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2007年11月の27件の記事

華光誌新年号

 今日で、11月も終わり。今年も、残すところ1ケ月となった。

 明日から、師走だ。この猛スピードで進む感覚はなんだろうね。

 華光大会の余韻冷めやらぬうちに、このことろ、華光誌新年号にとりかかっている。 新年号は、業者の年内の仕事納日が決まっているので、ちょっと厄介だ。あと、年賀交換を自家製版しているので、本文の原稿渡しの後で取り組む。

 悟朗先生の誌上法話12ページ。体験記と東京法座などの感想文と合わせて、ちょうど40頁になった。華光大会の印象が強くて、子供大会や東京講演会法座の記事を読むと、ずいぶん、昔のことのように思える。これに、年賀が入るので、たぶん60頁ちかい厚さになる。ただし、今年から、年賀交換は別冊にした。個人情報という厄介な問題があるので、同人・定期購読誌友のみに限定するためである。これまたギスギスした世の中になったものだ。

 いちおう、いま、本文39頁分が、ウメや小見出しを除いて出来た。これから、何度か校正し、ルビを入れていく。あとは、聖教が手つかず。華光大会で法話した「本願を信じ、念仏を申さば、仏に成る」という歎異抄12章のこころを味わう予定だ。

 以前に比べると作業に余裕がある。早めから取り組んでいるせいもあろう。いちばん大きいのは意識改革だ。ダラダラ仕事をするより、集中した作業をしている。ただ、その集中のエンジンがかかるまでに時間を要するのが難点。追い込まれないと仕事をしないのは、今も昔も変わらない。新年号の本文渡しを、12月4日の午前に設定した。ならば、5日に設定したら、余裕があるかというとそうでもない。やはりギリギリになる感じがする。

 からだの手入れのために、週一度は、自力整体へ休まずに出かけている。感性が錆びないように、映画にも、週3本は行っている。今週の3本は、なかなかよかった。もっと、ここで紹介したいが、ちょっと書く余裕がない。しっかり書きたいと思って、逆に書けないという自分の完璧癖が、災いしているようだ。サラッとでもいいので感想も綴っていってもいい。読書は、週1冊弱程度か。これは、本の種類にもよる。簡単に進まぬものから、法座の移動の車中の3時間ほどで終わるものまでさまざまななので、一外にはいえない。それらに比べると、CDを聞くことは少なくなった。ほとんど新譜も買っていない。一人で食べる昼食や、お茶の時に聞く。今週は、エリック・ドルフィーの初期のリーダー作品(60、61年のもの)ばかり聞いている。この人が、このところずっと好きだ。

 今夜は、母の誕生を、連れ合いの手料理で祝った。明日の午前中は、ななほの保育園の学芸会に行く。華光誌があったので、今週末に、法座の予定を入れなかった。12月2日の日曜日には、聖典講座か開かれるが、ぼくは華光誌の追い込み。

 そうか。あと3日間しかないのか。いまの進展具合からみると、かなりギリギリになりそうだが、予期せぬことが入らぬ限り、どうにか出来るのではないかなー。

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東の報恩講

Img_1769   昨日(11月28日)、自力整体のレッスンの帰りに、東本願寺の前を通ると、すごい人だかりだ。

 そして、日頃開かない門から、前後を護られて黒塗りの車が出てきた。たぶん、高貴な御方が乗車されているのだろう。

 そう、東は、親鸞聖人の報恩講様のご満座。

 親鸞様の越後の流罪を模し、船に揺られながら念仏をする「板東節」の法要があったのだ。

 ご存じのように、東西本願寺では、旧暦と、新暦でそれぞれ報恩講の日が違う。西は、1月16日、東は11月28日。華光は、西の流れでの厳修となっている。お亡くなられた終焉の地も、東西で異なっている。東の孤杉先生に言わせると、「絶対に東の方が正確だ」といわれるが、畳みの向きにしても、御影堂と阿弥陀堂の関係にしても、作法にしても、あちらが縦なら、こちらは横。あちらが右なら、こちらが左。あちらが1度なら、こちちは2度などと、とかく対抗意識があって、妙なところで微妙に異なっている。誰かから、「48通り相違点がある」という話を聞いたことがあるが、なんでも、四十八願にかけたこじつけだろう。

Img_1768  でも、肝心要のところが、あいまいなところだけは、まったく一致しているのだから、困ったもんのである。昔は、西が法体的、東が機に重きをおいたお勧めの雰囲気がなくもなかったが、いまは、それも昔である。

 今日、前を通ったら、紅葉シーズンの観光客で賑わっていたが、昨日までの雰囲気とは、また違っていた。

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福井が一位

 お遊びで、「アクセス地域ランキング」(左側の中ほど)をつけたら、これがけっこうおもしろくて、毎日、ここもチェックしている。

 華光同人の地域と一致して、都会ほど上位にくる。常に、神奈川(なるほど。東京支部といっても主流は神奈川中心だものなー)、愛知(東海支部)、京都、大阪、兵庫(個人と日高支部)が、上位にランクされ、いつも1位を争っている。納得の内容である。人数からいうと、高山支部と東海支部の同人を抱えるので岐阜も上位にきてよさそうなのもだが、なかなか顔をださない。これも、なんとなく分かる。高山支部のネット人口が限られているのだ。これは、広島支部も同じ事情。

 ほかにも、同人が数名いる福岡、高知や三重、北海道が常に下位の常連。6位以下は同数でも、早いものがちでランキングされるようだ。

 ところが、たまに、まったく同人がいなかったり、少ない東北や四国が入ってくることがあるのが、またおもしろい。法味以外の検索にひっかかるもこともあるからなのか、それとも…。期待しよう。

 なぜ、この話題を書いたかというと、今朝観たら、初めて福井がトップになっていた。福井、富山、そして石川の同人が活性化されている。まさか、富山のお寺で華光の集いが持てるなどとは、10年前には想像もしていなかった。これまで北信越では、新潟が中心で、武生にも支部があったが、いまは消滅している。

 それにしても、このところの北陸勢の躍進はめざましい。今回の華光大会が終わった直後に、福井が1位になったことは、すごく納得のいくところ。同人会MLにもつぎつぎ入会されるし、うれしくてここに書いた次第だ。

 さて、この地域でも、近々、新しい動きが出てきそうで、楽しみです。

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老婆の回心

 最後の分級座談会。

 昨夜の体験発表から、総会、そして悟朗先生のご法話への流れを受けて、燃え上がることが、必然の時間だった。

 今回、ぼくのグループには、奈良の山間、室生の法地から、初参加した老婆がよく顔を出してくれていた。9月ごろ、電話があり、日曜日にご示談を受けたいと言われた。でも、近くで父や僕が時間のとれる土・日曜はなかった。「平日ならいつでもいいですが」と言うと、京都まで来る交通がままならぬという。家族に送迎してもらう関係で、週末以外はダメなのだ。一人で村を出られることなどないのであろう。なんどかトンチンカンな電話のやりとりがあって、とりあえず、父が電話で話を窺い、そして、今生の悩みもあるので、少しゆうこが相談に乗ることになった。それにしても、よく知らない華光会館に電話をされたものである。しかも、あの村から一人で来館されたのである。

 そして、今回。80を過ぎた老体を抱えての、初めての華光大会である。同じ村の法友も何十年かぶりに、華光会館へ。でも、この熱気に圧倒されたのであろう。座談会にも不慣れなこともあり、お尋ねしても、なかなか分級座談で発言されない。2日目には、法友二人が予定通り帰宅され、お一人になられた。それでも、聞きぬく覚悟である。

