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濁悪邪見の衆生

 華光誌66-3号の「濁悪邪見の衆生」の輪読が始まった。

 今回は、初めて、初参加者はなく、京都、大阪を中心に12名の参加。

 冒頭のご和讃や正信偈の言葉、五濁、三時思想までは、ポツポツ話題がでる程度だったが、5頁の「五濁悪世・悪世界の具体相」に入ってから、がぜん、話し合いが活発になってきた。

 みな、身につまされる実感があるからである。

 本文のように、皆さん、ひしひしと、日本の社会状況の現実に、愁い、歎き、苦悩されているのだ。まさに、効率主義、成果主義で、格差社会は広がる。そこに、企業も、政界も、教育界も、マスコミまでも、効率的に、利潤を第一に追求し、倫理や道徳は薄れ、不正や悪事か数々おこる。その社会のストレスが 弱者(負け組)に、さらに弱者に、もっと弱者へとのしかかり、生きづらさを実感する日々の具体的な話題が出た。

 しかし、それを愁いたり、「仕方ないなー」と諦めたり、または裁いたり、愚痴ったりするだけなら、今生事である。次の8頁の、前半のまとめになる文章が効いてくる。

『修正会のご法話で、「自分自身というものを、広く深く見つめていきなさい」と。広くとは、自分だけでなく、この悪時悪世界の姿も他人事とせず、自分の姿、自分の心がそのまま表れていると見せていただく。その自分というものが、どれだけ罪深く、汚れ、悪がどれほど深く大きいかということを、これらの現実を通して聞かせてもらっていきたいなと思うわけです。』

 自分に引き寄せる罪悪観・無常観になるのか。単なる、愚痴の材料で終わるのかで、大きく意味が異なってくるのである。しかも、この仏法の視点は、自分からは出て来ない。仏様の立ち位置からの言葉であり、仏智に照らされた視点である。

 それにしても、いくら五濁悪世と嘆いていても、この火宅無常の苦悩の旧里は、ほとほと捨てがたく、あきれるほど恋しいものだ。当然、「いまだ生まれざる安養浄土はこいしからず候」であるから、まさに轉倒しているのである。私の迷いとは、かくも果てしなく深いものである。

 なお、8月の輪読法座は、8月22日(水)夜7時からとした。初めての夜の開催となる。また今回の筆者である、M先生もご出席の予定だ。

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