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2007年7月の27件の記事

『魔笛』

F0040059_20563811  ぼくは、クラシックファンでも、オペラファンでもないので、このあたりは、普段は、ダイジェストでしか聴くことがない。実際のオペラも、いまのところ一度しか聞いたことがない。でも、その一度が、ヨーロッパで一番美しいオペラ劇場といわれた本場イタリアは、ヴェネチアのフェニーチェ劇場! 日本でチケット予約して、スペイン人の夫妻と豪華なバルコニーから鑑賞した。火災に合う数カ月前のことだったので、これはプチ自慢。演目は、歌劇「清教徒」。劇場、観衆、劇場の案内人だってすごくカッコよくて、その華麗な雰囲気と、圧倒的な歌声に、最初は大興奮だったけれど、悲しきかな、この手の素養のない身には長時間に渡ると、途中からは居眠りしだすというお粗末さだったけど…。地金でますね。

Mateki_01_2  その意味では、映画化されたオペラの方がよく観るし、映画化されたバレエも観る。これは、モーツァルトの『『魔笛』の映画化。このところ、シェークスピアの作品などをミュージカルで描く、ケネス・ブラナーが監督。舞台を、塹壕戦といわれた第一次世界大戦の戦場に置き換え、換骨奪胎したもの。ドイツ語ではなく、英語版でした。映画なので、ヴィジュアル的にも観やすいし、メルヘン的部分もうまく表現していたけれど、140分。ああ、やっぱり途中ウトウトしましたが、まあお約束。

 狂言回し風にでてくる、鳥刺しパパゲーノのような存在かいるとホッとしますね。「パパパの二重奏」とかね。悪魔にして聖人のザラストロと、夜の女王とが深い関係のあるように暗示されたりもしていました。ザラストロ役の人、存在感ありました。

 平日なのに、年配を方を中心に劇場がいっぱい。ロビーで蘊蓄傾けている人が多かったですね。さすが、ファンはいますね。

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参議院選挙

 これは映画ではなく、実際のお話。ちょっと、当たり前のことの確認。

 皆さん、選挙に行かれましたか?

 ぼくも、子供大会の準備を縫って、終了30分前に投票してきました。間違っても、「ヤマさん」とは書かなかったです。

 残念ながら、ぼくの投票行動は、選挙区も、比例も、直接反映されることにはならなかったけれど、今回は、明確な指針で投票しました。3年後にでも始まるであろう、9条を狙った憲法改正の動きに、3年後も、明確に反対に回るであろう勢力や人に投票しました。

 選挙結果については、ご承知の通り。別にマスコミや評論家みたいにとやかくいう気はありません。ただ、いつも思うことですが、こうして、選挙で、民意を反映できる国であることは、当たり前のようで、実はさまざまな犠牲や努力の上で成り立っている、とても尊いことだということを、投票の度にかみしめています。

 投票率が低く、市民が無関心であればあるほど、与党や組織票をもつ政党の言いなりになるわけです。もちろん、選挙制度には、さまざまな問題点も抱えています。しかし、少なくとも、二院制をひき、おびやかされたり、脅されたりすることなく、個人の考えに近い人に自由に投票することが保証されている選挙制度は、とても大切なものです。無気力や諦め、まる投げこそが、いちばんの敵なのです。

 ちなみに、今回の比例で、本願寺派が露骨に推した新人が、民主党で当選しましたが、たった8万票弱。浄土宗系の現職は、自民党だったので、7万票で惨敗。ところが、全体のトップは公明党で、100万票以上を獲得していました。政治と宗教、ここも難しい問題を抱えていますが、政教分離(特に権力側にとって)は、先の過ちから学んだ大原則。ここもしっかりチェックしていきたいですね。

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子供大会の準備会

 今日は、朝から夜まで、子供大会の準備会。

 久々につかれました。かなりグッタリ。

 と、いうのも、今年は初めてお手伝いくださる方が多かったので、その指示がなかなかたいへんだった。午後から、リーダー覚のSちゃんが加わってくれて、仕事がグーンと進んだけれど、ここでも世代交代を実感した。

 名簿、名札、仏具のおみがき、大きなプログラム、寝る部屋や分級を分け、掲示用に大きく書く、旗の準備、会場への連絡に、参加者の連絡、保険会社との契約。水泳、キャンプファイヤー、キャンドルに、追跡ハイキングの準備。切符や移動手段の手配。紙芝居などの教材の準備に、スライドの準備。荷物もきめ細かく用意しているので、大きな段ボールでいっぱいになる。書き切れない、細かな作業も多い。

 第一、たいせつなお子さんを預かるのである。安全面でも、充分な打ち合わせをしておかないと、万が一があってはいけない。これは、自分も親にならせてもらって、昔以上に重く自覚するようになった。少々ゲームが面白くなくても、またご法の詰めが甘くても、事故なく、安全にお家にお届けすることが、4日間、たいせつなお子たちを託してくだる親御さんへの最低限の使命である。

 そのせいで、安全面の自覚にかける若い先生を、時に叱咤するこもあるが、ここは意識の差があるのも事実。

 特に今年は、久しぶりに総数が40名を超えて盛況である。来年は、小生のところも学年に達するので、さらに増える可能性もある。

 その意味では、準備や、打ち合わせを怠ることなく、臨みたい。

 盛夏の、3泊4日の強行軍。当日の子供大会も身にも、気も通って、なかなかハードだけれども、その準備ひとつもなかなかたいへんにである。特に、今年のように、世代交代で、新人が増える端境期は、継続していくうれしさの反面、自分の体力や気力に不安を感じることも多くなった。もう一頑張りだ。

 すこしひとり、準備の形を整えてやるしかない。次の準備会は、3日後だ。

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広島のDPA(3)

 いま、いろいろなことがぼくの心に去来している。今回の集いが、毎回、毎回雰囲気が違ったように、ぼくのなかでも、いろいろな人とお話するたびに、こころが揺れ、定まらない。寝る前と、朝起きただけで、考えていることが変わっているのである。そして一通のメールや電話、手紙、または直接の顔をみるだけで、気持ちや思いは、コロコロ変わるのである。すぐに傷つき、腹が立ち、防衛したり、攻撃的になり、ちょっとおかしくなったんじゃないかと思うほど、ブレまくるのである。そう、連れ合いの絵ブログじゃないけれど、confusionなのである。虚仮不実そのものの自分をいやというほど感じる。無常とは、わが身そのものである。

 そんな時に、今回のお話をいただいた。これは、どんな意味があるのかと、ぼくの腹に返して味わっているが、まだハッキリした答えは返ってきていない。

 しかし、必要な時に、必要な形で、何かが開き、動きだし、そしてつながり出した予感を、何名かの方と共有できたのかもしれない。それが同床異夢で終わるのかどうかはわからないけれど、ぼくの中には、まだボンヤリとしているが、これからの法座や真宗の集いの姿がおぼろげに浮かびつつある。伝統を踏まえながら、殻を破って新しい世紀に相応しい創造的な法座を目指すという可能性を実感しているのだ。もちろん、今回はそんなところまで踏み込めなかったけれど、そのために、浄土真宗のお寺さんにも、正しく華光の活動を理解していただき、共にご法を中心に、手を携えることができればと願っている。

 その動きは微妙で、小さいけれど、大切に育てていきたいものだ。

帰路の新幹線で、M先生といろいろと話し合ってきた。役得で、先生の真宗カウンセリングを受けてきたのである。京都駅に着く頃には、温かい、溢れ出る涙を押さえるのに苦労していた。先生の受容的な態度を通して、法蔵菩薩の涙に触れたのである。

しかし、自宅に戻り、寝て、起きて、いろいろあって、また寝て、起きて…。またまた気分や気持ちはコロコロと変わっていく。もちろん、そこをいくら追いかけても、虚仮不実とわかりつつも、やめられない。泥凡夫そのものだ。でも逆にいうと、そこがゴールではなく、常に何かのプロセスでもある。いま、ここでの、自分しかない。そこを大切にするしかないことも、聞かせてもらた気がしたのだ。

いまの気持ち以上です。

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広島のDPA(2)

講演会のあとは、体験学習会。これがなかなかよかった。同時に、少し変わったところもあった。というのは、かなり参加者が自由に動く集まりでありながら、出入りが激しくて、毎回、毎回、違うメンバー、雰囲気でスタートした。もらろん、広島別院という場所柄や、お寺の集まりの主催ということから、当然、お坊さんや門徒さんが多いが、べつにそればかりでもなく、一般の方もおられる。そんな状況で、深まらないのかというと、1回、1回のセッションが完結しながらも、またどこかで次の集まりに影響を与え、さらにいうと、これまで6回の集いが、なんらかの形で影響している。つまり、継続性と、1回1回の完結性が同居した、その意味では不思議な雰囲気のWSだった。

