかかりますね。比較的中距離の都会の方が遅いこともあります。その地域の配達事情によっては、三ガ日がすぎてからというケースもあるかもしれません。その場合は、一週間もかかることになりまます。

 今回は、華光誌の表紙が一掃されました。それだけでなく、

1)年賀交歓が別冊。

2)2008年の行事予定案内

3)修繕募金のご芳名録

4)DVDや、凡子マンガなどの案内が3枚

など、挿入物が多いのでご注意ください。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

大掃除

 今朝は、朝から有志の皆さんのご助力で、華光会館の大掃除でした。大掃除といっても、昔の華光会館にあった、8月の大掃除のように、家具を全部動かし、畳を全部あげて干す(当然、道場の畳みも全部)という、ハードな恒例行事とは違います。

 外回りの窓や、空調などの日頃は手の届かないところを掃除するものの。ほんとうは、6名頼んでいましたが、今日になって都合が悪くなった方もあり、結局、4名のみ。この顔ぶれが面白い。禅宗のお坊さん2名と、元○○会の出身者。正直、よく動いてくださいますから。掃除も修行の一環という、曹洞宗の方の働きは、ひとりで二人分、三人力です。でも、80歳を過ぎた方にも、お願いするほどでしたが…。

 昨年と同じく、ぼくも、駐車場や、華光会館の外回りの清掃。あと、車の洗車などもしました。枯れ葉は、取っても、取っても、また落ちてくるし、濡れたらまつわりつくし、乾くとモロモロして、たちが悪くてきりがない。しかも、下が水はけの良くするために、わざとデコボコをつけたアスファルトなので、余計たち悪い。といって、少々汚くても、目をつぶっていると、いつのまに慣れてきて、当たり前でなんとも思わなくなる。まったく、我が煩悩と同じです。「垢をのぞき、塵を払わん」の精神で、拾いました。

 午後から、短時間、ちょっとした議論の来談者が、ちょうど一年ぶりにあり。これはこれで、非常にエキサイトして面白かったので、また後日。ただ一言。「仰せを聞く」ひとつだけれども、この「聞く」ということが難しい。ただ、頭を垂れて聞くひとつなのになー。宿善とはいえ、勿体ないすぎるー。

 それにしても、夫婦共々、外に向かうと、いろいろと面白く、これまでに考えられなかったようなワクワクするほどの可能性のある出来事が続いている一方で、内からは、つまらない陰口も届いてきて、愉快になったり、不快になったり…。

 回りの方にはご迷惑をかけるしかないけれども、それでも、自己に恥じることがないならば、胸を張ってわが道を歩ませていただくしかないよね。いろいろ、たいへんなこともあるけれど、自信なくさずに、元気を出していきましょうや、ご同輩!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「書き初め展」は中止

 都合で、来年1月27日(日)に予定されていた、華光書道教室の「書き初め展」が、中止となりました。もし、1月の法座案内に告知があっても、中止になっていますので、ご注意ください。もっとも、書道教室の生徒さん以外で単独で見学にお出でになる方は、ほとんどありませんが…。

 通信添削の皆様へは、おってご連絡いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『トランシルヴァニア』

 『トランシルヴァニア』  こう聞いて、ピンとくる日本人は少ないだろう。トランシルヴァニアがある地域をさすと聞いても、よほどの地理好きじゃないかぎりはわからない。

 トランシルヴァニアには「森の彼方の国」という意味であり、12世紀の文献にあらわれる、ルーマニア北西部の歴史的地名だそうだ。

 いまや、世界は、ソ連邦に代表されるように、多民族の巨大国は崩壊し、分離する方向に進んできた。お隣の中国にも、台湾やチベット問題などさまざまな難問を抱えている。ところが、一方で、欧州連合(EU)のように、毎年、拡大しつづける連合もある。EU=ヨーロッパではないはずだけれども、いまやぼくたちの感覚では同義語である。中心は、フランス、ドイツ、イギリスに、イタリアぐらいで、あとは周辺国という感覚もある。その周辺国が年々拡大しているのである。当初、経済統合が第一義的であったEUも、政治的統合にも大きな意味を持つようになり、そこに加えて、宗教的統合もあるそうだ。もちろん、キリスト教である。ところが、ベルリンの壁が崩壊し、ソ連まで解体した後、東欧の国々、さらにはトルコやルーマニアなどのバルカン諸国へも拡大していく。ルーマニアはともかく、トルコまでがヨーロッパとなると、どうも日本人のぼくの感覚ではわからない。

 まったくつまらない前置きが長くなった。

 いまは映画の話である。

Tran  なんとも不思議な、エネルギー、生命力に溢れた映画だった。

 ロマの楽師を追ってきた、傷心のパリの女性。この地で、さらに深く傷つきながらも、出産し、再生していく。まるで寓話のようだ。でも、この手の作品は、ストーリー云々は関係ない。「愛を求めて、何処までいく-地の果てまで」と小見出しのついた映画であるが、そんな陳腐なものではない。この地の果てが、「トランシルヴァニア」、つまり「森の彼方の国」ということになる。

 荒涼とした風景が映る。言葉がなくても、その荒れた、地の果てが画面から伝わる。貧しさも伝わる。社会主義時代の歪みもあるのだろう。どんよりした天候がその空気を如実に伝えている。

 ルーマニア人、ハンガリー人、ドイツ人、アルメニア人、ユダヤ人に、そしてロマとさまざまな民族が融合し、異民族の侵入が絶えず、政治的にも複雑な地域。宗教も、ルーマニア正教に、カトリック、ギリシャのカトリック、ユダヤ教に、さらに習合や融合しているのだろう。どこかおどろおどろしい。魔女のような老婆が登場する。怪しげな占い、黒魔術のような儀式。異国の民族音楽に、ダンス、ダンス。もう身体表現が違うのである。ロマの文化に温かい光りがあてられる。そして、彼女が身体に描き(タトウー)、自らを守る、象徴的な記号が、効果的にあらわれる。

 言葉よりも、風景、音楽、そして身体そのものが語りかける映画なのかもしれない。エキセントリックな、過激な配役が多い主演のアーシア・アルジェント(こわいほどの眼力がある)も、相手役の男優も、すごく存在感があった。

 この地の果ても、とうとう今年、ヨーロッパになったのである。

 それとも、まだ、「森の彼方の」異教徒の国なのだろうか。 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