 そして、最後の分級座談。もう一度、老婆に話を振ってみた。

 必死である。

 今生の悩み事から、自己の罪悪で頭がいっぱいになられた。しかも、無常は迫っている。後生はといわれると、一抹の不安があるのだ。

 それで、決死の覚悟で、京都まで電車でこられた。この紅葉シーズンの人込みのなか、背中の曲がった小さな体で、不慣れな旅はたいへんなことだろうと想像がつく。

 しかも、手放しで喜ぶ皆さんの中で、自分の心境がダメだと見切りがついたようだ。

 でも、それでも、どこか50年前のご縁のことがないわけでなはい。喜べる時もあるようで、いわゆる若存若亡なのであろう。まさに、自力の執心のおそろしさである。

  二つおれになった小さな体をさげて、「どうか、聞かせてください」とおっしゃる。もうこの姿だけでも、胸に迫るほど尊い。聞かせていただくのは、こちら側である。しかし、その薄い、あったりなかったりする喜びは捨てなればいけない。それを強化してもダメなものはダメ。捨てさえすれば、届く真実があるのだ。初めて会う老婆に、残酷な気もするが、ここは厳しく、迫っていく必要がある。

 仏様の呼び声を、その罪悪深重の泥凡夫をお目てに、「極重悪人の○○よ」と、わが名を、十劫昔から呼び続け、叫び続けてくださる仏様のおこころを、諄々とお伝えした。フラフラした足で、尊前に進み出て、静かにお念仏される。その姿をまた尊い。まだ、わが胸を眺めておられる気もしたが、しかし、もう50年にわたるお育てが身にしみておられる。あらためて、余所を探すのでなはく、この口からでる南無阿弥陀仏こそが、私を浄土に連れて帰ってくださる本願のお働きにほかならないことを、何度も、何度もお伝えした。他を探しても、有り難いものも、変わったものもないのである。

  皆さんも、その姿に泣きながらお念仏されていたが、ひときわ号泣される老婆が一人。鹿児島からの初参加の方。いつも、自己流の聞き方、受け取り方しかできず、最後まで聞き取ることが難しいので、皆さんも何度も言いなおしたり、イライラすることもある。だから本人は、否定されて、いじめられていると被害者的になっておられたようだ。それが、自分に直接のご示談でなかった上に、この老婆の必死の思い、そして心境が、まったく自分のことのように受け取れてきたのだ。防衛的でないぶん、お話がスーと彼女の胸に届き、突然、仏壇の仏様が、グウーアと、彼女の目前に現れて飛び込んでくださった。それで、彼女もその仏様に飛び込んでいったと言われて、またお念仏された。

 もちろん、これから聞いていくのである。しかし、若い人たちばかりが注目されるが、こうして、自己の信仰の不審を誤魔化さず、真摯に求められる年老いた方がおられる方もまた尊い。ぼくたちの大先輩である。すでに、聞法の素地は、充分にできあがっているのだから、あとは聞かせていただくだけである。

 なんとも、有り難く、尊いご縁だった。

 頭を下げた老婆に、法蔵菩薩の姿を観た思いがした。

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華光大会が終わったら…

 華光大会が終わったら、電話ラッシュ。いつもだいだいそうだ。

 まず、いちばん最初に掛かるのは、忘れ物の問い合わせ。今回も、カバンを忘れた、小銭入れを失くした、クツが違っているなどなど。

 で、誰か、男のものの黒いクツを間違って履いてかえてませんか。よく似ているそうです。華光会館で預かっています。あと、リックのなかに、見慣れぬ小銭入れと、聖典が入っていた方はありませんか。「おお、仏様のご廻向、ブレゼントか」と思われたら、そうではありません。人のカバンに間違えて入れたと言われる方おられますので、華光会館まで。

 あとは、華光大会の時は、「年賀交換の申込み忘れました」というのも多い。締め切ったけれど、まだの方は、即ご連絡ください。

 そして、いちばん多いのが、喜びのお電話やお礼の電話。年配の方ですね。お若い方は、メールになりました。なかには、「○○を送れますから、お食べください」というありがた~い方もおられます。華光大会で出た、みかんやりんごも、皆さんかご喜捨いただいたものです。おかげで、今夜はカニです。

 でも、篤いご法縁にあうと、法悦がホクホク溢れる人ばかりではない。逆に、不審が起こっている人もでいるんですね。お帰りをお見送りしているとそれがよく分かる。ホクホク笑顔で帰られる方。名残が尽きずに後ろ髪ひかれる思いで帰宅される方。なかには、仏頂面の方もおられる。空しさも残る。みんな、あんな手放しで喜んでおられるのに、と人と比べたり、自分の胸を眺めたり、如来様の本願力のお働きは、どこか遠くに追いやられている。

 ご示談のお申込み。本人は、あわてておられますが、いまは、即華光誌編集。この1週間が、第一の山場なので、ちょっと待ってくださいね。この冷却期間が、けっこう大切な時もある。「ほしい、ほしい」で握りに掛かってられますから、握らすのはやさしい。急がねばならないけれど、焦ってもダメですから。

Img_1751_2  そうそう、あとは、法悦と共に、大量のゴミの山。

 悪臭を残していましたが、今朝、捨てました。

 ゴミがなくなっても、しばらく、悪臭残りますね。自力の執心もかくのごとしです。

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地殻変動

 今年の華光大会、なんかすごかったですね。

 ぼくの法話からはじまり、5名の老若の先生方の法話と、座談、信仰体験発表とバトンがわたり、最終日の総会から、悟朗先生の法話と、そして最後の分級座談へ。どのグループも、まさに聖人が影向され、説法獅子吼くださった、そんなご法座でした。響流十方と、火の玉のような念仏火山が爆発しました。

 なにかが動いた気がしました。このところの、またこれからの華光の将来を示唆するかのような大会でした。

 これまでも、さまざまな波が押し寄せてきました。たとえば、10数年まえに、悟朗先生が、最初にNHKの教育テレビ、「こころの時代」の出演があった時のような、そんな新鮮さと、躍動のある大会でした。

 先生方のご法話も、体験発表も、おもわず力が入って、時間オーバー。ちょっと分級座談会(好きな先生のグループに入ってする座談会)の時間が少なめだった上に、参加人数も多く、そこへ初めての方、心境に変化があった方、ほんとうに何十年ぶにり顔を出してくださる方と、あの方とも、この方とも、もっともっと語りあったり、お話を聞きたいと思いならがらも、2、3名の方(それでも充実していました)としかかかわれず、その点は残念。

 華光大会の休み時間は、責任役員会、支部長会議、当番支部との振り返り、そして懇親会前には、信仰座談会(分級)の打ち合わせと、いろいろと会議や相談事が続くので、なかなかじっくりとかかわれないのが、贅沢な悩みといえば、そうですね。

 実は、今回の大会は、楽しみだけでなく、少し気が重い部分もあって、このところ浅い眠りの日々が続いてます。昨夜も、疲れ過ぎて、逆に目が冴えてしまたけど、運営面でも、ご法の上でも、なによりも心境の上で、いろいろと気づかせてもらいました。

 華光という形で、この私に届いてきた真実を、一人でも一人でも多くの人にお伝えしたい。その形態や形式は変化しても、要は、ぼくなりの「仏法広まれ」の一念だけで動かせてもらってきたし、これからもその一念で働かせてもらいたい。

 日常生活や、社会の制約でゴチャゴチャあっても、要は、ただそれだけ!

