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2007年10月の26件の記事

「つくられた関係」より

 10月の真宗カウンセリング研究会の月例会。

 例によって、ロージャズ論文の輪読だ。

 援助的人間関係の流れの中で、よく知られている行動療法や実験心理学のいくつかの結果から、援助的な関係に客観的な成果を語ろうとする一段。

  彼の引用の意図とは別にしても、示されていた3つの報告が面白かった。

 なかでも、ハーロウ(Harlow,H.F/訳ではハーロー)の子ザルを使った代理母親の実験(1958)。もう50年も前のものなのに、今でも「子育て」の論文などで取り上げられている有名なものだ。

 ほんらいは、さまざまにパターンの状況で実験されているが、大まかなあらましはこんな感じだ。

 身体の表面が柔らかい布で作られた母親模型(soft mother )と、針金で組み立てられた母親模型(hard mother)で、いずれの模型もアカゲザルの生後間もない赤ん坊が,母親ザルと思って抱きつきやすい大きさに作られているが、母親の顔は,布製の方は丸い形のもので、針金製のは長方形であった。

 さらに、両者にはもうひとつ決定的に違う点を加える。針金製のものに、授乳機能(つまりミルクが出る)を加えたのである。(ほかに、4パターンの模型や、乳房をつけたパターン。これに、動くおもちゃの登場などの外的ストレスの場合の行動などの実験する)

 つまりは、「肌触りのよさが安心感、温かさをもたらすsoft mother(柔らかな母)の人形」と、「冷たく、固いが、生きる糧のミルクを提供するhard mother(堅い母)の人形」の二つに、子ザルがどう接するかといのうである。

 当初は、さすがに堅いお母さんに近づきミルクを飲むのだが、だんだん柔らかな母がすきになる。そして日常の大半は、柔らかいお母さんにしがみつき、遊び、楽しんでいる。見知らぬものが近づくと、柔らかな母にしがみつ安心している。「その安定感を恐ろしい世界へ冒険的にはいり込む場合の基地として使っている」のである。

 生きてく上で、食は生存欲の根源である。しかし、人は(いや哺乳類も含めて)パン(ミルク)のみの報酬で、生きているのではない。これは、今日の母子関係を語る上でも決して無縁ではない。どれほど、物が豊富に満ち溢れ、飢餓の恐れがなくても、もし冷たく、硬い母だけでは、人は育たないのである。やさしさが、母の温もりとして、子供の情緒的安心感をもたらすのだ。幼き日より、人が育むべき、安心感や安定感の源泉になるのである。

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『長江哀歌』

 『長江哀歌(エレジー)』前回のベネチアで、カトリーヌ・ドプーヴも絶賛した、中国映画の気鋭、ジャ・ジャンクーの最新作だ。

 彼の出世作『プラットホーム』は、長尺で、淡々としてかなり退屈なのに、なぜか深い余韻がある忘れがたい作品だった。近代化に伴い激変する中国の時代の空気と、翻弄されながらも生きる若者たちを切り取り、ぼくも共に、その現場で、目撃者の一員になった気分にさせられる1本。でも、この人の映画を観ると、やはり映画館で観なくちゃーと思う。他に目移りしない状況で、長尺の映像に身を委ねて観る。静かな、繊細な映画はダメという人には、あまり勧めできないけどね。

Aika  古来からの李白や杜甫の漢詩に、山水画さながらの光景が広がる。そして、三国志のふるさとでもある、長江・三峡。孫文以来、近代中国の壮大な悲願のひとつ、この長江に建設中の三峡ダムだ。一つのダムで、日本中の総貯蓄量の二倍になるとも言われている大国家ブロジェクト。そのために、二千年もの歴史がある古都奉節(フォンジュ)が、水没していく。ここで暮らす、130万人もの人が移住を迫られる。ちょうど京都市一つが完全に水没するようなものだが、この大陸的スケールはピンとこないが、さすがに万里の長城を作るお国柄である。

 二千年もの長きの間の歴史的遺産、さまざまな人々の喜びと哀しみ、そして生死の上に営々と築かれてきたすべてが、わずか2年で完全に終焉を迎える運命にある古都が、物語の舞台である。

 まさに、急激な近代化が進む中国の象徴だ。去る人があれば、来る人もある。物が動くところに、金も、人も集まる。まんまと成り上がるものあれば、取り残されるものもある。成功を夢みながらあっけなく命を終える名もなき庶民たち。

 16年ぶりに、逃げた妻と子供を探し、もう一度やり直したいと願う炭鉱夫。

 2年間音信不通の出稼ぎにきた夫を探し、愛を取り戻そうとする妻。

 二つの物語は、小さくからまりあいながらも、淡々としたペースで綴られていく。

 悠久の流れ長江のように、歴史的大事業の下でも、名もなき小さな人々の日々のささやかな営みが、ときにたくましく、ときにあまりにも脆く、これまでも、そしてこれらかも脈々と移ろいつづけるのである。 

 その美しい長江の流れと、中国の近代化を切り取ったようなリアリテイーある映像の対比。

 現実と虚実との境界がないかように、超常的な違和感ある映像が挿入される。UFOを静かに見つめる女。廃墟ビルがロケットとなり飛び、男の横で正装した京劇役者が黙々と食事している。長江の風景を眺めるように、廃墟ビルの間を綱渡りする男を静かに眺めている主人公…。

 何気なく映し出される静物の趣と、おとこたちの肉体。

 「烟」「酒」「茶」「飴」などのキーワードひとつ、ひとつ。

 長江の悠久の流れと、哀愁漂う懐かしい音楽。

 アジア的な多湿で、どんよりしたと曇り空のような映像。

 変わらないものと、変わるもの。

 しかし、単なる二項対立ではない、深みのある、静かな余韻が残った。

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カメとナベ

Img_1455  日曜礼拝の勉強会兼打ち合わせの間、子供たちを連れて、保育園のバザーへ。

 風邪気味もあって、もうひとつスッキリしない気分だが、抜けるような青空だ。

 子供に、あてもん(くじのこと)や、手作りのアクセサリーを買ったりしたが、この手のバザーに、男のぼくは、買う気も、見る気もなし。少し軽食を食べさせたあとは、横の東寺をブラブラ。カメがノンビリと日向ぼっこしていた。きっと、Img_1450 こんな生を送っていたときもあったのだろう。見飽きず、妙に、共感してしまうのは、なぜかね

 日曜礼拝は、ゆうこが法話の担当。

「なむあみだぶつ」、仏様の大きな願いということについての難しいテーマ。その中で、親心についての話が枕にあった。まず、「お母さんってどんな人」との問い掛け。

「やさいし」とか、「ステキ」とか、「おこりッぼい」なんいうのもあったけれど、長女が答えがサイコ。普通の顔して、「そうじをしない」の一言。計算もなく、ありのまま。

 いや、まいりますね。

 でも、今日は少し部屋がきれいになっていた。

 若手の仏青の先生方と、鍋をつつくからだ。下宿の一人暮らしの人ばかり。なにもないが、せめて、日曜礼拝のときだけでも、おいしものを食べて帰っておくれよとのことで、毎回、昼と、夕食を一緒に食べている。

 苦手科目はあるが、こんなお世話は大好きなようだ。

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運営面のお話(1)

 昨夜の会議は、いちおう夜10時前に終わって、そのあと、残った人達で、少し飲んだ。あまり体調が優れず、それでも1時前までお付き合いした。3、4名残った人達が帰宅したのは、いちばん電車が入ったあとだから、早朝5時半ごろだろう。

  華光会は、運営面にしても、経理にしても、裏や表のない、非常に民主的で、純粋な集いであると自負している。しかも、若い人達や新しい人達も多くなり、法座も活発で、今後の拡がりも含めて、明るい展望をもっている。