クリスマス

 当然のことだけれど、わが家にはクリスマスも、イブもない。ぼくの子供の時からそうだ。あまりに可哀相だと、隣のおばさん(同人です)に、何度か、ペコちゃんのクリスマスケーキや、クツ型のお菓子をプレゼントしてもらったことを、鮮明に覚えている。7、8歳の時のことなのに、鮮やかにそのヴィジョンが浮かぶところをみると、いつも寂しい思いをしていたので、よほどうれしかったのだろう。ただ、父が、あまりいい顔をしていなかった記憶もある。でもまあ、昔は、それでもよかった。その前後におもちつきがあったし、その分、お正月のプレゼントやお年玉が楽しみだった。とはいっても、今の世相や、わが子をみていると、確かに可哀相な気もする。幼稚園時代から、「うちは、お寺なのでサンタさんが来なんだって」と、友達に話しているようだ。たぶん、嫌な思いをしているのだろう。しかし、信仰的にも、また商業的に、あまりこの手のキャンペーンに乗る気はない。

 今年は24日が祝日だったので、はじめてナナホの保育園のお母さんや子供たち数組に、連れ合いが声をかけて、お昼に食事会を開いた。事あるごとに、保護者の集いがあった長女の幼稚園と違って、この保育園では、働くお母さんや家庭の事情もさまざまあるので、保護者間の横の連絡がまったくないからだ。どうせ、冬休みで子供をみるには変わりがないので、これはこれで好都合。ぼくは、ほとんど始めて話すママさんばかりだったけれど、ここがお寺で、ぼくが僧侶だということや、クリスマスをやらない事情も話せた。ついでに日曜礼拝の誘いもすることができた。4歳児5名に、小学生も交えで大はしゃぎで遊び、大人も楽しげな半日を過ごした。

 と、まあ夕方までは順調でしたが、夜になって、風雲急に。家族の体調が悪くなって、念のため、休日の夜間だったけれど、緊急で日赤病院に連れて行くことになった。さいわい、当面は、心配はいらないとのこと。様子見で、なにごともなく帰宅。少し安心。さすがに、クリスマスイブのせいか、とても空いていたけれど、それでも、90分ほどの間には、深夜の緊迫した人も含めて、いろいろな人が現れた。幼児の発熱、真横では、ご主人が倒れられ、奥さんまでパニックで過呼吸で倒れられる。後ろでは、ケガのために、眼球までダメかもしれないという深刻な話。まさに「病人」という天の使いが、目の前におられました。それにしても、お仕事とはいえ、ほんとうにご苦労さまです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

 今日は、京都支部の家庭法座。今年最後のご法座である。

 毎年、12月23日に、西大路七条のM家で開かれている。もう何年になるのだろう。法座のあと、当家のご好意で、皆さんと会食して、法談するのもいつもの恒例だ。

 ご法話は、東海支部でも話した、「いのちを喰らう」。特に、昨今の「食」を巡る不信や乱れは、さまざまなところに影響を与えている。良くも悪くも、世間での関心も高い。当然、皆さんの、日常の身近な話題だけに、また法話のあとに会食をすることもあって、自ずから、そんな話題が賑やかに続いた。

 法話の枕に、「偽」ということで話した。

 先日、京都の清水寺で、今年を象徴する漢字が、発表された。投票総数の20%近くを集める圧勝で、「偽」(ギ・いつわる・にせ)となった。「「なーるほど、うまいなー」と妙に納得したのは、たぶんぽくだけではないだろう。2位以下も、「食」「嘘」「謝」などが続いたが、「食」を中心に(しかも老舗や大手に関わらず)、政治や経済も、偽りや嘘が跋扈し、謝罪や釈明会見が、連日のように大きく報道された。そんな日本の風潮を歎き、モラル、社会道徳の低下を憤り、正義感の溢れる論説やコメントが続いている。

 でも、その追求の論調に同感しながらも、何か違和感を感じずにはおれない。ほんとうに、一部の企業や政治家だけの問題にして、正しいことを、安全なところで、人ごとのように言い続けているだけで、ほんとうにいいのだろうか。

1)いつわる。だます。「偽悪」「偽証」「偽善」。

2)にせ。にせもの。「偽作」「虚偽」「真偽」。

3)人のしわざ。作為などの意味する「偽」

 ぼくなど、親が子供に、先生が生徒に、または年長者が若輩ものに、「これも、あなたのためですよ」という正論の大方が、「あなたのため」、「あなたのため」と言うけれど、ほんとう? 「自分のため」じゃないのと言いたくなる。「人」の「為」こそ、「偽りだなー」と皮肉ぽく思えてしまう。

 どこかで、ぼくたちは、いちばん、「偽り」「諂」(へつらて)っているものを忘れてはいないのか。

 いや、忘れているんじゃないなー。「まこと」に出会わなければ、ほんとうは分からないほど、迷っているのじゃないかなー。

 親鸞様は、「真実」のご左訓に、「真というふは、偽り、諂わぬを真というなり」。「実といふは、必ずものの実となるなり」とある。偽らないことが真実であり、ものの実、つまり命をもっているものの実(身)となってくださるのが、真実だといわれる。

 ああ、そうか。ぼくにはそんなまことのかけらもないのだー。まさに、「真実の心は有り難し、虚仮不実のわが身にて、清浄の心もさらになし」の姿が、浄土真実の教えに出会って、アリアリと知られてくるだけだ。

 世間の常識からみればおかしなことだけれど、真実に出会って、わたしの偽装、偽善、そして虚仮不実の身を教えていただけたことは、なんと大きな幸せだろうか。だって、それが、私の「まこと」の姿なのだから…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

枷鎖の業

 12月の輪読法座。誌上法話「枷鎖の業」の2回目。参加は、京都、大阪の方を中心に10名ほど。だいたい固定してきたが、仕事のお休みをとって久しぶりに参加してくださった方もあった。

 この法話には、テーマが二つある。もちろん、一つにつながるのだか、タイトルをつけるとき迷った。最初は、「たましいの葬式」、たましいでは誤解があるので、「こころの葬式」にしてもよかった。でもそれではインパクトが弱い。「業魂(ごうたましい)の葬式」も考えたが、当然、一般的ではない。

 結局、もう一つのテーマである「枷鎖の業」の方を選んだ。でも、もっと一般的ではない。だいいち、読めない。でも、逆に、「なんだろうな?」と疑問をもってもらえばと思った。

