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2007年9月の25件の記事

六波羅蜜の修行

 週末は、父は日高支部法座。京都の同行3名が同行された。ぼくは、華光会館での大阪支部法座だ。大阪は、もともとは各家庭の持ち回りの法座で出発したが、高齢化などもあって、家庭法座という形式は残しながら、もっぱら公共の会館が会場になっている。そして、年に1度だけ、京都の華光会館が会場となる。

 今回は、華光会館の割に、お参りが少なかった。地域も、京都、大阪、奈良、そして和歌山からの参加で13名ほど。仏青世代のお参りはなく、少し寂しいというのが正直の印象だ。

 東京講演会でも話題にした「超える」ということがテーマ。横超(よこざまに、飛び超える)という浄土真宗について、法蔵菩薩の兆載永劫(ちょうさいようごう)のご修行がどんなものであったかをお話した。

 ただ、前席では、東京で話したように、癒しやスピリチュアルを求めて、自己実現や自分探しなどに価値をおいている、今日の社会情勢にもふれていった。その代表として、マズローの欲求の五段階について述べたけれど、年配の参加者が中心だったので、あまりなじみのない話題となったが、逆に新鮮に聞いていただけたようだ。

 後席では、お彼岸が過ぎたところでもあったので、此岸(迷いの世界、今生)を離れて、生死の苦海を超える、渡り、彼岸に到る道について話した。

 「波羅蜜多」とは、Pa-ramita-(パーラミター)、到彼岸(とうひがん)、度(ど)とも訳され、「生死の此岸より、涅槃の彼岸に到達する」と説かれる。「到彼岸(とうひがん)」は、救済の意味で、我々凡人が生活するこの迷いの世界(衆生界、此岸)で、いかに様々な悩み(煩悩)に迷い、妄念妄想にもがき苦しむかを、生死の苦海の溺れる姿で喩えられる。それら溺れる我々を、「般若(はんにゃ)」(Prajn~a~(プラジュニャー)=智慧の意)の船(浄土真宗では、大願の船とか、船筏と譬えられる)に乗せて、向こう岸(彼岸)の安楽な悟り・覚りの世界に渡らせるというお示しである。

 そのために、兆載永劫ものはかりしれない間、一念、一刹那、一瞬たりとも、そこに雑じりけも、虚偽も、不浄も、疑いも毛筋ほども混じることなく、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、そして智慧の六波羅蜜の大乗のご修行(または、菩薩の五念門ともいわれる)を、ただひたすら行なってくださり、さまざまな善行と、種々の功徳を、積み重ね、積み重ね(積功累徳)てくださり、そして南無阿弥陀仏となって、それを惜しむことなく、貪欲にまみれ、怒りにさいなまれ、愚痴の闇に沈む、迷いの私のためにまるまる廻向してくださるのである。

 法蔵菩薩のご修行というと、なにか特別な、超人的なものと考え、想像すらできない。しかし、ご修行のひとつ、ひつとは、特別なことではないのだ。欲のこころも、怒りのこころも、愚痴のこころもおこさず、常に和顔愛語で、先生や先達を大切にし、六波羅蜜の行をおさめ、人にも勧めていく。ただ、それだけのことを、何生にも何生にもわたり、いのちをかけて繰り返しておられる(大経の意訳を読みあげました)。だからこそ、まったくもってすごいんだと思うんです。

 しかもです。

 この私は、六波羅蜜どころではない。まったく正反対の生き方をしている。施すどころか、貪欲に狂う。持戒どころか、無戒でしたい放題、耐え忍ぶどころか、怒りに燃えてつづける。努力は大嫌いで、懈怠に生きる。こころが静まるどころか、煩悩三昧の散乱放逸。智慧のかけられなく、愚痴の塊、それがまったく私の飾らざる正体である。でも、法蔵菩薩のご修行のひとつひつとは、この狂った私を目がけたものである。その私を、ひたすら信じきって、よこしまなまじりも、不浄も一かけらも入ることもなく、成就してくださったそのおこころ。なんと表現すればいいのか、人間の言葉では現しきれないものを、南無阿弥陀仏として届けてくださっている。

 どれだけ努力しようとも、たとえ「自己実現」といっても、もし此岸の岸辺のみを歩んでいるかぎりでは、この迷いを離れることはないわけです。末法五濁の世にあって、凡夫が救われていく道、生死を超えていく道は、自利利他円満した、智慧と慈悲が満々た、南無阿弥陀仏しかないというわけですね。南無阿弥陀仏は、まさに横さまに超えていく教え、浄土真宗です。 

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イタリア映画祭

イタリアの映画紹介である。京都にイタリア文化会館がある関係もあって、イタリア映画を見る機会が多い。今年は、「日本におけるイタリア2007年」のイベントもあった。イタリアは、もうー度訪れたい魅力的な国だ。南イタリアにも行ってみたいが、、、。

Img_1112  さて、景観論争をよんだ京都駅ビルが完成して、ちょうど10年。もう、すっかり京都の玄関口、観光名所と定着している。今月は、その10周年を記念して、さまざまな催しが持たれているが、その1つが、9月の1ケ月間限定で、「京都駅ビルシネマ」というミニシアターが臨時に出来た。新旧25本ものイタリア関係映画を特集するイタリア映画祭超有名もあり、封切りもあり、京都初上映ありと、さまざなラインナップ。8割は観たことがあったが、映画館での未見を含めて、ここで4本、ほかに1本、今月はイタリア映画を5本観た。

  まずは、『ニュー・シネマ・パラダイス』のジョゼッペ・トルナトーレと、音楽を担当するニンニオ・モリコーネのコンビで、『海の上のピアニスト』(原題The Legned of 1900/1999年・イタリア/アメリカ)。1900年、アメリカに向こう大西洋航路の豪華客船内で拾われ、生涯、海の上を離れることなく、客船と運命を共にして、伝説のまま消え去っていった、ジャズ・ピアニストのファンタジー。30年代のジャズなのに、モダンを超えて、21世紀型のポストモダンに近いのはご愛嬌としても、ストーリーも、泣かせる場面も、ファンタジーとして楽しむ一本。ぼくには、『ニュー・シネマ・パラダイス』にしても、評判ほどの泣かせる名作とは、思えない。あまりに甘すぎるのである。同じコンビの、毛色の違う新作、『題名のない子守唄』に期待しよう。

Sasso_matto  『セッソ・マット(73年・イタリア)は、超ナンセンスな、お色気コメディー。セッソ・マットとは、色情狂という意味。これは、楽しい! いまの目からみたら、もっとシラけるかと思ったけれど、70年代のイタリアのおしゃれなインテリアや雑貨類に、ほどよいお色気も、爆笑のうちに微妙なところで留まっていて、いい。何かには、5話のように、駆け落ちされた(決して美人とは言い難い)女房の蝋人形をつくり、ゴージャスな娼婦にその格好をさせている男、このラストは哀愁漂う一編。8話(おかしなおかしな恋)のように、幼くして別れた兄弟の、なんとも、おかしくも、どこかこころ温まるような、変なメロドラマもある。でも、大方のムードは、未亡人、看護婦、若妻と、肉体派のラウラ・アントネッリ嬢の9種類のお色気コスプレに、ちょいワル、エロおやじを演じるセクシー男優とのコンビで、ばかばかしいほどセクシーで、おバカな物語が続くのだった。悩みごとや嫌なことがあった時は、これを見れば、悩むことがバカバカしくなるという一本。