 自画自賛だが、ぼくとしては、ここをしっかり踏まえた上で、つまり悲観論や危機感ではなく、華光の今後の可能性をとして、以下の話をしているのである。

 今回は、そんな今後への期待をもちつつも、寂しさや悲しさ、ぼくの中での何か目に眼えない圧力への畏れが伴う、複雑な思いがする会議だったのは、事実だ。

 運営委員会が、本来は、責任役員会の委託をうけて、華光の運営や経理を補佐する立場なのだが、いまは、責任役員会に準じて、報告を承認をする機関になっている。たぶん、運営委員各自も、正確にその立場を認識していないだろう。また各自の役割も不明確のままだ。それというのも、年数や地域性、ネームを考慮して、人選をしているので、なかなか実務的な、機動性をもったものにならないのである。これは当初からの課題なので、10年前ごろには、組織表をつくり、行事ごとに結成され、解散していく実務委員を置いた。また事務員・事務局も出来た。結局、役員や支部長に比べると、運営委員の役割があいまいになってしまった。特定の人だけに、仕事が集中したり、運営以外の雑務にまで及んで、負担が大きくなっている状況が続いているのである。

 確かに、これまでの華光会の状態をみると、無理がない部分もある。物心両面での、さまざまな献身的な奉仕のおかげで、ご法が相続され、運営されて、またその後を継いだ人達も、同じ道を歩みし、そのひたむきな姿から、ご法の尊さを感じていたのである。

 それに、どこまでが大きな負担で、大変なのかは、個人の置かれた状況や気分で随分違うものだし、それが、その人自身の法味の源泉だったりするから、一概では語れないのだ。

 それでも、考えていかねばならない状況のときもある。

 現実には、理想的な空論を語ってもしかたないので、少しずつしか変わっていくことはできない。一時は、たんへんなことがあるかもしれない。でも、今後の発展を考えて上で、一旦は、いまの状況を白紙にして考える必要がある。

 その方向で、役員の意見は一致したが、いま、この場では、そんな抽象的な表現でしか述べることはできない。ただ、取り組み方によっては、さらに同人各位の上に、活性化された法座か実現されていく可能性が見えてくるだろう。

 これは、シリーズ化して、ボチボチと書いいくことになるだろう。

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明日は役員会

 明日は土曜日だが、一般の法座はない。でも午後から、大切な会合が開かれる。

 11月の華光大会の総会に向けての、責任役員と運営委員会である。半日なので、遠方の運営委員は難しいのだが、幸い責任役員は全員揃う。

 今回は、決算と予算についての下相談をしておく必要があるのだが、何といっても、会計面での担当者の交代が大きい。その意味では、華光の組織についても、その役割や有り様についても、一つずつ見直す必要が出ているのだ。もちろん、一足飛びにはいかないのは覚悟の上で、少しずつでも、意識を高めて、さまざまな工夫していく必要がある。

 その点では、このところの法座の運営や、支部活動については、同人の皆さんの参加、参画がめざましくなっている。法座が活発になり、その質があがっていることは、皆さんにも実感できよう。数年前に、実務委員を設けて、本部の宿泊行事(法座)の進行を、担当の同行さんたちにおまかせするようになってから、随分、法座自体のあり方が変わったのである。いちばん、変わったのは仏教青年会。そして日曜礼拝にしても、そうである。支部でも、随分、様変わりしているところもある。

 もちろん、本部の運営という点では、まだまだである。それでも、随分、改善されている点もある。専属のスタッフが事務所にいることは、10年前には考えられなかったことだ。バイトも含めて、いまは2人に増えている。

 大きな意味では、いまの華光には、明るい材料が多い。おかげで、財政面でも、以前のような心配はなくなりつつある。とはいっても、まだまだ多くの方の、痛みの上に成り立っているのも事実だ。その意味では、運営面での華光の組織や、お世話側の意識も、現実に則したものにしていく必要があろう。資金も、人員も、けっして裕福とはいえないなら、たまには少しシンプルな考え方で、ほんとうに必要なものはなにかを軸に、思い切ったことが必要かもしれないなーと思うこともある。

 もちろん、ぼくなりには、薄ボンヤリだが、常に次のこと、次のことは考えてはいる。

 繊細な心で、ディテールを観る眼も大切なのだが、一方で、大胆な、俯瞰的な眼が必要な時もある。「華光」という小さな枠、日本だけを観ていては、そのほんとうの良さを引き出していけないということもあろう。そういう両端の思いが同居しているのだ。

 自分自身が、ほんとうは何がやりたいかを出すことは、なかなか難しい。

 せひ、ここを引き出しくれるような、いい聞き手がほしいものだなー。

 そんなことを考える秋の夜長。子供からもらった風邪気味で、ボロリと書いちゃんいましたね。

 日曜日は、悟朗先生の東海支部と、華光会館では日曜礼拝がある。

1)28日(日)の東海支部は↓

 http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/10/tokai2007-10.htm

2)28日(日)の日曜礼拝は↓

 http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/10/nitirai2007-10.htm

3)30日(火)10時~14時には、ゆうこの「聞き上手、話し上手になる集い」があります。なぜか法座案内には、昔の「暮らしの中のカウンセリング」の集い名になっていますね。それに、HPの案内にも未掲載ですね。どうしてかな? ここに紹介しておきます。

 ▷日 時:10月30日(火)10時~14時

 ▷会 場:華光会館3階研修室

 ▷世話人:増井裕子

 ▷参加費:300円

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小冊子の発行

 華光同人会の会員向けに、今年の仏の子供大会の感想文を掲載した「はちす」と、法座案内、さらに華光大会申込ハガキ兼委任状を送付しました。早いところで今日、遅くても数日内には届くでしょう。

 今年は、「はちす」に加えて、先生方のご法話の掲載する小冊子を発行する予定です。

 今年のテーマは、「自分を知る」。このテーマを縦軸に、確実が①テーマ、②罪悪観、③無常観、④後生の一大事、⑤仏さまの救い・まとめを横軸にして法話が展開されていきます。に、文字の統一などの編集作業を終えたいですね。あとは、ゆうこのカットやムラ君のレイアウトの腕の見せ所。

 ぼくにとっても、仏の子供大会は、大人になってからも、自分をからだをとおして学び、お育てをうける場でした。どれだけ大きなものを聞かせてもらったかと思います。同時に、多くの若い念仏者を育ててきています。末法、五濁の世にあって、仏法の大きな宝です。

 華光仏の子供大会の雰囲気、その一端が、伝わるものになればと願って、いろいろとアイディを検討中です。公約している個人の法話集は、止まったままになっていますが、まずは、この小冊子を出して、勢いをつけたいですね。

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川面に渡る風

 朝は、自力整体の教室へ。今日は、伏見桃山ではなく、河原町五条の会場へ。

 5年前から同じように教室に通っていると奥さまと、久しぶりにお昼をご一緒した。まもなく転勤で、しばし関西を離れられる。

Img_1432 京の五条大橋のたもと、鴨川沿いのカフェ・エフィッシュへ。秋晴れの空に、ドアが開け 放たれたオープンスペースになっていた。川面からの風かすごぶる心地よい。代わる代わる水鳥がやってきてはエサをついばんでいる。隣の梢には小鳥がさえずっている。川面にImg_1429_3 キラキラ光るのは、小魚の群れだろう。五条通を走る車のスピードを、川風が変換してくれるようだ。最近観た同じ映画のこと、昨日の京時代祭や鞍馬の火祭りのこと、たまにはぼくも悩み事をこばしたり、千々に話題は広がるけれど、ゆっくり川面を眺めることにした。浮世の喧騒を離れて、ゆったり、まったりした時間が過ぎていく。