 こんな双方向の集いを行うと、これまで自分自身がいろいろな経験を積ませていただき、お育てをいただことがひしひしとわかる。一方的に何かを、頭ごなしに教えられたのではなく、自ら実践し、時に失敗も重ねて経験させてもらったことで、先輩たちの態度を学び、その場での態度や姿勢を教えられてきたのである。

 たとえばである。メンバーから、なにか答えを求めて、悩みや苦しみ、もしくはあいまいでモヤモヤとした、漠然とした不安感が語られたとする。 以前のぼくなら、すぐに「正解」を与えたり、適切なアドバスイを考えていた。それが、先生に求められていると信じていたからである。

 別に、感じたところを伝えることが悪いのではない。正解も、指示も必要な場合もある。問題は、その状況に目を向けることなのだ。確かに、答えを即答すると、相手も、また自分自身も、その場ではスッキリと収まる。でも、それはほんとうに一時のことである。もしかすると、それをヒントに問題は解決に向かうかもしれない。しかし、その問題に立ち向かうのは、ぼくではなく、まぎれないその相手自身なのである。そのとき、そのアドバイスが、ほんとうにその問題を抱えている個人の成長に役に立っているのだろうか。ほんとうに、「互いに成長し合う、育ち合う人間関係」なのか? という疑問が起こってきたのである。

 しかも、知らぬ間に、「先生におまかせしておけば、それでOK」という、依存関係、もしくは、そんな困った人を囲い込み関係で満足していくことにもなりかねない。ここはかなり微妙な問題がある。

 だいいち、時には、相手を置いてきぼりにして、ひとりだけで盛り上がったり、相手の不安感やモヤモヤ感に、こちらが刺激されることを、知らず知らずに畏れていて、打ち消すために、答えを与えるケースも出て来る。(特に、法座の示談場面は要注意。相手のモヤモヤがこちらに移ってきて、それが不安な人ほど、強く相手に迫ったり、感情的にぶつけたりしがちになる。一種の逆転移かもしれないね)。

もちろん、これも一概に言えるものではない。あくまでそのとき、そのときの状況や雰囲気が大切である。

 で、いまのところでいうと、このところのぼくは、相手の不安な感じ、モヤモヤした感じ、(相手自身がそうなら、当然、こちら側にも)よくわからない感じを抱えている人と、共に居ることができるなーと思っている。なんの役に立たないかもしれない。相手のところを聴くことも、理解することもできないかもしれない。しかし、そんな不安や苦しみを抱えている人と、共に寄り添って居るだけは出来そうなのである。

  今回も話題になっていたけれども、 そのために、自分自身が、しんどくなりすぎては意味はない。しかし、そのしんどさのほんの一端でも、共に居させてもらうことができたら、それはそれでありがたい。その問題に立ち向かうのは、相手自身であり、そのために、相手を操作したり、影で動かしたりするのではなく、その相手を少しでも理解しようと努める、その姿勢が尊いのである。

 ぼくには、ほんとうに聴くことなど出来ない。真に共感的に理解したり、受容できるのは、阿弥陀様の大悲のお心だけである。でも、その広大な法蔵菩薩の願心に生かされている身は、自身の限界を知り、その虚仮を受け入れると共に、そこに居直らず、大悲のお心を根底に、次の一歩を踏み出していきたいのである。

(3)へ続く

 

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広島のDPA(1)

 7月23日・24日と、広島真宗カウンセリング学習会にお招きいただいた。

Img_0773 月、広島の法座には出ているし、別院の近くで、ボイス・トレーニングを受けているのだが、広島別院はご縁がなかった。横川駅から5、6分も歩くと、それらしい大きな伽藍が見えてきた。でも、そこからが一苦労。隣も、隣も、さらにまた隣も、浄土真宗の大伽藍が続いていている。さすが広島、寺町である。「別院前」のバス停をから、隣のバス停まで出てしまったが、わからなかった。車で通りかかったお坊さんを止めて、「別院どこですか」と尋ねるしまつ。どうせ、例の選挙ポスターがたくさん張ってあるところが入り口だろうと思っていたが、その道路に面していなかったので、何度も通り過ぎていたのだ。いや、お坊さんだって、迷いまくるのである。

意味のない余談はこのくらいで、一気にマジなお話へ。

  西光義敞先生がお亡くなりになる直前のことである。入院の朝、お電話がかかってきた。「出講依頼は、すべてキャンセルしたが、DPA広島真宗カウンセリング学習会は、真カ研から誰か出講してほしい。また先方とも相談してほしい」、という内容だった。そのあと、「お世話になりました。ありがとう」と、とても丁寧なお礼の言葉をいただいたのが、今生での先生とのお別れとなった。

それだけに、ぼくには、DPA(Dharma Based Person Centered Approach)の冠がついた広島真宗カウンセリング学習会は、先生の遺言のような気がするのである。

西光先生のあと、M先生が引き継がれ、皆さんをお育てくださっていた。お坊さん、坊守さんを中心に、華光の広島同人方も、かなり存在感を示されていた。特に、ここでもおなじみのTネコさんがお世話されている、ミニカウンセリング学習会「みみずくの会」を通して、実践的にカウンセリングの、特に傾聴する精神に触れられていることがよくわかった。

それで、今回は、寺院での座談会に生かせる、実践的な真宗カウンセリングの精神が宿る法座のあり方、生きた法座の例を、華光会で実践中の小生にお尋ねくださったという次第である。お寺さんでも、現状の布教活動や法座のあり方に危機感をもっておられる方も多いのである。

ほんとうにうれしいことではないか。

それで、特別講演のテーマは、 「私の考える実践的真宗法座論」とした。講演会だけれども、一方通行ではなく、参加の皆さんに添いながら、その皆さんの意向を場に出していただき、それを受け止め、温めて、場の雰囲気が醸しだすエネルギーが何か動いて、お話できることがあればと思った。

ぼく自身が、リラクッスして、自分を開いて臨めたこともあってか、発言が次々と続いて、このまま体験学習に入っていい雰囲気もしたが、43名と人数も多かったので、6名ずつの7グループに分かれて、BAZZ風のセッションにした。 カウンセリング云々ではなく、発想法の一つである、ブレーン・ストーミングを取り入れることにした。華光の講習会で何度か行っている。

これは、(1)全員が協力する(ひとりしゃべりは厳禁)、(2)発言を遮ったり、批判しない、(3)私メッーセッジを使う、(4)小さな声も大切にする、(5)活発討議する。(6)まとめる、集約する。とぼくなりに応用し使っている。

ほんの入り口なのだが、自分のところを否定されずに、安心して受け入れ、聞いてもらえる喜びを体験のほんの一端を、また、相手のところに、じっくり耳を傾ける、傾聴するという体験のほん一端をしてもらいたいのである。 同時に、特定の誰か(時に、僧侶、有力者、先生)だけでなはく、誰もが口を開くことで、その場の主人公になれるのであるから、場の雰囲気が停滞するわけがない。また、そのグループへの責任を皆が、負うことにもなるのである。

そんなこんなで、2時間ほど、最後にボソボソまとめをして終わった。当然、講演を聞きたかったという不満の声も届いてきたが、それも受け止めた上で、オープンで、建設的な雰囲気の集いとなった気がした。

あまりにも長くなったので、とりあえずはここまで。少しだけ感想は明日にでも。

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濁悪邪見の衆生

 華光誌66-3号の「濁悪邪見の衆生」の輪読が始まった。

 今回は、初めて、初参加者はなく、京都、大阪を中心に12名の参加。

 冒頭のご和讃や正信偈の言葉、五濁、三時思想までは、ポツポツ話題がでる程度だったが、5頁の「五濁悪世・悪世界の具体相」に入ってから、がぜん、話し合いが活発になってきた。

 みな、身につまされる実感があるからである。

 本文のように、皆さん、ひしひしと、日本の社会状況の現実に、愁い、歎き、苦悩されているのだ。まさに、効率主義、成果主義で、格差社会は広がる。そこに、企業も、政界も、教育界も、マスコミまでも、効率的に、利潤を第一に追求し、倫理や道徳は薄れ、不正や悪事か数々おこる。その社会のストレスが 弱者(負け組)に、さらに弱者に、もっと弱者へとのしかかり、生きづらさを実感する日々の具体的な話題が出た。