 『トリノ、24時からの恋人たち』(04年・イタリア)は、イタリアToi1映画発祥の地、トリノの国立映画博物館を舞台にした、ひとりの女をめぐる、対称的な二人の男が紡ぎだす三角関係を描いている。自動車の窃盗を生業に、自由気ままなワルで、おんなたらしで、でもやさしい一面もあるヤサ男と、映画を愛し、外界との関係を持てずに、自分の世界にだけ生きる誠実な男。一人の女性との出会いから、自分の小さな世界を出ることを決意する。さて、彼女の選択は…。数々の名作のオマージューでもあり、また現代の時代のムードも映し出しているけれど、要は、映画のうような恋を描いた映画らしい一本。

 もう1本は、名作中の名作、フェリーニの『道』La Strada54年・イタリア)。イタリア映画を代表する名作のひとつ。これは、さすがだった。哀愁漂うニーノ・ロータの音楽もいい。力わざを武器にした、粗暴な大道芸人のアンソニー・クイン、そして、彼に買われた少し頭が弱い道化役の女を演じるマーシナと、うますぎる。そして、ラスト。トランペットの響きと共に、人生のはかなさ、哀れさが、静かに身に沁みますね。

 駅ビルシネマではないが、今月は、イタリア映画をもう1本『イタリア的、恋愛マニュアル(05年・イタリア)。これ、タイトルでちょっと損しているかもね。確かに、原題もそうだし、ストーリーの中にも、この恋愛マニャアルがキー・ワードになっているけれど、ちょっと考えさせられる大人のロマンティックなラブストーリーです。恋、結婚、子育て、危機、倦怠期、浮気、別離、苦悩、年齢を経ると共に、男女の間の出来事も、一色では語れない。それぞれの業をもって、生きているわけですからね。なにも、20代の色恋だけが、恋愛じゃないわけ。いろいろな段階の4組のカップル、その関係もさまざまが、出会いに、危機に、別れに、復縁にと織りなしてい男女の物語。一応、1話、1話ですが、それぞれ微妙に繋がって、バトンを受けていくのが面白く、恋愛も循環していくように終わるラスト。ちょっとホロッとしました。

 名作あり、新作あり、お色気あり、ファンタジーありと毛色の違う5本だけれど、音楽が素敵という共通項のある5本かもしれませんね。

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教行寺法座

Img_1299 教行寺様のご法座でした。

少し見づらいですが、蓮如上人旧跡とあります。おいわれについては、昨年、聞法旅行でお聞きしましたが、なかなか由緒あるお寺で、蓮如上人ゆかりの大派のお寺です。 

まだ暑いけれど、昨晩は中秋の名月。秋の空になっていました。境内の萩がきれいに咲いていました。

Img_1305  夜は、1年ぶりに先生と歓談。法務に、2児の子育てにと、ご多忙のご様子。世代が近いだけでなく、なにか近いものを感じています。今回も、先方のお話を聞かずに、一方的にぼくの近況を話してしまいました。ひとりしゃべりになって、すこし反省。でも、ぼくにとっては、何んでも話せる、そんな魅力のあるお方のひとりなんです。それに、ぼくたち夫婦には、大恩のある御仁でもあるわけです。すぐ、忘れてしまいますが、、。

 ご法座は、以前、報恩講でお話をした、「いのちを喰らう」というテーマでした。森達也著の『いのち食べ方』などを参照にして、具体的に殺生をするという中身をお伝えしてみました。皆さん、とても真剣に聞いてくださって、すすり泣く声もありました。また、この件は、項をあらためることにします。

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今日の法話のテーマは? 

 昨日、 華光誌の校正が来た。校正はみればみるほど細かな点が気になるが、今朝、表紙関係とチャックと合せて、印刷所に回った。これで校了。ちょっと、10月1日発行とはいかずに、4、5日遅れで、体育の日の連休前になりそう。問題は、そこに、2泊3日の仏青大会が入っているで、発送が、仏青大会の前になるか、後になるかで、また3日間違ってくるが、10月10日前後にはお手許に届くことになるでしょう。

 これから、近鉄に乗って、奈良河合町の教行寺への布教。昼と、夜の二席あるので、昼席は、今回の華光誌の誌上法話をもとにした、どちらかというと無常観を中心にしたテーマ。夜席は、「いのちを喰らう」を基にして、罪悪観を考えている。共に、「いのち」がテーマになりそうですね。自分のいのちに執着していくと、他の生きたいと願ういのちを奪うしかないわけです。迷いとは、まさに無慈悲なありよう、生き方しかできない私そのものです。しかも、それを当然の顔をして、恥ずかしいととも、罪悪ともなんとも思わない、無明そのものでもあるわけです。

 だから、不思議なんです。無慙無愧のこの身から、「南無阿弥陀仏」が出てくださることが、なんとも不思議。南無阿弥陀仏とは、無量のいのち、慈悲の塊と、無量の光り、智慧の塊そのものでしょう。智慧と慈悲が、自利と利他が円満した悟りのいのちそのもの。迷いと悟り、遇うはずのないものが出遇う。当然、真実よって、無慈悲な我が身、無知のわが身がますます照らされるというのに、そこが有り難いのですから、これもまた不思議です。

 さて、行ってきます。それしても、K先生に合うの久しぶりですね。も、も、もしかして、昨年、お寺でお世話になって以来? それなら一年ぶり? まさか、そんなことはないだろうと思いつつ、そのようですね。ということは、華光会館には、もっとご無沙汰ということになります。先生には、華光会館でも、いろいろとご教示いただきたいです。よろしくお願いしますね。

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町内会リクーレション

 ごの3連休は、運動会は欠席したが、輪読法座、日曜礼拝と、町内会のリクーレション(バス旅行)があった。宿泊行事はなかったが、けっこう忙しい。

 町内会には、地蔵盆、バス旅行、学区(京都市内独自の半公共の区割り)体育祭の、三つが行事である。町内の役員をやっている関係もあって、2年続けて家族で参加した。もっとも、今年は会長でないので、気楽に一参加者として。名神から1号線、滋賀県甲賀から三重県伊賀へと向かう。モクモクフォームという食農をテーマにした農園。連休中ということもあり、家族連れも団体で、ずいぶん賑わっていた。

 Img_1297食事や買い物を楽しんだ。地ビールに、農場でつくれらた野菜や乳製品、ハムなどが美味しくかった。ミニブタのショーをみたり、人工的な疑似(?)自然の中で、動物と触れ合ったり、ザリガニをつかまえたり、少しだけイカダに乗ったりと、子供たちは大喜びだった。車があると、案外、京都からも近いので、うまくいくと日曜礼拝の遠足でも利用できるかもしれない。子供の笑顔を、たくさんデジカメに納めて、満足するという、いつもながらの親バカぶりである。

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『街のあかり』

 夏休み間、フィンランドへ短期留学していた日礼の先生(大学生)から、イッタラ製のスプーンをお土産にもらって、しばしフィンランドの話題で盛り上がった。

 今は、映画の話題である。スウェーデンを別格に、アイスランド、フィンランド、デンマーク、ノルウェーなどの小国の映画も、たまにではあるが見ている。それどころか、『ククーシュカ』のように北極圏のラップランドのサーミ人を舞台にした映画まで、日本では上映されている。

