行き詰まっちゃたなー
隣地との境界にはブロック塀が立っていたが、いまは基礎だけが残っている。ここで、境界確認の手続きがあった。すでに両者で確定済みなので、双方に異論はなく、改めて確認の上、書類を交わしあうことになった。
ただし、大型重機が入って、仕事部屋はうるさい。すぐ前なので、暑くても窓があけられないのも、不自由。でも、当面の辛抱だね。
仕事は、月曜日から華光誌の表紙関係。
8月の仏の子供大会、9月の東京公開講演法座の案内があるので、その打ち合わせが続いている。6月の富山の仏青研修会でもそうだが、いかに、華光会館が便利で、有り難いかがわかる。毎回の食事、風呂、会場、法話会場に、分級部屋等、交渉事が多岐に渡り、お世話役はたいへんである。会場までの交通手配ひとつでもたいへんだ。皆さん、ご苦労さまです。
それで、裏案内、後記、写真の記事などは完成したが、「巻頭言」が不調。どうも、行き詰まっている。
1)いちおう、「棚からボタ餅?」と題して、書いているけれど、どうもいまひとつ、ふたつというところ。
2)いまは、支部長研修会の最後にまとめでお話させてもらった、認知症のケアに関しての「パッチング・ケア」という問題にも、かなり心が寄っている。
ある本で読んだのだが、認知症の患者さんに対して、「かわす、はぐらかす」ようなやさいしケアと、それを批判した形で、しっかり現実に向き合い、事実を事実として認識させる「パッシング・ケア」。しかし、第3の道として、かわしたり、はぐらかしたりするのでも、また特定の人が力んで向き合うのでもなく、各自が、それぞれの立場で小さなケアを重ねていき、一見すればケアらしいことはなにもせず、偶然にゆだねるがのごとくしながらも、その自然なかかわりや態度によって、その関係がシフトしていく「パッチング・ケア」。ひとりひとりが丁寧な関わりをもつことで、場の空気が包みこむようなケアを指すというテーマが、頭をめぐる。
これは、ご法の伝え方、人と人との関わり方の変化に対して、ひとつの大きな示唆となるのではないかと思っている。
3)もうひとつは、「擔板漢」という、禅宗の言葉から、ヒントをもらったテーマ。これも以前から考えている。「たんぱんがん」とは、板を担いだ男という意味。板を担ついで、坂道をいけば、その担ぐ板が大きければ、大きいほど、片方しか景色は見えない。普通は、ものの一面だけ見て、自分の小さな考えに固執して、全体を見渡すことのできない偏見者をさしている。また、自分が抱えこんでいる物や理念に左右されて行動する人。そういう禅者を揶揄する言葉だそうだ。(参照:「仏教語大辞典」)。
でも、問題なのは、片方でも景色が見えているという点だ。象のしっぼだけを持って、象の一部と思うのも同じで、なにか体験したり、経験があるからこそ、これが逆に重い足枷になってしまう。だって、一面とはいえ、それもほんとうなのだから、ますます偏狭になり、それどころか、この偏った知恵で、他人を批判したりして、自分も他者も苦しむのだから、迷いは深いわね。所詮、自分の「確かだ」は、ほんとうの智慧でないことを教えていただくのでしょうね。でもここが難しい。それには、その知恵を、一度、捨てる必要があるのもね。担いでいる板も、握っている尻尾も、一旦、離してみることの難しさ。仏智に会って破れない限り、私の知恵は、いつも擔板漢なのだなーと、しみじみ感じますね。
このまま「ボタ餅」にするか、「パッチング・ケア」になるか、それとも「擔板漢」にするのか。さあ、どうする? タイムリミットは今夜いっぱい。頑張れー。
稜季の父ちゃんさん>>支部長研修会、こちらこそありがとうございました。ほんとうですね。また「その2」を書くつもりです。
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