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枷鎖の業

 12月の輪読法座。誌上法話「枷鎖の業」の2回目。参加は、京都、大阪の方を中心に10名ほど。だいたい固定してきたが、仕事のお休みをとって久しぶりに参加してくださった方もあった。

 この法話には、テーマが二つある。もちろん、一つにつながるのだか、タイトルをつけるとき迷った。最初は、「たましいの葬式」、たましいでは誤解があるので、「こころの葬式」にしてもよかった。でもそれではインパクトが弱い。「業魂(ごうたましい)の葬式」も考えたが、当然、一般的ではない。

 結局、もう一つのテーマである「枷鎖の業」の方を選んだ。でも、もっと一般的ではない。だいいち、読めない。でも、逆に、「なんだろうな?」と疑問をもってもらえばと思った。

 枷鎖(かさ)と読む。「枷」の字はよくわからないが、「足枷」「首枷」と熟語すると、分かって来る。足かせ、首かせである。もともと、罪人の首にはめて自由を奪う木製の刑具を「くびかせ」「かせ」と読んだのだという。「手枷、足枷」と熟語しても、同じである。足でまといになり、自由を奪うものの意味でもつかわれる。そして、それに鎖がつくのだから、自ずから意味がわかってくる。そんながんじがらめに、わたしの自由を奪い、拘束する「業」という意味なのだ。

 お互い、さまざまな業に繋がれて、この娑婆を生きている。荷物がたくさんあると不自由かというと、むしろそれを喜んで、生きがいにしている。「忙しい、忙しい」と文句を言っているようで、けっこう楽しそうな人が大方だ。仕事、家庭、ご近所に、会社に、趣味に、遊びに…。年齢と共に、責任も重くなり、さまざまなお付き合いも増えてくる。でも、これがひとつもないと、言い知れぬ寂しさに襲われる。毎年、クリスマスからお正月にかけてのこの季節に、孤独な自死者が増えるのを観ても、孤独、誰にもあてにされず、相手にされないほど、つらいものはない。

 それは、ともかく、荷物が増えると、「後生の一大事」といいながらも、実際、聴聞は、二の次、三の次ぎになってくる。だから、お釈迦様は、所有物が増えれば増えるほど、仏道修行の妨げになるので、それを捨てろと、自らも実践なさり、私達にもお勧めくださった。でも、捨てきれない泥凡夫はどうなるのか。浄土教は、それを不真実で、不浄なものとして、「厭え」と示される。そして真実、浄なるものを求めよと。「厭離穢土、欣求浄土」である。

 ところが、親鸞さまはただひとり、すべてを捨てて比叡山で出家されたのに、20年もの厳しいご修行の後、親鸞さまはその自力聖道の修行を捨てられたのだ。そして、山を降り、法然上人の元で浄土の教えに帰入られた。その後、流罪となり、俗名を賜ったことが大きなきっかけとなったのであろうが、もう一度、肉食妻帯の、凡夫道を自ら歩まれて、私達に示してくださったのである。「僧に非ず、俗に非ず」の愚禿の精神である。

 ならば、末法濁世に生きる、泥凡夫の私達は、どこでご聴聞していくのか。「捨てたくない」としがみついて、捨てることができないわたしの執着の塊も、「娑婆の終わり、臨終を」迎えるとき、どれだけ泣き叫ぼうが、喚き続きようが、どんなに地団駄踏んでも、すべてを捨ててひとり出かけねばならない。その時に、つきまとうものは、この世大事、我が身かわいい、わが家族かわいいで、造りに造った「黒業(悪業)」のみが、ご丁寧に付き添ってくださるのである。そのところに一大事があることを聞かせてもらうのである。その「悪業」の真っ只中に、清浄の阿弥陀様が飛び込んできてくださっていることを聞くのである。

 浄土真宗のおみのりは、きれいごとでは聞けない。理屈や教義をいくら覚えてもダメというのはここである。

 つまり、捨てることもできない。厭うこともできない。もちろん、それを称賛するのでもない。しかし、捨てたくない、捨てられないものを、必ず捨てさせられる道があることを聞かせていただくのである。それは他でもない、わが悪業の生地そのままで聞き、転じられる世界があるのだ。「いし・かわら・つぶて」が、「いし・かわら・つぶて」のままで、「黄金」に変でしていく不思議。わが胸ばかりを問題にしないで、阿弥陀さまが仕組まれた、その不思議の真実の仕組みを聞かせていただくのである。

 そのために、この苦悩の娑婆があるといってもいい。仏法を喜ぶタネは、いたることにある。わが身の真実を知らされるタネも、ミチミチている。そこでご本願を仰いでいかないで、聴聞や華光会館だけのよそ行きの仏法に終わってしまっては、勿体ない。それこそ、宝の山に入って、手をむなしくして帰るようなものである。

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コメント

 「枷鎖の業」輪読法座ありがとうございました。仰せの通り、娑婆世界を四苦八苦している私が背負う荷物は、生活上の荷物ではないですね。私が重いと嘆く荷物とは、私の心の働き、業魂です。この「心の業、枷鎖の業」がとてつもなく重く私にのし掛かり、自らを苦しめます。他の物なら捨てることも出来るでしょうが、世界中で一番可愛い自分、どこまでも自己中心の塊で我執いっぱいのこの私自身が、自らを苦しめ迷ってきた重い荷物とあっては、最早どうにもなりません。まさに致命的です。
 ところが、己を捨てられず嘆いている私を、遙か彼方から呼んで下さるお方がおられた。その方がお捨てになったものは私とは別次元のものでした。私の阿弥陀如来様は、「すべての衆生が救われなかったなら私も仏には成りません」とお浄土の座を捨てて、今もそのためのご修行に励んでくださっているのですから、その親さまの心、まこと心を見殺しにする罪科は重いです。この罪業は、今生では許されても、後生では断じて許されず、必ずその報いを受けて行かねばなりません。
 いよいよ後生が詰まってきたら、善いも悪いも、手の施しようがなく、仏も法もありません。怒濤渦巻く悪業の奔流に呑み込まれ、往生要集にお示し下さった悪鬼の形相さながらに、私は助けを求めることでしょう。あれは決して空言ではありません。私が生きるために造りし悪業の重い荷物、私が背負えば間違いなく地獄へ堕ちるこの荷物も、仏様が代わりに背負って下さると、たちまち転じて善業となり、称名念仏の種ともなってくださいます。何という仏様の功徳でしょうか。四苦八苦の生活の端々からそのことを実感し、お念仏に還らせていただくこの身の幸せ、その大功徳を仰がずにはおれません。

投稿: KURO | 2007年12月24日 (月) 16:03

 KUROさん。
 尊いコメントありがとうございます。ただ「南無阿弥陀仏」と返信させていただくだけです。

投稿: かりもん | 2007年12月25日 (火) 22:59

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