Img_1433  お店を出たら、すぐ隣になんともいわくありげな二本のエノキが祀られている。源氏物語の光源氏のモデルともいわれる、源融の有名な河原院阯の石碑。ヘエー。知りませんでした。光源氏が、ここに住んでいたとはね……。

 書店に寄り道して、SJとエスクァイア、新書と文庫を2冊ずつ、鷲田清一などのハードカーバーも3冊ほど買った。帰ると、すぐに浮世の荒波が待っている。 Img_1420_3嫌になるけどね…。Img_1422_2

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〈↑窓ガラスに映るのが五条大橋〉

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「心身の革命~他力信仰の極致~」

 今月の伝道研究会から、羽栗行道先生の「心身の革命~他力信仰の極致~」を読むことになった。今回は、ほんとうに序論的入り口の10頁だけ。でも、ここだけ読んだだけでも、先生ご自身が体験的に浄土真宗を聞き開かれていたこと。そして、実践的な、生きた教化活動をされておられたことが、わかる。仏智に照らされた自分を知ることがない限り、獲信はないのだというところに、焦点を充ておられるのが、よくうかがえるのである。

 仏教は転迷開悟の教えだ。迷いの中の人が、迷いの頭で聴いても、世界、境涯の性あるのでけっしてわかることない。だからこそ、真の善知識(信仰の体験者)に付いて聴かねば、何座、何十年重ねても聞き開くことができない。知識の仕事は、まず、その人の迷い凡夫、悪業の物柄を知らすことに、骨をおってくださるのである。その真の自己に目覚めさせられてこそ、長い長いまよいの夢が覚め、永劫はじめて、弥陀の本願、無条件の救済が、私一人のためであったことに大信心に安住することができるというのある。

 まったくもってそのとおりだ。今年の仏の子供大会のテーマもそうであるが、まず迷いの自分を知らせていただくのである。

 1)自分で知る自分 2)他人を通して知る自分、それだけでは今生事だ。 3)仏様の仏智によって知らされる(照らされる)自分を教えていただく。ここを聞かせていただくことが、聞法の真骨頂である。

 アメリカの同行、高山支部の多数の華光同人、そして京都で直接ご教化にあった方々と、羽栗先生と華光のご縁は、とても深いものがある。『子どもの聖典』の「本能心と教養心」や「罪悪のめあて」などは、先生のこの書から引用されたものである。

 これから、きわめて具体的で、それぞれの根機にあった罪悪の見つめ方が微に入り細を穿って示されてくる。これからの輪読を楽しみにしている。

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私の聞法の場

 朝、冷気で目が覚めました。数週間前までは、「暑い、暑い」といっていたのに、すっかり秋。京都は時代祭と、鞍馬の火祭り。送迎で、2度ばかり京都駅にいったが、やはり混雑していた。

 9月の終わりのことであったが、25年以上にわたり、献身的に華光会の会計をお世話くださっていた会計事務所が、急なご事情により、年度限りのご縁となってしまった。それにしても、さまざまな形でご奉仕くださり、まったくもって多大なご恩徳がある。そのご功績に、感謝の念を示し、「長年に渡りお世話になり、ありがとうございました」と、こちらが御礼申すしかない。ところが、先手で、先方から、今期限りになってしまったことを、何度何度も頭をさげ、号泣し、謝罪されるのである。  

 まったくもって、これは法蔵菩薩様のお姿だなーと味わった。こちらが、いくら頭を下げても足らないだけのご恩徳があるのに、その方が、先手でこの私に頭を垂れ、願い、「申し訳ない」(迷わせてきたことを)あやまらせているのだからなー。

 結局、これまでも、またこれらかも、こういうのさまざなおかげによって、私の聞法の場は護られていくのである。いくら組織化し、合理化されていっても、その背後に仏法広まれの精神、ご恩報謝の一念がないならば、この聞法精舎は味気ないものになる。

 もちろん、実の社会生活は、残念ながら、まことに残念ながら、尊いご法の味わいだけでは渡ってはいけない。いくら、ご法の味が深いからと免税(伝道事業のみならそうだが)されるのでも、真実を伝えているからといって、監督官庁や税務署から、おほめに預かることもない。

 華光会もまた社会的な責任をもつ宗教法人である以上、さっそく今期の会計業務が迫ってくる。現実的にどうするのか。もう半世紀ものお付き合いだけに、後がたいへんなのである。

 どうするしょうかと悩んでいたところ、またしても、仏天のご加護というべきか。7月からから会計の専門家の方が、お仲間に入ってくださったのである。

 日数からすると、まったく不思議なことである。実は、先の先生の場合も、こちらが困っていた折に渡の船という形で、急きょご縁が深まり、ここまでのお付き合いが続いていたのだ。

 今日、お会して、いろいろとご相談をした。きっと大きなご迷惑をおかけすることもあろうが、こころよくお引きうけくださることになった。まったくもって有り難いことだと喜んでいる。まずは、懸念していたひとつが肩の荷が降りた気分だ。

 こうして、少しずつ、少しずつでも、確実に進んでいくかないなー

 

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お念仏の響き

  東京支部法座、今、終わりました。

 東京駅を出発した新幹線の車中。右手にライトアップされた東京タワー。きれいです。

 子供大会の法話集の締め切りの関係で、ノートパソコンを持参。いま、終了後の打ち上げでご馳走になり、ほろ酔い気分で書いてます。

 今回は、ご法話は、誌上法話(枷鎖の業)の輪読座談。「いのちを喰らう」の法話。そして歎異抄第3章(悪人正機)の三座。出入りはあったものの、どのご法座も、だいたい24、5名というところ。総数でも30名ほど。前月の講演会もあったので、もう少しつながるかなーと思ったけれど、その点は目に見えた効果は少なかった。講演会からの新顔が1名。その時の広告記事をご欄くださった方が1名。そして、講演会をきっかけに、ご無沙汰の同人の師弟が、ご姉弟でご参加くださった。欲をえば、あの人も、この人も、もう少しと願っってけれど、今回は、ここまです。

 それでも、東京講演会に続いてG.S(悟朗・信ではないですよ)先生が、ほぼフルで出席してくださいました。座談は二つのグループを持つことが出来て、かなり有り難かったです。それに、先生からは、いろいろと東京の浄土真宗や仏教の現状、現場の最前線のお話が出て、かなり刺激を受けました。小さくとも、華光のあゆみ、ぼくがめざしていることが、ますますハッキリしてきます。

 もちろん、法座でもいろいろと味わいが去来しました。でも、いまは一つだけ。

 せいぜい、お念仏させてもらいたいです。

 このご法はひとりになって、静かに喜ぶ味があります。しんみりとわが身を内省し、そしてご本願を仰ぎ、ホクホクとお念仏と共に喜べる。それも尊いご法のお徳です。どこをきりとっても真実のカケラのないこの懈怠不法の身が、南無阿弥陀仏として光輝く。わが虚仮不実の口を通して、無量の智恵と、無量の慈悲の塊の南無阿弥陀仏のお言葉が、溢れ出る。不思議ですね。

 ならば、せっかく同信念仏者が集うご法座だもの。もっとお念仏の声を響かせたいものです。東京は、貸し会場の制約もある。寄せ集めで、新しいご縁の方も多いこともある。その意味では、日高や高山ような法徳の地のご法座とは、また違います。それに、いまの東京同人は、奥ゆかしくて、恥ずかしがり屋の方が多いようです。でも、仏徳の高いことを讃嘆のために集っているのでから、南無阿弥陀仏の響きほど尊いことはありません。声高らかに、共に、お念仏させてもらいたいものです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