 しかし、それを愁いたり、「仕方ないなー」と諦めたり、または裁いたり、愚痴ったりするだけなら、今生事である。次の8頁の、前半のまとめになる文章が効いてくる。

『修正会のご法話で、「自分自身というものを、広く深く見つめていきなさい」と。広くとは、自分だけでなく、この悪時悪世界の姿も他人事とせず、自分の姿、自分の心がそのまま表れていると見せていただく。その自分というものが、どれだけ罪深く、汚れ、悪がどれほど深く大きいかということを、これらの現実を通して聞かせてもらっていきたいなと思うわけです。』

 自分に引き寄せる罪悪観・無常観になるのか。単なる、愚痴の材料で終わるのかで、大きく意味が異なってくるのである。しかも、この仏法の視点は、自分からは出て来ない。仏様の立ち位置からの言葉であり、仏智に照らされた視点である。

 それにしても、いくら五濁悪世と嘆いていても、この火宅無常の苦悩の旧里は、ほとほと捨てがたく、あきれるほど恋しいものだ。当然、「いまだ生まれざる安養浄土はこいしからず候」であるから、まさに轉倒しているのである。私の迷いとは、かくも果てしなく深いものである。

 なお、8月の輪読法座は、8月22日(水)夜7時からとした。初めての夜の開催となる。また今回の筆者である、M先生もご出席の予定だ。

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生きた宝石

 子供大会の法話検討会を兼ねた仏青の法座、広島での真宗カウンセリング学習会と、法座が続いたが、折悪く、ブログのメンテナンスと重なって、エントリーができなかった。ちょっと振り返りです。

 22日(日)。今日は、仏教青年会の法話検討会。8月の仏の子供大会に向けて、若手先生方が、交代で法話をしてもらう例年の行事。若手先生による、15分程度の法話だが、これが思いのほか感銘深い。あまりいい法話なので、法話会だけなら、仏青以外の方にも開いて参加してもらいたい。ぜひ来年は皆さんにも呼びかけよう。

 さて、今年のテーマは、「自分を知る」。「こころの勉強」と並んで、子供大会を貫くメーンテーマというべきものだ。しかも、子供大会の法話は、1回、1回が完結していると同時に、5回のものがそれぞれ連なり、1つの完成した法話といってもいいものだ。

 法話は、縦糸にテーマ(今年なら「自分を知る」)、横糸に個別のテーマ-つまり、開会式が、導入とテーマの提示。2日目朝が、罪悪観。3日目朝が、無常観。4日目朝が、後生の一大事(因果の道理)。閉会式が、仏さまの救いというふうに、5名が、個々の特徴を生かしながら、ひとつのテーマを織りなしていく。

 子供向けと侮るなかれ。これが、子供大会当日になると、内容や小手先以上に、いかんなく実力が発揮され、ご法の重みがひしひし伝わる、尊く輝く法話となる。

 いまは、その準備段階。まだ検討中のものもあったが、今回の法話会はベテランの先生が3名担当。さすがの内容だった。子供たちに流行っているプロフィールメモを使って自分を知るこを身近に、とても堂々した口調で伝えてくれた人。淡々とした話し方にも、日航機事故の「遺書」を手がかりに、予想も、予定も立たず突然襲う無常の本質を、重みもって伝えてくださったご法話。そして、最後は、端的にからだ使って、たったひとり真っ暗な、寂しい世界に出かけていく者が、阿弥陀様のお救いに会うことを、体験的に知らせてくださるご法話。

 一つ、一つもさることながら、三つをまとめて聞かせてもらえて、さらに厚みのある法話会となった。欲を言うと、例年、1、2名加わる新人、大学生のデビューはなかった。その点、新鮮さにはかけるが、先生方の驚くべき成長ぶりに目を見張られたのだ。

 子供大会、いや華光のこれまでの歩みの確かさ、そして、これから進むべき道の確かな指針が、法話をされた彼らの姿にある。吹けば跳ぶような小さな、しかもなんの財産もない華光の集いではあるが、実は、こんなすばらしい生きた宝石を確実に育ててきたのである。誇らしい彼らと、さらにその後に続く原石の輝きを、まぶしく感じた瞬間。

 同時に、ぼく自身の歩みに間違いがなかったことを教えられた瞬間でもあった。そう、たとえ困難があっても、顔をあげ、胸を張り、さらなる歩みを続けていこうという力が漲ってきた。

 法話会の後、子供大会の打ち合わせ会。その後、静かなカフェでの慰労会は、みなリラックスした、楽しい一時を過ごすことができた。これも、子供たちや、仏青の皆さんへのご法の相続を願う方からの篤いご喜捨の賜物である。あらためてお礼を申し上げます。「皆さん、ありがとう。子供大会頑張ってきます」。

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『選挙』

Senkyo_01_2  『選挙』 とにかく面白い。何度も大笑いし、映画に突っ込み、それでいて、日本の民主主義ってなんなの?と、深く考えさせられる一級のエンターテーメントの観察映画。ドキュメンタリーなんだけれど、インタビューも、ナレーションもなし。カメラと、被写体の距離が絶妙なんだなー。「An Inside Look At J-Democraxy」という副題も上手いね。

 川崎市市議選補選に、自民党公認での落下傘候補として、立候補した「ヤマさん」こと、山内和彦候補(40歳)の涙ぐましい奮闘記。いや、涙、涙ですよ。単なる地方の補選なんだけども、民主党とは議席数でイーブン。川崎市で、自民党が第1党で生き残れるかが焦点になる上に、川崎市長選挙、神奈川参議院の補欠選挙(しかも候補が、環境大臣、外務大臣の大物、川口順子ときたもんだ)とトリプルということで、縁もゆかりもない、神奈川自民党県連をあげての選挙運動になった。しかも、郵政解散の大勝利の直後。そんなこんなで、単なる市議選の補選なのに、応援弁士が凄いメンツ。川口順子と共にまわるだけでも凄いのに、その兼ね合いで、荻原健司に、橋本聖子に、石原伸晃に、とうとう当時人気絶頂の小泉純一郎(ここが彼の地元でもある)まで来て、応援がある。ふつうの市議選クラスじゃ、ぜったいにあり得ない。

 ところが、公募で選ばれた政治の素人のヤマさん。人柄は温厚で、ちょっと間抜け。だから、選挙対策のプロに、挨拶の仕方が悪い、笑顔が足らん、目を離すが早い、演説の声は、その態度は、ほんとうにやる気があるのかと、さまざまなダメだしを受け、机を叩かれて怒鳴らる。後援会で、少しでも不満がでると、すぐにご機嫌を窺って、不満が広がらんように躍起になる。先輩議員からも、ここダメ、あそこダメ、最後は「あんた切腹ものだよ」と脅される。総力戦のために、日頃は同じ選挙区のライバルも他の後援会を横断して手伝う。そのボランティアのオバチャン連中も、作業をしながら、「ボスターの写真が悪い」やら、もう言いたい放題で、ついでに他の議員のうわさをしながら、電話に、チラシの発送作業。あげくは、自家用車の中で、選対のボスに、「旦那のために、仕事を止めろ」と言われて、超激怒している奥さんに、ずっと愚痴を聞かされ、「あんたもっとしかりしなさい」と怒鳴られる始末。でも、その度に穏やかに、「ハイハイと、聞き流していれいいんだよ」と、頭をさげ続けるヤマさん。ああ、なんてけなげなの。もうその姿は、泣き笑いです。同時に、すごいしがらみ。そして、組織力。後援会の人が曰く、「自民党「公認」に値打ちがある。これほどの後援会の力。ぜったいに造反なんかできないわね」と。

 当然、典型的などぶ板選挙、イメージ選挙。常に、「改革を進める小泉自民党の山内和彦です」と、声を枯らして、ただただ頭を下げ続ける。改革、改革、改革、小泉自民党公認、小泉、小泉、そして、山内、山内、山内、山内、山内の連呼のみ。

 ところで、このヤマさん。なんと祖父、父の代からの郵政一家! 本人も、郵便好きが高じて、切手・コイン商を営み、後々、郵政民営化の影響をもろに受けることになるのに、大の小泉改革のファンっんですから、よーく考えると不思議なことだよね。

 さて、さて彼の運命は? しかも、選挙費用の請求は、後に来るので、戦々恐々。さて、超激戦の選挙結果はいかに~。 

 でも、2時間みても、まったく彼の政策が分からない。ここも凄いぞ。でも、今度の参議院選挙に、おもわず「ヤマさん」と書きたくなるぐらい魅力あるキャラクターだったなー。