 オール・フィンランド・ロケの『かもめ食堂』のヒットではないが、遠い日本からは、フィンランドはおとぎの国である。北極圏の幻想的な自然、豊かな森と水。福祉国家であり、先端技術立国であり、お洒落な北欧デザインのクールな国として捉えられる。

 しかし、それは表層的な遠い異国からの理想像にすぎない。豊かさの影は、この地にも落ちる。厳しい格差社会の現実、貧困があり、孤独があり、悲哀が満ちている。今夜の彼の話では、アル中や自殺率が、世界でもトップクラスという一面があるそうだ。

 さて、『街のあかり』というフィンランド映画は、そんな影の部分に生きる弱者が主人公だ。監督のアキ・カウリスマキが、自ら敗者三部作と名付けた第三作目。『10ミニッツ・オールダーズ』の短編オムニバス映画を挟んで、前作の『過去のない男』は、とてもよくできた1本だった。これはよかった。「過去のない男」は、記憶を失くしながらも、人生は後ろ向きに進んだら大変だと、けっして失った過去を詮索することなく、前向きに生きようとする男が主人公だった。それに比べると、『街のあかり』の男は、回りの豊かさを享受できずに取り残され、その自分の現実を受け入れられずに、ますます孤立していく、影のような辛い男の話だ。

 それにしても、彼の視点は、常に、忘れられたように社会の片隅に息づく人を、静かな視点で描いている。主人公は、大声で主張したり、行動したりしない。それどころか、感情を露出せさることもなく、常にセリフは控えめで、表情も変わらない。数々とおこる身に覚えのない不幸をも、甘受してというより、ただ首をすくねるだけなのだ。ヘルシンキの風景の光と影、室内セットのどこか書き割りのような平面的な空間が、対称的でもある。

 と書くと、なにか非現実的な匂いがするが、それでいて妙なリアリティーがあるのが、不思議だ。彼が、小津の映画から取って、自らの墓標に、「生まれてはきたけれど」と刻みたいと、インタビューで答えるほど、小津映画を敬愛してやまないのは有名だが、ある評論家のよると、能のような作品だという。なるほどなー。分かったような、分からんような。

Machi  要は、主人公の男は、負け犬なのである。友人も、恋人もおらず、職場でも、上司からも、仲間からも疎まれ、軽蔑される。それでいて、見栄っ張りで、身の程しらずで一攫千金を夢見ている。そんな男が、マフィアに、その性格を見透かされてうまく利用され、女にだまされ、犯罪に巻き込まれ、濡れ衣をかけられていく。それでも、やはり男は、叫ばず、言い訳せず、感情も現さない。最後の最後まで、雑巾のようにボロボロに捨てられていく。

 ところが、そんな負け犬を静かに見守り、ラストの一瞬に、灯る一隅のあかり。

 美しかった。

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9月の日曜礼拝

今日は、日曜礼拝。午後からですが、午前中は、ゆうこを中心に、先生方の検討中。といっても、なんでも話せる雰囲気の中でのミニ座談会も含んで、新しい先生方の育成にも力を入れている。

 午後から、本番の日曜礼拝。今日が運動会のところもあって、子供の数はとても少なかった。大人も、昨日の顔ぶれを中心に、先生方も合せて17、8名。ちょっと寂しいけれど、少し珍しいお顔もありました。

 法話は、MANU.さんが、「後生」というテーマで。低学年の子供たちに伝えるのは難しいですよね。そこを、さまざまに工夫しながら、なんとかという姿勢がありあり。消えてなくなるものと、けっしてなくならないものがある。それを、本を隠す、袋に入れる、チョコを食べる、人を殴るなどの行為を、実際にみせて、たとえ行いは消えても、またはその結果は目に見えなくなっても、その行なったという結果だけは種子となって残るということを、なんとかお伝えしようという、さまざまに工夫してくださった。その姿勢が、なんとも尊い。なにも、子供だから難しいんじゃないよな。よくぞ、この難中之難の教えを、よく聞かせて頂く身になったことが、また有り難い。

 子供が少ない分、先生も足りていたので、分級座談会に出席しないで、事務作業。今月が決算月なので、担当の子供大会や東京講演会の会計を行なった。ここにも、皆様方のおかげがある。華光は、けっして裕福ではないけれど、次世代、また次々世代のご仏法を担う、若く人達や新しい人達を育っていくために、皆様のご厚情をいただている。有り難いことである。

 日礼が終わるころから、急な土砂降りとなった。

 空気がかわり、ちょっと涼しくなる。

 夜は、一緒に季節外れの鍋物を食べて、若い先生方をもてなした。まだ、隣の部屋で賑やかな声が聞こえています。でも、もうお開き。明日は、町内会のパス遠足ですね。

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腹底

 もうお彼岸の中日だというのにアツイ(~Q~;)。日中は、真夏の太陽が照りつけて、猛暑日並。京都市の小学校は、今日が運動会のところが多い。上の子も、連日の猛暑の中でのリハーサルで、「熱中症になりそう」とフラフラしながら頑張っていたが、体力を消耗したのか、昨夜から高熱にうなされて、本番でダウン。楽しみにしていたのに、欠席した。寂しいような、この暑さに、ちょっとホッとしたような、そんな気分。

 でも、おかげで、朝イチで、華光誌の初校を印刷所に渡し、華光誌輪読法座には、頭から出席できた。

 誌上法話「濁悪邪見の衆生」の3回目。3時間半で、最後の3項目を読むだけなのに、「ダイパダッタと同じ」の項目だけで、次々とお味わいが出されて、最後はあわてて読み終えた。8名と人数は寂しかったけれど、内容は充実していた。

 この短い1章の中に、「腹底はどうか。シラーッとしている」「逆謗の死骸の私の腹底に」「私の腹底に飛び込んでくださった仏様」と、「腹底」という言葉が、何度も出て来る。この「腹底」ということをめぐって、いろいろと皆さんで味わった。

 実は、ぼく自身も、東京公開公演会の交流会でのやりとりで、ハッと思わされたのが、この言葉である。

 そうなんだよね。交流会で、けっこう、理屈や自力一杯で、「どうすれば、どうすれば」との声がでてきたけれど、もう理屈で聞いても意味はないよ。

 わが腹底の心を凝視しよう。自分のかわいいの塊、自分さえよかったらの塊じゃないか。

 だから、そこにはなんでもある。人も殺す、強盗も、強姦もする。親だって、先生だって、仏様だってバカにし、邪魔者にする。口に出すか、出さんか、行動にするか、せんかの違いだけで、なんでもありだ。どんな有り難いことを並べても、スワ、一大事になると、何が出て来るかわからないじゃないか。

 その上、どんな懇切なご教示にあっても、この腹底は、仏とも、法ともなく、シラッーとしているではないか。

  正確のやりとりではないが、ある方が、「こころの底から念仏を称える」ことが難しい旨の発言を受けて、悟朗先生が言われた。「ほんとうに腹底から念仏したことがあるのか?」と。

 そうなのである。ここでも、わが無明の心で分別している。自分で称えているから自力とか、無意識でフッと出るからとか、有り難い念仏だから他力などと計らっていく。「腹底から念仏?、ただ大声で称えるだけなら自力でしょう」と、端から決めつけていくこころ。ほんと、迷ってきたんだよなー。長い、長い間、このこころひとつで迷ってきてるよね。