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10月第3週の予定は

 1)今週末、19日・20日は、東京支部。例年、10月のこの時期にありますが、特に今年は、9月の東京公開講演会に引き続きですので、期待しています。

 今回のご縁をきっかけに、再度、聞法に心を寄せてくださった方がおられたり、講演会で「念仏は称えているが、これでいいのか」という意味の質問された方が、日帰りながら参加される。また、その時の広告記事をみられた方がお一人。ほかにも、新しいご縁の人が続くかもしれませんね。けっして大勢ではないですが、小さなご縁が着実に結ばれているようです。楽しみですね。東京の案内は、以下からどうぞ。

 なお、土曜日か、日曜日かどちらか1座は、66-4号の輪読法座を持ちますので、お持ちの方は華光誌をご持参ください。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/10/tokyo2007-10.htm

 2)ゆうこは、子連れで広島へ。広島別院を会場にした、カウンセリングの集い。グーッと実践的で、温かな集いを目指しているようです。京都の集まりもしっとりと、けっこう人気あるようですよ。「聞き上手・話し上手になる集いin広島」

7月の広島DPAの関係もあって、こちらにも詳細な案内が掲載されていたので、紹介しておきます。

http://www.saikyoji.net/kikijouzu-hanashijouzu.pdf

 3)華光会館は、行事が二つ。共に、昼間の半日法座。

★20日(土)は、先生に頼らず、お同行さんだけでの開く京都支部法座

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/10/kyoto2007-10.htm

 案内に「感話」とあるのは、僧侶の方ではないお同行さんの、短目のご法話のことです。

★21日(日)は、恒例の聖典講座。御文章(20)です。(一流安心章)

 これは継続はすごい力なりです。毎年10回。これまでも、浄土三部経、正信偈、歎異抄(2回)、安心決定鈔、御伝鈔などに、三帖和讃。特に、和讃は、あまりにも長期(120回程度ある)で、このペースでは、先生ご存命のうちに終了しないだろうという予想もあるほどでしたが、おかげで終わり、次の御文章も、早くも20回目に入っています。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/10/seiten2007-10.htm

 今週も、家内制手工業的、薄利多売の精神で、頑張っております。

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聖なるイデーに襲われて…

 予定どおり、龍谷大学深草学舎へ仏教講演会を聞きに行きました。

Img_1401  真カ研の月例研究会で、毎月1度(そうそう明日あるなー)は深草ですが、いつも同じ共同研究室に行くだけ。会場の顕真館は、この2階にある和室で、仏教カウンセリングの講義を持っていた以来だし(そのころと比べても随分変わった)、講堂に入るのは、何十年ぶりになるでしょうか。

 さて、法話(講演)は、「自灯明、法灯明」と題して、真実を求め真実に生きる「自立」の精神という、龍大の建学の精神 第二条が、副題になっていました。

 自灯明、法灯明といえば、「自分をよりどころとし、他人をよりどころとはすることなかれ。仏法をよりどころとし、他の教えをよりどころとすることなかれ」というわけですから、そう聞けば、スッーと分かった気になるけれど、ここが曲者。よくよく考えると、この迷いの自分をよりどころとするとは、どういうことなのか。この迷いの頭を駆使し、批判精神で聞くことなのか。また、自分と仏法の二つの基準がぶつかった時はどうするのという問題をはらんでいる。

 そこを初期経典、ブッダの言葉から、釈尊の教えに従って(法灯明)、ほんとうの自己を知る(自灯明)ことであり、法灯明を唯一の道しるべとして、その力によって、自らの内にその灯火を灯せよというのが、自灯明である。これが、自灯明・法灯明の心だと明示してくださった。

 そして、その構造は、仏法だけでなく、精神的な「自立」を実現するための基本的構図そのものである。それを、「本」を読むという営みで説明された。自立した他者の精神的な思考を、その読書を通じて追体験すること。つまり、教えを乞うことは、単なる受身な態度でも、また批判的に距離をとる態度でもない。それは、「わたしがこの本を書いた」という態度(ぼくはこれまで、こんなこと考えたことなかったなー)で読むことだと。

 でも、そこに大きな壁が立ちはだかる。言葉も、話の筋も、例話も理解できるのだが、その心がわからない。

 もうこれは、華光で日夜繰り広げられる、聞法の関門ですよね。南無阿弥陀仏に撃たれた先達の言葉を通して、その心をわが身でも頷こうと聞法している。でも、言葉は理解でき、その巧みな例えも納得できても、どうしも、わからない、腑に落ちない一点があるわけでしょう。普通の読書や講演なら、大概、分からないところや都合の悪いとこを切り捨てて、感銘を受けるところだけで、ホクホクと喜んでいる。でも、そんな聞き方で誤魔化しても通れない一点なわけですから。

 そこを、仏教や真宗用語ではなく、イデー(理念)という用語を使い、また先生自身の芸術作品(モーツァルトの「ジュピター」が腑に落ちる、(こんな表現はなかったですが)身体が落ちる体験を通して、お話くださいました。特に、ぼくも論文を書くとき、すごーくお世話になっ尼ケ﨑彬著の『ことばと身体』からの引用が面白かったです。

 仏教は、仏道(つまり単なる学問でも、理論の教えでもなく、個別に示された実践体系ということになる)であり、その目指すものは、迷いの輪廻転生からの解脱、迷い、苦しみの因果の連鎖を断ち切る、私の迷いを断つ道だということです。学問ならともかく、こんなことを覚えても、また批判的に研究しても、このわたしが死んでいかねばならん、死ねば、昿劫もの果てしない間、浮かぶことなく闇に迷っていかねばならんその事実の前にしては、すべて水泡に帰してしまいますものね。それなら、ほんらいは言葉にならない真実の言葉に襲われ、身体がつかまって吐き出された(表現された)先達の言葉に、この身も撃たれImg_1402る以外には道はないわけです。その聖なるイデーとは、如来の大信心だと、最後にチラッとおっしゃったかなー。

 南無阿弥陀仏に、この身が撃たれる。迷いの身が貫かれて一度死ぬからこそ、その先達たちと、阿弥陀様の心を喜びあえる一味になれるわこでしょう。勿体ないことやねーと、勝手に味わっておりました。

 それにしても、聴衆は、華光率が高かったですね。1/3、いや、半数近くは見知ったお顔。特に、先日の輪読法座の時にお声を掛けた方が、大方参加されていました。終了したあと、先生を囲んで、お茶も飲みました。お世話になりました。

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広島支部法座でした

 さきほど、広島から帰って来ました。忘れないうちに、さっさとご法礼やDVD代などの会計の明細を作ったあとで、これを書いています。

 今日は、H家の家庭法座。ご法座は、輪読会形式で。冒頭、15分だけ、「仏様のプレゼント」を観るつもでいたら、なんと、クリックするだけで、皆さんに観れるように用意ができていました。これは以心伝心、準備が省け助かりました。

 今回は、広島支部のわりには、まあまあの人数で、20名ほど。それでも、博多からの参加者、新しくご縁がつながっている方もあって、新鮮でした。Img_1393

 このところ続けていた広島でのボイス・トレーニングは、お休み。時間に余裕があったので、法座のあとで、車座で食事をいただきました。グッーと小さな輪になって、ご法談義が続きました。この時間もよかったですね。気軽で、有り難いお味わいも聞かせていただけました。急に、お願いしたのに、いつもながらの温かいおもてなしをいただき、ご馳走になりました。家人の、仏法大好きの、温かいお人柄のゆえでしょう楽しくすごせましたね。(↑こんな感じでした)

 帰路には、甘いものに、辛口のものにと、皆様からのお心遣いもいただきました。ご法座に向かうときは、いつもぼくは手ブラ。こころもスカスラでうかがうのに、帰りには、いつも大きな、大きなお土産をいただいて、ホクホク(けっこう打ちのめされることもあるが)です。おかげで、新幹線ではちょっとけったいImg_1396な人になることもあります。ブツブツとお念仏が、大きな声のお念仏になったりしてね。