 しかも、そのところの同信念仏に、心寄せてくださる皆さんと、共に歩ませていただける幸せ。新しい法友が一人、二人と増えたのですから、頼もしく、うれしい限りですね。

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いよいよ明日は華光のお祭り

 さあ、華光同人のお祭り、華光大会がいよいよ始まりますね。

 徐々に、準備が整っています。今度は、九州支部が当番。初めて華光会館の法座に参加される方もあるし、珍しい顔もある。なかなか楽しみですね。ワクワクです。

 掃除はおまかせして、ここ数日は、華光誌の準備と、事務作業。総会や役員会のための資料づくりです。今日も、先日の運営委員会のメモランダムと、来年度の事業計画、そして会員動向のチャックしました。あまり、打ち合わせができていないので、明日、分級の先生や流れの打ち合わせです。

 法話は、夕方から、少し外に出て考えました。

 ぼくがトップバッターです。

 ウーン、はっきりいってちょっとまだまだですね。このところ、なるべく仏教用語使わず、分かりやすい法話をに留意しています。なんか、以前のようにきっちり考えられなくなりました。その点では、ちょっと困っています。たぶん、数日前に書いた、「業たましいの葬式」というテーマに触れることになるのではないでしょうかね。

 どうゆうわけか、先日の東京公演会の有線放送が好評らしくて(ホント?)、今回の法話も放送の依頼がありましたが、こちらは、時間にと注意するぐらいで、あくまで、お参りの方を大切にしたいです。話したいことはいろいろあるけれど、なにを中心にしようかなー。頭ではなく、腹底に触れる体験ですから、仏教は。ナマナマと生きているんです。

 それにしても、ずいぶん、寒くなりましたね。グーと冷えて、夕方には冷たい雨。

 京都は紅葉の真っ最中です。にもかかわらず、京都駅から十条駅への直行される物好きな皆さん、どうぞ、お風邪などひかれませんよう、温かくしてお出かけください。

 

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ロージャズの面談ビデオ

 今月の月例研究会は、ロージャズの面接ビデオを見た。進行中の面談、ミス・マンとの第17回目のセラピーである。有名なグロリアとの面接は、デモンストレーションなので、映像化され、日本で販売されている唯一のものらしく、貴重だ。畠瀬稔先生を中心に、苦心の翻訳、字幕作業だと聞いている。1本3万円也。高いか、安いか。研究会で購入した。

 最初と、最後の彼自身の解説を含めて、約55分の記録。クライエントの保護のため、撮影時や場所は明かされていない。ただ、ロージャズが、51、2歳頃のことで、この直後、有名な「必要十分条件」の論文を発表される。50年以上前の話だ。 

 かなり、ワクワクしながらビデオ観た。

 なんという集中力だろう。クライエントに寄り添い、沈黙を大切にする態度。セラピストに支えられ、共にクライエントが自己の内面を探求する姿。そして、静かにしっかりと見守り、的確に感情を明確化していく、ロージャズ。彼女の信頼感、安心感が、画面からも伝わって来る。17回目ということで、充分にラポートも出来上がっているのだろう。

 ロージャズとしても、満足のいく面接だったのではないか。

 何分、ぼくには英語力がないので、字幕が頼り。でも、文章を追っていると、眠くなるので、1回目は、ノンバーバルな部分での、彼女の落ちいた姿勢、信頼を寄せ、ほほえむシーン、そしてロージャズの誠実な態度などを味わった。

 最後、分析家からの批判に答える形で、逆転移について釈明する彼の姿。ある種、パーソン・センタード・アプローチの核心のひとつに触れるシーンでもある。たしかに、何かを投影し、カウンセラーに転移させ、またそれを利用して、カウンセラー自身の未解決問題が混ざる逆転移の問題は、実際の面接の場面では、ポイントとなる箇所だ。その意味では、自己の感情に誠実に気づいている必要がある。さもないと、すぐに相手に巻き込まれて、同一化したり、知らぬまに依存関係になったり、男女の場合には、微妙な関係をも含んでしまう。

 一緒に腹を立て、憤っていたらOkの、世間の身の上相談ならともかく、援助的な関係での相談活動は、なかなか難しいものがある。でも、ここでは、ロジャーズは、かなり明確に、彼へのその手の批判に答えていたのが、印象的だった。

 これは、仏法の相談の場合も、考慮する必要がある問題だ。

◎来春にも、真宗カウンセリング研究会の主催で、このビデオの上映会を開く予定なので、関心のある方に、ぜひご覧ください。

◎ビデオの逐語録も、「ロジャーズのカウンセリング(個人セラピー)の実際」(コスモス・ライブラリー)として、630円で販売されている。

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11月20日

 母の誕生日である。

 華光大会前で、毎年、本人ですら、済んでから思い出すようである。昨年も、華光誌に忙しくて、プログでも触れていない。大好きなおばあちゃんにと、子供たちがお祝いを考えているようだ。

 女性なので年齢には触れない。今年がエトの回りであることで、推測してもらおう。

 身内のことで恐縮だが、えらく賢い人である。世間的な知識や学歴ではない。「パリってアメリカか、ロンドンか」というほど、ある種の天然の人だ。でも、この人ほど、賢い人に、今のところぼくは出会ったことがない。

 苦労人でもある。でも、威張らず、自慢せず、いつも明るく、ニコニコと、それを見せない賢さがあるのだ。

 今年、華光会が創立されて50年を祝ったが、いちばんの陰の尽力者は、母である。そのことを身近に知るのは、もう日高同人などの限られた人になってきた。だから、今回の東京でも、わざわざ日高の古老が参加して、「増井先生に、奥様におめでとうがいいたかった。ありがとうごさいます」と、おっしゃってくださった。

 そのときの母は、まだ21、22歳。

 毎夜、お札にアイロンにかけるような超几帳面な姑! かなり社会常識に欠け、子供のようなジコチュウの出戻りの例の小姑! 二人を看取り、あの父に使えながら、ふたりの子を育て、借金で出来た華光会館を切り盛りしてきたのである。

 若いころは、小さなからだで、かなり無理もしたようだ。だから、ぼくがまだ子供のころ、大きな病気を何度もしている。『親指のふし』にあるが、一時はかなり危ない状態でもあった。いまも趣味も、世間の友人もたず、ご法一筋。華光のことを思い、献身的に父を支え、ぼくを見守り続ける生涯だ。だから、父も母だけには頭があがらないようだ。

 ほんとうにたまに、小姑や父に爆発する姿もみた。いつもやさしいく、明るいだけに、ほんとうに滅多にない姿をみると、いちばん怖かった。別に、ぼくが怒られたわけではないが、なんともいえぬ悲しさに、こちらも涙したことも覚えている。

 そして、今度は、活動的な個性溢れるお嫁さんの登場である。

 ところが、ぼくが結婚して以来、一度も、嫁-姑の双方から、愚痴を聞かされたことはない。別に、うわべでお上手や我慢をしているわけでもない。そんな空気なら、敏感に察することはできるもの。もちろんね。叩けば埃もでよう。一緒に暮らしているんですから。不満や愚痴がないわけではないでしょう。でも、一切、それをこぼさない。

 世の中には、わざわざ無理に埃を叩き、煽って問題を作り、大騒ぎする修羅人もいらっしゃる。たぶん、自分の人生が不満の塊なんでしょうね。たしかに、「他人の不幸は蜜の味」で、夫婦や嫁姑がうまくいっていると、映画にも小説にもなりゃしない。うまくいっている話ほど、他人には面白くないものはないね。

 でも、本人は、辛酸をなめ苦労してきただけに、その不毛な思いを今度はさせたくないと思ってられる。だから、エライというんですね。やられたから、やり返す人もいるでしょう、世の中にゃ。「私の時はこうだった」って。家の中に、女が二人いて、もめないわけないのだけれど、いまのところ、双方が、ぼくよりかしこい女性である。

 その意味では、いくら威張って、知識があり、かしこぶっても、こちらはバカだ。妙なプライドや負けん気があって、間違った相手をやりこめたいところがあるものなー。自分をへりくだり、下がることができないものね。