 枷鎖(かさ)と読む。「枷」の字はよくわからないが、「足枷」「首枷」と熟語すると、分かって来る。足かせ、首かせである。もともと、罪人の首にはめて自由を奪う木製の刑具を「くびかせ」「かせ」と読んだのだという。「手枷、足枷」と熟語しても、同じである。足でまといになり、自由を奪うものの意味でもつかわれる。そして、それに鎖がつくのだから、自ずから意味がわかってくる。そんながんじがらめに、わたしの自由を奪い、拘束する「業」という意味なのだ。

 お互い、さまざまな業に繋がれて、この娑婆を生きている。荷物がたくさんあると不自由かというと、むしろそれを喜んで、生きがいにしている。「忙しい、忙しい」と文句を言っているようで、けっこう楽しそうな人が大方だ。仕事、家庭、ご近所に、会社に、趣味に、遊びに…。年齢と共に、責任も重くなり、さまざまなお付き合いも増えてくる。でも、これがひとつもないと、言い知れぬ寂しさに襲われる。毎年、クリスマスからお正月にかけてのこの季節に、孤独な自死者が増えるのを観ても、孤独、誰にもあてにされず、相手にされないほど、つらいものはない。

 それは、ともかく、荷物が増えると、「後生の一大事」といいながらも、実際、聴聞は、二の次、三の次ぎになってくる。だから、お釈迦様は、所有物が増えれば増えるほど、仏道修行の妨げになるので、それを捨てろと、自らも実践なさり、私達にもお勧めくださった。でも、捨てきれない泥凡夫はどうなるのか。浄土教は、それを不真実で、不浄なものとして、「厭え」と示される。そして真実、浄なるものを求めよと。「厭離穢土、欣求浄土」である。

 ところが、親鸞さまはただひとり、すべてを捨てて比叡山で出家されたのに、20年もの厳しいご修行の後、親鸞さまはその自力聖道の修行を捨てられたのだ。そして、山を降り、法然上人の元で浄土の教えに帰入られた。その後、流罪となり、俗名を賜ったことが大きなきっかけとなったのであろうが、もう一度、肉食妻帯の、凡夫道を自ら歩まれて、私達に示してくださったのである。「僧に非ず、俗に非ず」の愚禿の精神である。

 ならば、末法濁世に生きる、泥凡夫の私達は、どこでご聴聞していくのか。「捨てたくない」としがみついて、捨てることができないわたしの執着の塊も、「娑婆の終わり、臨終を」迎えるとき、どれだけ泣き叫ぼうが、喚き続きようが、どんなに地団駄踏んでも、すべてを捨ててひとり出かけねばならない。その時に、つきまとうものは、この世大事、我が身かわいい、わが家族かわいいで、造りに造った「黒業(悪業)」のみが、ご丁寧に付き添ってくださるのである。そのところに一大事があることを聞かせてもらうのである。その「悪業」の真っ只中に、清浄の阿弥陀様が飛び込んできてくださっていることを聞くのである。

 浄土真宗のおみのりは、きれいごとでは聞けない。理屈や教義をいくら覚えてもダメというのはここである。

 つまり、捨てることもできない。厭うこともできない。もちろん、それを称賛するのでもない。しかし、捨てたくない、捨てられないものを、必ず捨てさせられる道があることを聞かせていただくのである。それは他でもない、わが悪業の生地そのままで聞き、転じられる世界があるのだ。「いし・かわら・つぶて」が、「いし・かわら・つぶて」のままで、「黄金」に変でしていく不思議。わが胸ばかりを問題にしないで、阿弥陀さまが仕組まれた、その不思議の真実の仕組みを聞かせていただくのである。

 そのために、この苦悩の娑婆があるといってもいい。仏法を喜ぶタネは、いたることにある。わが身の真実を知らされるタネも、ミチミチている。そこでご本願を仰いでいかないで、聴聞や華光会館だけのよそ行きの仏法に終わってしまっては、勿体ない。それこそ、宝の山に入って、手をむなしくして帰るようなものである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

海遊館

 今日で、カンロの小学校は終業式。でも、昔のように、式だけの半ドンではなく、いつもどおり授業も、給食もある。最後に、簡単な集まりがあるだけ。2学期制なので、当然、通知表もなく、ごく簡単な目安程度のものが配られた。

Img_1959_2   子供の帰宅を待って、親子4名で遊びに出かけた。この時期、イルミネーションがきれいということなので、大阪天保山の海遊館に出かけた。ほとんどの土曜・日曜日は法座が多いこともあるが、旅行以外でこの4名で外出Img_1896_2 する(このごろは単独行動が多いしね)ことも、またこんなメジャーな場所に遊びにいくことも、我が家では珍しい。こんな話が急にトントン決まることも、案外少ない。

Img_1898  クリスマス前の連休の金曜だったけれど、平日の夕方ということもあって、客もまばら。ゆっくり堪能してきました。子供たちも、連れ合いも、大喜び。海好き、魚好きのぼくも、大満足でした。

 けっこう、癒されました。そのあと、サントリーミュージアムで観た、3D映画の映像もすごい迫力! さっそくジンベイザメの写真が、PCの壁紙に変わりました。Img_1935 (厚目の一反もめんのようにも見えなくもないがー) Img_1932_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

仏旗

 華光会館の隣の工事も大詰めにはいった。いまは境界添で、1mと離れていないぼくの仕事部屋はとにかくうるさい。もちろん、騒音や振動はお互いさま。まあ、仕方がないとして、当然、ちょっとしたトラベルも起こったりしている。

Img_1862  その一つが、華光大会の最中におこりました。日曜日以外は、土曜日も仕事があるので、大会当日も中日が工事。大型の重機車輛が通過したとき、仏旗をひっかけ破ってしまImg_1866ったんです。たまたま同人の方が目撃されていた。まあ、こちらも旗が道路に出ていたので、お互いさまとも思ったけれど、役員さんの交渉の結果、あっさり弁償してもらうことになりました。

 というわけで、華光誌が終わったし、1月1日に修正会もあるので、本山近くの法衣店に仏旗を購入に出かけました。

 仏旗、別名六金色旗(ろっこんじきき)ともいい、仏教を信じるものの「旗じるし」、「仏様の旗」です。六金色とは、青・黄・赤・白・淡紅の5つの色と、その5つの色が混ってできる色(五色混色)とを合わせて六色。そのおいわれには諸説ありそう。

