お同行の力
真夏の東海支部法座。
お盆明けの日曜日。帰省と重なって、子供連れなどで新幹線はかなり混雑していた。
今回は、華光会HPの講師紹介が間違っていて、また提出していたテーマもうまく告知が出来ていなかったが、この猛暑のなか、年配の方も、元気にご参加くださったのは、うれしかった。
歎異抄の第3章のお話。
「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても、生死をはなるることあるべからざるを、あわれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり」。…闇から闇へ、迷いから迷いへをさまよいつづける、私の後生の一大事に驚きを立て、哀れなるかなと、大悲のお心を成就、立ち上がったくださったご本願のお心に触れさせて頂かない限り、この末世の泥凡夫の私が救われていく道はないのだ。どれほど聞法しようとも、精進しようとも、わが身、わが心を頼りに、はからい続けるだけでは、なんの役にも立たない。そこを、現前としてみそなわしてくださっている、阿弥陀様をたのむである。いや、その心に触れると、頼まざるおえんのである。
今回は、お同行方の力で、厳しい座談会になった。
私達は、今生の生活にうつつを抜かし、すぐに聞法の焦点が外れていく。今生事の幸せ、自分のよしあしに捕らわれて、汲々している。ほんとうに、すぐにご法も、念仏もないような生活で一喜一憂する。
そこを、引き戻してくださるのが、ほかならぬお同行の一言である。この厳しさの奥には、同じ泥凡夫としての温かさもある。虚仮不実の世の中にあって、せっかく人間に生まれたのである。ほんとうのことを、ただ一つのことを、外さずに聞かせてもらいましょう。そこ一つを喜ぶ身にさせてもらいましょうや。今回は、そんなお同行方の涙ながらの言葉、時に圧倒されるほどの厳しい言葉を、大いにお聞かせ頂いた。その生きた言葉の一つ一つが、どこまで皆さんに伝わったかはわからない。しかし、その一つ一つのお育てに、阿弥陀様の生きた働きをみる思いがした。そこが華光の喜びの源泉でもある。
有り難いご法座でした。ありがとうございました。
談笑しながらお茶を飲んで帰った。楽しかったが、おかげで大事なものをもらい忘れた。
帰路の新幹線は、信号機の事故のために混雑しいた。東京行きは、止まっていて、名古屋駅も京都駅も、すごい混雑ぶりだったが、さいわい、少しの遅れですんだ。帰宅したら、華光会館の柵の事故証明のために、相手方と警官が現場検証をしていた。二度も、謝罪にこられて、逆に心苦しいほどだ。
お礼の電話などし、ちょっと夫婦でやりあい、子供と遊び、プログを書いて、あとは寝るだけである。かくて、アッという間に、今生の生活にひき戻っていくのである。
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コメント
久し振りに、かりもん先生のご法座に参加でき、嬉しかったです。参加者一人一人に気を配り大切にするかりもん先生の姿勢に頼もしいものを感じました。ありがとうございました。
座談で、T同行が、幸せを求める私の足元でどれだけのものを犠牲にしているか、お釈迦様が「人生は苦である」と言われているそのお言葉をどう聞いているのか、という厳しい言葉が心に残っています。
そうしたことを味わうこともなく、もう1週間が過ぎました。今日も、会社関係の葬儀に行って来ましたが、こうしてウカウカしているうちに、私の葬儀もそのうち行われるんでしょう。仏法大嫌い
の私の末路は明らかです。その私に向かって、葬儀で「帰命無量寿如来 南無不可思議光・・」と呼びかけてくださる。もったいないことです。
投稿: うしぬすびと | 2007年8月25日 (土) 16:25
おお、うしぬすびとさん、ここでは、ほんとうにはじめましてですね。
こちらこそ、東海支部法座でお目にかかれて、うれしかったですよ。ほんとうに尊い、皆さんに囲まれていると改めて思いました。
それにしても、連続のカキコミで、大感激です。
投稿: かりもん | 2007年8月26日 (日) 21:34