 立派な両親に育てられ、その慈愛の深さに触れるとき、わが身の至らなさが、恥ずかしくなる。嗚呼-

 

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仏青フリーマケット

Img_1700  仏青の行事として、はじめての仏青フリーマケットありました。会員の企画で、最初はこじんまりしていて、品物集まるか心配していたようですが、同人やご近所の方からもいろいろといただきました。フリマというより、バザーですね。出展くださった方ありがとうございました。

 道場、いろいろならびました。教室は、ケーキやたこ焼きなどの軽食。

Img_1699 仏青主催なので、ぼくはまったくノータッチでしたが、準備やお世話は、なかなかたいへんだったようです。また、仏青からも報告があると思います。 

 でも、予想以上に大勢の子供たちが来てくれました。ほとんど我が家の関係者でしたが、花祭りなんかよりも、かなり多い。勤行も法話もありませんからね。しかも、開店から、ここで軽食を食べ閉店するまで、けっこう子供たちは楽しんでいました。町内の方や小学校の親御さんも、ボチボチ来店してくださいましたが、いろいろと提供してくださった華光同人の方は、あまりお出でになりませんでした。

 昔のこと思いだしました。華光会主催のバザー。父が、アメリカ布教の取り入れたもの。まだ、ご近所では黎明期だったこともあり、最初のころは、押しやいへし合いのたいへんな盛況でした。京都の婦人会や運営委員の皆さんのお世話があまりにもたいへんなのと、同種のバザーが出来てきたこともあって、かなり前にその役割を終えました。お世話されたことを覚えている同人も少なくなりました。

 今朝は、華光大会の準備で、仏具のおみがきをされています。

 夜に、伝道研究会あります。

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連研の講師

Img_1697  華光の方にはなじみがないけれど、「連研」のご講師に招かれました。

 途中の高速で、すごいきれいな落日を観ました。海外などの旅行以外で、普段の生活のなかで、こんなきれいに地平線に、大きな太陽が落ちるを見るのは、珍しいことです。車中だったので写真はとれず、パーキングで休んだときに1枚とりましたが、残念、もう遅かったです。

 「連研」は、門徒推進委員を造るための連続研修会。これでも、宗派主催のビーハラ養成の講師にもお招きをいただくこともあるんですが、今回は、組(そ)という単位でのお話。略して「連研」。宗派主催の中央といのうがあるので、その前段階。いちおう、開催の趣旨に添いながらも、言いたいことは言わせてもらえるので、喜んでお引き受けしています。

 と、言うのも、単に知識の勉強や学習になってもつまらんです。その意味では、ご法の鏡を通して、法と、自己の真実を聞かせてもらう。それを、単に一方的にお説教を聴聞する、黙って聞くだけでもない。また、話し合い法座といっても、ひとりで自分の考えを滔々としゃべり続けるのでもない。いま、ここの自分が問うていく。そして、聞き合い、話し合う雰囲気を造っていく必要あるわけです。

Img_1698 華光のご法座では、基本中の基本。みんなに、その基礎が当たり前に身についているので、はじめての方でも、そこに焦点さえあたれば、スーと入って来る。でも、一般の寺院の法座では、その雰囲気を目指すのでさえ、なかなか難しいことです。ほとんどの方が、発言させられる法座を、「難しいなー」「かなわんなー」と、思っておられる。それに、口先はともかく、本心は、死んだら仏、先祖が仏様と信じておられる、そんな信仰が大半ですからね。お寺さんの中にも、「なぜ、座談会や話し合い法座が必要なのか」と批判的な方もかなりおられる。みんなやり方が分からず、困っているわけです。だから、多くの連研で、話し合い法座かうまく進まないという話が耳に入ってきます。そりゃ、当然だわね。一方的に聞くだけで、何百年も来ているわけですから。

 いきおい、講義中心になったり、勉強会中心で復習したり、学習するだけの座談会になっているようですね。ぼくのように実際に信仰座談会を実践している、専門的な僧侶を招かんと、ただ丸くなっただけで、うまくいくわけないですわ。自惚れじゃなくて、これホントなんです。

 華光のように、「わが信やいかに、他が信やいかに」とやりあうまでには、かなり時間がかかります。まずは、なんでも話し合ていい安心感の雰囲気づくり。単に、知識や情報交換でも、また人の批判や悪口の集まりでもない。あくまで、お互いを尊重しながら、自分の率直な気持ちを語り合う。あなたメッセージで、相手を頭から否定したり、ひとりで滔々とうんちくを傾けるのではない。みんなで協力していく雰囲気から造っていくわけです。そのときの司会者、指導者は、教えよう、導こう、正解やゴールを目指すのではなく、お互いがその感情や体験を共有しあい、分かち合いならが、失敗も含めて共にそのプロセスを大事にしていくわけです。

 なーんて書くと難しいので、「楽しい座談を進めていこう」というわけですね。楽しいのは、なにも面白いという意味だけでなく、ワクワク感や充実感の意味の楽しさも含まれる。まあ、参加している!という実感ですよ。

 今回は、開講式を兼ねていたので、僧侶だけでも20名以上はおられました。門徒さんが中心だけでも、僧侶の方でもグループもってもらいました。みんな黒づくめ(当然)なので、ちょと異様な黒い集団が出来ました。でも、実際に実践してみると、皆さんの雰囲気が変わったのが分かります。前半の講義のときの「なにがおこるのか」という身構えがとれて、イキイキと話しだされました。すると、またそれがぼくも伝わり、こちらもリラックスして、面白いアイデヘアが浮かんできたりします。もう1度繰り返すと、さらに身につくでしょうが、初回は時間の都合でここまで。願わくば、この雰囲気が続きますようにですね。

 終了後もしばらく感想を話し合っていたので、帰路は0時をまわりました。ETCをつけたので、深夜の高速3割引になったぞー。こんなことでも、うれしいですね。

 

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華光大会の〆切です

 華光大会も1週間を切りました。

 昨日が、宿食の〆切。今回は、九州支部がお当番。福岡だけでなく、大分、熊本、そして鹿児島と、平生は、華光会館の行事に参加しずらい九州の方が、大勢申し込んでくださっています。ほかにも、何十年ぶりからの珍しいお参りもあって、今回は、なかなか盛況です。

 それで、〆切前に、宿泊定員に達してしまいました。いまは、キャンセル待ちの状態。なかには、「寝袋持参しますから」という方もあるけれど、男性、女性の問題もある。消防の点からも、「じゃ、廊下で寝てください」というわけにもいかない。先着順でお断りしたり、京都の方だけでなく、大阪の方にまで通いをお願いするありさまです。特に、後半ですね。2日目からが増えます。まだ、1日目は少しまだましです。

 ほんと有り難いことですね。

 法話や2日目夜(午後7時になりました)の信仰体験発表のお願いはすみました。こちらもお願いしたい人が多くて有り難いです。富山や福井の方は、もう1年見送って、九州の方にお声をかけています。

  宿泊は無理でも、お申し込みがなくても、近郊の方は、1座でもお参りください。

 さて、これから夜にかけて、法座案内に記載のない行事に出講します。

 華光の方にはなじみがないけれど、「連研」の開講式を兼ねた法座。兵庫教区宍粟組の連続研修会の講師に招かれています。これで、3年連続なので、だいだい雰囲気は分かっていますが、本山の門徒推進養成講座というがあり、2年をかけて12回、連続の法座(法話と後半が話し合い座談です)を受講して、最後の修了者大会は、京都のご本山である、オフィシャルな集いです。深夜の帰宅になりますね。

 明日は朝から、仏青のバザー(フリー・マッケット)。けっこう、品物集まりました。

 お近くの方は、ぜひ買い物にきてくださいなー。10時~14時ごろまで。

 