1)『小部教典』の「無礙解道」のところで説かれているお話が由来している説

2)釈尊が菩提樹の下で悟りを開いた時に放った六色の光から取ったものだという説

3)『涅槃経』(大乗経典)から取ったという説

の3説がある。そのうち、3)には、印度に古くから六金色として六種の色が伝えられていて、『涅槃経』の中に「涅槃(釈尊入滅)の時に、釈尊のお顔から色々の美しい光が放たれた。その青・黄・赤・白・玻璃(はり)・瑪瑙(めのう)等の光は、広くあらゆる世界を照らし、この光を受けたすべてのもの(六道=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)は、みな苦しみと迷いの全部を除かた」と記されるそうだ。その光の中瑪瑙は淡紅、玻璃は水玉ともいわれ無色透明で、他の五色を映し出すので五種混色として表しています。釈尊は、金色は広くあらゆる世界(東西南北上下の六方、たまは六道)の一切衆生を、あまねく照らし護って下さている。この六金色旗は、ブッダのお光と、そしてここではお慈悲を表しているそうです。

 全日本仏教会のHPでは、

青(緑):仏様の髪の色で、落ち着いた心で、力強く生き抜く力「定根」。

黄:仏様の身体の色で、不動な姿、確固たる揺るぎない性質「金剛」。

赤:仏様の情熱ほとばしり血液の色で、常の大いなる慈悲の心で人々を救う「精進」。

白:仏様が説法される歯の色で、清純なお心で悪行、煩悩の苦しみを清める「清浄」。

樺(紫):仏様の身体を包む袈裟の色で、あらゆる事に堪え忍び怒らぬ「忍辱」。(いまでも、南方仏教(スリランカやタイ、ビルマ)の僧侶の袈裟は、この色。それが日本では、長らく紫で表現されていたわけです)

 と説明されていました。ひとつ、ハッキリしているのは、これを考案されたのは、米国の陸軍大佐オルコツト氏という点は共通。セイロン島(現在のスリランカ)に渡り、仏教信者となり、仏教研究をされて創案されたものが、明治20年(1887年)に日本へ来られると共にこの仏旗を伝えられと言われている点です。

Pict01_2  あと、旧来の日本的な色合いから本来のものへと変化していることですね。120年ほど前に作られた世界共通の仏旗が、日本では空風火水地を表す青黄赤白黒の五色を基調にしてていた(いままでの華光会館のもの)から、本来の色調に戻りつつあるようで、従来のものと2種類ありましたが、全日本仏教会推奨(写真)にしました。雰囲気変わりました。原色の緑が青に、紫が樺色になった分、ずいぶん落ち着いた雰囲気しますね。

 ちなみに、心配していたお値段も4620円也。弁償してもらったとはいえ、案外、お安くすんでホッとしました。

 というわけで、気分一新。1月1日の修正会にお目見えします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

酔い-PARTⅢ

 今日は、午前中、自力整体の後、今期からの事務連絡の会議。そのあと同朋観光さんと、来年9月の聞法旅行のたたき台を相談しました。

 で、夜は、長女の幼稚園のお友達のお宅に家族でお邪魔して、玄人肌の美味な食事と、ワインをいたきだました。御馳走になImg_1827 りました。美味しかったです。

 どう考えても、日曜日よりも飲んだとおもうけれど、今夜は、まったく普通ですね。その変わり、連れ合いの方が、のびております。 Img_1861 

ご馳走もあり、親も子供たちも楽しそうでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

酔い-PERT2

 今夜は、伝道研究会でした。羽栗行道先生の「心身の革命」の2回目。いま、華光でお聞かせいただくことにも、羽栗先生の影響がいかに大きかったことが窺えますね。「迷い」ということでした。酔いに、「ま」をつける。1、2日の酔いではない。3年や5年の酔いでもない。昿劫以来酔い続けている、この「迷い」を、惑、業、苦でお示しくださり、三世因果の文脈で語ってくださる。ここは、世間常識の我々の「迷い」ではなく、仏智に照らされた教えにで会わねば、絶対に分かる世界ではない。その「迷いを離れていく」、転迷開悟こそが、仏さまの教えだといっていいわけですから。

 ぼくの悪酔いは、一晩寝れば終わるけれど、いつ果てるとも知らず、迷いを迷いとも知らず、苦しみに狂っていく姿を、大悲の慧眼でみそなわしてくださった。ほんとうに、ほんとうに、なんという哀れな、痛ましい姿に映っておるのでしょうかね。こんな虚仮不実で、汚い姿を、眼を背けることなくご覧くださり、罪業調べをしてくださり、この私の正体を見抜かれた結果、願行を具足された南無阿弥陀仏が出来上がってきたわけです。そのことをお聞かせに預かりながら、聞こうとしないことほど、恥ずかしいことはなんですが…。でも、無漸無愧の塊でからね。どこどごまでもご苦労をおかけします。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

酔い-PERT1

 このところ多忙だったので、東海支部法座のあとは、お茶だけ飲んでそうそうに帰宅する予定でしたが、結局、会場の近くの居酒屋で、6名ほどで飲むことになりました。屠畜の話をしたあとでも、みんな平気で、焼き鳥を頬張りました。見事ですね、この鈍感力、麻痺具合は…。今回もある方が真顔で発言をされました。「前回、屠畜の話を聞いてから、気持ちが悪く、牛やブタのお肉はやめていました。もっぱらカシワだけをいただきました…」。あのね、カシワもニワリトの肉じゃないですかと、皆さんが大笑い。まあ、こんなもんなんでね。泥凡夫の罪悪観といっても。

 で、生ビールを飲み、焼酎のロックを飲み、梅酒を飲んで、このあたりでもう今夜は終わり。まあまあホロ酔いぐらいの楽しいお酒で、早めにきりあげて、車中で読書しながら、8時半過ぎには帰宅しました。

 で、連れ合いと子供たちは、遊びに出かけて帰宅していなかったので、片づけなどゴチャゴチしているうちに、帰宅。すぐ子供を寝かせて、ブログを書き出したけれど、このあたりからどうも、調子がわるい。頭がヅキヅキ痛くなってきましたね。それでも、まあまあ、「脇に置く」などを書いていたけれど、どうも悪酔いした模様。別に酒量が過ぎたわけでもないのに、これゃ、事情が分かっているのに、平気で殺生したバチなんかねとおもいながらも、寒けもするので、布団に入ることに。でも、頭は異常に冷えるは、気分はすぐれんわ、頭ズキズキするわで、結局、深夜に嘔吐を繰り返す始末。ヤレヤレ。お疲れ気味と、寒さとが重なった模様ですが、しんどい時は、からだのことばかりに支配されますね。精神的な悩みもつらいけれど、肉体的な痛みや苦しみも嫌なもの。結局、身も心も、常に楽しく、快適に過ごしたい、生きたいの塊ということが知らされます。こんな時は、それだけしかないと断言してもいいわね。

