個体内コミニケーション
ぼくの関心事の一つに、阿弥陀様と衆生の関係、もしくはそのことをめぐる法座活動を、知的、感情的コミニケーションを包みながらそれを超えた、霊性コミニケーション、もしくは、真宗の場合のそれを、讃嘆コミニケーションとしてとらえられないかという課題を持っている。
そのためには、一般のコミニケーション研究にも関心があって、なかでも、個体内コミニケーションに注目している。
普通、コミニケーションとは、それが、一対一であっても、またはグループや集団であっても、またはマスのコミニケーションであっても、すべて対人間関係のなかでの出来事として捉えられている。しかし、そのコミニケーションの担い手の最小単位は、「個」としての人である以上、個体間以前に、個体内で起こっている事象、コミニケーションが原点となっている。個体内コミニケーションとは、最近の研究では、神経情報伝達とか、脳内の感覚情報処理などの生理学的な視点を指すのが一般的だろう。
しかし、ぼくは、言語であろうとも、非言語であろうとも、まず自己内部での「体験(経験)過程(いのちの営み)-意識(気づき)-伝達(ことば)」というプロセスからおこることに注目している。人の話を聞く、または人に伝えるという営みの原点がそこにあるからだ。ロジャーズ(もしくは、ジェンドリン)に言わせると、その流れに誠実であり、ゆがみがないことが、自己一致している状態である。けっして、いま感情的にムカムカと腹が立っているから、「バカ」と怒鳴ったり、相手を罵ることが、感情とことばの一致としてとられるのではない。その以前のことばにならない、ハッキリと意識上に残らなくても、ボンヤリとしているが、からだがもうすでに感じている「何か」に、焦点を当てて、ああでもない、こうでもないとまだことばにならない(もしくはなりたがっていない)体験が、「ああ、そうか」とピッタリとしたときに気づきがおこるのである。
たぶん、他人のことばを聞いて、共振するというのも、ここが揺さぶられるからであって、単に頭の知的理解や喜怒哀楽といった単純な感情で聞くのではないのである。
つまり、単に頭と口でしゃべっいるのでも、頭と耳だけで聞いているのではなくて、「からだ」全体で、聞き、伝えているのである。
実は、ここで紹介したかったのは、10数年ぶにり、再読した本(エドワード・T・ホールの 『沈黙のことば』と『かくれた次元』)のことを紹介したかったのであるが、話が硬くなったので、項をあらためることにしよう。
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