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こころ(たましい)の葬式

 華光誌輪読法座

 今年から始めた新しい法座だけれども、ぼくにはなかなか面白い集いになっています。一方的に法話をするのでも、また、自由に自分の気持ちを語り合う信仰座談会とも違う。ちょうど、その両方の良さがある気がします。だから、ただ受け身でいるだけでは面白くない。同時、ただ自分の気持ちにだけこだわっても意味がない。積極的に味わいや感想、質疑があると、ぼくも刺激を受けて、自分自身で語るうちに味わいも深まっていく気がします。

 メンバーが固定してきたのは、少し残念ですね。今回も、京都、大阪の方を中心に、12、3名というところ。発言量や内容からみても、中心は、京都のMさんです。

 前回が、巻頭言だったので、今回から2回は、誌上法話の「枷鎖の業」の輪読です。

 前半は、今日の葬式事情の変化について触れています。これだけ社会や、地域コミュニティー、そして家族の形態が激しく変化しているご時世。死者を弔う儀式だけが、変わらんわけはありません。その中で、葬式仏教といわれる日本のお寺事情も、今後数年の間に、必ず、大きな変革期を迎えるはずです。内容が内容なので、いろいろと話題が外に広がっていきましたが、それはそれなりに面白かったです。

 で、だんだんと信仰の中身に入っていくわけです。葬儀事情から、私の死という問題。さらに、私の後生の問題へ。

 なにげなく書いていた「華光は本当の葬式ではなく、こころのお葬式するところ」という表現をめぐって、「こころの葬式とはどういう意味ですか。獲信することは、そんな大それたことかなー。自分のことと照らし合わすと、どうもピッタリこない」と、正直に自分の心境を語ってくださる方がありました。

 その正直さが、まずうれしかったですね。ご法縁に会い、信心喜ぶ身を自称されているが、どうも、「こころ(たましい)の葬式」というところが、自分の味わいと違うといわれるわけです。ここは、すごく大事なところなので、誤魔化さずに聞いていただきたい。

 華光でご聴聞されている方なら、別にお断りをいれなくても当たり前だと思っていたのでサラッと書いているところにひっかかってくださった。それで、各地であらためて皆さんに問みると、案外、ここのところが分からないといわれる方がおられたりする。

 「平生の時、善知識のことばのしたに帰命の一念を発得せば、そのときをもつて娑婆の終わり、臨終と思もうべし」のところですから、けっして、頭で聞いて知った、分かったとは違うわけ。一遍、死ぬですよ、このからだがあるうちにね。一度、落ちる体験をさせてもらうわけ。もったいないことやね。その意味で、ここはハッキリと体得される境地です。

 昿劫以来、ピンピンしてきた自力執心。自分で断とうどれだけ頑張り、力んでも、血は血で洗えない最後の関門。「捨てろ」といわれても、どう捨てたらよいかも分からん。捨てた気になっても、それは形だけで、腹底にはシラッとした奴が舌を出している。その自力の鉄壁に、一度は大粒の涙を流して絶望するわけです。ところが、不思議にも、自力で頑張っていても絶対に開けなかったものに、見切りをつけさせられる。捨てさせられる世界があるわけ。南無阿弥陀仏の智慧の利剣によって、この迷いの根が、根こそぎ切っていただくわけですから、もう、ウーも、スーも、ヒーもなくなる。ほんとうに一遍死ぬんですわ。そして、かわりにでて来る南無阿弥陀仏の声という世界がある。

 まさに、「前念命終、後念即生」です。

 「断といふは、往相の一心を発起するがゆえに、生としてまさに受くべき生なし。趣としてう生るべき趣なし。すでに六趣.四生、因亡じ果滅す。ゆえに、すなわち頓に三有の生死を断絶す。ゆえに断といふなり。四流とは、すなわち四暴流なり。また生.老.病.死なり」(『教行信証』信巻末)

 娑婆の命のあるうち、迷いの打ち止めをさせてもらう。そこに焦点をあてて聞く。そうでないと、いくら聴聞しても、何の意味があるんでしょうかね。

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ボジョレー・ヌーヴォー

  今日は、ボジョレー・ヌーヴォー (Beaujolais nouveau) の解禁日。

 今日のプログのランキングではきっと上位のキーワードなんでしょうね。毎年11月第3木曜日解禁される新酒ワイン。一時は、異常な騒ぎ方でしたが、いまはもう落ち着きました。例の駅前の酒屋でイベントがあって、「あー、そうなの」と気づいた程度。ご縁があるなん思ってませんでした。

 で、朝のうちに散髪へ。東京公開講演会の前日にカットして以来なので、久々ですね。華光大会前なので、サッパリというところですね。

Img_1694  カットが終わったら、「樽で買ったワインを詰めてくれるお店から取り寄せたので、いっぱい飲みましょう」と、店の奥の小さなカウンターでご馳走になりました。いや、朝から、これはラッキー(^O^)ー お互い、まだこの後、仕事なのにいいのかねといいながら、フレッシュな風味を堪能しました。ありがとう。

 ちょっと甘酸っぱい風味を残して、その足で、小学校の参観日へ。ここは、今週の間は、いつ訪ねてもいい制度。春と、秋にもある。これはなかなかいい考えやね。普段の授業がいろいろ観られますから。で、たまたま国語の詩を書く時間でした。親は、ぼくひとりでした。給食前だったので、みんなガサガサとして、知り合いの子、次々と話かけてきます。各自の課題中とはいえ、ずいぶん、小学校の雰囲気も変わりましたわ。

 ほんとうは、輪読法座のこと書くべきなのに、夕方からは、ずっと華光誌の編集作業だったので、ライトな話題で。 

 

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七・五・三

Img_1683  夕方から、七・五・三のお参りにいきました。

 もちろん、仏教、浄土真宗とImg_1668_2 はまったく関係ありません。ただ着物を着せたいのが第一ですね。当然、神社でなく、西本願寺さんへ。千歳飴もなしね。阿弥陀様に、おかげさまでここまで大きくさせもらいましたとの報告です。まだ御影堂は、修復工事中。閉門少し前だったので、御礼だけして、華光会館の道場でも記念撮影しました。

 七歳と、三歳(四歳ですが)、早いものですね。

 Img_1689その後、京都御苑(御所)の横、丸太町寺町の角にある、シーコケットというオーガニクカフェへ。子供たちのおもちゃや絵本があるとのことで、足を延ばしました。客は、フランス人や外人が多くて、ネットしてました。うーん、かわいいお店でしたが、夜に食事をするのにはハズレー。まあ、子供たちが、楽しそうに喜んでいたのでよかったです。

 華光会館は、今週、呼吸法の集まりに会場提供しています。先生が、南インドの人なので、インド人も混じってますね。

 明日は、午前中、授業参観に顔出しから、久々、東京公演会以来の散髪へ。華光大会用ですね。午後は、1時30分から「華光誌輪読会法座」あります。↓

 http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/11/rindoku2007-11.htm

 

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『雲南の少女 ルオマの初恋』

 このところの中国映画は、辺境部分に光りをあてた作品がいい。ひとりのチベット女性の波瀾の一生を描いた『チベットの女 イシの生涯』は、チベット語。海抜4700Mの山を舞台にしたすさまじい男の生きざまを描いた『ココシリ』は青海省『モンゴリアン・ピンポン』『天上草原』は、内モンゴル自治区が舞台のモンゴル語の作品。

 さて、『雲南の少女 ルオマの初恋』。雲南省の山岳地帯にすむ、ハミ族にスボットがあたる。中国本土よりも、いま話題のミャンマーや、ラオス、ベトナムなどに近い地域。

 冒頭の5分。ためいきがでるほどの美しい雲海と、棚田の風景が広がる。自然の息づかいまでがリアルに伝わってきそう。まさに桃源郷。アジア的な現風景ですよね。ここだけでも、映画代1,000円也の値打ちありでした。Ruo2_2