 それでも、朝はわりと元気にお目覚め。最後の、「年間行事表」などを印刷屋に渡して、華光誌関係は、年賀などの割付の簡単な校正と、発送を除いていちおう終了。

 昼から、ジョンレノン暗殺事件の犯人の心理にスボットをあてた「チャピター27」という映画(ちょっとうっとおしいかもしれんが、ぼくはこんな心理ドラマ好きですね。冒頭のタイトルロールや音楽から気に入りました)は1本だけにして、久しぶりに、CDショップによって、新譜](キース・ジャレットと、ハービーハンコックのジャズビアノの両巨匠と、フラメンコとジャズギターのコラボレーション)を3枚ほど買って帰宅。

 ちょっと長くなったの項を改めて。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自分の気持ちは脇に置いて

東海支部法座でした。12月はだいだいお邪魔することにしています。一昨年は、東海地方には珍しい大雪で、たいへんだったことを思い出します。今日も夜は冷えてきましたが、天気はよかったですね。

 法話の冒頭に、皆さんに、法話の聞き方、あとの座談会での発言について、注文をだしてみました。というのは、あと、法話の分かち合いをする時に、「頭が悪いので忘れました」とか、「発言するのが苦手なので」といわれる方が多い。またせっかく共通の法話を聞いているのに、自分の家からもってきた話題を延々とお話される方もある。それはそれでほんとうなんでしょうが、毎回、毎回それではちょっとつまらんですよね。発言が苦手なのも、うまくまとめられないのも、よくわかりますが、今回だけは、ちょっと自分の気持ちは、脇においておいて、どんな内容だったのか、テーマは何か、どこに心が動いたかを聞いていてくださいと、お願いしました。別に、75分ほどの法話中、集中することなんかできるわけないです。いろいろな思いが去来します。当然です。そのいわば雑念をのぞくことではなくて、また起こってくるからダメではなくて、それを当然のこととして、そこと格闘するのではなくて、いわばそこは聞き流していく。「ああ、また脇道それた聞き方しとるなー。では本論を聞いていきましょう」と、また法話に帰っていく。そして、法話をする方も、なにかテーマ、伝えたいことがあってお話しているわけで、いろいろな材料や例話でそこを補強しながら話していくわけですから、その本筋を外さないように聴かせてもらっていくと、けっこう聞けるようになっていきます。

 あとの座談で法話の感想が話せないのは、大方の場合、口下手なのでも、すぐ忘れるからでもなく、実は、うまく理解できていない、枝葉を追って全体をとらえられていない、要は、聞けていないからです。だから、漫然とだまって聞くのではなくて、多少、不自然ぽくみえても、このように焦点を絞って聞き、聞き放しにしないで、再生して発言していくと、またハッキリとポイントやお味わいが浮かんでくる。そして、耳を育てていただくというこも大切なわけです。結局、仏様が、私になんとおっしゃってくださっているのかを聞かせていただくわけですからね。

 で、今回は、そこに意識をもってもらうように、一言注文しておいただけで、法話のあとの一口ふりかえりが、とてもよかったです。皆さん、けっこう聞いておられた。「いつもズレているといわれます」といわれながら、焦点があたった聞き方をされていました。たしかに、不自由ぽいけれど、これを繰り返していくと、自然と聞くことが身につきます。もちろん、若い方と、年配の方では、そのスピードが違いますが、妙な座談の苦手意識で、無駄なエネルギーをつかわなくすむほうがいいものね。それに、聞くことは、己をむなしうして聞くわけですから。自分の思いで満杯なところには、新しいものが入る余地ないものね。

 法話の前の枕だけで、今日は終わってしまったなー。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

カウンセリング研修会~高山法座(2)

 今回は、人生を4989されている方からの要望で、もう1泊して、3日目の朝のカウンセリング研修を持ちました。1人を除き、子育て中の、30代後半から40代前半の同世代の8名が集いました。生活実感の問題意識に共通点があります。職場での人間関係とか、家庭での連れ合いとか、子供とのコミニケーションで、悩んでおられる方もある。この現代社会では、普通に生きている誰もが、悩み、苦しみを実感するところです。

 希望は、少しつっこんだ聞き方のコツ。そして、自分との向き合い方でした。でも、いきなりカウンセリングという言葉を聴くと、身構えて難しくなるので、まずはからだほぐしから。40分ほど「自力整体」を誘導しました。30分の予定でしたが、気持ちよすぎて、思わず延長。これはいいですね。

 で、そのあとすぐ実践というのも、また難しいだろうから、いまのカラダの感じ、気持ちをチェックインしたあとで、そこで出た感じに則して、ぼくから40分ほどお話しました。もしかすると、カウンセリングやグループ経験がないと、実感としてはチンブンカンプンの話題だったかれしれません。でも、さすがは、華光の座談を実践的に体験されている方もあって、「ア、そうか。なるほどね」と感心して聞いていただけたようです。

 今回は、主に、「自己一致」-言葉、気づき、体験過程の構造についてお話しました。もちろん、ぼく自身のお味わいも含めてのオリジナルの部分もかなりあります。

 そして、そのからだが感じている感じ。言葉になる以前の、モヤモヤしたり、ドッーしりしたり、ザワザワしたりするような、フェルトセンスと呼ばれるカラダの感じをとらえて、大切にして聞き、概念化(言語化)し伝えていくことを具体的に考えました。自分の中にある、ある問題を向かうと、モヤモヤしたり、ガサガサしたり、グーと重かったり、とにかくこの否定的な感じは、嫌なので、自分の外に出したい。その際、

1)押さえつけたり、目を背けて「ない」「なかった」ことにしようとするか、

2)逆に、自分のすべてがその感じに支配されて苦しみ、その縁を作った相手や身近な人にその感じを乱暴にぶつけて、ますます自分も回りの人も傷つけて、結果、こころを閉ざしてしまう(こころといっても、実際に人を避けたり、家に閉じこもる人も大はやり)パターン、そんなムードが世の中に蔓延しています。

