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今日の法話のテーマは? 

 昨日、 華光誌の校正が来た。校正はみればみるほど細かな点が気になるが、今朝、表紙関係とチャックと合せて、印刷所に回った。これで校了。ちょっと、10月1日発行とはいかずに、4、5日遅れで、体育の日の連休前になりそう。問題は、そこに、2泊3日の仏青大会が入っているで、発送が、仏青大会の前になるか、後になるかで、また3日間違ってくるが、10月10日前後にはお手許に届くことになるでしょう。

 これから、近鉄に乗って、奈良河合町の教行寺への布教。昼と、夜の二席あるので、昼席は、今回の華光誌の誌上法話をもとにした、どちらかというと無常観を中心にしたテーマ。夜席は、「いのちを喰らう」を基にして、罪悪観を考えている。共に、「いのち」がテーマになりそうですね。自分のいのちに執着していくと、他の生きたいと願ういのちを奪うしかないわけです。迷いとは、まさに無慈悲なありよう、生き方しかできない私そのものです。しかも、それを当然の顔をして、恥ずかしいととも、罪悪ともなんとも思わない、無明そのものでもあるわけです。

 だから、不思議なんです。無慙無愧のこの身から、「南無阿弥陀仏」が出てくださることが、なんとも不思議。南無阿弥陀仏とは、無量のいのち、慈悲の塊と、無量の光り、智慧の塊そのものでしょう。智慧と慈悲が、自利と利他が円満した悟りのいのちそのもの。迷いと悟り、遇うはずのないものが出遇う。当然、真実よって、無慈悲な我が身、無知のわが身がますます照らされるというのに、そこが有り難いのですから、これもまた不思議です。

 さて、行ってきます。それしても、K先生に合うの久しぶりですね。も、も、もしかして、昨年、お寺でお世話になって以来? それなら一年ぶり? まさか、そんなことはないだろうと思いつつ、そのようですね。ということは、華光会館には、もっとご無沙汰ということになります。先生には、華光会館でも、いろいろとご教示いただきたいです。よろしくお願いしますね。

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コメント

日暮しとはいへ充実した時間を過ごされている様子が伺えて、嬉しくもあり、私に返せば無慚無愧の己を知らせれて、時に思うもまた繰返しです。何年ぶりかに書棚(ただ置いてある)から「念仏の雄叫び」に触れました。求道の方法論に罪悪観と無常観を詰めることを示され、その何れが欠けても駄目であることを教えてくれています。正に、かりもん先生が教行寺様で話されることであります。「この、わたしのいのち」についてであります。また、「念仏の雄叫び」のある一節に、聞かせていただいた者が、無慚無愧の行いをするのは罪悪観、無常観が詰められていないからだ、とありました。今の私がそうであります。詰めることは、聞かせて聴かせて、聞きぬかせていくことですね。この私のどこをどう探してもその心根のない私が、こう思い気づかせていただくことに、この大きなおはからいに多少は真摯に向かわないと、本願ぼこり?のお念仏になりますね。そんなことをここ数日のかりもんさんのブログから感じ、気づかせていただきました。ありがとうございます。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

投稿: 稜 | 2007年9月26日 (水) 17:00

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