 映画は、チャン・イーモウの『初恋のきた道』のようなロマンチックなやさしさと、フォ・ジャンチイの『山の郵便配達』の風景とヒューマニズムの美しさを彷彿させる初々しい作品。主演のハニ族の少女。チャン・ツィイーまでの大物になるのRuo1 かどうかはともかく、こちらも映像そのままに、17歳の揺れる女心を演じて、まぶしい魅力があった。民族衣裳も美しい。寡黙な老婆の姿も心打ちます。

 ただし、桃源郷も、しょせん、旅人にとっての都合のよいおとぎ話。人間は、利便性と、経済的発展を選んでいく性にあるようだ。彼女の夢は、大都会広州に出て、乗り物のエレベーターに乗ること。近代化にあこがることを止めることはできない。

 映画自体は、都会的な空気をもった男性との、ほろ苦い初恋の物語で、けっして目新しいものはなかった。でも、いいんです。あんまり難しいことは考えずに、90分間は、桃源郷の画像に身を委ねる。美しさの中で、やさしさと、心あらわれるような映画でした。 

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先輩同人の遺徳

Img_1649_2  華光会の50年を支えてくださった日高(旧・江原同人)の古老、長老の皆様です。

 40年前までは、華光の法座の中心の方ばかり。また、親御さんの代、先代の鎌田先生からの念仏者です。

 でも、60台半ばで、お浄土に還っていかれた方もおられます。毎回、毎回、病苦、老苦、そして、死苦の厳しい現実をヒシヒシと感じさせられています。

 それでも、いまもなお、華光の私達を支え続けてくださることには変わりはありません。

 皆さん、小さな(歩いて行ける)地域におられるので、お参りが難しくなった同人のお家を中心に讃嘆に寄せてもらいます。40分~1時間ほどお話が尽きません。

Img_1642 夫を失くされた方が多くなられましたが、妻、Img_1653母は強しですね。どんな威張っていても、最後は男のほうがもろいもんです。家族の方にも少しずつご縁がついてきました。一方で、一般のお寺ではないので、同人が亡くなられたら、それでご縁が途絶えてしまうところも多くあります。そのお家の前を通ると、感慨深いです。でも、これもご因縁事です。逆に、つぎの世代の家族の方が一緒に手を合せてくださることもありますら。

Img_1646  今回なら、なんと40年ぶり(もう還暦すぎれらている)に再会した同人の子弟がおられました。ぼくが幼児期の大遠忌法要の話題にもなりました。火傷で頭に包帯をしていたことまで覚えておられました。故人となられた、Img_0245北口さん、辻さん、黒河さん、西光先生、吾勝先生など共に追悼し、時間が立つのを忘れるぐらいお話をさせてもらいました。他にも懐かしいお名前が出ました。現実は難しいでしょうが、これを機会に、少しでもご縁が生まれることを願って、お別れしました。

 みな、筋金入りの強信な先代からの念仏者です。村を二分した、激しい命懸けの父母の代の念仏相続の話は、ほとんど伝説的でした。その厳しいお念仏を受けついでおられる皆さんが、今回も激しく懈怠の身を懺悔される方がおられました。

 妙好人というより、念仏の戦士という力強さがありますね。

Img_1648

 皆さん、華光会館誕生以前からのお付き合い。父や母の世代です。それだけに、今回の東京での50周年をわがことのように喜んでくださいました。いまや会館にお参りが難しくてなっても、お念仏を喜び、支えてくださる先輩たち。こうして、お宿をし、ご法座を持ち続けてくださいます。このような先輩同人の遺徳のおかげで、いま、この私の上に、真実のおみのりが届いているのです。この私がご法を喜ばないでどうするのか!です。

 溢れ出すご法のエネルギーのおかげで、虚仮不実のわが身にも、同じお念仏の尊い灯火が、明々と灯っている事実を、有り難く味わわせていただきました。南無阿弥陀仏。

(故人のお写真は、ご遺族の了解の上、掲載しております。いずれも、増井自然先生の揮毫の南無阿弥陀仏です)

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お念仏の土徳

Img_1651_2 日高支部法座終わりました。

 日高の同人の皆さん、お参りくださったお母さん方や子供たち、そして率先してお世話くださった支部長さんも、ほんとうにありがとうごさいました。

 支部長さんが、ゆうこの東京公演会のポスターをアレンジして、案内をあっちこっちに張ってくださいました。地域とお寺とのあいだにゴタゴタがあるようですが、その影響も受けずに、無事に、子供の報恩講も勤まりました。支部長さんの発案で、お世話くださった、「仏さまのプレゼント」のDVD上映も、なかなか好評でした。

Img_1643 欲ばれば、例年に比べると子供の集まりがやや寂しかったり(それでも、6年生が6名も参加してくれましたし、2、3、4年の子供さんと粒は揃っていました)、予定されていた若いママさんたちが、ちょっとした事件で参加が中止になったりと、残念なところもありました(↑会場の公民館の前と、ポスター)

 でも、お念仏の先輩同人、長老方にあわせてもらったり、思わぬ40年ぶりの出会いがあったりと、いただいたものも大きかったです。

 やはり、自分の殻に閉じこもって、あれこれ計らたり、悩んでみたところでなにも開けてきません。一文不知でも、ただ純粋にお念仏のお徳を喜んでおられる皆さんに、お参りを大歓迎していただくと、その大きな力に勇気づけられと共に、不思議なエネルギーをもらえる気がしました。打てば響くんです。

 ありがとうございました。

 今回は、日高同人の長老、古老たちの様子を、写真入りで詳しく報告したいと思っています。

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エンゼルトランペット

 散歩していたら、民家の軒下に、みごとな花が咲いていました。

 ブルクマンシア、別称、エンゼルトランペット、という南米産の花で、寒さに弱くて、なかなか育ちづらいと、同日の新聞記事にありましたが…。

 では、日高支部法座に出かけてきます。

Img_1641

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今週末は日高支部など

 今週末は、ぼくは、日高支部法座。

 ここは、個別訪問法座(6、7軒)、2日目朝は、子供の報恩講(秋は、もちつきもあります)の打ち合わせもあり、支部長さんと、メールや電話で打ち合わせをしています。あいかわらず、地域は地域で、いろいろとあるようなので、ご苦労なことです。でも、まあ、どんな風が吹こうと、ぼくたちはぼくたちで張り切ってやりましょう、というところですね。

 楽しみなのは、大人の法座に、30代の若いママさんたちがお参りくださるようです。これも、支部長さんのお人柄でしょうね。ハリキッてくださっています。なかなかすぐには結びつかなくても、子供さんのご縁を通して、なにかが浸透して、確実に変化していることだけはたしかです。

 日曜学校にまさに執念を燃やされていた故谷本瀧雄さんなどの先輩同人、遺弟の念力もかかっていますから、これはすごいです。

 法話は相談して決めましたが、ゲームや子供の集いの用意は、あすですね。

 週末、以下のような法座が予定されています。お近くの方は、ぜひどうぞ。

1)日高支部法座 11月10日(土)・11日(日)↓

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/11/hidaka2007-11.htm

2)大阪支部法座  11月11日(日)昼1時30分~ 生駒セイセイビル

 悟朗先生のご法話です。申込みなどは入りませんので、お気軽にどうぞ。↓

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/11/osaka2007-11.htm

3)日曜礼拝(遠足) 11月11日(日)朝9時20分集合

 大津牧場へいきます。華光会館に集合してください。かならず、前日までにお申込みください。(実費徴収)。ただし、雨天は牧場への遠足は中止ですが、なにか別の企画がありそうですので、お問い合わせくださいネ。↓

