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願われ、信じられている

 東京支部法座、ありがとうございました。

 今回は、9月の「東京公開講演法座」の準備、下見も兼ねて、家内も早朝から参加していました。でも、彼女は、法座に参加しても、分級は別だったし、気の毒なほど忙しく、休み時間や懇親会の時も、下見に次ぐ、下見で、すれ違い状態でした。東京の皆さんにかなり手助けしていただきました。

 さて、このところの支部法座では、大経下巻の三毒段を、現代語訳を中心にいただいています。でも、テーマは同じでも、話す話題は異なるところもあるし、その時、その時の味わいも異なる。第一、聞き手が変わると、その雰囲気も変わるわけです。半日でサーッと飛ばして東海支部法座に比べて、東京では、二日間でゆっくりと味わいました。

 今回の場合、三毒段の、大経での位置づけについて、かなり時間を割きました。ちょっと、講習会みたいでしたが、大経全体の構造から、大意、分段なんかも、少しだけ触れました。案外、皆さん、ご存じなようで、体系立てたことはあまり得意ではないようです。ひとつは、たとえば、以前に別の会などで、教学を学んだことが、華光に来て空しく感じられておられる方も、多いからだと思います。

 でも、ここを押さえたおかげで、お釈迦様のお説教(誡め)の真意が理解できると思います。三毒段だけなら、(そこには一言も、阿弥陀様の本願には触れずに、「善」や「道」を勧めておられる)、勧善懲悪的に読めてしまったり、善悪因果の通り理解することだったり、罪悪、無常観の勧めだったり、または信後(俗諦)の身の嗜みと理解で留まってしまうこともあり得るわけですね。

 今回は、35、6名の参加でしたが、2/3の割合で、男性が中心。しかも、仕事に、家庭でも葛藤をかかえ、若老の間に挟まれている30台後半から40台後半の方が、圧倒的に多かったと思います。その意味では、三毒段の、わが身の浅ましさ、人間関係を通じた悲劇と、自分の生活の姿がありのまま感じられたようです。座談会での、皆さんの、具体的な味わいが有り難かったですね。ぼくも、個人的に共感する話がありました。ご同輩、家庭生活もほとほとたいへんですなーと思いましたね。でも、単なる、今生の生活だけに留まらず、そこを通して、仏法に向かう自分を内省させてもらう。ある方が、「まったく、真実と正反対の生き方で、仏法聴けるはずはない」とおっしゃたかと思うと、とても、落ち着いた静かな口調で、「ここにいる資格がない。申し訳なく、辛い」と、ビュアーに内省される方もありました。

 確かに、ほんとうに、わが身が照らされていけばいくほど、無仏・無仏法の自分が見えてくるわけです。でも、そこで留まっているだけなら、ただ機を嘆くだけです。そこから、もう一方で、広大無辺の大悲を仰ぐ、私たちの罪業を、苦悩をみそなわされた、ご苦労をお聞かせにあずかってこそ、ほんとうの自分の有り様が、位置づけれてくるんじゃないでしょうかね。そこがかけると、ほんとうの自分はわからないわけですね。

 そこを聞かせていただきたいものですね。

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