 そうそう、Kさんにもは広島駅まで送迎くださり、大助かりでした。ご法座の内容は、また明日にでも。取り急ぎ、御礼方々。(↑同人のお庭になっているイチヂクいただきました)

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仏教講演会のお知らせ

  龍谷大学である仏教講演会のお知らせです。聴講無料で、どなたでもご参加になれるそうです。

 ◇期日 19年10月16日(火曜日)

 ◇時間 3:00~4:30(の中で、70分程度)

 ◇場所 龍谷大学・深草学舎・顕真館

    交通・アクセスは以下↓(地図では、8番の建物ですね)

  http://www.ryukoku.ac.jp/web/map/fukakusa.html

 ◇講師 松尾宣昭先生

 ◇講題 自灯明、法灯明 ─ 「建学の精神」第二条

 「顕真週間の一連のプログラムの一つとして位置づけられています。当日は、2:00~3:00に男声合唱団の演奏会、そして講演後の4:30から雅楽部・邦楽部の演奏会がありますので、演台の出し入れ等の都合で、きっかり3:00に始まらないかもしれませんし、たぶん4:30よりも早く終わります」(ご本人談)

 とのことでした。前回の講演「いのちのおそろしさ」を宗教部会報で読み終えた時に、不思議とこのご案内をいただきました。綿密に:原始経典なども引用しながら、今日の「尊いいのち」を無条件で肯定し、いやこれが浄土真宗の精神だといわんはかりの風潮を、バッサリ切っておられる。法然上人の「無量寿経釈」の厳しいご説法を引用されています。ぼくのどこを切り取っても、法蔵菩薩の血肉を食らいながら、まったくなんとも思わずにノホホンと自分よかれと生きている、無慘無愧そのものの以外はなにもない。だから、どんなにあがいても、この娑婆の世界には、ほんとうの安楽、平等の世界は実現しません。一切衆生が仏になる世界、つまり阿弥陀仏の極楽浄土の世界以外に、絶対にそれはない。だから、(無常であれ、地獄の獄卒であれ)喰われる自己を実感しなさいとのお示しでした。そうですよね。伊藤先生じゃなけいれど、仏法は喰うか喰われるか。ムシャムシャ食べていただくんですからね、と思って読ませてもらいました。

 その日は、2時に事務的な約束をしてしまいましたが、終わり次第、ほくも参加する予定です。

 さて、これから広島支部法座ですね。では、行ってきます。

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10月の輪読法座

 10月の華光誌輪読法座でした。

 今回は、久しぶりの方や、仏青から参加くださる方、また初参加の方もあって、久々に賑やかでした。

 ぼくの誌上法話に入る前に、巻頭言「私の後生の一大事」の執筆者のO氏も参加してくれたので、今日は巻頭言を中心に進めました。ぼくとしては、もう少し中身に触れたり、できれば「聖教のこころ」にも入りたいとも思いました。でも、実際に在家から僧籍に入られ、浄土真宗の現状や伝道活動の現場にこころを寄せている方からの提言なので、参加者全員が、同じような問題意識に心を寄せておられるとは限りません。そこで、あらためて、本文にも掲載されている、富山仏青の0君の感想文(「三世因果思想の宣布」←こんなたいそうな題をつけたのはぼくです。スミマセンね)も合せて読んでもらいました。

 大方は、個々の味わいや個人への関わりで進行しましたが、それでも、最後には、巻頭言のこころに添っていく味わいへ収まっていった気がします。

 結局、華光会といっても、増井先生といっても、この諸行無常の末世においては、組織や人を頼りにしても据え通るものはない。すべて滅んでいくものです。結局、ひとりひとりが、我が身の後生の一大事はいかにと、自らが問い掛けて求める以外に、生きたご法はない。そのかぎりでは、この私がご開山になるんですね。どこまでも虚仮不実で、懈怠の塊でありながら、三世因果も実生活では実感することすらできない身でありながら、「わが後生はどうか」の厳しい剣が峰に立たされたときには、そう言い切れる不思議があるんです。だれそれがどうのとか、華光がどうのとか、そんな小さな話ではなくなるわけです。

 でも、それも仏様の高い高いご恩徳のおかげなんですね。

 参加者の中から、巻頭言のように社会情勢や浄土真宗への広い視点からの問題意識を初めて知りました、とおっしゃった方がありました。でも、その方は、華光の宿泊行事の前には、自宅からそうじ道具を持参して、華光光会館のトイレ掃除を、ずっとされているんです。その意味では、たとえ鋭い問題意識はなくても、それぞれが、それぞれの形で、なんからのご法の体現しているともいえるわけです。そのことをひとつ思いました。

 そして、もうひとつ。そんなおかげがあることを、聞かなければわからないということです。誰ひとり、そんなことを知らなかった。わが身の上に、どれほどの深いご恩がかかっているか、その実体をまったく知らないわけです。今日の華光会館は、3階で華光誌輪読会、2階ではフォーカシング研修会、1階事務所では、会計、決算関係の事務作業に、終日励んでくださっていました。事務のTさんたちも、ほんとうはご法座に参加されたかったのでしょうが、モクモクと夜まで作業をしてくださっています。これも、自分が知らないだけで、そのご恩徳のおかげで安心して聞法もできるわけでしょう。「信心ほしい、味わいほしい、念仏ほしい、安心したい」の餓鬼ような、ぼくたちの聞法が成り立っているわけです。そのご恩をご恩とも思わず、ましても、そのどん底に落ちてくださっている法蔵菩薩様の命懸けのご苦労があることなど、毛頭思えず、ただそんな縁他力のところをホクホクと喜びたいだけの「私」がいるわけです。だから、まずこのわが身の事実を聞かせてもらうのですね。ただありのままに聞くだけです。そして、そこにかけられた願心の深いことを聞くわけです。そこに、こんなあさましいこの身このままで、この私が浄土真宗のご開山になれる不思議があるわけです。

 いや、まったく、不思議としかいいようがないです。困っちゃいます。

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御礼と今週末の予定です

 早朝、初めての方が、勇気をもって書籍の購入に訪れられた。このところ多い、例のパターンのおひとりのようだが、仕事の関係で京都にこられたらしい。連れ合いが対応した。が、次のご縁がつながりそうだ。

 今日は、朝からうれしい話題でスタートした。

 8月の仏の子供大会の仕事が中心。法話テープは、法話もいいけれど、子供の感想をひとりでも多く入れたかったので何度も編集し直した。時間の制約で、発言した全員とはいかなかったが、それでも少しは雰囲気は伝わると思う。楽しい家族的な温かさの中にも、子供でも後生はひとりしのぎという厳しさがある。例年、ほかの法話と合せて巡回テープで回すが、子供大会の法話の評判がとてもいい。

 また、その子供の感想文を特集した、恒例の「はちす」。先生方で立派なものを作ってくれているが、少しルビを増やしたりした。最後のページの「子供基金」の報告を作った。短いものだが、ご喜捨の皆さんへのお礼を言葉を綴っている。

 「今年は、例年以上に皆様からの大きなご賛同をいただき、たいへい尊い仏の子供大会となりました。この仏の子供大会を通して聞法した若手の先生方が、指導者として大活躍でした。その成長はめざましく、いまや華光会の大人のご法座の牽引役としても、ますますの活躍が期待されていることは、皆さんご承知の通りです。華光会は、吹けばとぶような小さな集団ですが、このような貴重な宝が、確実に育っていることを誇りに思うと共に、これも皆様方の仏法広まれとの一念のたまものと、厚く御礼申し上げます。合掌」

 ほんとうにありがとうございました。書き綴るうちに、そうだなーと有り難くなってきましたね。今年の「はちす」は、増頁になったので、版下を渡して印刷所に依頼する。月曜日にはもって行こう。

