真宗連合学会(1)
金曜日は、朝から大谷大学で開かれている真宗連合学会に出席しました。
地下鉄の北大路駅からすぐなので、会館からでも30分ほど。あいにく大気不安定で、途中で雷鳴と共に、激しい雨になりましたが、北山を背景に、鴨川が流れ、右手に植物園もあって、いかにも京都らしい風景ですね。
ぼくは、仏教学関係の学会と、心理学関係の学会のいつくかに属しているのだけれど、大学院修了後は、あまりかかわりを持っていません。それでも、たまに京都の大学である時ぐらいは、別の空気を吸うつもりで、顔だすことがあります。
今回は、親鸞聖人の流罪八百年に当たるので、それに関する古田武彦先生の発表を聴きたかったんですが…。
でも、面白かったのは、中国浄土教理史的の必然的な展開として、理観から、事観へ、さらに称名念仏へと発展する過程、つまり浄土の行が、「観ること」から「称えること」という画期的な転換を、道綽、善導の『文殊般若』の「一行三昧」の引用から考察するものでした。善導様の当面で、読み替えで引用された『文殊般若』の「一行三昧」の引用部分は、宗祖も教行信証の行巻の中で 、『往生礼讃』から引用されておられます。(ちなみに、一行三昧は、ただ念仏の一行のみを修する行です。でも、その「念仏」とは、今、私達が普通に考える称名ではなかったんです。それが、無量寿仏の名字を称える、つまり口称念仏となったことは、たいへん画期的な転換だったんですね。もちろん、それは単なる口称ではなく、本願力に相応する念仏というところが、大事ですが)。
面白かったのは、その問題を、今日の浄土真宗の東漸というか、国際化に絡めて、「行」の問題と結びつけた問題提起にありました。つまり、親鸞さまが、一部の力量のある人の、個人内の神秘的な宗教体験に留まる可能性のある天台の止観行(すなわち、心を凝らして観る行ですね)を捨てて、より易く、共に称えて、念仏の声が響きあう、他力の行としての称名を選ぶという宗教的な決断があった。
ぼくなりに理解したところでは、今日の私達は、一切衆生に開かれた弥陀の本願の行以外では救われていく手がかりがないわけですが、それはある種、大乗菩薩道精神のより積極的な発露の結果といえるわけですね。
ところが、21世紀の現代アメリカ社会において、浄土念仏の一行だけでは、受け入れ難い。そこで、真宗寺院でも、入門として、禅やウォーキング・メディテーション(歩く瞑想・行道ですね)を前段階として、進んで信と、信に伴う称名が勧められるケースもあるか、これを雑行・雑種として批判するだけなら、非日系人を浄土真実の教えの入り口で拒否することになりかねない。この問題を、観ることから、称えることへの大転換をした浄土教の歴史から、新たな位置づけ、光りを当てることができるのではないかという趣旨だったと、理解しました。
実践的に伝道にかかわっているものとしては、このあたりのテーマは面白いです。
少し長くなりそうなので、このあたりで。(2)へつづく……。
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コメント
おはようございます。先日は、お世話になりました。ありがとうございまいた。「南無阿弥陀仏」がわたしに届くまでのご苦労を理論的に、わかり易く教えていただいてありがとうございます。 「浄土真実の教えの入り口で拒否することになりかねない」ここは、理解共感できます。しかし、難しいことでもありますね。受け入れた側の力量というか、三量がしっかりでき且つ伝道姿勢(考え方・行動方法など)が大きく影響すると思います。「後生の一大事」が抜けたり、軽んじたりしないといけないですよね。最近、真宗系HPをみると「綺麗な表現」「ここちよい表現」が目につきます。時として「ストレートな表現」の方が良いなと感じることもあります。支部の責任者としてでなく、御同朋御同行のひとりとして、「後生の一大事」の解決を軽んじることなく、関われたらと思います。今後ともご指導、ご鞭撻をよろしくお願いします。
投稿: 稜季の父ちゃん | 2007年6月12日 (火) 08:31