『ブッダは、なぜ子を捨てたか』
まず、タイトルに引きつけられた。
『ブッダは、なぜ子を捨てたか』(集英社新書)
えー?と思うでしょう。『教えること、裏切られること』~師弟関係の本質~(講談社現代新書)にしてもそうだが、このところの山折哲雄氏の新書のタイトルは面白い。(内容的には、この『教えること~』の方が、断然、面白かった)
従来、お釈迦様の出家の動機は、四門出遊や、農耕祭(弱肉強食)のエピソードとして、信仰上の位置づけがなされて語られてきた。
しかし、ここでは、仏教教団の開祖としての、祭り上げられたブッダではなく、苦悩する人間としてのシッダールタに焦点があたる。社会生活を営み、家族と暮らしている青年が、何故、家族を捨てたかの。「親を捨て、子を捨てる」のである。またなぜ、待望の長男に、ラーフラ(悪魔とか、障害物)と名付けたのか。その肉声を尋ねようとする試みであり、そして、子に去られ父王、夫に去られた妻、父に棄てられた息子、残された家族の心境に迫ろうとしている。それを少子高齢化で、人口が減少に転じ、家族の絆が希薄になっている現代の日本の現状に投影して、いまに生きるブッダを求める視点から筆が進んでいる。
その出発は、出家ではなく、家出ととられているところに、新鮮さを感じた。ガチガチの教団人では、こんな発想は出てこないだろう。後半は、日本での仏教の受容、発展、もしくは日本的変容というお得意に話に展開していくが、著者自身が、この現代にブッダを求めるくだりがあるので、少し面白い。
氏の論考にはないが、この発想を突き詰めると、在家止住の浄土真宗の教えに、新たな光りが当てる気がした。伊藤先生のことばを借りると、凡夫とは、「愛妻愛子、これを凡と言い、惜身惜命、これを夫という」のである。ようは、自分がかわいい、自分の家族がわいいの塊なのである。現代社会において、その凡夫が、凡夫のまま仏に成る唯一の道が浄土真宗であるならば、自己が背負うさまざまな重い荷物、ときに障害物を糧にしながら、その苦悩や悲しみを抱えつつも、法を仰ぎ、喜びに転じていくことの意義は大きい。また、ますます混迷を続ける現代社会にあって、そんな形でしか、お釈迦さまの真精神を発揮することできないであろう。
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