食わずにはおられなかった
いま、広島支部の家庭法座から戻ってきました。
20名の参加者でしたが、まったくはじめての方も2名、また2、3回とご縁の新しい方も、2名あって、新鮮な顔ぶれでした。
昨年の報恩講や仏青大会で話した、屠場の描写を話しました。いまほど、「食」に対する関心が高い時代はないかもしれません。食の安全に対する不信、食の乱れ、食育(変換できまんでした)、グルメ、ダイエット、メタボや健康、そしてロハス、環境問題とからんでと、さまざまな形で問題にされている。でも、いつも、いつも聞かされていることだけれども、「食べ物」という生命はいない。人間が食べ物と決めて食べている。そのことを「感謝しましょう」という論点はあっても、親だったかもしれん、子だったもしれんいのちを、「おいしい」とか「まずい」とか「からだにいい」とか、文句ばかりいいながら、食べていること自体が、殺生罪。なんと「とんでもない浅ましい姿だ」と教えくださるのは、仏さまの教えだけだと思いますね。
屠場の描写を話すと、皆さん、耳を塞ぎたかったとおっしゃったり、なかには「まったく鈍感な自分」を問題にしておられた方もありました。今回は、男性よりも、「食」の罪悪が身近な女性の方ばかりで、男性がお一人。その黒一点の参加者が、罪悪の一環として、被爆直後の広島の大惨状(2日目に親類を探しに入られた)を、ほんのさわりだけ語ってくださいました。小さな防火水槽に何十という遺体がギシギシと折り重なるように入っている姿や、炭化したような黒こげの遺体、走っているままの姿の遺体など…。ここでも触れた「ヒロシマ-ナガサキ」の映画と、同じ証言を聞かせて頂きました。
でも、屠場にしても、眼を覆うような大惨事にしても、まったく私の腹底そのものです。いや、もっと、もっと恐ろしいものが、ここにあるのを忘れている。当然、その腹底めがけて、いのちを賭して、飛び込んでくださっている仏様のことなどまったくわからない。
石垣りんの「くらし」の詩ではないけれど、まさに「食わずにはおれない」、親も子も、先生も、そして如来さまのいのちを食らいつくし、口をぬぐっているわけです。
先月同様、最終の新幹線まで、皆さんとピクニックのように、楽しく食事をいただきました。手作りの黒マメやダイコンやキノコ、ゴボウなどで、やや精進料理ぽい。でもね、たとえ精進としても、「ああ、おいしそう」と、夢中になって貪り、レシピを聞きあう。ほんとうに、舌の根が乾かんうちからですよ。「ああ、美味しかった」と食べるこの身の、とてつもなく恐ろしく、浅ましい姿でしょうか。
もう、大矛盾。大麻痺している、わたしの存在そのものです。
だから、「迷」っているぞ、「無明」だぞと言われたら、聞かせてもらうしかないじゃないですか。いや、そこを聞かせてもらわないで、なにを聞かせてもらうんでしょうかね。
いや、それにしても、おいしかったなー。ごちそうさまでした。
狂ってるね。
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