でも、3)正確には、それも自分の一部なんですが、全部ではない。そう感じている部分が、からだにあるというふうに、まずしっかり受けていく。そして、その問題と対話していける、傾聴していける適切な距離を取っていく。ここが大事やね。問題に巻き込まれすぎると、2)になったり、柔軟な対応も難しくなりますから。実は、その否定的な、ネガティブな感じも、私に、何かを伝えようとする、大切な友人なんです。友人ならば、大事に、大事に声をかけてあげてほしい。すると、大切に接することで、(自分で自分に)安心感が芽生えるんです。するとその微妙で、繊細なモヤモヤさんが、ぼく自身に、しっかり何かを伝えて来てくれます。不思議なほどです。ハッと気づかされます。たとえば、ぼくの場合なら、その否定したい感情が、実は、ぼくの奥にある、すごいか弱い、雨に濡れて震えている子鹿のようなぼく自身を、護ろうとするいちばんの味方だったことが、ハッキリ聞けたりします。そして、怒りに支配されていたのが、実は、とても怖かたやなーというような感じで、ますますピッタリした言葉になっていくこともあるわけです。事柄や出来事よりも、感情、その感情も単純な喜怒哀楽といわれるものより、もっとからだが感じている原初的な感じですね。

 でも、ところが、そこが難しいね。やっぱりネガティブな感じは、否定したいし、(自分で自分を)攻撃したりもする。「○○であるべきだ」(大人なら、親なら、男なら、先生と呼ばれるのだから)、まったく、外の役割や思考で、「○○ねばならない」と、頭で作られた正論を振りかざす。人にじゃないですよ。自分が自分自身にです。そして、自分を、自分で、「ダメだ、ダメだ」と否定していくんだから、そりゃしんどくもなりますよ。

 でも、阿弥陀様はどうおっしゃっているのかなー。それを直してこいとも、改めてこいともおっしゃってない。それどころか、究極的に、受容し、包み込んでくださているじゃないですか。これはすごいですね。何も、今生事って否定する必要もない。だって、いまの、私を、-人も嫌がるような、自分で自分が許せない、親や先生だって、仏様だって殺しかねない恐ろしい、いやらしいこころの持ち主の私を、いま、ここで、まるまる受けとめてくださっているわけですから。オオ、ビックリします。 

 そこに支えられているということも、すぐ忘れがちですが、人間に生まれて、この阿弥陀様の大悲のこころに出遇ったことが、ぼくのすべての原点ですからね。

 そして、人の話を聞くのも、事柄ではなく、また単純な喜怒哀楽の感情でもなく、お互いが、そのまだ言葉にならないそこの感じを伝えたり、聞いたり、言葉にすることを援助し合うわけです。だから、目先の問題解決、問題の除去ではなく、その問題に立ち向かうその人自身を理解し、その成長を願い、常に寄り添い、共に歩み励まし合う、育ち合う営みが、ぼくが学んでいるカウンセリングだと理解しています。単純な問題解決の相談ではないんです。その聞き役、理解役が、今生の生活では、具体的には、先生になったり、カウンセラーになったり、連れ合いだったり、信頼を寄せる人だったりするわけです。でも、後生にむかえば、究極的には、阿弥陀さんやね。比べることもできませんが…。

 でも、どれだけ理解的であっても、あくまで、この娑婆の荒波を歩いていくのは、誰でもなくこの私自身。逆に、人やご法に頼ってもダメということですね。ここは厳しい。自分が立ち向かっていくしかないが、そこを支えてくださる、理解し、寄り添ってくださるお方に出会ったわけですからね。その仲間にも出会えた。だから、その力に支えられて、歩ませていただけるじゃないてすか。勿体ないほど、大きな力です。

 もちろん、話はできても、実際の自分はどうか問われると、常に、失敗し、傷つき、傷つけ、そして学ぶことの連続ですわー。でも、おかげざまで、前を向いて歩かせてもらっています。

 まあ、こんなことを骨子に、もう少しカウンセリング寄りに、具体的な話題提供をして、あとは、2人組で、聞き合い、伝え合いの練習をしました。少人数でしたが、なかなか内容の濃い集いでした。あとの反響もよかったです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

おかげさまで一山越しました

 やっとこさ、「年賀交歓」の版下渡しました。高山の3日間を挟んで、6日間の集中作業でした。ほんとうは、もう1日あると、詳しく見直しができますが、こちらは人にまかせて、ぼくは作業に専念。案の定、本文の校正も同時になって、こちらも、ザーとみただけ。あと、ぼくのところの大きな作業は、「年間行事案内」の版下づくり。だいだい出来ていますが、土曜・日曜日を挟むので、渡すのは月曜日。華光誌の校正も、表紙などを明日もう1度確認すれば、中身は終了。

 いやいや、プチ早いですが、お疲れさまでした。

 そうそう、週末の法座の予定です。

1)16日(日)1時30分~5時「東海支部法座」。12月はだいだい、ぼくが出講します。以前、報恩講で話した、「いのちの喰らう」をテーマにあげていますが、顔ぶれを見て「歎異抄12章」に変更するかもしれませんね。いまの気分は、後者やね。↓

 http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/12/toukai2007-12.htm

今回は、法座後の、恒例の浅野家での忘年会は無理ぽいかもなー。残念ですが。

2)19日(水)1時30分~5時「華光誌輪読法座」。「枷鎖の業」の後半。ここから本番ですね。

 http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/12/kyoto2007-12.htm

その他、17日(月)に伝道研究会があり、19日(水)は、輪読法座が終わってすぐに、「真宗カウンセリング研究会」月例会と、合間におよばれなどもはいるので、華光誌が終わり、集いも終わって一息入るのは、京都支部が済む24日以降かなー。そこから、年末の仕事ですかね。もう今年も2週間足らずか。いやー早いなー。こうして、早馬のごとく人生を終えていくんですね。ご用心、ご用心。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

今日も年賀交歓の作業でした

年賀交歓(広告)の作業、一気に進みました。料金が安いので、ここだけは、いつもの印刷屋とは違うところにお願いする予定で、今日、版下用の印画紙が届きました。

 細かくて、かなり時間のかかる、最後の行事欄もうまくいって、一応(未稿の1マス分以外は)終了。予定より少し早く全ページの印刷もできました。あとは校正作業ですが、けっこう、訂正が見つかりますね。ここはひとりでなく、二人でチェック。住所や名前なので、慎重に作業を進めないとねー。

