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6月の輪読法座~「身で聴く体験」

 昨日は、華光誌の輪読法座があった。

 毎回、12~15名くらいの参加で、メンバーも固まってきたけれど、初めて参加してくださる方が、3名あった。年代的には、仏青世代のお嬢さん方々。また、このためだけに広島からわざわざ遠征してきてくださった。

Img_0590  少し早めに来館され、家内がお相手する予定だった。でも、体調不良で、ぼくが代わって一緒にランチに出かけた。彼女たちとは、いつも広島法座で顔をみるけれど、京都でランチをするのも、不思議な感じがした。でも、せっかく休みを取って、来てくださった。まだまだ聞法の緒の緒というところなのだが、砂地に水が吸い込むように吸収されていく、その姿勢がうれしい。理屈や教義以前に、大切なものは何かを肌で感じて、素直に聞いておられるようだ。その姿勢は、逆、理屈ぽく、頭でっかちになりがちな身には、新鮮で、教えられる気がする。

 輪読は、「身で聴く体験」。「いま、ここで、かけがえのない「私」が聞く」ということが、テーマとして繰り返して示されて来る。そうなんてすね。人ごとではなく、自分の問題以外はないわけです。

 輪読するうちに、いろいろと疑問が出されてくる。たとえば、(華光用語でしょうが)三つの機「黒い心」「暗い心」「白い心」のところで、「暗い心とは何か。それを捨てるとはどういうことか」との質問がだされた。

 また、「落ち機を知る」「落と身になる」というところで、この「落ち機」とは何か。「地獄行き」の「地獄」をどう捉えるのかという質問もあった。

 正解を答えることは、簡単である。説明もいくらでもできる。もちろん、教義的に、または知的レベルでも、そこを押さえておくことも必要な場合もある。

 しかし、それを用語として知っただけで、一体、どんな役に立つのだろうか。質問者も、けっして、そんな知り方を望んでられるわけではない。そんなことは、説明を読めば分かることだし、覚えることもいくらでもできる。

 いま、ここでの、「私」の、この身のところに、どう関わっているかがポイントになるのだろう。そこが難しい。

 だから、説き手も、知っていることを与えるだけでなく、問題が出て来る根のところ、その根本の気持ちや状況のところを大事にして、正解を与えるだけでなく、求め手と共に、他の中の、分からないモヤモヤのところに留まって、そこをじっくり味わってみる必要もあるんじゃないかと思った。もしくは、説き手側が、結果を焦らないで、共に歩んでみる姿勢も大切なのかもしれない。

 それにしても、またまたこれも難しいことだ。

 本文の「身で聴く体験」というテーマに、ピッタリの状況ですよね。

 

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