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/11/nitirai2007-11.htm 

4)東海支部座談会 11月11日(日)昼1時30分

 名古屋駅 則武コミュニティー・センター

 座談会になっていますが、仏青のO先生のご法話もあります。座談も活発なようですよ。

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鳴門の渦潮

Img_1602_2  家族六人揃って、1泊の旅行に出かけてきました。

 昨年から、まだ、みんなからだの動く元気なうちに、子供たちと、父母が一緒に、年に一度は、こんな機会をもつようになりました。

 参考に、昨年の同じ企画のブログを読む返すと、(ぼくの中で)同じ旅をすることで、かなり両親の老苦、病苦が実感として迫って来ている様子が窺えました。同時に、子供たちの成長も感じます。個人の内面だけでなく、家族という単位でも、かなり新陳代謝が進行しているようです。

 今回は、重苦しい話題はやめて、楽しい報告のみ。

Img_1603 巨大な吊り橋の明石大橋を通って、淡路島へ。子供大会以来ですから、2回目。高速のみで行けるので、案外近いんですね。南淡路まで足を延ばし、徳島県と境の鳴門海峡で渦潮を観てきました。はじめてみました。ほんとは春が見頃なんでしょう。秋ならこれからがシーズンなようです。でも、今日は天気も回復し、気持ちよかったです。

Img_1559  Img_1636_2 淡路島は、観光に力を入れていて、いたるところが花で覆われているので、けっこう楽しかったです。子供大会でも行った、あわじ夢舞台と、花さじきにも少しだけ寄りました。花さじきはきれいでした。子供大会では、各班で、取材し、壁新聞作りしました。あのときは、とても暑かったですね。

 でも、いまはもう秋です。空が高い。

 コスモスが見事でした。

Img_1601  二つの海がぶつかり、潮位の差で、海に段差ができています不思議な光景です。

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有線放送

 詳しくは、ゆうこの掲示板 http://teatime.bbs.coocan.jp/ にありますが、 先日の東京公開講演会の講演法話が、有線放送で流れています。

  有料ですから、普通では聞くことができませんが、サウンドプラネットのHPに、父と、ぼくが紹介文は、ご覧いただけます。少し前の写真なので、いまよりふっくらしていますね。なぜか、流し目です。

http://www.usen-cs.com/ch/JK/J22/index.html 
 

  おお、同じページに、ベストセラーになった『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』の武田邦彦先生が出てるじゃないですか。 今日の日本の環境問題の常識に一石を投じる、かなり刺激的な内容ですね。といっても、冷静にみると、かなりまっとうなことをおっしゃっているように思います。

  さて、さて、どんな効果があるのかは、まったく未知数。もちろん、期待していないのが本心ですが、少し楽しみでもありますね。

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食わずにはおられなかった

 いま、広島支部の家庭法座から戻ってきました。

 20名の参加者でしたが、まったくはじめての方も2名、また2、3回とご縁の新しい方も、2名あって、新鮮な顔ぶれでした。

 昨年の報恩講や仏青大会で話した、屠場の描写を話しました。いまほど、「食」に対する関心が高い時代はないかもしれません。食の安全に対する不信、食の乱れ、食育(変換できまんでした)、グルメ、ダイエット、メタボや健康、そしてロハス、環境問題とからんでと、さまざまな形で問題にされている。でも、いつも、いつも聞かされていることだけれども、「食べ物」という生命はいない。人間が食べ物と決めて食べている。そのことを「感謝しましょう」という論点はあっても、親だったかもしれん、子だったもしれんいのちを、「おいしい」とか「まずい」とか「からだにいい」とか、文句ばかりいいながら、食べていること自体が、殺生罪。なんと「とんでもない浅ましい姿だ」と教えくださるのは、仏さまの教えだけだと思いますね。

 屠場の描写を話すと、皆さん、耳を塞ぎたかったとおっしゃったり、なかには「まったく鈍感な自分」を問題にしておられた方もありました。今回は、男性よりも、「食」の罪悪が身近な女性の方ばかりで、男性がお一人。その黒一点の参加者が、罪悪の一環として、被爆直後の広島の大惨状(2日目に親類を探しに入られた)を、ほんのさわりだけ語ってくださいました。小さな防火水槽に何十という遺体がギシギシと折り重なるように入っている姿や、炭化したような黒こげの遺体、走っているままの姿の遺体など…。ここでも触れた「ヒロシマ-ナガサキ」の映画と、同じ証言を聞かせて頂きました。

 でも、屠場にしても、眼を覆うような大惨事にしても、まったく私の腹底そのものです。いや、もっと、もっと恐ろしいものが、ここにあるのを忘れている。当然、その腹底めがけて、いのちを賭して、飛び込んでくださっている仏様のことなどまったくわからない。

 石垣りんの「くらし」の詩ではないけれど、まさに「食わずにはおれない」、親も子も、先生も、そして如来さまのいのちを食らいつくし、口をぬぐっているわけです。

Img_1549 さてさて、5時にご法座が終了。

 先月同様、最終の新幹線まで、皆さんとピクニックのように、楽しく食事をいただきました。手作りの黒マメやダイコンやキノコ、ゴボウなどで、やや精進料理ぽい。でもね、たとえ精進としても、「ああ、おいしそう」と、夢中になって貪り、レシピを聞きあう。ほんとうに、舌の根が乾かんうちからですよ。「ああ、美味しかった」と食べるこの身の、とてつもなく恐ろしく、浅ましい姿でしょうか。

 もう、大矛盾。大麻痺している、わたしの存在そのものです。 

 だから、「迷」っているぞ、「無明」だぞと言われたら、聞かせてもらうしかないじゃないですか。いや、そこを聞かせてもらわないで、なにを聞かせてもらうんでしょうかね。

 いや、それにしても、おいしかったなー。ごちそうさまでした。

 狂ってるね。

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『「輪廻転生」は「諸法無我」と矛盾するか』

 M先生から頂いた論文読みました。

『輪廻転生」考(1)~和辻哲郎の輪廻批判』(龍谷大学論集)

『「輪廻転生」は「諸法無我」と矛盾するか』(龍谷教学)の2本。

 もう爽快!   溜飲を下げる思いで、うれしくなって、興奮冷めやらず。

 言葉の定義や、論理的な展開は、さすがは哲学の先生。たぶん、ご自身でも、書きたいことを書いておられるので筆が走っている(特に、龍谷教学の方が飛ばし過ぎで面白い)思いがしましたが。

 ぼくからみると、こちらがまったく真っ当な内容。でも、残念ながら、最近は、真宗のみならず、仏教界全般に、無我、因縁生(これはそのとおりなんです)、または縁起の法を持ち出して、「輪廻転生」(釈尊以前からある根強いインド思想)の否定こそが釈尊の真意(原始仏教)という説が、大手を振っています。一般向けの新書や、売れ筋の著書は、この手の論法が目立っています。だから、平気で、「死んだらなにもなくなる」から、「死んだらみんなホトケ」、または、それなら「死後があると思った方が幸せ」程度。または、六道をこの世の中のものとして、地獄、極楽だと公言されるの超高名な先生方のご教示が後をたたず、それに感銘を受ける一般の方にもよくお会いします。

 当然、三世因果などは過去の遺物だなー。後生の一大事もしかり。だから、「死後が問題ではない。いま、どう生きるのかに答えているのが仏教の真意」ということで、いつのまにか、生き方の問題、生きることに役立つ仏教になり下がり、昿劫からの生死を超えるとか、離れるという視点がぼやけているのが現状ですね。