 ちなみに、自民党の選挙運動では、「妻の○○です」はダメ。必ず「家内です」と言わねばならないそうな。しかも、そのためのお決まりのギャグもある。「家内の○○です。おっと、丁寧に言わないといけませんね。おっかないの○○です。」これで、後援会演説のつかみはOK。あと、選挙中は寝不足、ギリギリの極限状態。こんな時に、人間は生命の危機を感じて、赤ん坊を授かるそうで、これもお決まりのギャグで、「うちも、このときに2人目が仕込まれました」。なーんとね。

 いや、ぜったいに、こんなバカなものには立候補しんとこうと思いますね。

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個体内コミニケーション

 ぼくの関心事の一つに、阿弥陀様と衆生の関係、もしくはそのことをめぐる法座活動を、知的、感情的コミニケーションを包みながらそれを超えた、霊性コミニケーション、もしくは、真宗の場合のそれを、讃嘆コミニケーションとしてとらえられないかという課題を持っている。

 そのためには、一般のコミニケーション研究にも関心があって、なかでも、個体内コミニケーションに注目している。

 普通、コミニケーションとは、それが、一対一であっても、またはグループや集団であっても、またはマスのコミニケーションであっても、すべて対人間関係のなかでの出来事として捉えられている。しかし、そのコミニケーションの担い手の最小単位は、「個」としての人である以上、個体間以前に、個体内で起こっている事象、コミニケーションが原点となっている。個体内コミニケーションとは、最近の研究では、神経情報伝達とか、脳内の感覚情報処理などの生理学的な視点を指すのが一般的だろう。

 しかし、ぼくは、言語であろうとも、非言語であろうとも、まず自己内部での「体験(経験)過程(いのちの営み)-意識(気づき)-伝達(ことば)」というプロセスからおこることに注目している。人の話を聞く、または人に伝えるという営みの原点がそこにあるからだ。ロジャーズ(もしくは、ジェンドリン)に言わせると、その流れに誠実であり、ゆがみがないことが、自己一致している状態である。けっして、いま感情的にムカムカと腹が立っているから、「バカ」と怒鳴ったり、相手を罵ることが、感情とことばの一致としてとられるのではない。その以前のことばにならない、ハッキリと意識上に残らなくても、ボンヤリとしているが、からだがもうすでに感じている「何か」に、焦点を当てて、ああでもない、こうでもないとまだことばにならない(もしくはなりたがっていない)体験が、「ああ、そうか」とピッタリとしたときに気づきがおこるのである。

たぶん、他人のことばを聞いて、共振するというのも、ここが揺さぶられるからであって、単に頭の知的理解や喜怒哀楽といった単純な感情で聞くのではないのである。

 つまり、単に頭と口でしゃべっいるのでも、頭と耳だけで聞いているのではなくて、「からだ」全体で、聞き、伝えているのである。

 実は、ここで紹介したかったのは、10数年ぶにり、再読した本(エドワード・T・ホールの 『沈黙のことば』と『かくれた次元』)のことを紹介したかったのであるが、話が硬くなったので、項をあらためることにしよう。

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広島真宗カウンセリング学習会

 「壮年の集い」が終わったけれど、真宗カウンセリングの研究会があったり、メールや電話にけっこう忙しくて、バタバタ。それでも、観たい映画はしっかり観に行けるようになった自分をに、妙な成長を感じる。少しずつ、自分を解放出来ているのかもしれない。

 さて、今日も午前中、自力整体でからだとこころをほぐした以外は、事務作業の1日。でも、昔と違って、映画にせよ、自力整体にせよ、からだと、ストレスのケアのための、時間を惜しまなくなった分、体調も崩さず、調子はいい。いろいろな捕らわれや悩みは、尽きないけれど、動けている自分がいる。

 郵便局が、ゆうちょ「銀行」になるのに伴って、これまで郵便振替の払い出し方法が、華光会の場合は変更になるので、郵便局2ケ所まわって手続きをしてきた。金曜日だったので、京都駅前の京都中央局はずいぶん混雑していた上に、窓口では慣れない手続きと見えて、時間をかかった。それでも、、一昔の役所的なイメージはなくて、銀行並に愛想がいい。こんなところに民営化の影響があるのだけれども、そのおかげで邪魔くさい手続きが増えたのも事実だ。

 8月の法座案内のために、まだ未定だった九州の法座(9月になりそう)や、輪読法座の日時の段取りで、いろいろ相談した。輪読法座は、8月22日(水)の夜7時と決まった。今度の誌上法話のM先生も出席いただける予定だ。あとは、講習会や永代経の法話テープのラベル作りに、子供大会の下準備など、事務作業が夜も続いた。またまたHPからご縁が出来そうな方からのメールもあって、こちらは直接、電話でお話する段取りをつけた。ハッキリする信心と、宿善についての質問だった。

 これからの予定もけっこう詰まっている。

 22日(日)は、終日、仏の子供大会関連で、仏青と、打ち合わせ会。

 23日(月)と24日(火)は、広島の真宗カウンセリング学習会。

 26日(木)は、輪読法座と、来週も過密スケジュール。

 そのなかでも、、広島の学習会は法座案内に不掲載なので、少し紹介したい。宿泊は各自だが、お近くの方は、案内要項をご覧の上、ご参加くださるとうれしい。

 広島カウンセリング学習会・参加要項 

 テーマは、「私の考える実践的真宗法座論」とした。

 広島別院で、本願寺派の組が後援する集いにもかかわらず、華光会の法座活動を聞かせてほしいという依頼なので、喜んで引き受けることにした。これも西光先生やM先生のご威徳のたまものである。特別講演と銘打っているが、単なる一方的な講演にするつもりはない。そこに集う皆さんのエネルギーや、その場の雰囲気を大切にしながら、真宗カウンセリングの精神が宿る法座のあり方、これからの浄土真宗の集いについて、共に創造していくきっかけになれば願っている。日頃、口にだしていないが、ぼくの中には、とてもボンヤリとしているが、これからの法座や集いの姿がおぼろげに浮かびつつある。伝統を踏まえながら、殻を破って新しい世紀に相応しい創造的な法座を目指していきたいのだ。もちろん、今回はそんなところまで踏み込むことはできないけれど、もし世間のお寺さん方に、華光の活動の一旦でも理解していただけ、共にご法のことで手を携えることがあれば大いにうれしいと願うだけである。

MAUN.さん、さくら貝さん>これからもよろしく。励ましは力になります。うれしいですね。

KUROさん>こちらこそ、ありがとう。これはコメントいうより、原稿ですね。最後の全体会での「法座の雰囲気」に対するコメントも忘れ難いものです。

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山鉾巡行

Img_0717  四条烏丸の京都シネマで、『フランドル』(重厚な名作だー。しんどすぎる)を観たあと、街にでたら、祇園祭の山鉾巡行の真っ最中。映画の雰囲気と、このギャップは激しい。

 ちょうど、長刀鉾が、戻ったところで、つぎつぎ鉾や山が帰ってくるところだったので、おまけで見物することにした。新町、室町通りを上がったり、下がったりして、目の前を鉾が通る。絢爛豪華、いきである。先日まだ、鉾建ての真っ最中の船鉾が、四条新町を下ガルところで、電線にひっかImg_0724 Img_0732かっるトラブルを目撃したけれど、無事、巡行が終了した。ちみなみに、右手は鶏鉾。文化12年(1815)に購入されたといわれる、ベルギー製の重要文化財の見送。

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「壮年の集い」雑感

 台風の影響をいろいろと受けた今年の「壮年の集い」も、無事終わりました。お世話の皆さん、ご参加の皆さん、ありがとうございました。

 前日、当日にキャンセルが続出。特に、関東や高山の方は、前日から京都入れした方以外は、涙を呑まれました。ところが、逆に、台風のせいで、出張の延期、家族旅行の変更、または趣味の山登りが中止になったりと、「急な参加でもいいですか?」という人もかなりあって、けっきょく総数では55名の参加となりました。

 毎回、お話することですが、ご因縁が整わないと、お参りできないわけですね。参加するつもりでもダメになり、その意志がなくても、大願業力に引っ張られてお参りすることもある。だからこそ、つまらない心のわだかまりやひっかかり、かたくなさ、そして参るモチベーションばかりを詮索するのではなく、その時々の、一座一座のご縁と、不思議な縁で集う目の前の人を大切にすることしかできないわけです。普段は、当たり前のように思って粗末にしているけれども、その不思議なご縁の積み重ねでしか聞法はないわけですね。

