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「壮年の集い」雑感

 台風の影響をいろいろと受けた今年の「壮年の集い」も、無事終わりました。お世話の皆さん、ご参加の皆さん、ありがとうございました。

 前日、当日にキャンセルが続出。特に、関東や高山の方は、前日から京都入れした方以外は、涙を呑まれました。ところが、逆に、台風のせいで、出張の延期、家族旅行の変更、または趣味の山登りが中止になったりと、「急な参加でもいいですか?」という人もかなりあって、けっきょく総数では55名の参加となりました。

 毎回、お話することですが、ご因縁が整わないと、お参りできないわけですね。参加するつもりでもダメになり、その意志がなくても、大願業力に引っ張られてお参りすることもある。だからこそ、つまらない心のわだかまりやひっかかり、かたくなさ、そして参るモチベーションばかりを詮索するのではなく、その時々の、一座一座のご縁と、不思議な縁で集う目の前の人を大切にすることしかできないわけです。普段は、当たり前のように思って粗末にしているけれども、その不思議なご縁の積み重ねでしか聞法はないわけですね。

 そのことは、今回の分級座談でも味わいました。たとえば、たったひとりですが、存在感のある参加者が加わるだけで、そのグループの雰囲気がかわり、またたったひとつの発言からも流れが変わる場面がありました。同時に反発や批判が起こりながら、グループが動き、聞法が進んでいったような気がします。皆さんの中には、味わい深い体験や気持ちをもっておられるのですが、それをなかなかうまく表現できなかったり、ちょっとした聞き方や返し方、質問の仕方がうまくいかずに、結論を急ぎすぎたり、責め口中になってしまって、ますますつっこまれないように、下手なことを言わんようにと、身を守ることをが先攻して、口ごもりがちになるような傾向が、よくありますよね。

 今回、ちょっと膠着状態になった時、グループの雰囲気を感じてもらって、表現してもらいました。その中で、「たいせつな試験の会場のようだ」と表現された方があったけれど、まさに真剣で、大事な場。それだけに、堅苦しくてしんどい。また発言する側も、司会する側も誰かに試されていて、失敗が許されない。そんな雰囲気を、うまく言い当てておられました。

 その意味では、ことばの揚げ足ではなく、参加する人たちを尊重する態度。そこから起こるひとつの発言をしっかり聞き取る姿勢の大切さなどあらためて感じました。その一瞬、一瞬の、今、今が大切なのですから。

 今回のご法話は「迷いの根を絶つ」という題で、かなり具体的にお伝えしました。これは、最後の全体会でも話した内容にもつながりますが、今生腹の延長で、仏法、後生を利用する恐ろしい心がテーマでした。

 最後に、未練が残ろうとも、消化不良であろうとも、またどんなに有意義で、楽しかったとしても、時間が来たら、無情にも終了となる。「お引き取りください」と返される。どんなに法座が素晴らしかったと言っても、ひとりひとりが、自分の業の世界へと、たったひとりで帰っていかねばならない。ご法の厳しさの一面があるわけ。ましてや、まだわからないという人でも、そのモヤモヤした気持ちを抱えたまま出かけていかねばならない。この空しさからも、逃れることはできない。

 以前のぼくなら、無理にこじ開けたり、押し込んだりして、そのモヤモヤをすきりさせてやうと意気込んでいました。それが、今や、そういうモヤモヤした、ハッキリしない、ダメな感じを抱えた人と、時間や場所を共有する。そんな感じを抱えた人と、ただ共にいる、その人のところをしっかりと見つめていく。たとえ、なにも起こらなくても、目を背けずに共に居れたところに尊さがある気がしています。そうすると、きっと自然と開き、動いていくのではないか。もちろん、大無常を前に、「今、ここで」という姿勢は変わらないけれど、あまり焦りや無理強い、操作をして動かしても意味ないものなーという態度を、少し持てるようになって、自分の成長を少し感じていますね。

 その意味で、少し楽に法座に臨めるようになったし、座談会が、ますます楽しみになりました。

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コメント

 季節はずれの台風が過ぎ去ったかと安心したのも束の間、想定外の新潟県中越沖地震。何が起こってくるかわからない無常の我が身を地でいくような、自然の猛威に挟まれての今回の壮年の集いでした。 青年の立場から見れば人生は無限に長い未来なのかもしれませんが、老人の立場から見れば人生は非常に短い過去にすぎないようです。しかも、青春は失策、壮年は苦闘、老年は悔恨の中に過ぎていきます。ギリギリのところ、私はどこに人生の最後の拠り所を求めればよいのか。
 今日も大丈夫、明日も大丈夫と、知らず知らずのうちにそう思い、否、そのことすら打ち忘れて、命あるのが当然のように生きている私。台風が、交通事情が、仕事が、家庭がと、いろいろ並べ、我が身可愛く、座して動かぬ私。私のような者ばかりで、誰も動いてくれる人がいなかったなら、此度のご縁はありませんでした。参りたくもないこの懈怠な心を揺すってくださる力、そのお心を思えば何と勿体ないことか。南無阿弥陀仏。
 華光での二日間、仏さまのご苦労によって出来上がった尊いご法座にドッカリ座らせていただきながら、それ後生だ、出世間だ、人生の目的だと、聞いて覚えた言葉にとらわれ、悩み、振り回されるばかりで中身は空っぽ。そんな言葉は、死んでいるというほかはない。でも、さすがに華光の法座。仏さまが生きて動いていらっしゃいました。
 生死の世界にドップリつかって動かぬ、否、動けぬ私。すでに死に体で仏法を仏法として聞くことのできないこの私を、何とか救ってやりたいと、あらゆるものに姿を変えて、願いをかけて、仏さまの方から動いてきてくださっています。遂には、南無阿弥陀仏の声となって、この死に体が揺り動かされていきます。自分の都合や好き嫌いにかかわりなく、自分を離れる、超えてゆく瞬間です。
 仏法は休まず絶えず生きて働いてくださっているのですから、ひとり静かにお念仏申さずにはおれませんね。

投稿: KURO | 2007年7月18日 (水) 23:29

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