 同時に、先生方の法話、子供や大人の感想文をピックアップして、仏の子供大会の紹介にもなるような、小冊子を作製中だ。これは、何年も前からの課題。おかげで、やっと動きだした。ぼくも閉会式の法話を担当したが、少し短くするのに、やや苦戦している。〆切が20日なので、急がないと時間がない。

 明日、土曜日は、「輪読法座」。日曜日は、「広島支部法座」がある。少しだけ、有縁の方にお誘いのメールや電話をした。今回が、ダメでも次のチャンスがあるものね。

1)13日(土) 華光誌(66-4号)輪読法座 昼1時30分~5時まで(華光会館)

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/10/rindoku2007-10.htm

2)14日(日) 広島支部法座 昼1時~5時まで(その後も、1~2時間、ゆっくりして帰る予定です)

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/10/hirosima2007-10.htm

3)、父は14日(日)・15日(月)と、泉佐野市の西法寺様の法座です。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2007/details/10/saihoji2007-10.htm

 ぜひ、ご縁のあるところへ、お参りくださると、うれしいですね。

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七歩の歩み

Img_1368  二女の4歳の誕生日。書道教室があったので、お祝いは明日になったが、今夜は、連れ合いの手作りケーキを、みんなでデェコレーションして、お祝いした。

 昨年のものをコピーして張り付けてもいいほどの感慨なのだが、この前の仏青大会でも、子供大会出身者の成長に、目を丸くした。少し前まで、子供だったのが、大学生になり、社会人になり、結婚話がおこる。法味、心境の上でも、立派な友同行としての深い味わいを語られるようになった。その急成長ぶりに驚かされるのだが、毎日過ごしているわが子の成長となると、なかなか時間がかかるように思えてくる。

 2歳半ぐらいから、「自我」が芽生えてきた。なんでもかんでも、「じぶんで、じぶんで」と、出来ないことでも自分でやりたがる。願いどおりならないと号泣し、叫びながら主張しまくっていた。それが、4歳を前に、少しだけこちらの話が伝わるようになってきている。保育園にも慣れて、徐々に(とても小さな芽だが)社会性が芽生えだしているようである。もちろん、まだまだ目も離せないし、手もかかるのだが、そのしぐさ、ウィットのきいた言葉、存在そのものが、無償に愛らしいのも事実だ。

 家族で、誕生から成長までの写真を観た。母も、この子も、いのちがけでこの世に生を受けてきたのだった。助産院の一室で、生まれ落ちてすぐに抱かせてもらった時に、そのいのちの重さに涙が溢れてきたことが懐かしい。せっかく人間界に生まれてたきのである。この迷いのいのちを一歩出てほしい。誕生したばかりのお釈迦様が、一歩、二歩…と、七歩歩まれてように、この迷いの六道を離れるために、この世に出させてもらったことに因んだ名前をつけさせてもらった。

 この一年。さまざまな慈愛をいただき、数限りないいのちを奪い、あびるほどおかげをいただいて、無事にいのちをつながせてもらってきた。いや、それはぼく自身も、まったく同じである。にもかかわらず、あいかわらず自分中心で、怒りに狂い、欲に溺れ、不平、不満の愚痴ばかりの「おれが、おれが」の一瞬、一瞬である。恥ずかしいことに、まったくこの姿に変わりはない。いや、変わらないどころか、ますます荷物が増えた分、ひどくなっていくようだ。この一年も、まったくお恥ずかしい、お粗末この上ない身のまま、凡夫丸出しで、恥じることもなく、地獄の業をつくる生活を送っているのである。この身には、世を超えた南無阿弥陀仏に出遇うことがあければ、絶対に、この一歩が踏み出せることはなかったのだなーと、お念仏させてもらった。

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『殯(もがり)の森』

 『殯(もがり)の森』 美しくも、静かな作品だった。しかし、その静謐さは、深い自然のなかで、生死を生きるいのちが渾身の力で息づく強さを感じさせる。風は風として、木々は木々として、水は水として、そして、いのちはいのちとして切り取られ、映像におさめれていく、叙情詩のような作品でもある。

Mori 冒頭、風に揺れ、連なる緑の中、美しい茶畑を、葬送の列が静かに続く。

 奈良の緑と水が豊かな、 自然のなかにある民家を改造した小規模なグループホーム(認知症の人達が暮らす)が舞台。ドキュメンタリー映画とみまかうほど、登場する老人たちの顔がすばらしい。その自然なふるまいに、熱演と賞されている演技部分も、最初はなにか人口臭くて白けるほどだった。

 「生きている実感がない」というセリフに応える、僧侶のお説教も、もしかすると、いつも行なわれているのではないか。「人は死ねばどこにいくのか」の問に、答える老人たちの答えも、それぞれが自然と口に出た、とても素朴な、日本人の死生観の一端を顕していた。

 唯一の親愛なる妻を失くした認知症の男性と、子供を不慮の事故で失くし、こころに傷をもった若い介護者。共に、外界にこころ閉ざして、自分の世界に生きていることになった二人が、身で交差する。

 亡くなった妻を偲ぶ慰霊の旅が、ふとしたことから、深い原生林に迷い踏み、彷徨う。自然は過酷に変化する。男性が、鉄砲水で溢れた川を渡ろうとする時、「渡ったらアカン」と絶叫する女性。「川を渡る」-生と死を分かつかのような象徴的に映ったシーンだ。

 奈良という土地柄もあろう。原生林というのもそうだ。死は、けっして遠い存在ではない。生と死をキッパリ二分化し、畏れるのでもない。ここには、身近な自然に宿る、かけがえのない人々の魂の存在が、画面のうえにクッキリと浮かび上がる。ちょうど緑を渡る風のように。また流れる水の音のように。目には見えずとも確かに感じられるものなのだ。この素朴で、楽天的な死生観は、ある種、日本人のDNAでもあろう。

 もし、大方の日本人が、このあまりにも好都合で、楽天的すぎる、不確かな死生観を頼りに生き、死と向き合っているのだとしたら、あまりにも寂しいことだ。

 それにしても、日本女性初の快挙! カンヌ映画祭グランプリ(1席はパルムドールなので、2席)という報道は、なんという効果があるのだろう。いつも閑散とした劇場に行列が出来ていた。

 もっとも、本来は商業的なヒット作品の類ではない。確か力強いが、静謐な映像美の作品でもあるので、あっちこっちで、イビキの音が……。劇場をでる時、大あくびをしながら出ている人が印象的だった。これは、自宅ではなく、劇場で観たほうが美しいでしょうね。

 殯-もがり-

  敬う人の死を惜しみ、

  しのぶ時間のこと

  また、その場所の意味。

  語源に『喪あがり』

  喪があける意味、か。」

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大きな法座の後は

 大きな行事が終わると、いつも虚脱感に包まれる。

 別に傷つくこともなく、不愉快なことがあったけわけでもない。それどころか、みんなの反響もよいし、楽しかったりもする。もちろん、「よかったー」「有り難かったなー」という思いもないわけではない。なのに、「つまらん法話したなー」とか、「いらんこと話したなー」とか、「ちょっとあの強引なアプローチはまずかったなー。傷つけちゃったかな」とかね。とにかく、マイナス指向で反省ムードになりがち。気持ちというより、そんなムードに包まれる。連れ合い曰く、「『わしゃ、グレートじゃー』とは思わないの?」と明るく言われるのだけれど、不思議と、ネガティブな気分に包まれて、その夜は寝ることが多い。たぶん、満点主義、完璧主義の強迫観念が強いんでしょうね。なかなか、75点合格主義にはなれませんわ

Img_1358  もっとも、疲れから、「カッカ」と怒りをガソリン、エネルギーに仕事をこなしていく時もあるのだけれど、だいたい疲れると、暗めになるのが性分のようですね。

