« 9月の日曜礼拝 | トップページ | 町内会リクーレション »

『街のあかり』

 夏休み間、フィンランドへ短期留学していた日礼の先生(大学生)から、イッタラ製のスプーンをお土産にもらって、しばしフィンランドの話題で盛り上がった。

 今は、映画の話題である。スウェーデンを別格に、アイスランド、フィンランド、デンマーク、ノルウェーなどの小国の映画も、たまにではあるが見ている。それどころか、『ククーシュカ』のように北極圏のラップランドのサーミ人を舞台にした映画まで、日本では上映されている。

 オール・フィンランド・ロケの『かもめ食堂』のヒットではないが、遠い日本からは、フィンランドはおとぎの国である。北極圏の幻想的な自然、豊かな森と水。福祉国家であり、先端技術立国であり、お洒落な北欧デザインのクールな国として捉えられる。

 しかし、それは表層的な遠い異国からの理想像にすぎない。豊かさの影は、この地にも落ちる。厳しい格差社会の現実、貧困があり、孤独があり、悲哀が満ちている。今夜の彼の話では、アル中や自殺率が、世界でもトップクラスという一面があるそうだ。

 さて、『街のあかり』というフィンランド映画は、そんな影の部分に生きる弱者が主人公だ。監督のアキ・カウリスマキが、自ら敗者三部作と名付けた第三作目。『10ミニッツ・オールダーズ』の短編オムニバス映画を挟んで、前作の『過去のない男』は、とてもよくできた1本だった。これはよかった。「過去のない男」は、記憶を失くしながらも、人生は後ろ向きに進んだら大変だと、けっして失った過去を詮索することなく、前向きに生きようとする男が主人公だった。それに比べると、『街のあかり』の男は、回りの豊かさを享受できずに取り残され、その自分の現実を受け入れられずに、ますます孤立していく、影のような辛い男の話だ。

 それにしても、彼の視点は、常に、忘れられたように社会の片隅に息づく人を、静かな視点で描いている。主人公は、大声で主張したり、行動したりしない。それどころか、感情を露出せさることもなく、常にセリフは控えめで、表情も変わらない。数々とおこる身に覚えのない不幸をも、甘受してというより、ただ首をすくねるだけなのだ。ヘルシンキの風景の光と影、室内セットのどこか書き割りのような平面的な空間が、対称的でもある。

 と書くと、なにか非現実的な匂いがするが、それでいて妙なリアリティーがあるのが、不思議だ。彼が、小津の映画から取って、自らの墓標に、「生まれてはきたけれど」と刻みたいと、インタビューで答えるほど、小津映画を敬愛してやまないのは有名だが、ある評論家のよると、能のような作品だという。なるほどなー。分かったような、分からんような。

Machi  要は、主人公の男は、負け犬なのである。友人も、恋人もおらず、職場でも、上司からも、仲間からも疎まれ、軽蔑される。それでいて、見栄っ張りで、身の程しらずで一攫千金を夢見ている。そんな男が、マフィアに、その性格を見透かされてうまく利用され、女にだまされ、犯罪に巻き込まれ、濡れ衣をかけられていく。それでも、やはり男は、叫ばず、言い訳せず、感情も現さない。最後の最後まで、雑巾のようにボロボロに捨てられていく。

 ところが、そんな負け犬を静かに見守り、ラストの一瞬に、灯る一隅のあかり。

 美しかった。

|

« 9月の日曜礼拝 | トップページ | 町内会リクーレション »

映画(欧州・ロシア)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『街のあかり』:

« 9月の日曜礼拝 | トップページ | 町内会リクーレション »