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遠く宿縁を慶べ

「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」

Img_0637  富山仏青研修会、あっーという間に終わりました。ほんと、名残惜しかったです。

 当初、大人数 で、どうなることやらと思っていましたが、進行・運営は、先生やご家族、そして仏青の世話人の皆さんのおかげで、大きなトラベルもなく無事終了しました。心配していた、トイレや洗面所も、混乱なかったようです。

 それにしても、不思議なご因縁です。数年前まで、富山のお寺でImg_0639、華光の集いが、しかもこれだけの人数が集って行われるとは、夢にも思っていませんでした。それが、関東や九州からの仏青の若い方のみならず、福井、石川、富山、そして高山と、かなりの数の壮年の方が、しかも大半が、ここ1、2年の間にご縁ができたか、または今回、お知り合いに連れられてお参りしてくださった方が中心でした。

 小生の分級は、壮年グループ。88歳のおじいさんもおられて、仏青とは縁遠かったし、輪には加わらず、檀家さんやご住職ご夫妻の見学組もあって、その組から時に発言もあlり、ちょっと微妙な空気が流れていました。でも、知人や姉妹のご縁で初参加された方たちは、ご法話や分級座談会の雰囲気が、新鮮な驚きだったようで、今後の聞法のご縁がつながったようです。

 ある集いで、「自分の中をみると、お参りする気持ちどころか、ご法座に参加する資格もない」と発言くださる方がありました。まったくそのとおり。仏とも、法ともなく、三毒の煩悩渦巻く身ですから。それが、尊い法座に座らせていただくという、その事実だけを凝視しても、仏縁の深さ、有り難さを、不思議さを慶ばずにはおれません。縁(ご縁のところ)他力のレベルで考えても、如来様の大願業力のたまものでないものはない。

 しかし、その仏縁も、無常なわけです。いつまでも続くとは限らない。ご因縁が尽きれば、いくら努力しても、離れたり、壊れていくこともあるわけ。華光の集いにして、その歴史をたどってきています。それだからこそ、眼の前にある、今、今のご縁を、それがどんな小さなものでも、粗末にするわけにはいきませんね。だって、次もあるというのが妄念妄想の産物なのですから。また逆に、自分のものと執着していくのも、無我の教えからは轉倒している。すべては、ご因縁によって生れ、消える因縁生なのですからね。

 でも、そのなかでも、阿弥陀様の大願業力の執念はすさまじいです。「いし、かわら、つぶて」の、救う手がかりがなにひとつもないこの身が、南無阿弥陀仏を慶ぶ身になれたというのでしょう。いくら考えても不思議の中の不思議です。もう遠い遠い、遥か昔からの如来様のやるせない願い、宿縁の催しを仰がずにはおれません。

 「南無阿弥陀仏。尊いご縁をありがとうございました」、と、お礼申すだけです。

Img_0630

☆先生のお寺は、高速のICから近く、住宅街のなか。想像以上に街中で、特に近くに観光名所もありませんでしたが、神通川が近くに流れています。各自、ブラブラと銭湯にいきました。別に珍しくないですが、小さな銭湯の外観です。浴槽の上に、熱帯魚の水槽がきれいでした。少しだけお寺と似ていますね。

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法座と聞法」カテゴリの記事

コメント

尊い御法縁ありがとうございました。実は最初予定していたのが道西さんに対する蓮如上人の御示談の記録「真宗流情編」でした。その中に信先生のお味わいとそっくりなお言葉がありますので、ここに転載させていただきます。道西さんに対する蓮如さまの言葉です。「提謂経の中に、このようなたとえ話があります。「たとえば人がいて、八万由旬もある須弥山の頂上まで登ったとせよ。そこから一筋の糸をふもとまで垂らして、再び針を持って山を下っていった。そのとき上空に、毘嵐風といって、須弥山を吹き破るほどのすさまじい風が吹き荒れ、その風のために、垂らした糸が、手に持っていた針の穴をつらぬいて、針を再び須弥山の頂上まで引き上げてしまったとしよう。さて、たとえこうしたことが起ころうとも、凡夫が御法座に出るということは、それよりもまれなことなのである」と。ですから、あなたがここにこうして来られたことは、自分の力でだとは思いなさるな。ひとえに如来さまのお手回しであればこそですぞ。と、そうお思い下さい。」浅い呼吸で流し読みすれば、大げさ・誇張、場合によっては滑稽にすら聞こえるかもしれません。でも、気を静めて思いを深めたならば、「ここに書かれているのは誇張でもなんでもない、本当のことだ!」と深々と頷けます。ああ!全くとんでもないことなのです。

投稿: Mです | 2007年7月 3日 (火) 17:19

言葉にならぬ「ことば」(呻き、嗚咽)そして「響き」の数々…。かりもんさん。Mさんのお言葉が、全身を流れる血とともに廻る。嬉しさが、恥ずかしさに、拳を握り締め、どうにもできぬもどかしさに、そして、かりもさん、Mさんの言葉から、飛び込む南無阿弥陀仏に、腹底から沸き起こる雄叫びに
ただ、ただ、まかせて、まかせて、南無阿弥陀仏。「眼力(めじから)」ということばを最近よく耳にします(意味は知りませんが)。いま、お二人の文章にある見慣れたありがたいお言葉の数々の中にある「眼力」を熱く感じます。ありがとうございます。文からですら、感じる「力」。その座にいる人の息使い、臨場感に触れるお味わいを思うと…。また、この息あれば朋にできる座を楽しみにしています。「仏縁も、無常なわけです」から、この息あるうちは、ただ、まかせてお念仏をさせていただきます。今後ともお導きのほどをよろしくお願いします。       な・む・あ・み・だ・ぶ・つ

投稿: 稜季の父ちゃん | 2007年7月 3日 (火) 19:22

M先生、お世話になりました。お疲れになられたでしょう。

稜季の父ちゃんさんにも、いつもありがとうございます。またの機会、富山にご一緒しましょう。

お二人から、とても滋味深いコメントをいただき、あらためて不思議なご縁を味わわせていただいます。ありがとうざいます。

投稿: かりもん | 2007年7月 4日 (水) 23:49

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