 もちろん、これらの述べる「因縁生」の押さえや、巷にあわれる霊魂(アートマン)的存在の否定は、当然、頷くところ。その意味では、いまの私が、「私」と執着しているものは、この大無常と共にすべて滅んでしまうわけ。でも、だからといって、なぜ、その肉体的な死が、同時に何もかもなくなり、そこから、みな入滅や、みなホトケに結びついていくのかが、以前から不思議だったんです。

 これらの主張に対して、釈尊の原始経典をひとつとひとつおさえ、またたとえば、よく一般の方も論拠にされる「十難無記」(無記、つまり死後や霊魂についての質問に、黙して答えられなかったという例のやつです)も、ほんとうの毒矢のたとえの意味を示すなど、するどくメスを入れておられる。

 「輪廻説は、むしろ今現在の生き方に鋭い反省を迫る説示なのであって、死後をいたづらに恐れよとは一言も説かれていない。むしろ、死後はどうなるかは、今どう生きているかによって決まると説き、死後をいたずらに恐れるのではなく、今、この世において善因を造ることに専念せよと終える。真宗でいうなら、凡夫が輪廻を脱却しうる唯一の善因(南無阿弥陀仏)を、「今」いただけと教える現生正定聚・平生業成の教説こそが、その核心である。死後の行く末の問題を、今ここで解決せよ(今、ここで毒矢を抜け)というのが真宗であり、しかるにこの構造そのものは真宗に限らずどの仏教各派でも変わりはない。死後が大問題だからこそ、因果の道理によって、現在こそか重大となってくるのである。」 というくだりと、求道の要点のような註釈の文章も、なかなか痛快でした。

 もしかすると、以前の往生論争のように、新たな論争になるかもしれないほどの内容だと思いましたが、相手にしてもらえたらの話ですが…。でも、これなら、真宗学の専門家のあいだでも、共感や評価され方もおられるのではないかと思いました。

 M先生、ありがとうございました。

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早馬の人

 午前中、長女の小学校の学芸会。2年生、かわいいですね。本人は、ここ数日間、気分は欠席したいほどのブルー。それで、「がんぱれ学芸会」の垂れ幕を作ったり、前夜祭をしたりと、自作自演で盛り上げてましたが、しっかりやれました。

 昨年も同じ<11月2日。どんなこと書いてるのかと、1年前のエントリーを調べたら、ちょうど華光大会の前日だった。昨年の華光大会は、11月3日~5日と、11月連休の前半戦だったようだ。今年は、後半戦の23日~25日だ。

 たった1年前のことなのに、すっかり忘れています。すごいスピードでいろいろなことが動いていますね。もう大昔の話になっている。社会も、個人も、華光でも、実に、いろいろなことがありました。政界じゃないけれど、一般の社会だって、一寸先は闇だなー。

 最近、好きでよく法話する、「早馬の人」ですわ。

 すごーいスピードの早馬に乗っている男がいた。

 それを立ち止まって眺めていた人が、馬上の人に尋ねる。

 「おーい、猛スピードで、どこへ急いで行くのか」。

 馬上の男が答える。

 「知らん! 馬に聞いてくれ!」と。

 しばしば、自分自身も思いますね。騎手がコントロールするんじゃなくて、馬にコントロールされて、どこへ向かって走っているのかーって。

 この尊いお念仏のご縁に会わないと、ただ世間に降り回れて、「たいへんだ、たいへんだ」、「問題だ、問題だ」と、大騒ぎし、回りに踊らされて、走り回っているだけのこと。

 ほんとにたいへんな大問題は、「私」自身とも知らずにね。

 さてさて、皆さんは、どこへ向かって、走ってるんですかね。

 人ごとじゃないよね。

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『大統領暗殺』

 ファースト・ディーなので、午後から1本だけ。二条の映画館まで。

 『大統領暗殺』なんとも物騒なタイトル。どうせ、例のごとくのハリウッドヒーロー物かと思いきや、これがとても、よく出来ていて、ある種、面白かった。

Death_of_a_president  ただし、わが国の邦題は、当初、『ブッシュ暗殺』。さすがに映倫が通らず、このタイトルになったそうだけど、確かに無理があるわね。倫理観にひっかかるかもしれませんね。だって、実際のブッシュ大統領のさまざまな映像を使って、本人が、空港につき、肉声の講演をし、そして支援者に応え、その最中に、まるで本人が実際に狙撃されたように見せている。もちろん、本物のチェイニー副大統領まで登場して、すぐに大統領に就任する。そして、それらしいコメントや大統領の追悼演説を行い、暗殺を、憎きシリアの陰謀としてこじつきようとまでする。それらを伝えるニュースも本物らいしものが使われる。 ケネディ大統領暗殺と、レーガン狙撃事件(殺人未遂)という、実際におこった大統領暗殺事件を下敷きにしいるようで、その分、確かにリアリティーがあった。

  その意味では、全米では公開中止になりかけるほど、きわもの映画のにおいがするけれど、実はディテールにリアリティーを求めた、至って真面目な作りだと思った。

  しかも、それを、ドキュメンタリー風の手法で伝えている。実際の映像に、環視カメラや、TVカメラの映像もつなぐ。その合間、合間は、事件の関係者のインタピューが大半。つまり、事件をそれぞれの立場で証言するというつなぎ。この回顧者が、元大統領補佐官、事件を担当した元FBIの捜査官、大統領の元シークレット・サービース、解雇された護衛責任者、シカゴの警備担当者、容疑をかけられた男に、大統領への抗議デモを指揮していて拘束された男に、容疑者のアラブ系の妻など。それぞれの立場の人が、その人なら、当然、言うであろうことや、もしくはその立場でしかいい得いない事実などを、次々と証言して、事件の真相と、その背景にある国家の闇に迫ろうというもの。

  もちろん、ここは俳優さんたち。でも、実際の知らないメンツを集めているので、ウソだと最初から分かっていても、いつのまにか本物の証言と見間違えるばかりだ。

    後半は、サスペンスとしての容疑者探しという見どころがあるのだけれど、ほんとうに伝えたい点は、9、11以降のアメリカの息苦しい空気だろう。ジワリジワリと、公共の福祉(というより国家権力の抑圧)が優先されて、個人の人権がジワジワと締めつけられている。テロとの関係で、偏見的で、権力に有利な市民操作と、見込み捜査で犯人が捏造されていく。そして、大統領暗殺という非常事態だからと、国家権力側に都合よく、市民を環視したり、拘束しやすい「愛国者法」なる法律が作られ、さらに新たな国際的な陰謀への発展しそうな雰囲気で終わっるのだった。

  ところで、はじめて、プレミアスクリーンなるもので観ました。新幹線のグリーンシートのようなもの。座席が個別で(つまりひじ掛けが、となりとかぶらず二つある)、リクライニングになって、前にもテーブルもありました。当然、前後も広い。もっとも、お疲れなのか、ゆったりしていたおかげで、容疑者とは別の、真犯人探しのポイントのところを、ウツラ、ウツラと見逃してしまうのでありました。オイオイ。

Img_1547   帰りに、「雨林舎」によって、温かいお茶飲んできました。落ち着いた雰囲気の、手作り感のカフェだったけれど、座った席の照明が暗くて、本は読みづらかったです。

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海から紅葉に衣替え

 11月になりました。

 今日は、少し肌寒かったですね。ちょっと冷たい雨も降りました。きっとこれで平年並みなんでしょう。

 PCの壁紙を、沖縄の残波岬の海から、東福寺のモミジにかえました。ちょうどきれいな写真を見つけました。

 週末から風邪気味で、少しグズグズです。

 気分的には……。

 超気にしいーなんでね。撃たれ強くなりたいというか、小泉さんじゃないけれど、鈍感力を身につけたいもんだね。

Photo_2  Photo

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