罪悪観と無常観の常在意識
昨夜は伝道研究会でした。
このところ、ホームページや「仏さまのプレゼント」の教義面の検討をしていたので、本題からしばらく離れていました。いま、華光誌の罪悪観や無常観に関する記事を読むことになって、『念仏の雄叫び』の「罪悪観と無常観」を終えるところです。
今日の真宗教学で、親鸞聖人や蓮如上人の罪悪観や無常観に関する研究はあります。これが聞法の契機になるものですが、現代の私の聞法上での罪悪観や無常観の位置づけに関しては、積極的に研究されていない。むしろ、求道や内省ということすら避けている嫌いがありますね。そうなると、どうのように、皆さんとお念仏の接点を結んでいくつもりのなのでしょうかね。はなはだ疑問です。
さて、今回は無常観のところを中心に読みましたが、心に残った点をまとめると、(『念仏の雄叫び』(34ページから46ページ)
まず、無常観には、刹那無常と一期無常があり、一瞬、一瞬に生滅変化する刹那無常のなかに、大無常の一期無常を取り詰めていく。それも、「今に取り詰める」ように、意識的に進めていく。自分のこころにまかせていると、「なれていく」、もしくは「他人の問題に転化していく」。でも、そのこころを逆に利用して、無常観を進めていくことが大事。
たとえば自分を、一つのうず巻きと考えると、うずのど真ん中が自分。次第に外に行くほどに自分との関係が薄くなる。真ん中の自分の死は避けたいので蓋をしている。でも、ほんとうはいちばん怖い。その少し外側にある、子供や家族の無常や事故、ケガなどにはびっくりする。それが、他人の子供なら、「かわいそう」と思う程度ですむ。日本でおこった大地震、外国での大事故や大災害と、渦巻きから遠くなるほど他人ごとになっていく。
つまりは、自分中心にしかものが考えられない。なれていく自分に無常を感じていく。そういう自分の心だと見抜く、そこに驚きをたてることに無常観がある。なれる心をもって、なれる心を切り、聞きたくない心で持って、聞かせていく。切り返していく。けっして、聞かない心を聞かせにかかるんじゃない。ここが聞ける人、聞けない人の紙一重、ポイントだと。
そして、「時は命なり」で、無常観と罪悪観の接点、両者を支えるものとして、「時間」と「命」をあげられて、次のように結ばれています。
「無常観、罪悪観ということは、この如来さまの本願にめざめ、その本願につらなる具体的な実践ということであります。」
「無常観、罪悪観も、人さまざまです。……信の得られた人が懈怠に流れるのは、無常観、罪悪観を持たぬからです。地獄一定の自覚と、この身にかかりはてたまいし、如来の大悲が思われなくなるからです。無常観、罪悪観は、信前信後をとおして、求道の大切な方法論だと信じています。」
単に、初心者のための内省の方法ではなく、信にめざめたものこそ、罪悪、無常観をもとに内省し、念仏させていただくことが、聞法だと。伊藤先生の言葉を借りると、罪悪観、無常観の常在意識ということです。
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コメント
過日はご法座ありがとうございました。
ああ~、私は自分のガラクタをもっていって聞いてないなあ、、。と感じていて、ほんまに聞かない私。肝心のところで自分のところから他へすりかえてしまう私を感じています。まさに、「聞かない心を聞かせにかかる」
です。
投稿: Tねこ | 2007年7月11日 (水) 17:07