 でも、仏様は、その泥凡夫の私の腹底を見抜ききって、命懸けで飛び込んできてくださっているのだ。番頭の心、理屈で聞いていても、絶対に出遇うはずなんかはない。この腹底に飛び込んでくださったご本願に出遇ったら、もう理屈なんか吹っ飛ぶ世界があるようね。ほんとう、ここは有り難いところですね。

 さてさて、明日は、「日曜礼拝」久しぶりにMANU.さんのご法話をお聞き出来る。楽しみだなー。

日時:23日(日)午後1時30分~5時

会場:華光会館

申込みや参加費などは入りません。法話のあと、大人は分級座談会。子供たちも、分級座談会のあと、ゲームなどがあります。ぜひ、どうぞ

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理解しようと願う態度

真宗カウンセリング研究会の月例会があった。

 人間関係論の「援助的関係の特徴」というロージャズ論文を輪読している。

 何分、古い論文で、いまから50年以上前のもの。当時のいろいろ客観的な研究結果が添えてあるのが、どうもこれが、今日の資料の扱い方、引用の仕方、データの取り方などが、自説の都合のよいように、恣意的に取り上げられていて、逆に客観性や科学的証明という観点からは逆効果の気がするという声が相次いだ。まあ、この部分においては、皆さんの指摘もそのとおりでしょうね。

 でも、彼の主張の意図は明確である。

1)セラピストがいかなる理論的立場に立つのかということが重要ではなく、セラピストの態度や感情が重要なのだということ。

2)セラピストの方法や技術は、態度に比べると重要性が少ないということである。

3)またクライエントに変化が起こるのは、このセラピストの態度や方法がどのように知覚されるかということによっており、このクライエントの知覚こそ決定的なものである。

という3点であった。このセラビストをカウンセラーと置き換えてもいいだろう。つまり、いくら態度が重要だといっても、それが相手に伝わってることが、ポイントということになる。

もう一つ、相手に伝わるのは、理解しようと願っている態度だという点もあった。ここにも、誠実に聞く、温かく聞くという態度が横たわっている。今となっては、ごく当たり前のことのようだけれども、あらためて、光りが当たり明確になったと思った。M先生がおっしゃったが「『理解しようと願う態度』という『願う』というところで救われるなー」と。

アメリカは朝鮮戦争が終わり、空前の好景気に湧いていた。音楽も、20世紀のアメリカを象徴するモダンジャズの最盛期である。ビ・バップから、ハード・バップ、そしてモードジャズへ移行し、加速度的に発達した時期と重なる。ぼくのもっているLPやCDのうち、たぶん1000枚程度はこの時代のものだろう。(正確に数えたわけではないが)

確かに、古い。でも、ホンモノは時代を超えて、今も新鮮な響きをもっているのも、事実なのだ。

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ジグソーパズルのように

 昨日、今日と、東京公開講演法座の感想が、早くも届けられている。なかなかあついメッセージも多い。ぼくも、書きたいことがあるけれど、正直、時間が足りなかった。

 今日は、華光会の決算日。ほんとうは月末だが、会計処理の都合で、毎年9月20日を〆切としている。あわせて、東京法座の決算も大急ぎで締め切ったので、支払いやら振込で、かなりバタバタした。

 同時に、たぶん明日渡し予定の、華光誌の表紙関係の作業をした。表紙と、巻頭言、後記、そして裏表紙の行事案内は、版下まで作って渡している。これは、ぼくのところではだいたい完成した。明日の午後には、本文の初校が来ているというのが、ぼくの段取りだ。

 そんな中、7月の広島のDPA学習会  (http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/dpa3_b9f4.html) でお世話になった、Iさんが、わざわざ時間を作って、華光会館に初めて寄ってくださった。もともと大学院の信楽先生の門下生同士であるが、これも西光先生の真宗カウンセリングのおかげである。東京の集いにしてもそうだが、確実に、これまでバラバラだったジグソーパズルが、あっちこちらでつながりだして、バラバラのピースが少しまとまりだすと、そのまとまり同士が、さらに大きな塊になることを、肌で感じている。もちろん、まだまだほんの小さな面にすぎない。しかし、これはかなり楽しみなことになってきたとワクワクしている。仏青やDPAの若い人達の動きも合せて、今後の実践的な浄土真宗の柱になる可能性はかなり高いと、彼と話をしながら刺激もいただいた。

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東京公開講演会法座(1)~御礼~

 3日間の東京公開講演会法座、盛会のうちに終了いたしました。準備段階のことを考えると、無事、成功裡に終わり、ホッと気が抜けたというのか、エネルギーを放出して疲れたというのが、今の率直な感じです。

 味わいや感想云々の前に、皆さんに御礼申し上げたいです。

 ほんとうに皆さんにお世話になりました。 

 お世話の方だけてなく、ご参加くださった方、温かく見守ってくださった皆様、すべて「仏法ひろまれ」と願う、皆様のおかげです。ありがとうございました。南無阿弥陀仏。

 東京や関東圏の方はもちろん、九州の福岡や熊本、四国からも、広島からも参加がありました。京都、大阪、奈良、和歌山、滋賀、兵庫、愛知、富山、岐阜、静岡と近畿、東海の皆さんも、大勢ご参加くださいました。それも、若い仏青の方が、フットワーク軽く、仏青大会並に参加くださっり、活気がでて、とてもよかったです。

 なかでも兵庫県日高支部の、50年前を知る重鎮が、老体に鞭打って、遠路お出かけくださったことも、すごかった。彼女たちの、座談や食事中の称名念仏の声は、理屈を超えて有り難かった。

 改めて、ご法話くださった先生方、たびたび会議や連絡、さまざま準備をしてくださった本部の世話役の皆さん、そして支部長さんを先頭にお世話くださった東京支部の皆さん、出席くださった同人の皆さん、さらにいうなら、参加は無理でも、いろいろとご心配やら、お心遣いくださった方も、予想超えてたくさんおられました。おかげで、経済的にも困らずにすみました。会場もいろいろたいへんでしたが、狭い部屋での、文字通り膝突き合わせての分級座談、小さな風呂も、外食もまた一興。居酒屋でのパーティーも、短い時間でしたが、賑やかでした。

 最終日、会計のことで大広間に戻ると、下では悟朗先生のご法話が始まっているにもかかわらず、書籍係が黙々と本の整理をしてくださっていました。なにも目立つ大きな役割の方だけでなくても、それぞれの皆さんが頼まれた役割をしっかりまっとうしてくださり、その同人方の力が結集して、ご法座が持たれていることを改めて感じました。それは、今回だけでなく、日頃の華光の法座でも同じことですね。まさに、縁の下に、目の届かないご恩徳があります。とくに今回は、法座前の事前準備の段階から、京都の本部の皆さん、また東京の有志の方々の目に見えないお世話のたまものです。

 子供二人を、二人の母にお願いして夫婦で遠征しましたが、参加者のお留守番の方もおられ、その外護の善知識のおかげで、憂いることなく安心して、ご法座に臨めたわけですから、そんな有り難いことも当たり前にしていては、勿体ないですね。

 こんな一つ一つの当たり前の、でも尊い積み重ねが、遺弟の念力となり、仏法は静かに弘まるのでしょうね。その集大成が、今回の集いだったと思います。

 公開法座が終わり、最後の〆の挨拶は、蓮如上人の言葉で終えました。

「一宗の繁昌と申すは、人の多く集まり、威の大きなることにてはなく候。一人なりとも、人の信を取るが、一宗の繁昌に候。しかれば、『専修正行の繁昌は、遺弟の念力より成ず』と、あそばされおかれ候。」(122条) 

