仏道のすべては
ある時、阿難が釈尊にお尋ねした。
「私どもが善き友をもち、善き仲間と共にあるということは、すでにこの聖なる道の半ばを成就したに等しいと思いますが、いかかでありましょうか」
それに対して釈尊がお答えになる。
「阿難よ。それは違う。我々が善き友をもち、善き仲間と共になるいうことは、それがこの聖なる道の半ばにあたるのではなく、まったくそのすべてなのである」。
ぼくは、この相応部経典、雑阿含経のやりとりが好きだ。
浄土真宗は在家止住の教えである。それでも、いやそれだからこそ、この泥凡夫が、善き師に出会う、善き友に出会う、そしてその仲間に加えていただくことが、すべてなのである。そんな、善き友と、その善き友の集いである「僧」(僧伽・サンガ)を得たことを喜ぼう。その出会いを大切にしよう。
この世に、凡夫の目の色が変わるさまざまな宝がある。しかし、ほんとうの宝は、仏・法・僧(僧伽)の三宝なのである。
聖徳太子さまもおっしゃっている、「篤く三宝を敬ふ」と。
あまりにも当たり前のことだ。でも、あまり当たり前すぎると、どこかで粗末にしてしまうものである。
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コメント
私もそこ大好きです、全く同感です、そうなんですよね。でも、私は、勝手に焦って、法縁をつぶしてしまうんです。驕慢なんだ。
投稿: うしぬすびと | 2007年8月25日 (土) 16:42