 そのことは、今回の分級座談でも味わいました。たとえば、たったひとりですが、存在感のある参加者が加わるだけで、そのグループの雰囲気がかわり、またたったひとつの発言からも流れが変わる場面がありました。同時に反発や批判が起こりながら、グループが動き、聞法が進んでいったような気がします。皆さんの中には、味わい深い体験や気持ちをもっておられるのですが、それをなかなかうまく表現できなかったり、ちょっとした聞き方や返し方、質問の仕方がうまくいかずに、結論を急ぎすぎたり、責め口中になってしまって、ますますつっこまれないように、下手なことを言わんようにと、身を守ることをが先攻して、口ごもりがちになるような傾向が、よくありますよね。

 今回、ちょっと膠着状態になった時、グループの雰囲気を感じてもらって、表現してもらいました。その中で、「たいせつな試験の会場のようだ」と表現された方があったけれど、まさに真剣で、大事な場。それだけに、堅苦しくてしんどい。また発言する側も、司会する側も誰かに試されていて、失敗が許されない。そんな雰囲気を、うまく言い当てておられました。

 その意味では、ことばの揚げ足ではなく、参加する人たちを尊重する態度。そこから起こるひとつの発言をしっかり聞き取る姿勢の大切さなどあらためて感じました。その一瞬、一瞬の、今、今が大切なのですから。

 今回のご法話は「迷いの根を絶つ」という題で、かなり具体的にお伝えしました。これは、最後の全体会でも話した内容にもつながりますが、今生腹の延長で、仏法、後生を利用する恐ろしい心がテーマでした。

 最後に、未練が残ろうとも、消化不良であろうとも、またどんなに有意義で、楽しかったとしても、時間が来たら、無情にも終了となる。「お引き取りください」と返される。どんなに法座が素晴らしかったと言っても、ひとりひとりが、自分の業の世界へと、たったひとりで帰っていかねばならない。ご法の厳しさの一面があるわけ。ましてや、まだわからないという人でも、そのモヤモヤした気持ちを抱えたまま出かけていかねばならない。この空しさからも、逃れることはできない。

 以前のぼくなら、無理にこじ開けたり、押し込んだりして、そのモヤモヤをすきりさせてやうと意気込んでいました。それが、今や、そういうモヤモヤした、ハッキリしない、ダメな感じを抱えた人と、時間や場所を共有する。そんな感じを抱えた人と、ただ共にいる、その人のところをしっかりと見つめていく。たとえ、なにも起こらなくても、目を背けずに共に居れたところに尊さがある気がしています。そうすると、きっと自然と開き、動いていくのではないか。もちろん、大無常を前に、「今、ここで」という姿勢は変わらないけれど、あまり焦りや無理強い、操作をして動かしても意味ないものなーという態度を、少し持てるようになって、自分の成長を少し感じていますね。

 その意味で、少し楽に法座に臨めるようになったし、座談会が、ますます楽しみになりました。

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Happy 1st Anniversary

 祝1周年!

 どうなることかと思いつつも始めた、かりもんブログも、とうとうまる1年経ちました。

 昨年の支部長研修会の時に、皆さんにお話した時には、自分でもこんな頑張るとは思っていませんでした。

 とりあえず、何があろうとも1年間は続けてみよう。途中、ちょっとイヤになった時期もありましたが、どうにかこうにか、1年続きました。これも、ご支持くださった皆さまのおかげです。ほぼ毎日更新していますが、特に、このところアクセス数が伸びていて、これを励みに続けさせてもらっています。このところ、ぼくも楽しんで、励んで更新しているのが、いいみたいですね。

 密かに次の目標ができましたので、とりあえずは、そこまでは頑張ってみようと思います。その先は、またその時点で考えます。

 ご指導くださったMAUN.さん。わざわざアクセスくださる皆さん。中には、 もの好きにも、毎日チェックしてくださるあなたのおかげです。

 皆さん、ほんとうにありがとう。

 感謝しています。

 また、これからもよろしく。

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臨時スタジオ

 心配していた台風が、「壮年の集い」と重なりそうですね。

 遠方の方が、準備を兼ねて集まっておられます。今日の方は、OKだけど、明日の交通が、いまのところ不明。問い合わせもボチボチあります。自然のことですから、明日にならないとわからないですがね。

 ご参加の方は、お気をつけてお出かけください。

Img_0694 ところで、今日は、いま「東京公開講演会法座」に向けて製作中のDVDアニメ「仏さまのプレゼント」の音撮りがありました。ナレーター役は、ゆうこが自ら行いました。録音は、さまざまな経験のあるプロの友人が助力してくださっています。下見をして選んだ場所は、2階の炊事場。あの狭い空間が臨時スタジオになりました。今日など最高気温が25度程度なので涼しくて助かりますか、もしいつもの夏だったら、音響代わりの毛布に包まれてたいへんな作業だったことでしょう。

Img_0695  すごい音へのこだわりでして、1階のドアの開け閉めにも要注意。毛布やいろいろなものを使って音の響きを調整されていました。

 また、いま国際的にも注目されている映像クリエーターの石橋正義監督も、一役かってくださり、画像をチェック中。

 完成が楽しみです。

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「壮年の集い」なのですが……

 富山の仏青研修会が終わったと思ったら、7月15日(日)・16日(祝)と、「壮年の集い」が始まります。地方法座と合せわると、週末はズッーと行事や法座が続いています。

 今日の昼も掃除があり、また事務方の準備も、着々と進んでいますが、まったく想定外の状況になってきそうですね。

 この時期には珍しい大型台風接近。京都でも、雨が断続的に強く降っています。

 すでにキャンセルがボチボチ出てきました。それこそご因縁で、自分が参加したくても、九州や広島、また関東や高山などの遠方の方は、交通機関が不通になるかもしれません。初めて参加してくださる方で、かなり楽しみな方があるのですが、遠方の方なのでご縁が整わないかもしれません。

 今のところは、開催は予定どおりです。無理のない範囲で、ご参加ください。当日でも、宿食事が不要ならば、参加できますので、奮ってご参加ください。

 法話は、抜苦与楽の教えということで。仏教とは、苦の根源をのぞく教えです。その苦とは何か。その源を教えていただくことが聞法でもあるわけですが、この点に触れたお話をする予定です。

 参加の要項は、以下をクリックしてご参照ください。

 『第18回 壮年の集い』ご案内 

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一足早く山鉾巡行

 いろいろありまして、一時、雨も上がったので、気分転換に、自転車で街に出てみることにしました。いや、出てみるもんでね。

Img_0675_1  京都は祇園祭なんです。新町通りを上がっていくと、鉾・山建てが行われいました。南観音山と、北観音山の山建ての様子です。  

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Img_0682  室町通りの鶏鉾では、ちょうど浴衣姿の池坊の女学生たちが、まさに鉾の曳き初めとするところでした。コンチキチンのお囃子にのって巨大な鉾がきしみながら動いていきました。山鉾巡行はよく行きますが、曳き初めは初めて。見物客もまだ少なくて、真横で見れてラッキーでしたよ。

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Img_0689                 ←奥に見えるのは菊水鉾です。

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『ブッダは、なぜ子を捨てたか』

 まず、タイトルに引きつけられた。

 『ブッダは、なぜ子を捨てたか』(集英社新書)

0351  えー?と思うでしょう。『教えること、裏切られること』~師弟関係の本質~(講談社現代新書)にしてもそうだが、このところの山折哲雄氏の新書のタイトルは面白い。(内容的には、この『教えること~』の方が、断然、面白かった)

 従来、お釈迦様の出家の動機は、四門出遊や、農耕祭(弱肉強食)のエピソードとして、信仰上の位置づけがなされて語られてきた。

 しかし、ここでは、仏教教団の開祖としての、祭り上げられたブッダではなく、苦悩する人間としてのシッダールタに焦点があたる。社会生活を営み、家族と暮らしている青年が、何故、家族を捨てたかの。「親を捨て、子を捨てる」のである。またなぜ、待望の長男に、ラーフラ(悪魔とか、障害物)と名付けたのか。その肉声を尋ねようとする試みであり、そして、子に去られ父王、夫に去られた妻、父に棄てられた息子、残された家族の心境に迫ろうとしている。それを少子高齢化で、人口が減少に転じ、家族の絆が希薄になっている現代の日本の現状に投影して、いまに生きるブッダを求める視点から筆が進んでいる。

