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南嶽(なんがく)磨磚(ません)

 華光会のHPに、華光誌のバックナンバーを、誌上法話と、巻頭言と、聖教のこころの3つをセットにして、毎月1号ずつ掲載している。華光誌50周年を記念して、DTPを導入したことから、華光会館で自家製版するようになった。それで、入力したテキストが、ぼくの手元に残っているので、50巻2号分より掲載している。

 http://homepage3.nifty.com/keko-kai/kekousi/kekosi_back.htm

 次回が56巻1号になる。誌上法話は、孤杉英章先生の「瓦を磨く」。入力をチェックしながら、久しぶりに読み返してみた。禅宗の公案が掲載されている。ライブで聞いたときから、印象が残っていた話だ。(アップはいまチェック作業をお願いしています。いましばしお待ちください)

 南嶽懐譲(なんがくえじょう・ 初唐時代の禅僧)の、弟子の馬祖道一(ばそどういつ)は、毎日座禅ばかりをしていた。

 そこに通りかかった南嶽は、こう尋ねた。

南:「座禅をして、何を求めているのだ」

馬:「仏になろうとしているのです。」

 すると南嶽は、何を思ったのか、落ちていた磚(かわら)を拾って盛んに磨き始めた。

馬:「先生、何をなさろうとしているのですか」

南:「磚(瓦)を研いて、鏡にしようと思っておる」

馬:「磚を磨いても、鏡になるわけないじゃないですか」

南:「ならば聞く。座禅をして、仏になることができるのか」

馬:「え、同じことになるのですか」

南:「牛が引いている車が動かなくなったとき、お前は、牛を打つのか、車を打つのか」

 この言葉によって、馬祖はついに南嶽の法を嗣ぎ、天下に「江西の馬祖」の名を轟かすになったという。 

という内容である。本家での領解は知らないが、これは、まるまる真宗の求道者のことではないか。肝心の「主人」をお留守にして、「後生の一大事」「信心獲得」と、血眼になって聞法して、所詮、瓦を磨いて鏡にしようとするようなものである

 でもね、最近のお味わいでは、凡夫の欲に目がくらんだこととはいえ、よくもまあ、瓦磨きまでさせてもらえる身にならせてもらったものだなー。そのおかげで、捨てることの味、同時に転ぜられる妙を味わわせていただけたのだという方向を強く味わいます。

 このいまの世の中と同じで、あまりにも情報が多すぎると、小賢くまとまって、なるべく無駄なことはやめよう。効率や利潤をもとめて、省エネで聞法しようとする傾向が強くなってないかなー。年寄りだけでなく、子供も若いものも、妙に大人ぶって賢くみえる。だから、なにもしない前から、情報だけを手に、「どうせ凡夫なんだから」とか、「どうせ他力廻向なんだから」とか「宿善にならなんのだから」なんやかんやと、なんでもかんでも、「どうせ○○なんだから、やっても無駄」と、「ぐるぐるぐるぐる」頭だけの聞法・求道では、進んじゃいきません。結局、どんどん懈怠に流れて、身で聴くことを惜しんでいる。

 まあ、直接、この心ではないので、このあたりにして、各々、いかに答えていかれるかな? 九州の法座でも、皆さんの味わいをお尋ねしました。

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