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お盆参り

Ujif040 それにしても、今日も暑かった。京都は、38度近くまであがって、猛暑というより、酷暑。太陽がジリジリと照りつけた。

 今年も、お盆の担当は、宇治、伏見方面の3軒のお盆参り。伏見の御香宮から、桃山御陵と乃木神社の深い緑の道を抜け、宇治川の流れに沿いながら、宇治橋を横目に宇治市内へ。昨夜の、宇治川の花火大会の余韻が残っていた。有名な平等院も近く、観光客で混雑していた。

 お盆といっても、年忌法要なみに丁寧にお勤めする。家族の方と一緒に、ゆっくり勤行を30分。そのあと、15~20分くらいご法話をして、あと質問や雑談があるので、1軒が70、80分かかる。

 毎年、仏の子供大会直後なので、子供大会のテーマのご法話。今年は、「自分を知る」ということ。

 人間(動物も)の眼は外を見るためについていて、うち(自分)を見ることは難しい。外見ですら見えるのは一部。背中、顔、頭と、死角だらけだ。そのためには、録画や写真、鏡を使わないとわからない。しかも、そうして見た自分はどうか。自分の録画された声を嫌ったり、ビデオの自分に戸惑ったりするの場合も多い。理想的にある自画像、若いままで止まっている自画像とのギャップに、現実を否定することもある。しかし、そんな自分を受け入れることで(これすら、ありのまま受容するのは至難だ)、開けて来る世界がある。

 では、自分の性格はどうか。また、表面的なこころの動きはどうか。やはり、死角がある。他人の教えてもらう。でも、その他人の声を鏡にすることが難しい。特に、よく自分を観てくれている親や連れ合いの忠告ほど、嫌なものはない。しかし、時に、そのことをきっかけに、新しい自分に出会うことができる。

 でも、ここまでは、道徳的なこと。自分も知らない、他人にも見えない、自分を知らせてもらう。それが、仏様に照らされたほんとうの自分ということだ。これは、大悲、大智の仏様の鏡の前に立たないことには絶対にわからない。

 ますます、この自分を受け入れること。いや、聞き届けることは、難中之難だ。善人だと自惚れ、いつまでも自分があると、轉倒している。悪人とも、無常とも、無我とも思えないのだ。ましてや、仏智を疑っている、無明の塊であることすらである。

 仏様の「経(きょう)は、教(きょう)であり、鏡(きょう)である」というのは、善導さまのお言葉だ。まさに、仏様の教えを鏡として、自分を知らせてもらことが仏道だといっていい。

 ご法話の反応はさまざまだった。無反応のおうち、雑談に流れるところ、さらにいろいろと質問がでたところと、三者三様。でも、N家の、若夫婦の反応が、すごくよかった。もう一歩。なんとかご縁をつかないものかと願っている。

 

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