 その出発は、出家ではなく、家出ととられているところに、新鮮さを感じた。ガチガチの教団人では、こんな発想は出てこないだろう。後半は、日本での仏教の受容、発展、もしくは日本的変容というお得意に話に展開していくが、著者自身が、この現代にブッダを求めるくだりがあるので、少し面白い。

 氏の論考にはないが、この発想を突き詰めると、在家止住の浄土真宗の教えに、新たな光りが当てる気がした。伊藤先生のことばを借りると、凡夫とは、「愛妻愛子、これを凡と言い、惜身惜命、これを夫という」のである。ようは、自分がかわいい、自分の家族がわいいの塊なのである。現代社会において、その凡夫が、凡夫のまま仏に成る唯一の道が浄土真宗であるならば、自己が背負うさまざまな重い荷物、ときに障害物を糧にしながら、その苦悩や悲しみを抱えつつも、法を仰ぎ、喜びに転じていくことの意義は大きい。また、ますます混迷を続ける現代社会にあって、そんな形でしか、お釈迦さまの真精神を発揮することできないであろう。

 

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『サン・ジャックへの道』

 当たり前の話だか、期待して観る映画が、期待通り面白い場合もある。あまり期待していなかったのに、よかった場合もある。または、期待しながら、それを裏切られることもある。

 その点では、『サン・ジャックへの道』は、期待して、期待以上に面白かったお勧めの1本だ。

 良質のコメディーであり、万国共通の温かい人情話であり、そして、中年男女の気づきの物語であり、美しすぎる大自然を旅する、典型的なロードムーヴィーだった。

Saintjacques_01_1  ぼくは、こんなロード・ムーヴィーが好きだ。風景が変わると、心境も変わる。気づきがあり、出会いがあり、別れがあり、大切なことを学び、自分を知っていくんだー。

 サン・ジャック。日本人にはなじみのない地名だ。

 スペイン語では、聖地サンティアゴ。フランス語では、サン・ジャックになる。フランスからビレネーを超えて、スペインのサン・ジャックまでの、なんと1500kmもの巡礼路(東京~大阪の3倍だね)。それを歩くことが、母親の遺産相続の条件と知らされた不仲の中年三兄姉弟。それぞれが事情を抱えている。事業の成功と引き換えに、アルコール依存の妻との仲が最悪の長男は、携帯、車、医療(薬)と、文明生活にドップリつかり、からだを動かし歩くことなどは大嫌いだ。無神論者の女教師の妹は、支配的で頑固で、教師として、また(夫が失業中)の家庭でも問題を抱えている。さらに、家庭生活に失敗し、無一文で、アル中なのに、なぜか人に愛される次男。

 それぞれの思惑に、欲の炎も燃えて、遥かな2ケ月もの長旅の道ズレとなる。共に旅をする仲間は、それぞれ訳ありの女性に、母親のためにイスラムのメッカへ行くと思い込んでいるアラブ系の少年など、個性的な面々。最初から、感情が激しくぶつかりあい、不平不満と、仲違いの連続。そんな仲間に悩まされつづけるガイド役。でも、それぞれの事情を背負ながらも、ただただ歩くというだけの行為のなかで、生身の人間同士のふれあい、豊かな心の動きに笑ったり、泣いたりしていると、その背景になっている、あまりにも美しい世界遺産の大自然の巡礼路にも、思わず目がいって、また感動。美しいー。ラスト、聖地で彼らが出会ったものは--。おかしくも、やがてジーンとします。

 車も便利だし、エレベーターも楽。だけれど、シンプルに、この両足を使って歩くことって、素敵ですよね。そのスピードでしか見えないものもたくさんあるはず。ぼくたちは、利便性のみを追いかけて、いろいろな余計なものを身につけること成功したけれど、同時に、失ったものに気づけないのでは、あまりにも悲しいものね。

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罪悪観と無常観の常在意識

 昨夜は伝道研究会でした。

 このところ、ホームページや「仏さまのプレゼント」の教義面の検討をしていたので、本題からしばらく離れていました。いま、華光誌の罪悪観や無常観に関する記事を読むことになって、『念仏の雄叫び』の「罪悪観と無常観」を終えるところです。

 今日の真宗教学で、親鸞聖人や蓮如上人の罪悪観や無常観に関する研究はあります。これが聞法の契機になるものですが、現代の私の聞法上での罪悪観や無常観の位置づけに関しては、積極的に研究されていない。むしろ、求道や内省ということすら避けている嫌いがありますね。そうなると、どうのように、皆さんとお念仏の接点を結んでいくつもりのなのでしょうかね。はなはだ疑問です。

  さて、今回は無常観のところを中心に読みましたが、心に残った点をまとめると、(『念仏の雄叫び』(34ページから46ページ)

 まず、無常観には、刹那無常と一期無常があり、一瞬、一瞬に生滅変化する刹那無常のなかに、大無常の一期無常を取り詰めていく。それも、「今に取り詰める」ように、意識的に進めていく。自分のこころにまかせていると、「なれていく」、もしくは「他人の問題に転化していく」。でも、そのこころを逆に利用して、無常観を進めていくことが大事。

 たとえば自分を、一つのうず巻きと考えると、うずのど真ん中が自分。次第に外に行くほどに自分との関係が薄くなる。真ん中の自分の死は避けたいので蓋をしている。でも、ほんとうはいちばん怖い。その少し外側にある、子供や家族の無常や事故、ケガなどにはびっくりする。それが、他人の子供なら、「かわいそう」と思う程度ですむ。日本でおこった大地震、外国での大事故や大災害と、渦巻きから遠くなるほど他人ごとになっていく。

 つまりは、自分中心にしかものが考えられない。なれていく自分に無常を感じていく。そういう自分の心だと見抜く、そこに驚きをたてることに無常観がある。なれる心をもって、なれる心を切り、聞きたくない心で持って、聞かせていく。切り返していく。けっして、聞かない心を聞かせにかかるんじゃない。ここが聞ける人、聞けない人の紙一重、ポイントだと。

 そして、「時は命なり」で、無常観と罪悪観の接点、両者を支えるものとして、「時間」と「命」をあげられて、次のように結ばれています。

 「無常観、罪悪観ということは、この如来さまの本願にめざめ、その本願につらなる具体的な実践ということであります。」

 「無常観、罪悪観も、人さまざまです。……信の得られた人が懈怠に流れるのは、無常観、罪悪観を持たぬからです。地獄一定の自覚と、この身にかかりはてたまいし、如来の大悲が思われなくなるからです。無常観、罪悪観は、信前信後をとおして、求道の大切な方法論だと信じています。」

 単に、初心者のための内省の方法ではなく、信にめざめたものこそ、罪悪、無常観をもとに内省し、念仏させていただくことが、聞法だと。伊藤先生の言葉を借りると、罪悪観、無常観の常在意識ということです。

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はちす

  安芸高田市の高宮町での、広島支部法座でした。

Img_0666  朝、広島駅に集合して、ジャンボタクシーなど4台に分乗して出発。高速を使っても70分はかかります。近くに、ニュージーランド村などがあって、まわりは山と川Img_0665に囲まれた田園と酪農の田舎町。もう少し行くと島根県との県境だそうで、ちょっとした小さな旅行気分。農家なので、蔵や作業場もあり、冠婚葬祭も自宅でされるために大きな家が多い。今日は、この地域で盛んなお神楽の集いがあって、Y家の前は車でいっぱいでした。Y家も、とても大きなお家で、法座をやるには申し分のない広さがあります。回りは田んぼで、川が流れています。

Img_0662_1  見事に咲いた美しいハスを眺めながら、縁側を戸を全開して、川面と、田を流れる涼しげな風を受けながら、とても開放的な雰囲気で法座を持たせてもらいました。

  Img_0670_1お仏壇を購入されたのを機会に、毎年、この時期に家庭法座として開かせてもらいます。このご縁でも、仏壇屋さんもお参りされることが何度もあります。Yさんと華光とのご縁は、とても深いのですが、ご因縁が整ってこの地でもご法座が持たれるようになりました。今年で4年目。ご主人さんや、お嫁さんも喜んでくださっていて、ご法座に参加してくださいます。本家やご親戚の方もお参りくださることもあります。

 今回は、富山のご法話に手を加えて、ほんとうの幸せの原点と題して。三悪道を離れて人間に生まれたこととの喜び。にもかかわらず、怒りと、欲と、嫉妬と、不平不満で、畜生や餓鬼同然の生き方をしている「人でなし」の自分を姿を知らされること。さらに、その縁他力の小さな喜びに留まられず、根本の迷いの根を切るところまで聞かせてもらう意義についてお話しました。