 まあ、今日は、軽めのメニューで仕事しました。

 午前中は、夫婦で自力整体にいって、体調の整備。レッスンの教室は、引っ越して、いまこんなところでやってます。ひとりでランチして、ちょっとゆっくりしました。おかげで、午後から気分も高揚してきて、元気を取り戻しました。

 

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仏青大会終わりました

 3日間の仏青大会終わりました。

 今回は、世話人経験が少ない人達を中心に進行したが、役員もうまくサポートしながら、それぞれが力をハッキリしてもらって、無事に終わることができた。

 一時、仏青バブル期を経て、ずいぶんみんな大人になった。主力のほとんどが、大学生から院生、さらに就職し、社会人としても経験を積むようになった。チラホラ、結婚話も出てきた。

 今回、ぼくの分級座談も、大学生の男子2名が途中までいたが、あとはそんなベテラン組が中心。偶然、ぼくを真ん中に、左右にをK君とムラ君がすわり、座談をすすめてくれた。観音、勢至(べつに、自分が阿弥陀様というわけじゃないですがね)よろしく、両脇から、丁寧かつ適切のお勧めがあるかと思えば、どこから出て来るかわかならいようなユニークな球を投げたりと、変幻自在の働き。その見事な働きぶりに、しばし休息をいただいて、おまかせしておりました。

 みんなの成長ぶりに、感心もしたけれど、恥ずかしくもなりましたね。そのお勧めぶりや、言葉やお話に、ぼくの影響が色濃いこと。こちらが、忘れていたことも覚えていたり、やはり責任を感じますね。同時に、恥ずかしくもあります。

 それにしても、みんな仲がいいなー。子供大会の小学校時代からのお付き合いで、学生時代を共に過ごし、社会人になってもかわらず関係がつづいている。共に求め、自力疑心を破ってきた、戦友なのかもしれないね。新しい人たちには、ちょっと入りずらいかもしれほど、関係が濃すぎる。

 夜の懇親会も、ワイワイガヤガヤ。話題は、まったくいまの若い人達。脳内メーカーで盛り上がり、マンガや映画の話をし、恋愛話に、うわさ話に、職場の愚痴。手をたたいて爆笑する姿は、なにも変わらない。でも、そんな今生事いっぱいの中に、光るご法の輝きが、まぶしい。

 ぼくもこの3日間、よく飲みました。2日目の昼食後は、東福寺散策には参加せずに、昼寝。初日がゲームから始まるところといい、このゆるさが楽でよかった? 来年は、なにか工夫があってもいいでしょうね。

 年齢だけでなく、みんな、立派なお同行さんや先生に成長されています。これからの華光なんてケチなことはいわず、これからの浄土真宗を、真に支えていく尊い皆さんなんです。仲間だけで小さく固まらないで、大きく羽ばたいていってほしいです。これからも、そんな仏青でありたいものです。

 

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仏青大会初日

 Img_1323今日から、3日間、仏青大会。

 昨年10月の仏青大会前後のブログを読み直してみて、「ああ、今年もよく似た心境だなー」と思った。気負いもないかわりに、以前のようなワクワクも希薄だが、若い人達の奮起、働きに期待している、そんな心境だった。Img_1330

 準備もあるので、チョロチョロする子供を、少しだけ連れて、公園で遊んできた。ちょっと暑いが、秋晴れの気持ちいい1日。

 「さて、ここで問題です。公園で、ぼくがデジカメで撮らなかったものはなんでしょうか?

 1)きのこ、2)てんとう虫、3)みかん、4)うろこ雲」

Img_1337  仏青大会が始まった。全体会は、みんなをリラックスさせるために、レクリエーション式のゲームから始まった。いろいろと若い人は考えるね。分級座談会グループにわけ、パーソナリークイズ(全員が、自分個人にかかわる問題を1問考えて、グループ別に答えるというもの)。「ヘエー、あの人、あんな面があるのか」と驚いたり、最後は、悟朗先生の、「わたしは何人兄弟の、何番目で、そのときの母親の年齢はいくつでしょうか」という問題で締めくくられた。なかなかの接戦で盛り上がり、みんな充分リラックスした? その時のぼくが出題したのが、上ですね。

 思いの外、長引いて、全体会は自己紹介をして終了。夕食は、ご町内のカフェでなかなか美味しい料理をいただいて、夜は、悟朗先生のご法話。東京講演法座と同じ、「4歳女児の獲信の記録」。正確には、心境告白と、説法と、懺悔の記録である。

 から、全体会でも、「雰囲気は代わったけれど、あくまで信心獲得(獲信)に焦点をあてて聞法していく場だ」とのお話があった。その獲信をするには、1)宿善、2)善知識、3)光明、4)信心、5)名号(この場合は称名)の五重の義。「この五重の義、成就せずば往生はかなふべからずとみえたり」。たとえ幼児や子供であっても、または大人であっても、仏様のおかげで、過去世からの宿善を積ませていただいたご因縁によって、いま聞法し、ご法を喜ぶ身になれたわけである。そのためのご苦労はいかばかりであろうかと聞かせいただいた。もちろん、浄土真宗の聴聞、獲信の基本的な要点も押さえてお話いただいた。ひとり、ひとり、いやこの私が目が覚めることがないと、ここに集う意味はないものね。

 ご法話が長引いて、今日の分級座談会はなし。

 クイズの正解は、ここにない写真。この公園にはキノコはなかったです。そのかわり、なぜか、堅い青いみかんが落ちていました。てんとう虫は、腕時計にとまり、うまく撮れました。さあ、これから懇親会です。

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通知票

 華光誌の発送が終わって、お手伝いの皆さんと一休みしていた時、子供が学校から戻ってきた。「ハイ」と渡されたのが、通知票だった。

 ぼくの子供のころと違い、最近は、2学期制を採用している学校が多い。夏休み前に成績はなく、9月までが前期なのだ。特別に秋休みがあるわけではないので、この連休がそれに代わるのだろうか。

 成績も、5段階などの数字ではなく、「よくできる」「できる」「がんばろう」の3段階のどこかに丸がついているだけ。社会や理科の科目が、「生活」となっている。

 学習状況以外に、生活のようすや行動のようすがある。

「元気に遊び、進んで運動する」

「身の回りの整理整頓」

「自分のこと自分でする」(自主自律性)

「みんなと仲良くする」(協調性)

「ルールや約束を守る」(公共心)

そして重点目標として、「人の話をしっかり聞く」と、「自分の思いをはっきり話す」。

 いやはや、大人でよかったなー。こんなこと丸印で評価されたら、たまったもんじゃない。でも、社会でも、家庭でも、他人から受ける評価は、これを大人向けにしただけで、そう変わらないのかもしれないけどなー。

 対人関係のコミニケーション・スキルの「聞く」「伝える」項目が、重点目標に入っているのが、今日風といえば、今日風。聞くことも難しいし、気持ちを伝えることも難しい。アサーション・トレーニングではないけれど、相手を責めるのでも、自分が我慢するのでもなく、あなたメッセージではなく、「わたし」メッセージで伝えていくことも、聞くことと離れてあるのではない。長年に渡るとても近い関係、いやとても近い関係だからこそ、我慢したり、諦めたりして、すれ違っていくことばかりじゃないかなーと思う、ちょっと蒸し暑い秋の夜長だった。

