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言葉の肌触り

 今回、九州法座の座談会のとき、それぞれの方の言葉を聞いているのだけれど、その言葉に付随している感情に加えて、その奥行きにある「響き」というか、その「質感」というか、「手触り」「肌触り」のようなものを感じながら聞いていると思った。どうも、その相手から発せられた言葉を、自分にも響かせて、そこで感じられる何かを大事にしながら聞いているのである。

 だから、同じ言葉であっても、時に、正反対のことを述べているように感じられることもある。また、深みのある言葉にもなり、また口先だけの軽い言葉になったりする。でも、そう感じるのは、あくまでこちらの感じなのだから、それを相手にフィード・バックして確認していく作業を行うと、より丁寧なかかわりができるのだろう。

 このあたりは、いくらネットで世界が狭まり、メールで超便利になったとはいえ、ぼくには、直接、顔を見合せ、互いが膝を交えて、その空気を共有しあいながら、聞きあい、伝えあう、出会いのコミニケーションに代えることはできない世界なのである。それほど、人間関係は、誤解を招きかねないデリケートな問題なのだ。えてして、便利なツールであればあるほど、落とし穴が巧みになって大怪我をしてしまうのだ。

 なにしろ、ぼくたちのこころは、ころころと移ろいやすい。言葉にした瞬間に、すでに、その言葉にするという行為の影響をモロに受けて、その気持ちが移ろいでいくのだ。そう、相手の聴く小さな態度に、その返って来た言葉のひとつに、動搖し、変化していくこともある。人のこころとはかくも敏感であり、また同時にもろいものなのだ。その故、時には、生きていくために、こころを閉ざし黙ることも、言葉で飾ることも、またそれを武器にすることもある。そうしながら、絶妙に微妙なバランスを保って、生きているのかもしれない。

 最近読んだ、リリー・フランキーの小説の一節の次の言葉どおりである。

 「人の気持ちは一秒ごとに変化する。ふともらした拍子にうつろう。強く決心したことも、時には揺らいだり、翻ったり、元に戻ったり、そういことこを繰り返す。」

 だからこそ、丁寧に聞いたり、伝えたりすることが大切なんだ。その一瞬、一瞬の今を大切にしながら。 

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