Img_0661 では、その迷いの根源とは何なのか。どう断ち切っていくのかは、法話で話せずに、座談での宿題にしました。23、4名のお参りがありました。今回も、広島市内や尾道から初めてお参りされた方が2、3名あって、いいご縁でした。初参加の方が、自分のところに引き寄せて発言してくださったので、座談が盛り上がりました。Img_0663今後のご縁が楽しみですね。ありがとうございました。

 法話や座談の最中も、小さなお孫さん「シンちゃん」たちが、ぼくの前や後ろを走り回っていました。かわいい写真も撮ったけれど、掲載できないのが残念。でも、そんな雰囲気が、まったく邪魔にならないのが不思議でしたね。むしろ、一緒にご法座に参加てもらえて有り難かったですね

(写真、クリックして見てください。きれいですよ)

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七夕音楽会

Img_0652  今日は星に願いをの七夕さま。

 仏教とは関係ありませんが、二女の通う保育園で、毎年、七夕に歌の発表会が持たれます。

 音楽祭といっても、ゼロ歳児から始まって、一歳児、二歳児と進んでいきます。わが子の番。この流れで見ていくと、この時期の子供の成長ぶりは、驚嘆ですね。しっかり長い歌を、振り付けで2曲披露してくれました。さらに、四、五歳児と続いて、仏教大学生によるパーフォーマンスもありましたが、わが子の出番が終わったところで、帰宅。

 いい気分展開になりましたね。あとは、家族で外食して、午後からは、ゆっくり公園で、子供と遊びました。楽しそうな姿をみると、こちらも、元気になります。

 明日は、広島支部法座ですが、いつもの市内と違って、安芸高田市まで遠出です。年に一度、Y家の皆さんと、ご法縁を持てるのが楽しみです。

 あと、華光会館では、日曜礼拝が持たれます。ほんとうに久しぶりに、悟朗先生の子供向きのご法話がありますよ。終了後は、子供と大人に分かれてのImg_0658_1分級座談会です。

分かりづらいですが、額

は何故か釈尊涅槃図☞ 

PS;七夕の夜、保育園と壁を隔てた東寺の境内では、世界9ケ所で開催された、地球温暖化防止の「ライブ・アース」のコンサートがあって、ボニービンクやYMOが出演したようです。でも、保育園も熱演だったぞー

                                                     

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巡回テープ

 華光の同人会に入会すると、特典があるのか?

 実は、同人会に入会しなくても、法座にも参加できる、華光誌や法座案内は、誌友でもいいし、華光誌にも投稿できる、先生の横で会食するのは、むしろ新人のほうである。そう考えると、入会しなくても、特別な特典などないのかもしれない。(もちろん、宿善になるなどと、上手い言葉で勧誘もないしね)

 もしかすると、大きなメリットは、聞法の意識が変わるという点にあるのかもしれない。

 まずは、年に1度。華光会の事業や会計を決める、総会に出席して、議決権が行使できるということ。

 実務委員や運営委員などになって、積極的に法座活動に参画することができること。

 あと5名以上その地域で仲間がいると、支部長を自薦して(ここが昔から面白い。自分たちで決めたらいい)、支部を結成することができ、講師派遣の法座がもてたり、大会などの当番が出来るなどのメリット(もしかする負担?)がある。

 つまりは、より積極的に、からだをかけて聞法できますよ、というわけである。

 あと多少、特典らしい特典といえば、巡回テープのサービスを受けられることがある。

 で、今日一日は、支部巡回テープの巡回表やタイトル・ラベル作りに励んだ。

 このご時世に、かなりアナログな、古典的な制度である。

 まず、いまだカセットテープを使用している。

 一本のテープを、支部に送り、それを次々支部に郵送で回していく。送られた支部の担当は、それをダビングして、今度は支部内のルートで回すのである。

  第一、華光の中なら、ダビングしてOKというのだから、この点でもなんともおおらかだ。

一本のテープが、日本中のお念仏のあるところを旅(以前は北海道から鹿児島まで回り、京都に戻って、最後はアメリカに渡ていた)するのである。なんと味のあることか。

また、前の支部に送られたテープに、ときに一言、法味が添えてある。その温かい一言がうれしかったりする。

また支部内で滞って人がいると、そのついでに、「どうされてますか」と声がかかり、次のご聴聞のきっかけになったりする。

または、それをもとにみんなで、聴聞会をもったりする。ちょっと巡回するという行為の周辺部分に味があるのだ。ダウンロードして終わりというのでは、これがない。

 まだまだ高齢の方が多くて、カセットテープが便利なようだが、ぼく自身、すでにこれでは不自由なのだから、お若い方にはなおさらだろう。近々、デジタル化が進むことになる。時代の要請でしかたないけれど、このアナログ感、時間もかかり、手間もかかる作業にも、温かい味があったことは忘れたくないなー。

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クロスバイク

 クロスバイク(自転車です。念のため)を購入した。 

 何年も、8,900円のママチャリを愛用していたが、このところ連日のように、パンクをする。そのたびごとに道具を揃えて修理し続けたが、これがけっこう邪魔くさい。ほぼ毎日の必需品なので、不便でしかたなった。が、とうとう、タイヤごと交換が必要の事態になった。修理のおやじ曰く。「新品買えるよ。次は、中国製はやめて、日本製にしたほがいいよ」と、買い換えのすすめ。

以前から妻の方が自転車購入に積極的だったので、今回も大乗り気で、「買おう、買おう」と。それにつられて、「それなら奮発するか」と、意見一致をみたのだった。とはいえ、ここもピンからキリまである奥の深い、深い世界だ。ある程度の予算が決まらんと、計画も立てられない。

 彼女の乗り気ぶりからも、かなり期待して、予算を尋ねる。

 ワクワク、ドキドキ。

 要求額を秘めながら、彼女の返事を待つ。

  「まあ、2万円ぐらいかなー」。

 「ガーン」、こ、こ、これは厳しい。 さすがわ、旦那のことにはしっかりしておられる。

 何年も前から、「カッコいい自転車を買おう」とあおりながら、これではぼくの要求額の半額程度だ。でも、くじけちゃダメ、ダメ。ここから粘って予算折衝。

 艱難辛苦の末、とうとう 「2万円程度」を、「2万円台までなら」で決着。

 玉虫色ながら、実質は150%近い上積みに、大勝利だ。

 さっそく、自転車好きの友人に尋ねると、なにも日本製でなくても、いいものはあるとのこと。街中を走るなら、タイヤの太いマウンテンパイクでなくて、ノーマルなタイヤで、ハンドルがフラットの、クロスパイクがいいんじゃないかと、近所のお店まで紹介してくれた。

 さっそくその足で、お店へ。1階は、普通の自転車屋。奥に、2階に続く階段がある。ちょっと勇気をだして登っていくと、自転車を抱えたそれなりの客とすれ違う。ジロッと、店員に一瞥されて、「ちょ、ちょっと見せてもらいます」。こりゃ、場違いじゃ。どうやら、好きな人は、サドルやタイヤはもちろん、フレームやサスペンションひとつにこだわって、自分で組み合わせるらしい。もちろん、組み立てた自転車もあったが、これが、びっくりするほど結構なお値段のものもある。でもぼくだって、預貯金ぐらいもってるぞーと、落ち着いて見ることにした。けっこう予算に収まるものもあって、一安心。

 クロスパイクを見つける。すぐに、「ああ、これカッコいいなー」と思ったのがあった。イギリスの自動車メーカーだった、ローバー製のクロスパイク。さてさて、肝心の値段だ。

 税込「29,400円也」。もう一度、0を確認する。まちがいなく、2万円台だった。

 さっそく、またがせてもらった。乗り易くて、初心者にはお手頃か。とりあえず、キープして、他店やネットで調べてみたが、どうやらお買い得であるらしい。1週間ほど考えた末、先日、とうとう購入した。

 ライトやキーなどを付属品が必要だったので、若干のオーバーしたが、そこは自己負担すると、予算内でおさまる。現物をみて、彼女も、子供までも喜んでいた。

  颯爽と、風を切って走ると、遠出をしたい気分にもなるね。グングン走ったいこう。

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シベリア抑留問題のほんの一旦

  朝から、小雨。それでも自転車で、五条河原町の「ひと・まち交流館」へ、自力整体に。おかげさまで、次々と行事や法座が続くわりには、元気に過ごさせてもらている。何年かかけて、体質改善に勤めた成果が現れているのだろう。一方で、じわりじわり「老い」が迫っていることも、体で実感する年齢になったので、なおさらだ。今日は、10月が初産という妊婦さんの隣で、体を動かした。からだがほぐれると、気分もほぐれる。