 平行して、来年度の行事予定表の作製に入ります。

 ところで、父は、明日から3日間(12月13日~15日)の日程で、兵庫県宍粟市山崎の西光寺様の報恩講法座。最近は、長距離の運転を控えているので、安全のために送迎が必要。ちょっとこの時期には、痛手ですが、安全運転で行ってきてください。年賀の校正だけでなく、たぶん、本文の校正が戻って来る可能性も大ですね。でも、華光誌はなるようになりますから、ゆっくりと…。↓

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/12/saikoji2007-12.htm

 いろいろ心の動きや、高山法座のことなどありますが、今夜はこのあたりでご容赦を。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脳が冴えて(?)、仕事進むの巻

 今日は、ずいぶん、仕事がはかどった。

 高山3日間の疲れもあって、かなり眠い1日。8時間以上は寝たが、起きたては、まだからだが温まっていないこともあって、声が出づらい。ほんとうは、午前中、自力整体に出かけて、体調管理をする予定だったが、昨晩帰宅したら、予定より3日も早く「華光誌初校」が戻ってきていた。迷ったけれど、今週は休んで、仕事に専念。

 校正は、細かなところはまかせて、大まかなところやポイントのチェック。表紙関係も、一気に作った。気になったいたら、居間に掃除機をかけ、午後は、30分ほど昼寝をしたあと、来年の聞法旅行の予定を同朋観光のNさんと相談。詳細は、これからだが、才市同行と、有福の善太郎同行の岩見の方面に決めた。観光で、世界遺産の岩見銀山や五百羅漢寺にも立ち寄るかもしれない。続いて、3年ごとにある消防器具の点検、さらに貯水タンクの清掃と水質検査の会社を依頼。華光大会前から、気にっていたことなのに、後回しになっていた。こんな電話1本でも済むことでも、なにか一仕事すんだ気になるから不思議。

この調子で、すぐ年賀交歓の作業へ。当初の予定は、5ぺージ分だったが、校正が割り込んだわりに順調。4頁半は進んだ。未入稿の部分や前段階のチェックがいまひとつだったが、もし予定どおり原稿が揃っていたら、5頁分は楽に進んでいた。残りは3頁と、虫あき部分がかなりある。でも、とりあえずは、明日中に、20頁が揃うだろう。

 ただ、「おまかせ」などの穴あき部分もあり、年賀広告の校正が始まってからも油断大敵。思わぬ時間を費やすのだが、この調子なら、金曜日には渡せそうだ。

 いや、疲れていたわりには、なかなか調子よかったですね。と、いうのも、高山の車中で読んだ、ハウ・トウーモノおかげじゃないかー。すぐ感化されて実践するところ、かなり、ミーハーやね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高山支部の報恩講(1)

Img_1819   土曜、日曜、そして今日月曜まで、3日間、高山支部法座でした。

 高山支部の皆さん、F家の皆さん、お世話になり、ありがとうございました。

 有数の風光明媚な観光地だけに、車中も観光や下呂温泉などに向かう人ばかりなので、なかなかウキウキした旅行気分。高度があって、寒いところですが、今年は駅前には雪ありませんでした。でも、夜には氷点下に冷えてきてチラホラ雪も降ってきましたが、例年に比べるとずいぶん温かでしたね。

 3日間でしたが、なかなかバラエティーにとんだ法座でした。報恩講法座でお斎がでたり、1座丸々を輪読法座にしたり、夜だけのミニ座談会があったり、月曜日は、自力整体を含めてカウンセリング研修会もしました。お参りも老若男女ありました。報恩講には、子供さんだけでも8名はいましたね。それが、一緒に、勤行もし、お斎もいただきました。カウンセリングには、若いママさんやパパが中心でした。

Img_1804  初日は、F家の仏壇で、高山常連のカープさんを調声に、正信念仏偈を読誦。あと、女性陣が持ち寄った九割方の精進料理いただきました。都会では珍しい山菜も豊富で、これがうまいんです。子供たちも含めて、総勢40名以上あったでしょう。それが、とても手際よくお世話くださImg_1809 います。また、小さな子供たちも、賑やかに、一緒に混じってくれる姿が、非常に、非常に尊いです。一般の真宗の檀家でも、こんな光景は減ってきていますからね。 

 ご法話は、親鸞聖人の報恩講様ですが、偶然、12月8日の「成道会」だったので、安心決定鈔の「娑婆往来八千遍」をご讃題に、Lhe_gandharabutsu 釈尊のご生涯をふりかえり、成道の意義について、お話しました。有名を釈迦苦行像の写真(右手)や、ちょうど一年前にここでも触れた、釈尊の前生譚である「燃灯仏授記」、み仏のみ足を泥水で汚れぬようにと、自らの髪をとき、頭を地面に擦りつけて供養するお姿を味わいました。まさに、高いところに仏様はいらっしゃるのではなく、頭を擦りつけてくださるお姿を目の当たりにすると、言葉で聴く以上に感銘深いものがありました。 

 まあ、今夜はこのくらいで。帰宅したら、予想外に早く「華光誌」の校正が戻っていて、仕事の段取りが変更になって大慌て。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

今週の予定です

1)今週末は、久々に高山支部法座です。3月以来なので、おおよそ9ケ月ぶり。法縁の篤いところなのて、楽しみです。今回は、報恩講様。そのわりには、外からのゲストは、いまのところ2名と少な目。そうそう、昨年は、「お斎」だけを目当てに参加された4名組ありました。不思議でしたね。

 さて、今年はどうなるのでしょう。8日(土)、9日(日)の2日間です。↓

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/12/takayama2007-12.htm

 今年は、補処の支部長の、直々の要請で、もう1泊して、10日(月)に「カウンセリング研修会」も開きます。こちらは、内容などまだ未定ですね。↓

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/12/takayama2007-12kaunsering.htm

2)さて、華光会館では9日(日)、華光日曜礼拝の「成道会」です。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/12/nitirai2007-12.htm 

 会食(カレー)の準備があるので、なるべく大人の方もお申込みください。

 仏教青年会も例会も合同なので、昨年も40名近い参加がありました。旧華光会館からの年中行事のひとつ。今年は、大釜を購入しましたよ。大人や仏青の分級座談会もあります。悟朗先生も顔をだされるかもしれませんので、奮って、ご参加ください。