まさに、これが仏教がめざすもの、華光がめざすものなのです。   

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始まります

 いよいよ出発です。ドキドキと、胸が高鳴りますね。

 すでに、早朝からゆうこや事務方は出発。まなもく到着のことでしょう。

 ぼくは、京都組などを引率して、これから東京に向かいます。

 さあ、ぼくもしっかりと聞かせてもらってきます。楽しみです。

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いよいよ「東京公開講演会法座」

  華光誌も渡しました。早くも、出発している人もある「東京公開講演法座」。たくさんの荷物を積んで、MANUさんが先発してくださっています。

 華光の法座でこれだけの準備をしたのは、ほんとうに久しぶりですね。もしかすると、これまででいちばん頑張ったかもしれません。子供大会と、聞法旅行が合体したぐらいの感じがするなー。

 今回は、初日も、3日目も、華光大会のように、法話や分級座談がありますが、なんといっても、メーンは、2日目の講演会。 

 講演会の個別のテーマや内容もよく相談しました。中身は、いつも話ていることと同じですが、なるべく広く聞いていただきたいと、ポイントを絞ろうと思います。内容も大切だけれども、態度とか、そこから滲み出るものが何か感じてもらえたらいいですね。

「仏教のめざすもの」をメーンテーマに

 まず、仏教アニメ(これがよくできています)「ほとけさまのプレゼント」20分弱。

 そのあと、「生死を超える教え」と題して、ぼくが講演。

 休憩をはさみ、悟朗先生が「浄土真宗の真髄」と題して。

 あと、4名の先生方が登壇して、フロアーとの質疑応答や交流を行ないます。当初は、対談でしたが、相談の結果、皆さんとの交流が華光らしいだろうということになりました。

 1時~5時まで。そのあと1時間は、その場で、自由に懇談や親睦の時間となります。

 ところで、今回の講演の模様は、プロのカメラマンにお願いして、DVDに編集作製してもらいます。不参加の方も、また当日の様子をご覧いただけることでしょう。

 そして、びっくりしたことに、文化講演会のチャンネルを持っている有線放送(契約者のみのラジオです)の方から声がかかって(まったくこちから売り込んでないのに、びっくりした)、2時間のプログラムとして放送してもらえる話があります。内容を聞いて、びっくりされるかもしれんがね。まあ、これはなるようになる話。

 ぼくも、髪も短くしてスッキリ。準備は、バッチリとはいえませんが、まあ余裕をもってユックリ休みましょう。

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『ナヴァラサ』

 8月末のことだけれど、久しぶりにインド映画を観た。

 ご承知のように、娯楽が少ないインドでは、映画は庶民の最大の楽しみで、ダントツで世界一製作数を誇る、映画大国である。

 という説明も、いささか様子が変わってきた。いまやインドは、世界有数のIT大国であり、映画を取り巻く環境にも変化が起こっているようだ。

 ぼくも、一度、そのインドで映画館に入ったことがある。まだ日本に、「踊るマハラジャ」などのインド映画ブームがくるかなり以前の話だ。ムンバイが、まだボイベイと呼ばれていたころ、アメリカのハリウッドに対抗して、「ボリウッド」とも言われていた時代。25年も前のことになる。

 夜、ホテルからリキシャに乗って、繁華街の映画館に行った。何分、昔のことなので、どうやって切符の買ったのやら、入場料はどうだったのか、詳しい記憶はまったくない。ただ、満員の劇場の独特の雰囲気に、恐る恐る緊張しつつ、少し興奮していたことは覚えている。もちろん、言葉なんて分からない。でも、そんなことはおかまいなしだ。だって、それが、インド映画なのだから。勧善懲悪、原色の映像、歌と、踊り。ヒゲづらの、ちょっとデブとした典型的インド映画のヒーローと、サリー姿も麗しいヒロインが、悪に立ち向かうアクションに、カーチャスイに、恋愛と、なんでもあれの娯楽作。もちろん、ラブシーン(キスシーンですら)御法度のお国柄。それらしき場面になると、ミュージカルにかわるのだ。とにかく明るい画面いっぱいに歌い、歌い、踊り、踊るのである。だから、言葉なんかわからなくても、充分、楽しい、娯楽作品なのだ。

 でも、上記に記したように、そのインド映画も変化している。娯楽一色から、芸術系のもの、社会派ものが評価されるようになって、日本でもボチボチ公開されているが、まだかなり少数派のようだ。

 その中では、本作『ナヴァラサ』は、エンターテーメントの娯楽性もあり、突然、ミュージカルになる。歌い、踊ったりもする。インド独特のセリフ回しや、しぐさがはいったりする。余談だけれど、サリー姿のお母さんの話し方、いま呼吸法を習っている南インドの女性によく似ているので、驚いた。なにも、容姿が似ているのではない。だれも、その地に生まれ、その言語や文化にふれ、知らず知らずに、ノンバーバールな部分に色濃い影響を受けている、抗しきれない、身に沁みている無意識の部分のしぐさ、態度、匂い、ふるまいがある。その意味では、どれだけ日本人が英語を勉強しても、ネィティブにはなれないのであろう。ちょっと余談。そうそう、これは、南インドのお話ということが言いたかった。

Nava  トランスジェンダーのお話。インド映画らしいドラマで始まるのだけれど、それが、後半のロードムービィになってから、俄然、趣向が代わる。男性であることに違和感を覚える女装する叔父さんを救うべく、旅にでた少女。ちょうど少女から女性へとかわりつつある彼女の目を通して、インド最大のゲイフェスティバル(文化的背景は本作の公式HPを見てね)を、ぼくたちも共に見学することになる。ドラマが、急にリアルなドキュメンタリーになる。ほんもの元男性が次々現れて、社会の偏見や差別の実体を、強烈に訴えだす。みんな、ほんものが登場するのだけれど、なかでも、「ミス」に選ばれた、すごーい強烈な、おねいキャラの元男性が、いい味を出している。

 この感じはうまく表現できないけど、どんなオカルトも、パニック映画も、たとえば日本映画なら、フレームという予定調和の世界の中での出来事。なにか安定しているんです。でも、この国の映画は少し違う。画面をはみ出すような危うさというのか、そんなムードを感じずるので、どこかドキドキしながら見ておりました。たぶん、ぼくだけの感覚だろうけどなー。

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華光誌原稿出来ました

 66巻4号の華光誌の本文の原稿に赤字入れ作業が、たったいま終わりました。どうにか、明日の朝、印刷所に渡せそうですね。発行が、1週間ほど遅れそうですが、なんとか、東京にも、無事に出発できそうかなー。

 華光誌が創刊されて、66年間過ぎたわけです。ぼくが、編集に携わり、版下を作り出したのが、創刊50周年を記念した年で、ちょうど16年間が経過したことになります。お手伝いを含めると、もう少し前で、本格的に関わたのが大学生の時なので、25、6年になるわけですが、それでも、歴史の半分にも満たないわけです。

 そして、華光会館が完成し、華光会が誕生して、まもなく50年の節目です。

 濁悪末代の世にあって、念仏の教えが連続無窮のお働きによって、いま、ここに届き、それが、華光という形で、時代の要請や変化にも常に開きながら、発展し続けているわけです。

 重みと同時に、不思議を感じずにはおれません。

 ちょっと身震いしてきますね。

 明日は、東京法座のプログラムや会計の準備と、講演会の教案づくり。だいたいの骨子は、相談していますが、教案をつくらないと、時間厳守なのですね。

 プロによる録画もあるので、スッキリきれいな頭にして(中身まではかわらんけど)、パッチリ臨みたいですね。

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ピンチ(?)