 帰路、ロビーを通ると、、「シベリア抑留展」の案内。その素朴な手作り感に誘われて、ちょっと覗くことにした。高齢の男性数人が、受け付けにいたが、だれも見学者はいない。壁新聞並の手作りの展示や写真を見ていると、ビラをもって、世話役の男性が話しかけてこられた。しばし立ち話。この問題も、急速に、高齢化と、風化が進んでいるようで、法廷闘争の最後の機会になるといわれていた。もちろん、左翼的文脈、右翼的文脈に絡み、戦後の国際的な政治問題もはらんで、国内的にも複雑に関わる問題なので、なかなか軽々には語れきれない点もある。(この展示の支援も、某政党がからんでいるのだろう)

 しかし、『蟻の兵隊』の山西省残留兵の問題も、従軍慰安婦問題も、そして沖縄戦集団自決の「軍命令」をめぐる教科書検定の問題も、同じ根にあることは確かだ。法律的には「命令」はなかったという権力の論理と、その銃の権力の支配下で、他に選択の余地などなかった民衆の悲劇という構図だ。しかもそれらは、原爆投下までが「しょうがなかった」の一言で済まそうとする権力の気質で、抹殺されようとしている点も同じ。(それにしても、久間前大臣の発言はお粗末。その首相のコメントのズレ具合、「閣僚からも批判の声があがっています」という報道で聞いた閣僚のコメントの焦点がボケ具合-「選挙前なので、言動には厳重に注意する必要がある」。選挙前だから注意という政治家の認識が、もう庶民感覚からはほど遠い。)

 スターリンとの密約があったにせよ、ないにせよ、戦争で泣くのは、いつも民衆側である。満州しかり、沖縄しかり、上層部は、無責任にも、棄民、棄兵してまでも身の保全のみを画策し、決して民衆を守るための軍隊などは存在しないのだ。その意味で、今日の「大切な、愛する人や、国土を守る」という美辞麗句で語られる再軍備のムードは要警戒だ。

Img_0649  当日の抑留生活の遺品やスケッImg_0650 チと合せて、いまなおシベリアの原野に残る遺骨の収集作業の様子を伝える写真が展示されていた。この無名の無数の舎利頭を踏みつけた上に、今日のぼくたちの繁栄があることだけは、まぎれない事実である。

 外に出ると土砂降りになっていたが、自転車で次の目的地へ。

 展示品の写真撮影や、ブログ掲載を了解してもらったので、少しここに紹介する。京都新聞にも記事が掲載されていた。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070628-00000001-kyt-l26

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華光誌発送しました

 今日は、京都支部3名の有志の女性方に助っ人をたのみ、7名で華光誌の発送しました。今回は、巻頭言と、聖教のこころを書いています。また、同封されている案内が多いので、ぜひお目を通してください。

 8月3日 (金)~6日(月)のある「華光仏の子ども大会」の案内状。ご縁がない方でも、お孫さんなどにもぜひお勧めください。

 9月15日(土)~17日(祝)の「東京公開講演法座」の案内状と、16日(日)の「公開公演会」のチラシ。

 また、人によっては、7月15日(日)~16日(祝)の「壮年の集い」の案内状が同封されています。

 いろいろと同封物が多くて、思いの外、時間かかりました。メール便の受取り時刻にかさなり、業者が「明日来ます」と、危うく明日の発送になりそうなところを引き止めて、セーフ。お手元には、早くて明日。普通は、2~3日かかると思います。

 夕方から夜にかけては、いろいろな人に電話で話しました。もちろん、それぞれ用件があってのことですが、先日初めてあったばかりの華光以外のお寺様、、華光を離れてどうされているのかと思っている方、ここしばらくご無沙汰の方、または、ちょっと気がかりな方にと、その用件は、ご出産のお祝いだったり、法座のお知らせだったり、原稿のお願いだったり、時には相談だったり、またはブライベートな用件だったり、ほんとうにさまざまでしたが、いろいろな方の声が聞けただけでも、ちょっと気分変わりましたね。「袖触れ合うも多(他)生の縁」。自分が意識しないだけで、実に、さまざまな方と、いろいろな形で、ご縁を結んでいるですね。(縁をよろこんでるだけですが)、自分の自性からいうと、不思議なことです。しかも、ぼくの場合は、その大方がその中心に「法」があってのこと。ただ、その「法」の向き会い方、とらえ方、意識の仕方は、それぞれで、そこの違いだけとらえると、「東じゃ」「西じゃ」「今生事だ」「縁他力じゃ」と、自分の小さな物差しで峻別をやってるわけです。

 もちろん、廃立の大事さは外さないけれど、下手すると「お山大将ぼく一人」と独善的になるおそれもある。その意味で、あくまで個のレベルではそこを押さえながらも、少し寛容になる必要性も、最近は実感しています。

 今回の壮年の集いの分級でも、皆さんが愛想を尽かした長年の求道者と、かなり気長に関わったことに触れられる方があって、「若い時は、あんな場面ではもっとイライラされてましたね」と指摘されました。いや、ほんとうそうですね。多少は、ぼくも丸くなってきたのかもしれませんねー。まだまだ勉強中ですが。

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遠く宿縁を慶べ

「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」

Img_0637  富山仏青研修会、あっーという間に終わりました。ほんと、名残惜しかったです。

 当初、大人数 で、どうなることやらと思っていましたが、進行・運営は、先生やご家族、そして仏青の世話人の皆さんのおかげで、大きなトラベルもなく無事終了しました。心配していた、トイレや洗面所も、混乱なかったようです。

 それにしても、不思議なご因縁です。数年前まで、富山のお寺でImg_0639、華光の集いが、しかもこれだけの人数が集って行われるとは、夢にも思っていませんでした。それが、関東や九州からの仏青の若い方のみならず、福井、石川、富山、そして高山と、かなりの数の壮年の方が、しかも大半が、ここ1、2年の間にご縁ができたか、または今回、お知り合いに連れられてお参りしてくださった方が中心でした。

 小生の分級は、壮年グループ。88歳のおじいさんもおられて、仏青とは縁遠かったし、輪には加わらず、檀家さんやご住職ご夫妻の見学組もあって、その組から時に発言もあlり、ちょっと微妙な空気が流れていました。でも、知人や姉妹のご縁で初参加された方たちは、ご法話や分級座談会の雰囲気が、新鮮な驚きだったようで、今後の聞法のご縁がつながったようです。

 ある集いで、「自分の中をみると、お参りする気持ちどころか、ご法座に参加する資格もない」と発言くださる方がありました。まったくそのとおり。仏とも、法ともなく、三毒の煩悩渦巻く身ですから。それが、尊い法座に座らせていただくという、その事実だけを凝視しても、仏縁の深さ、有り難さを、不思議さを慶ばずにはおれません。縁(ご縁のところ)他力のレベルで考えても、如来様の大願業力のたまものでないものはない。

 しかし、その仏縁も、無常なわけです。いつまでも続くとは限らない。ご因縁が尽きれば、いくら努力しても、離れたり、壊れていくこともあるわけ。華光の集いにして、その歴史をたどってきています。それだからこそ、眼の前にある、今、今のご縁を、それがどんな小さなものでも、粗末にするわけにはいきませんね。だって、次もあるというのが妄念妄想の産物なのですから。また逆に、自分のものと執着していくのも、無我の教えからは轉倒している。すべては、ご因縁によって生れ、消える因縁生なのですからね。

 でも、そのなかでも、阿弥陀様の大願業力の執念はすさまじいです。「いし、かわら、つぶて」の、救う手がかりがなにひとつもないこの身が、南無阿弥陀仏を慶ぶ身になれたというのでしょう。いくら考えても不思議の中の不思議です。もう遠い遠い、遥か昔からの如来様のやるせない願い、宿縁の催しを仰がずにはおれません。

 「南無阿弥陀仏。尊いご縁をありがとうございました」、と、お礼申すだけです。

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☆先生のお寺は、高速のICから近く、住宅街のなか。想像以上に街中で、特に近くに観光名所もありませんでしたが、神通川が近くに流れています。各自、ブラブラと銭湯にいきました。別に珍しくないですが、小さな銭湯の外観です。浴槽の上に、熱帯魚の水槽がきれいでした。少しだけお寺と似ていますね。

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