3)ほかに、8日(土)は、東京支部の1日法座(松岡宗淳先生)です。↓

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/12/tokyo2007-12.htm

4)また、9日(日)は、広島支部の1日法座(松岡宗淳先生)もあります。↓

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/12/hirosima2007-12.htm

 共に松岡先生。最初、間違いかと思って、先生にお尋ねしたほどです。ぼくも、広島→九州はよくあるけれど、滋賀を超えて、東京から広島に連続で出講してくださいます

 その他、12月の予定は以下からどうぞ。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/07_12.htm

 どこかで、これをご覧になっているあなたと、どこかでご縁がありますことを楽しみにしています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『リトル・チルドレン』

 少し前に観た映画だけれど、書きかけになっていたものを紹介。

Littlechildren_01_2 これはかなり気に入りました。ぼくの中では今年の5本に入りますね

 大人になれきれない大人たち-アダルト・チルドレンを描いた『リトル・チルドレン』

 大人になれないといっても、別に閉じこもっているわけでも、結婚生活が送れないわけでもない。舞台が、アメリカの郊外の住宅街というだけで、充分に社会背景がわかります。経済的(庭付きの一戸建てだね)にも、社会的地位でも、決して、下層社会ではなく、中流の上。でもね、どこかぎこちなく、現状に言い知れぬ虚しさ、不満を懐き、家族がいるのに漠然として孤独に苛まれている。それが、いつしか、定番の不倫に走ったり、歪んだ正義感で、性犯罪者を環視して、逆に回りへの迷惑行為になったり、社会的に成功しているのに、夫婦はすれ違いで、ネットのHサイトにはまったり(妻の不倫や不満に気づかず、社会的地位とは対称に、パンティ被って、ネットでオナニーする姿を、冷たい眼で妻に目撃されるウィンスレットの旦那。添え物でも、心情を描いてもらえず、この扱いは哀れすぎー)、アメリカ病というより、日本も含めた先進国に共通しています。

 ぼくにも、なんか、よーく分かるんですね。ここに登場する人物の気持ちが…。こんな気持ちが分かるほど大人になったのか、それともぼくも、この社会の空気の中で、こころの虚しさと共感するなにかがあるのか…。

 金や経済的地位はあっても、夫は無理解、当然、セックスレス、一人娘は馴染まず、公園仲間のかしましい主婦もバカに見えるサラを、ケイト・ウィンスレット(タイタニックのヒロインね)。キァリア・ウーマン、仕事バリバリの妻(ジャニファー・コネリー)にひけめを感じながら、代わって子育てに励むつつ、司法試験に備える「主夫」ブラッド(パトリック・ウィルソン)。共に、満たされない、ほかの人生があったんじゃないという二人が、当然、親密な関係へ(ケイト・ウィンスットのかなり豊かな肢体が拝めますだー)。これだけなら、よくある不倫ものの定番だけど、そこへ、元性犯罪者のロニーが、町に戻ってきたことから、ブラッドの友人で元警官が、異常なほど過剰反応を示して、過激な環視(とちらがストーカーやね)やいやがらせを繰り返す。とにかく、この犯罪者のロニーの容姿、気色悪さが、すごくうまい! そして、彼を温かく受け入れ、いやがせにも毅然と立ち向かう母親もいい。そして、それらが絡むラストにむけて、ハラハラ、ドキドキ。悲しくも、希望を懐かれるラストは、みんな一気に憑き物が落ちたように、現実に帰っていきます。

 みんな寂しんやね。ほんとは、つながっていたいのに、攻撃や抗議になったり、悪者を環視したりなど、歪んだ形でしか表現できんのですね。経済的、物質的には豊かなのに、不寛容な環視社会、ギスギスした社会状況に生きる現代人が、等身大でうまく表現されています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

おはようございます

 おはようございます。

 寝る直前に、ネットで、たぶんぼくにだけ気になることありまして(なんだろうね?)、結局、寝つかれそうになかったので、悶々とするより起きてしまえと、寝ずに仕事することにしました。久々のオールですね。こんなこと久々ですわ。寝床でグルグル頭を巡らすより、なにか作業するほうが気が紛れますし、作業はかどりいいですわー。

 華光誌の年賀広告、1年ぶりです。ACE DRAWというソフト使てます。1年1度だと、けっこう、忘れていますね。でも、これで4年目なので、さすがに使うちにすぐ思い出してきました。20頁を終えるころには、完璧にこなせるようになるでしょうが、またそこから、1年後ですか。

 まあ、勤め人でない強みで、朝からひと眠りしましょうかね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

華光誌表紙がかわります

 華光誌の本文、朝いちばんで、業者に渡りました。1週間後、初校が戻ってきます。この3日間は、深夜までかなり集中して、頑張りましたね。もっとも、時折、野球のオリンピック予選にハラハラしながらでしたが…。PCの前に座っていたけれど、ブログも、珍しく3連休。法座や旅行以外では、初めてかなー。

 すぐに、表紙関係の作業と、年賀交歓欄へ移りました。高山法座を挟んで、15日までは、仕事は華光誌を最優先。でも、メリハリ付けて、体調や精神面のケアーもバッチリして、いい仕事がしたいです。昨夜も、日付が変わってから最後の仕上げをしていたら、いろいろと味わい(考え)が出てきました。ちょっといまは、表現できませんが、一時的な思いや感情ではない部分での、ご法にかける僕自身の姿勢みたいものと言っていいかもしれませんね。またボチボチと機会をみて、表に出していきます。

 ところで、今号から、表紙を一新します。長らく続いた、表紙の写真も前号で、終了。インド仏跡、中国聖跡、インドネシアの仏教遺跡と、45巻1号から、なんと22年も続いたことになります。数枚を除いて僕の撮影したもの。その間、デザインは1回変更しました。年4回とはいえ、さすがに写真も尽きて、このごろはヒンドウー教の遺跡を載せたり、苦労していました。まだ親鸞聖人や蓮如上人の日本の聖跡もあることはあるけれど、毎回、選んだり、解説文もけっこうたいへんだったので、ちょっと小休止です。

 華光誌と平行し、この月曜日には、経理関係の作業がありました。新たに華光の税務を担当くださるYさんが、ご夫妻で、九州から来館してくださいました。これからお世話になりますが、よろしくお願いします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年11月 | トップページ | 2008年1月 »