 華光誌の編集作業が大詰め。印刷所への渡し予定が遅れているので、なんとか明日、木曜日の午後いちばんと約束した。しかし、無理なようだ。夕方、変更の電話を入れて、金曜日の午前の変更した。これはこれで、ちょっとホッとしたような、東京はピンチになるような、複雑な決断だ。

 昨日は、東京公開講演会の講演テーマについて、伝道研究会で2度目の打ち合わせをした。明日も、最終の打ち合わせがあるが、ぼくは華光誌を主にすることにした。

 おかげで、2つの作業を平行しながら交流させることで、これまでの華光の歴史と、これからの歩みが、ぼくの中ではかなり総括されてきている。まさに、節目のイベントになりそうである。いろいろと味わうこともあるけれど、ちょっと今夜はご勘弁を。

 さあ、もう一頑張り。

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ぼくの自力整体・整食・整心法

 自力整体・整食・整心法を始めて、5年半が経過した。

 ぼくは、意外に思われるが、からだが柔らかい。しかし、それでも左右のバランスが違っている。その微妙な違いに敏感になってきた。だいたい、右側がよく使うのか凝っているけれど、全体は歪みのバランスをとるので、左側の首から肩甲骨あたりが凝りやすくなる。上半身に力みがあるからだ。また、疲れてくると、胸が閉じてくる。からだのひねり易い方向、足の組み易い方向、あぐらにしても、いつもとちがう足を上にすると落ち着きが悪い。階段を登るときでも、どちらから出すかは決まっている。それを、なんの意識もせず、何十年も間つづけると、からだが歪んで来るのも当然。からだの中心が歪むと、末端にむけてあちこと歪む。それが顔の左右対称でなくなって歪んでみえる場合もある。当然、こころにも影響がでてくるだろう。なにごとも、中道がいいようだけれども、これはなかなか難しい。

 ということは、朝食抜きをしてからも、5年半経ったわけだ。

 それまでの40年間の人生。毎朝、朝食をとっていた。どんなに食欲がなくても、また遅く起きたときでも、パンと、牛乳と、果物程度は口に入れていた。今日の絶対的な常識、「朝食べることが1日の活力、健康のためだ」と信じきっていたからである。さらに、パランスよく、30品目食べることも心がけてきた。炭水化物だけでも、また肉などのタンパク質だけでも、ダメだと、野菜や果物でビタミンを、カルシウムもとって、不足はサプリメントを取ってと……神経を使ってきた。

 だって、それを怠ると体調を崩すと信じきていたのもなー。ほんと強力な自己暗示をかけていたのでしょうね。科学的データという情報を、なんの疑いもなく信じきて、そういう方向で自分をもっていくから、自分のからだを信じるより、まずは頭(気持ちから)からだを壊していたのかもしれない。寝起きで、まだからだが起きていないのに、かなり無理して食べることもあったもの。自分のからだの声を聞かずに、情報だけを盲信していたのだ。

Img_0268  それがいまや、朝は、水か、梅醤番茶だけ。昼食は、玄米オニギリ2個と、味噌汁、納豆が定番。(お昼は、右のサムネイルが平均的ですね)。夕食も、かなり薄味で、野菜を中心にいただく。獣肉よりもほとんど魚ばかりだ。別に、頑固に決めているのわけではないので、外食も好きだし、そんなときは、喜んでお肉をいただくことにしている。庄松さんではないが、「殺生はうまいなー」である。とはいっても、明らかに生臭いものが苦手になっている。そうそう、晩酌も欠かさずしている。タバコは昔からまったく吸わない。

 ただ、朝だけは、自宅にいるかぎりはまったく食べない。その方が、ズッーと体調がいいからである。体調面だけでなく、精神面で、イライラしたり、クヨクヨしたりすることが、断然少なくなった気がする。ひとつは肉食が減ったり、薄味になったからではないかと思っているが…。もちろん、悲しいかなー。本質のところでの自分かわいいの心は、あいかわらず不気味な光りを放ち、ますます健在ではあるが、、。

 なによりも、スマートになった。それも急激でなく、自然のなり抜きで、いまは二十歳のころの体重になっている。最大16キロの減量だ。ところが、ちょっと痩せすぎて、皆さんにご心配をかけている。「どこか悪いんじゃなんですか」と、よく尋ねられたものだ。いま、もう少し体重があっていいかなーと思っているが、これは自然と落ち着くところに落ち着くそうである。いまは、プラスになってきて、51~2キロ程度。もう2、3キロあってもいい。

 尾籠な話題で恐縮でだが、当初、朝抜きでいちばん心配したのは、朝食後の排泄だった。でも、これは、なんのことはない。しつければ、朝の決まった時間に、確実にある。昼食後も、反射的にあるので、なかなかこの点は調子よく、毎日、規則正しく、便秘に苦しむことはない。 

 教室で、自分の足の指を、爪先から付け根までのツボを刺激する。ほんの短い距離だが、日頃当たり前になりすぎて忘れているが、ここにも確かに、頂いたいいのちの息吹がある。一本、一本のおかげで、からだが支えられている。勿体ないなー。さまざまなおかげを頂いた、このからだ。せいぜい大切に使わせていただこうと思うようになるから、なんとも不思議である。

 

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保育園の運動会

Img_1118   今日は、朝から、ナナの保育園の運動会だった。

 9月、10月は、運動会や親子遠足やらと、子供の行事が、けっこう忙しい。これもあと、5、6年の間のことである。案外、ご法座がなかったり、午後からだったりで、一部でも出席が出来ている。

 昨年とは大違いで、遊戯Img_1137も、走りも、運動も、見違えるようで、ビックリした。この前まで赤ちゃんで、なかなか大きくならないなーと言っていたが、もう来月で4歳になる。 子供の成長はすごいね。

 ぼくも、保護者のゆーるい玉入れに参加した程度だが、曇りがちで、多少は楽だったとはいえ、この時期に、日除けのない野外で、3時間以上過ごすと、大人の方が疲れてくる。うっすら日焼けしていた。

 昼食を食べたあと、30分ほどグッスリ昼寝をしたら、シャッキとした。午後からの聖典講座は欠席して、華光誌に取りかかる。40ペーン分が、テープなどのウメぐさを除いて、一応、姿を現してきた。この調子なら、木曜日ぐらいには渡せそうである。

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ポスターとチラシ配布

 東京公開講演会のために、東京支部の有志の皆さんが、ポスターや、チラシ配りに励んでくださっている。その報告を受けて、いたく感銘を受けた。と同時に、これまでぼくの考え方を恥じる思いがした。

 それで、皆さんに触発されて、ぼくも、プチ行動することにした。お店へのポスター貼りと、チラシ配りをやってみた。連れ合いは、法蔵館、百華園、芝川骸骨堂、龍大周辺などの、華光にゆかりのある本屋や仏具屋などを回ったところ、どこもやこころよくポスターを張ってくださったようだ。

