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こころ(たましい)の葬式

 華光誌輪読法座

 今年から始めた新しい法座だけれども、ぼくにはなかなか面白い集いになっています。一方的に法話をするのでも、また、自由に自分の気持ちを語り合う信仰座談会とも違う。ちょうど、その両方の良さがある気がします。だから、ただ受け身でいるだけでは面白くない。同時、ただ自分の気持ちにだけこだわっても意味がない。積極的に味わいや感想、質疑があると、ぼくも刺激を受けて、自分自身で語るうちに味わいも深まっていく気がします。

 メンバーが固定してきたのは、少し残念ですね。今回も、京都、大阪の方を中心に、12、3名というところ。発言量や内容からみても、中心は、京都のMさんです。

 前回が、巻頭言だったので、今回から2回は、誌上法話の「枷鎖の業」の輪読です。

 前半は、今日の葬式事情の変化について触れています。これだけ社会や、地域コミュニティー、そして家族の形態が激しく変化しているご時世。死者を弔う儀式だけが、変わらんわけはありません。その中で、葬式仏教といわれる日本のお寺事情も、今後数年の間に、必ず、大きな変革期を迎えるはずです。内容が内容なので、いろいろと話題が外に広がっていきましたが、それはそれなりに面白かったです。

 で、だんだんと信仰の中身に入っていくわけです。葬儀事情から、私の死という問題。さらに、私の後生の問題へ。

 なにげなく書いていた「華光は本当の葬式ではなく、こころのお葬式するところ」という表現をめぐって、「こころの葬式とはどういう意味ですか。獲信することは、そんな大それたことかなー。自分のことと照らし合わすと、どうもピッタリこない」と、正直に自分の心境を語ってくださる方がありました。

 その正直さが、まずうれしかったですね。ご法縁に会い、信心喜ぶ身を自称されているが、どうも、「こころ(たましい)の葬式」というところが、自分の味わいと違うといわれるわけです。ここは、すごく大事なところなので、誤魔化さずに聞いていただきたい。

 華光でご聴聞されている方なら、別にお断りをいれなくても当たり前だと思っていたのでサラッと書いているところにひっかかってくださった。それで、各地であらためて皆さんに問みると、案外、ここのところが分からないといわれる方がおられたりする。

 「平生の時、善知識のことばのしたに帰命の一念を発得せば、そのときをもつて娑婆の終わり、臨終と思もうべし」のところですから、けっして、頭で聞いて知った、分かったとは違うわけ。一遍、死ぬですよ、このからだがあるうちにね。一度、落ちる体験をさせてもらうわけ。もったいないことやね。その意味で、ここはハッキリと体得される境地です。

 昿劫以来、ピンピンしてきた自力執心。自分で断とうどれだけ頑張り、力んでも、血は血で洗えない最後の関門。「捨てろ」といわれても、どう捨てたらよいかも分からん。捨てた気になっても、それは形だけで、腹底にはシラッとした奴が舌を出している。その自力の鉄壁に、一度は大粒の涙を流して絶望するわけです。ところが、不思議にも、自力で頑張っていても絶対に開けなかったものに、見切りをつけさせられる。捨てさせられる世界があるわけ。南無阿弥陀仏の智慧の利剣によって、この迷いの根が、根こそぎ切っていただくわけですから、もう、ウーも、スーも、ヒーもなくなる。ほんとうに一遍死ぬんですわ。そして、かわりにでて来る南無阿弥陀仏の声という世界がある。

 まさに、「前念命終、後念即生」です。

 「断といふは、往相の一心を発起するがゆえに、生としてまさに受くべき生なし。趣としてう生るべき趣なし。すでに六趣.四生、因亡じ果滅す。ゆえに、すなわち頓に三有の生死を断絶す。ゆえに断といふなり。四流とは、すなわち四暴流なり。また生.老.病.死なり」(『教行信証』信巻末)

 娑婆の命のあるうち、迷いの打ち止めをさせてもらう。そこに焦点をあてて聞く。そうでないと、いくら聴聞しても、何の意味があるんでしょうかね。

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