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六波羅蜜の修行

 週末は、父は日高支部法座。京都の同行3名が同行された。ぼくは、華光会館での大阪支部法座だ。大阪は、もともとは各家庭の持ち回りの法座で出発したが、高齢化などもあって、家庭法座という形式は残しながら、もっぱら公共の会館が会場になっている。そして、年に1度だけ、京都の華光会館が会場となる。

 今回は、華光会館の割に、お参りが少なかった。地域も、京都、大阪、奈良、そして和歌山からの参加で13名ほど。仏青世代のお参りはなく、少し寂しいというのが正直の印象だ。

 東京講演会でも話題にした「超える」ということがテーマ。横超(よこざまに、飛び超える)という浄土真宗について、法蔵菩薩の兆載永劫(ちょうさいようごう)のご修行がどんなものであったかをお話した。

 ただ、前席では、東京で話したように、癒しやスピリチュアルを求めて、自己実現や自分探しなどに価値をおいている、今日の社会情勢にもふれていった。その代表として、マズローの欲求の五段階について述べたけれど、年配の参加者が中心だったので、あまりなじみのない話題となったが、逆に新鮮に聞いていただけたようだ。

 後席では、お彼岸が過ぎたところでもあったので、此岸(迷いの世界、今生)を離れて、生死の苦海を超える、渡り、彼岸に到る道について話した。

 「波羅蜜多」とは、Pa-ramita-(パーラミター)、到彼岸(とうひがん)、度(ど)とも訳され、「生死の此岸より、涅槃の彼岸に到達する」と説かれる。「到彼岸(とうひがん)」は、救済の意味で、我々凡人が生活するこの迷いの世界(衆生界、此岸)で、いかに様々な悩み(煩悩)に迷い、妄念妄想にもがき苦しむかを、生死の苦海の溺れる姿で喩えられる。それら溺れる我々を、「般若(はんにゃ)」(Prajn~a~(プラジュニャー)=智慧の意)の船(浄土真宗では、大願の船とか、船筏と譬えられる)に乗せて、向こう岸(彼岸)の安楽な悟り・覚りの世界に渡らせるというお示しである。

 そのために、兆載永劫ものはかりしれない間、一念、一刹那、一瞬たりとも、そこに雑じりけも、虚偽も、不浄も、疑いも毛筋ほども混じることなく、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、そして智慧の六波羅蜜の大乗のご修行(または、菩薩の五念門ともいわれる)を、ただひたすら行なってくださり、さまざまな善行と、種々の功徳を、積み重ね、積み重ね(積功累徳)てくださり、そして南無阿弥陀仏となって、それを惜しむことなく、貪欲にまみれ、怒りにさいなまれ、愚痴の闇に沈む、迷いの私のためにまるまる廻向してくださるのである。

 法蔵菩薩のご修行というと、なにか特別な、超人的なものと考え、想像すらできない。しかし、ご修行のひとつ、ひつとは、特別なことではないのだ。欲のこころも、怒りのこころも、愚痴のこころもおこさず、常に和顔愛語で、先生や先達を大切にし、六波羅蜜の行をおさめ、人にも勧めていく。ただ、それだけのことを、何生にも何生にもわたり、いのちをかけて繰り返しておられる(大経の意訳を読みあげました)。だからこそ、まったくもってすごいんだと思うんです。

 しかもです。

 この私は、六波羅蜜どころではない。まったく正反対の生き方をしている。施すどころか、貪欲に狂う。持戒どころか、無戒でしたい放題、耐え忍ぶどころか、怒りに燃えてつづける。努力は大嫌いで、懈怠に生きる。こころが静まるどころか、煩悩三昧の散乱放逸。智慧のかけられなく、愚痴の塊、それがまったく私の飾らざる正体である。でも、法蔵菩薩のご修行のひとつひつとは、この狂った私を目がけたものである。その私を、ひたすら信じきって、よこしまなまじりも、不浄も一かけらも入ることもなく、成就してくださったそのおこころ。なんと表現すればいいのか、人間の言葉では現しきれないものを、南無阿弥陀仏として届けてくださっている。

 どれだけ努力しようとも、たとえ「自己実現」といっても、もし此岸の岸辺のみを歩んでいるかぎりでは、この迷いを離れることはないわけです。末法五濁の世にあって、凡夫が救われていく道、生死を超えていく道は、自利利他円満した、智慧と慈悲が満々た、南無阿弥陀仏しかないというわけですね。南無阿弥陀仏は、まさに横さまに超えていく教え、浄土真宗です。 

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