 ぼくは、違う路線から責めることにした。自力整体の教室の皆さんには、チラシを直接、お渡しすることにした。各地で、例によって「エー、お坊さんなんですか」と驚かれたり、「ヘエ、そんな先生なんですか」と言われたりもしたが、そのことで、一口お話することができた。また、本願寺関係者がけっこうおおい(本山所有の土地にあるそうな)へアーサロンでは、「講演会の前日に髪切りに来る?」と、応援してもらった。きっとそうするだろう。

 あとは、京都駅周辺にあるカフェや映画館。ちょっと場違いと感じたけれど、意外や意外、あっさりと協力してくださったので、こちらがびっくりした。どうも特別意識の固定観念は、ぼくの方だった。八条口のコーダル・オンと、東本願前のティ・コンセブションは、ポスターを貼ってもらえた。映画館では、東寺前の京都みなみ会館と、烏丸四条の京都シネマが、チラシを置いてくださった。その場、その場で、デザインのこと、華光会のこと、ぼくのことなどもチラチラとお話できたのも、うれしい。ただ、ぼく自身のことなので、ちょっと照れくさくもあったが、、。

 今回のことで、正直、ぼく自身にはいろいろ思いがあった。どこかで抵抗する気持ちがないではない。たが、仏教の正統を自負し、「人集めをが目的ではない」「新興宗教ではない」などと格好をつけているが、どこかで、地道に努力されている新興宗教の皆さんを、軽蔑する気持ちがないわけではないと思わされた。

 確かに、「法は自然(じねん)の理だから」と思っているが、あまりにそれを金科玉條に正当化して、浄土真宗全体の生命だった、庶民の泥臭さとか、混沌としたエネルギーが消え去っているのも、事実である。一言でいうと、活気、熱がないのである。教義も、伝道方法も、法悦も、すべてに渡って超優等生になっている。だから、一般の方にとって、危険度、怪しさがない分、単なる葬式や先祖供養と、感謝の教えにすぎない面もあるのではないか。また、歴史や伝統がある分、頭が高いのである。

 かといって、同じことを皆さんにお願いするつもりはまったくない。華光が、路線を変更することもないだろう。同時に行動してみて、これが宿善になるとか、ご恩報謝とか、巧みに強制されて行うことでもないことが、よくよくわかった。ここは、同人各自に温度差があってもいい。やった人も、やらなっかた人も、我がものとして共に法座に参加されたらいい。それぞれが、各々その力量に合せて出来ることをやらさせてもらい、聞法させてもらうだけである。

Img_0059 当たり前のことだが、頭を下げてお願いして回る。ぼくの中からは起こってこないものだ。これもまた、少しでも、有縁の方がうまれ、「仏法弘まれ」の思いから出ていることが、ぼくには尊いのである。

 

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9月の法座の追加

 事務所は、東京講演会の準備で、一丸となって頑張ってくれている。ぼくも、ゆうこも、京都なので直接の効果はないけれど、本山や龍大、京都駅周辺でのポスター貼りや、チラシ配りをしている。このことは、またアップするつもりだ。

 ただ、ぼくだけは、主に華光誌に取り組んでいる。遅れているからだ。いろいろあったが、削ったり、時に増えしたり、次号に回したりすることで、なんとか40頁建てで臨ことにした。今日は、ちょっとだけ本気(?)にやったら、一気に進んだ。なぜ、いつも、こんな調子でやれないのかと思うけれど、まあ、それは致し方ない。9月は、決算月ということもあり、いつもあわただしい。10月号は、少し遅れて、7日ごろの発送になるだろう。

 ところで、昨年の9月もそうだったが、奈良の教行寺の孤杉先生のお寺にお招きいただくことが決まった。ここは、いつもギリギリに決まるので、法座案内に掲載されていない。檀家さん中心で、その方向けの法話が中心で、座談会はない。でも、華光同人の方もおられるので、もしお近くの方は、お参りください。でも、お寺は、ちょっと不便なところにありますが、。

 日時:9月26日(水) 昼2時、夜7時の二座

 場所:教行寺 (奈良県河合町佐味田) 

 鉄池部駅が最寄り。そこからタクシーが便利)

 今日決まったので、まだ法座案内にUPされていないが、詳しくは、後日のHPの法座案内で。

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仏法ひろまれ

 今回の九州支部である未信の方が質問された。

 「未信の私が、仏法を求める(獲信したいから)はわかるけれど、獲信された方は、どんなお気持ちで聞法されているのですか」と。

 それに対して、いろいろな意見が出された。

 「ただ、凡夫の仕事をするだけだ。あいかわらず、真っ黒な自分を聞かせてもらう」とか、「聞く耳をもらったのだから、そこからがほんとうの聞法が始まる」とか、「聞いても、聞いても、お慈悲は聞き足らん」とか、中には、「そんな質問は聞いてからなさい。いまは、まず、ご自身が信を獲ることです」という厳しい指摘もあった。

 いろいろな皆さんのお答えに、「そうだな」と、うなづいたり、「堕地獄の一大事」と「往生の一大事」とも答えられるなー、と思いながら聞いていた。では、わが身にそれを問うてみたら、次のように答えている自分があった。

 「ぼくは、いまさら大金持ちにも、セレブにもなりたくない(いや、なれないというのが正解だけど)、第一、そんな生き方をするつもりは毛頭ない。それでも、将来、困らんぐらいの小金持ちにはなりたいという欲望は持っているし、名聞や勝他のこころもいっこうになくなる気配はない。

 でも、そんな身が、一見、なんの利潤にもならんような、またなんのゆかりもない方を相手に、ぜひとも、この念仏の教えを聞きぬいてもらいたいと願って止まないのです。相手が、難物であればあるほど、どうしたら聞いてもらえるかの思いだけなのです。ただ、それは阿弥陀様のやるせないお心に貫かれ、この深い、深いご本願を、手を取り合って喜ぶ身になってほしいだけです。いまなら、質問されたあなたにこそ、どうしたら、この極難信の教えが届くのか考えています。

 だから、そのこころは、ぼくのこころでありながら、法蔵菩薩様の願心に動かされているとしかいいようがないのです。なぜなら、欲まみれ、怒りのこころで毒をまき散らすわが身のどこを探しても、そんな殊勝なこころはないのだからね。

 確かに、わが身の姿を観ればまったく正反対で恥じいるばかりなのに、そんな身が、『仏法ひろまれ』の一心で、ご法座で聴聞させてもらい、お伝えさせてもらっていくのです」

と、お答えしていた。

 ほんとうに、そう答えさせてもらえる身になったことが、不思議で、勿体ないことではないかなー。

 静かにお念仏させてもらって、九州のご法座は終了した。南無阿弥陀仏。

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言葉の肌触り

 今回、九州法座の座談会のとき、それぞれの方の言葉を聞いているのだけれど、その言葉に付随している感情に加えて、その奥行きにある「響き」というか、その「質感」というか、「手触り」「肌触り」のようなものを感じながら聞いていると思った。どうも、その相手から発せられた言葉を、自分にも響かせて、そこで感じられる何かを大事にしながら聞いているのである。

 だから、同じ言葉であっても、時に、正反対のことを述べているように感じられることもある。また、深みのある言葉にもなり、また口先だけの軽い言葉になったりする。でも、そう感じるのは、あくまでこちらの感じなのだから、それを相手にフィード・バックして確認していく作業を行うと、より丁寧なかかわりができるのだろう。