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東京公開講演会のDVD

 今日は朝から、東京公開講演会のビデオ(DVD)の編集作業がおこなわれた。

 当日の撮影、編集と製作をお願いしているデジタル・ウェーブのS氏が、東京から来られて(やっぱり上洛? いまは違うのかな)、少し昼食を挟んだだけで、朝から夜まで10時間以上の作業となりました。ほんとうにお疲れさまでした。やっぱり、餅は餅屋。プロですね。目の前で、ドンドン作業が進んでいきます。継ぎ目がわからないほど、不要な部分をカットしていかれる。先生方の挨拶に、講演が2つ。そして質疑応答。ぼくの部分までは終了し、後も、必要な部分の打ち合わせがありました。音声に合せて、テロップが瞬く間に入っていきます。ぼくたちが、当たり前のように使っている仏教の言葉は、なかなか一般の方には、難解なんです。「後生の一大事」「信疑廃立」、ましてや「昿劫」などはかなりの難易度。「生死」でも、ふつうは「せいし」と読む。「凡夫」でも、普通の方には難しいようで、テロップを入れました。ぼくが引用している論註の「蟪蛄(けいこ)は春秋を識(し)らず。あに朱陽(しゅんよう)の節を知らんや」は、漢字の変換ひとつでも難しいなー。さらに、『仏敵』や昔の華光会館の法座風景、伊藤康善先生の写真を織りまぜられます。

 子供を保育園に送ってから、ぼくも、最初の1時間ほどはご一緒しましたが、あとは、ゆうこたちに任せて、別の事務作業。明日の発送の下準備に、10月の運営委員会の案内、そして、子供大会の「はちす」編集なども少し始めました。

 東京講演会がすみ、華光誌の発送がすんだら、少し落ち着くかと期待したけれど、やはり次々と行事がありますね。ちょうど決算期でもあるし、華光大会も近づいている。大きな宿泊行事は、前段階の準備だけでなく、後の作業(たとえば法話のビデオやテープ編集、決算など)もあるので、いろいろとやりくりが必要です。

Img_1316  子供と夕飯をすませて帰って来たら、ちょうど作業が終わるところだったので、あわてて一枚写しました。

 自画自賛ですが、いいものができそうですよ。

 明日は、京都の助っ人を頼んで華光誌の発送。夜は、仏青大会の買い出しとそうじがあります。これは、仏青の皆さんが頑張ってくれます。よろしくたのみます。

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華光誌、仏青大会、玄関の柵

 酷暑の夏も、そして残暑厳しい9月も終わり、10月の声を聞くあたりから、しのぎやすい日が続く。いくら、異常気象といっても、やはり秋は秋らしくなってきた。秋分の日を境に、釣瓶落としで、日が暮れるのもどんどん早くなってくる。保育園のお迎えの時が顕著だ。

 さて、華光誌66巻4号が完成した。DVDのチラシと、年賀交換申込書などを同封して、5日の金曜日に発送する段取りで仕事が進んでいる。メール便はバラツキがあるので、6日~連休明けの9日ごろにお手許に届くことになろうが、どうぞ、お楽しみに。

Img_1313  玄関の柵の工事は、思いのほか難航。3日間も業者が入っているが、まだ完成しない。完成は、仏青大会以降になる可能性も。また、1年前に外壁を塗り得たばかりなのに、一昨日、外の分電盤のところに、ラッカーでいたずら書きをされた。たまたま柵の工事の監督で、担当者も来られていた。さいわい、塗料も残っていて、次の行程とリンクするらしい。合せて塗り込めてもうらことになった。

 今週末は、仏青大会だ。高校生以上で、大学生などの若い人達から40歳までの方が対象になっている。先生方も充実しているので、ぜひ、ご参加ください。

『仏青大会』参加要項

 お世話役は準備を進めていて、昨日もグループ分けの相談があった。買い出しなどの事務作業もある。掃除などで人出もいるだろうから、近郊の仏青の皆さんは、ご協力を!

 いや~、なんの落ちもないお話で恐縮ですね。

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『エディット・ピアフ 愛の讃歌』

『エディット・ピアフ~愛の讃歌』。 ピアフの映画をみるのは、2作品目だけれど、今回の方がずっとよかった。

265802  すごい一生だ。強烈な個性の塊。大天才。超わがままで、ナィーブーで、好きな男の前ではかわいくて、自動車事故に、見いだした育ての親と、そして親愛なる恋人との強烈な別れ方、麻薬やアルコールに溺れていく弱さ。思わず、「お前、いい加減にしろ」といいたくなるぐらい、回りを振り回し、ピリピリ、おろおろさせるのに、その歌声(本人の歌声)を聞くと、震えるぐらいいい。途中、「同じ娼館に育ったといっても、アメリカ南部で、黒人なら、ビリー・ホリディになったなんだなー」と思っていたら、そのビリーの写真と、彼女の話題になって、「同じ年に生まれた」といわしめている。確かに。共通項も多いけれど、ある種、芸人扱いで終わり、最後もボロボロになって、病院の長イスに長時間放置されていたビリーに比べると、同じボロボロになっても、フランスを代表するイコンとして、国際的にもアーティストとして成功したビアフ。47年間に、この破天荒な、破滅型の生きざまはどうなんだろうね。拒絶する気持ちと、憧れの気持ちが入り交じりまるなー

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小規模であること

 ファーストディーで、映画は1000円。いつも1000円で観られる映画館はやめて、東映系の大手シネコンに初めて行きました。大手の劇場は、ネットを使って自宅から座席を指定できるので、混雑も心配ないし、とても便利。自転車で、二条城の裏側まで、20分足らず。思いのほか近いですね。新しい劇場なので、駐輪場、劇場フロアー、シートとも、快適。満席だったけれど、『エディット・ピアフ~愛の讃歌~』を、ゆったり鑑賞してきました

 めったにこの界隈には足を向けないけれど、地下鉄が伸びて、ずいぶん変わりました。レトロな雰囲気が漂っていたJR二条駅は新しくなり、大手シネコンに、有名私立大学などが建ち並び、再開発が進んでいる。山科駅周辺、京都駅南側もそう。どんどん京都も普通の都会になっているなー。

Img_1312  お昼は、ネットで調べた町家風のカフェ「雨Img_1311林舎」へ。劇場から1分ほど。あれ、もしや、お知り合いの関係?の気配がしたのに、情報と違って休業日。残念。これは別のお楽しみに。開いていた2軒お隣の玄米食の町家のお店へ。どうも温かい雰囲気で、リーズナブル。珍しものはないけど、ちゃーんと人が作ってるというランチ。ちょっとだけお話を聞くと、障がい者や、高齢者などを助けあいながら、ふれあい社会をめざしているNPO法人が、小規模共同作業所の一環として経営されているらしい。福祉の面でも『殯(もがり)の森』の舞台のように、家庭的な雰囲気のなかでの介護、少人数でのグループホーム化が進んでいるようです。

 いまや、行政も、企業も、学校も、病院も、日本のいたることろで、生き残りをかけた戦いが続いています。そのために巨大化し、画一化し、効率的な事務的な処理を押し進められている。成果主義のもと、効率的な利潤の追求が第一なのである。確かに、効率化には大切な面もあります。しかし、それは生身の人に当てはめることはできない。人は、それぞれのいのちを抱えて生きていて、当たり前だけれども、一色に画一化することはできないものです。でも、ほんらい代替不可能ないのちが、いつのまにか、「代わりはいくらでもある」状態となり、「かけがえのない」はずのものが、誰もその実感を持てない生きづらい世の中になっている。そのなかで、なんのために生まれてきたのか。私は誰なのかと、みな彷徨っているのではないでしょうか。

 今後は、企業が利益や補助金目当てで行なう福祉や介護施設と、このような小規模のよさをいかしたグループに二分化されていくのでしょうね。

 そうそう映画の話から。映画館も、どんどんスクリーンが増える大型シネコン型(便利で、きれいで、快適。しかし画一的で、ヒット作のみ)と、個性的なラインナップのアート系のミニシアターに二分化されています。問題は、後者は良心的だけども、なかなか人も、お金も集まらんということでしょうなー。経営的には苦しいそう。

 どうも、華光のようですね。

 ずいぶん、横道に逸れました。

 

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