 このあたりは、いくらネットで世界が狭まり、メールで超便利になったとはいえ、ぼくには、直接、顔を見合せ、互いが膝を交えて、その空気を共有しあいながら、聞きあい、伝えあう、出会いのコミニケーションに代えることはできない世界なのである。それほど、人間関係は、誤解を招きかねないデリケートな問題なのだ。えてして、便利なツールであればあるほど、落とし穴が巧みになって大怪我をしてしまうのだ。

 なにしろ、ぼくたちのこころは、ころころと移ろいやすい。言葉にした瞬間に、すでに、その言葉にするという行為の影響をモロに受けて、その気持ちが移ろいでいくのだ。そう、相手の聴く小さな態度に、その返って来た言葉のひとつに、動搖し、変化していくこともある。人のこころとはかくも敏感であり、また同時にもろいものなのだ。その故、時には、生きていくために、こころを閉ざし黙ることも、言葉で飾ることも、またそれを武器にすることもある。そうしながら、絶妙に微妙なバランスを保って、生きているのかもしれない。

 最近読んだ、リリー・フランキーの小説の一節の次の言葉どおりである。

 「人の気持ちは一秒ごとに変化する。ふともらした拍子にうつろう。強く決心したことも、時には揺らいだり、翻ったり、元に戻ったり、そういことこを繰り返す。」

 だからこそ、丁寧に聞いたり、伝えたりすることが大切なんだ。その一瞬、一瞬の今を大切にしながら。 

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南嶽(なんがく)磨磚(ません)

 華光会のHPに、華光誌のバックナンバーを、誌上法話と、巻頭言と、聖教のこころの3つをセットにして、毎月1号ずつ掲載している。華光誌50周年を記念して、DTPを導入したことから、華光会館で自家製版するようになった。それで、入力したテキストが、ぼくの手元に残っているので、50巻2号分より掲載している。

 http://homepage3.nifty.com/keko-kai/kekousi/kekosi_back.htm

 次回が56巻1号になる。誌上法話は、孤杉英章先生の「瓦を磨く」。入力をチェックしながら、久しぶりに読み返してみた。禅宗の公案が掲載されている。ライブで聞いたときから、印象が残っていた話だ。(アップはいまチェック作業をお願いしています。いましばしお待ちください)

 南嶽懐譲(なんがくえじょう・ 初唐時代の禅僧)の、弟子の馬祖道一(ばそどういつ)は、毎日座禅ばかりをしていた。

 そこに通りかかった南嶽は、こう尋ねた。

南:「座禅をして、何を求めているのだ」

馬:「仏になろうとしているのです。」

 すると南嶽は、何を思ったのか、落ちていた磚(かわら)を拾って盛んに磨き始めた。

馬:「先生、何をなさろうとしているのですか」

南:「磚(瓦)を研いて、鏡にしようと思っておる」

馬:「磚を磨いても、鏡になるわけないじゃないですか」

南:「ならば聞く。座禅をして、仏になることができるのか」

馬:「え、同じことになるのですか」

南:「牛が引いている車が動かなくなったとき、お前は、牛を打つのか、車を打つのか」

 この言葉によって、馬祖はついに南嶽の法を嗣ぎ、天下に「江西の馬祖」の名を轟かすになったという。 

という内容である。本家での領解は知らないが、これは、まるまる真宗の求道者のことではないか。肝心の「主人」をお留守にして、「後生の一大事」「信心獲得」と、血眼になって聞法して、所詮、瓦を磨いて鏡にしようとするようなものである

 でもね、最近のお味わいでは、凡夫の欲に目がくらんだこととはいえ、よくもまあ、瓦磨きまでさせてもらえる身にならせてもらったものだなー。そのおかげで、捨てることの味、同時に転ぜられる妙を味わわせていただけたのだという方向を強く味わいます。

 このいまの世の中と同じで、あまりにも情報が多すぎると、小賢くまとまって、なるべく無駄なことはやめよう。効率や利潤をもとめて、省エネで聞法しようとする傾向が強くなってないかなー。年寄りだけでなく、子供も若いものも、妙に大人ぶって賢くみえる。だから、なにもしない前から、情報だけを手に、「どうせ凡夫なんだから」とか、「どうせ他力廻向なんだから」とか「宿善にならなんのだから」なんやかんやと、なんでもかんでも、「どうせ○○なんだから、やっても無駄」と、「ぐるぐるぐるぐる」頭だけの聞法・求道では、進んじゃいきません。結局、どんどん懈怠に流れて、身で聴くことを惜しんでいる。

 まあ、直接、この心ではないので、このあたりにして、各々、いかに答えていかれるかな? 九州の法座でも、皆さんの味わいをお尋ねしました。

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九州支部法座終わりました

 さきほど、九州支部法座から帰ってきました。

 人数はけっして多くないですが、仏青の人達が、引っ張ってくださるようになり、ちょっと様子変わってきました。それに新しい方の参加もあり、これまでの顔ぶれに加えて、少しずつでも雰囲気が動きだしました。福岡の方でも、大分寄りの方もあり、熊本に近い方もあり、ご近所の方もあり、そして遠く鹿児島、熊本、大分と集まってくださいます。尊いことです。

Img_1095  やはり法座が終わると、味わいとは別に、ホッとして、疲れがでます。今夜は、早めに休みますので、報告は明日にでも。

 福岡県の福津市の会場は、玄界灘の海水浴場が目の前。今年の暑さはどうなるかと思っていましたが、すっかり秋の気配になっていました。短い休み時間、「いまはもう秋、誰もいない海」を、ひとりで眺めていました。風が、結構つよかったけれど、心地よさを味わいました。海が好きです。

 京都駅に降り立った時に、「ムーン」とした蒸し暑さ。明日は、35度の予報で、残暑がかなり厳しいようです。ちょっと海の写真を、2、3枚。Img_1102

Img_1109 

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隣地の建設工事(3)

 4月下旬から取り壊しが始まった隣地の建設工事。シャベルカーで掘ったり、埋めたりを繰り返し、コンクリートを流し込んだりと、つい先日まで、基礎工事か続いていた。それが、8月20日をすぎて、鉄骨部分が組み立てられて、その形を現し出した。

Img_1080_2   もちろん、3ケ月間の基礎工事の間も作業は続いたのだが、塀に囲まれているので、見た目には何もないのと同じである。ところが、基礎が完成した上からは、おどろくほどの早さに思える。4、5日間のうちに、一気に形になって、迫ってきた。前の道路幅との関係で、高さに制約があるので、華光会館と同じぐらいの高さのようだ。これからまず外観が、どんどん完成に向かっていくのだろう。

[↑これは華光会館の屋上からの写真。手前の手すりは会館。そういえば、昨年のいまごろは、華光会館の改修工事が始まったところだ]

 変化がわかりずらいので、邪魔くさかったり、短縮したがるけれど、何事においても、基礎部分がしっかりしていることが大事なんだね。

 明日から、福岡の九州支部法座。

 日曜日、月曜日という形で支部法座がもたれる。ここはいつも、日、月と変則的だ。ご縁のまだ浅い方や新しい方がお参りくださっていればうれしいのだが、、。

(北側の道からは、華光会館が見えなくなります↓)Img_1088_2

Img_1089

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