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2007年6月の26件の記事

富山仏青研修会

 さて、いよいよ富山の仏青研修会です。ワクワク、ドキドキです。

 受け入れのお寺の方は、準備万端。一大イベントという感じで、ハリキッテくださっています。楽しみです。

 ちょっと、法話は困りますね。仏青の方より、40台の壮年の方の方が多いかもしれません。平成生まれから、1日だけですが、大正生まれの最高齢は80ウン歳の方まで。檀家さんもお参りくださる。若い人もいる。初めての方もいれば、娘も、妻も、姑もいる。かなり焦点を絞りづらい感じです。

 例によって、昨夜も寝る前ごろから、ゴソゴソはじめました。なるべく入り易いところを導入にしたいですが、素材を選んだので、雰囲気をみて修正していきましょう。

 京都から車で約4時間。まもなく集合です。では、行ってきます。

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華光誌66-3号完成

 「華光誌」66巻3号が、完成しました。

 今回は、「東京公開講演のチラシ」、「東京公開講演法座の案内状と申込書」、そして「仏の子供大会」案内状などが同封されます。「東京」の案内状が遅くなったので、急ピッチで作業を進めて、やっと版下が完成。今朝、近所の印刷所に回りました。

 発送予定は、7月3日(火)なので、いましばらくお楽しみにお待ちください。

 明日の富山、日曜日の華光会館での京都支部法座のおまりいの方は手渡します。

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『2:37』(邦題:「明日、君がいない」)

 5月、6月と、なかなか面白いなー、いいなーと思う映画や、興味深い本に出会って、収穫がありという感じです。でも、行事や話題も多くて、なかなか書き込めじまい。まずは、6月に見た映画あたりから、ボチボチと書いていきましょう。

237poster  オーストラリアの、19歳の青年監督(兼脚本)作品。『明日、君がいない』(原題:2:37)。原題が、謎めいていたけれど、見終わって、「なるほど」ね、意味がある。

 よく出来とりました。

 ほとんど予備知識なかったので、最初から、「あれ?」、ガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』によくにているなー。高校を舞台にした悲劇という設定、時間を超えてフラッシュバックを使ったり、複数の視点で同じ場面を何度も見せたりね。また『エレファント』では、何度も流れる雲が登場したように、こちらは、木の葉のざわめきだったりしている。でも、根本的に違うのは、人脈の感情が表にでていること。『エレファント』は、完成度が高く、非常にサトルな部分を拾った、繊細な造りだったのに比べると、情動に訴えるので、かなり見やすいです。

 まず、高校で悲劇がおこる。誰がその悲劇を巻き込まれたのかがわからない。自殺なのか、もしや殺人なのか?、深い悲しみ、苦しみ(徐々にこの悲しみがなにかが分かって来る)を抱え、母にそれを聞いてもらいたいと願いいながら、親の関心は優秀な兄にあり、孤独を抱える少女。仕事一筋のエリートの父親を尊敬しながらも、その重圧が常にのしかかり、完璧主義の厳格な父親の目がいつもある優秀な兄の、屈折した心と行動。身体的な問題からいじめを受けている男の独白では、家族だけは自分にやさしく、手術の時にも親身に世話をしてくれた。だからこそ、家族には心配をかけたくないと、いじめの悩みを打ち明けられずにいる、男の子。人気者のスポーツマンで、かわいい彼女がいるのに、実は内心に秘密をもつマッチョな学生は、弱いものをいじめている。自らゲイをカミングアウトして、除け者にされている男性などなど。6名の高校生の男女が、たとえ表面的に幸せそうでも、内面に深い悩みや苦しみを抱えているさまが、ある種のサスペンス仕立てで描かれています。

 監督の実体験をもとに、ほんの1、2年前の高校生なのに、この世代のもつ不安定さ、残酷さや暴力性、悲しみや孤独感などが、ビビッと伝わってきます。

 

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児童手当

 印刷所に子供大会の案内状を届けたついでに、6月中の児童手当の現況確認所を区役所に回った。税制の見直しで、増税分と、減税分の変化があります。まあ、差し引きはボチボチというところなのですが、それに伴って、国保や、介護保険、年金額なども変化しているけれど、正直、昨年あたりから、(年金、国保のところで)、かなりの負担増です。6月に請求が来るたびにドッキリしますね。一方で、負担増を感じるのに反比例して、ずさんな処理や管理が次々と発覚して、国や行政への不信感、将来への体感的な不安感は、年々強くなっています。まあね、ぼくのところは、たとえ少額でも、児童手当が支給されると、ホッとしますが、これはこれで根本的な解決ではないのでね。むしろ、若い世代ほど、事実以上に、老後の不安、子育ての不安、将来の仕事の不安などを体感する実感度数は増すばかりで、ここでも、行きづらさを感じている人が多いんじゃないかなー。賢く、自己防衛を働かさないと生き残りも大変だもの。後生も難儀だけど、娑婆の今生生活も、なかなか難儀ですわ。

 さて、夜は、事務連絡会議。その席で、急遽、「東京公開講演会」の案内状を作製を担当することになった。「公開講演会」のみチラシや、ボスターの準備は出来ているけれど、案内状は別なので、けっこう「喧々諤々」意見が出ました。いろいろなパターンがあるので、細かく書き過ぎても逆にわかりづらいし、なかなか難しいなー。

 会議のあと、3時間ほどかけて、だいだいは出来ましたが、詰めは明日ですね。

 風呂入って、今日は寝ます。

 

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富山仏青は楽しみだ

週末毎の出張法座が続いていますが、合間にも平日法座や研究会、相談活動、そして、華光誌の編集と事務作業がありました。あとは、7月、8月、9月の大きな法座に向けての準備が続いています。

 個人的にも、なかなかいろいろな分野に関心が拡がり、かなりアクティブに動いているので、充実した毎日。おかげさまで、体調も、仕事もうまくコントロールできているようです。

 今日は、7月の法座案内の発送をお願いしました。都合で、7月の聖典講座は、お休みなのでご注意ください。

 あと、8月3日(金)~6日(月)の「仏の子供大会」の案内状を作製しました。あとはカットと、印刷。こちらは、7月3日発送の華光誌に同封します。〆切(7月21日(土)が迫っているので、せいぜい早めにお申し込みください。

 なにより、今週末の富山の仏青研修会に向けての、相談や準備が進んでいます。壮年層まで拡大したら、かなり大所帯。部屋割り、分級割り、交通手配だけでも、なかなか大変そう。お世話になりますM先生のお寺には、多大なご負担をいただくようですが、楽しみですね。60名近い参加で、宿泊だけでも、40名以上あるようです。貸布団は当然として、レンタルトイレまでおかりいただくようです。

 関東や九州などの遠方からも、富山に集結されます。関東から、交通大丈夫かな?と心配する人があったら、「富山は得意です」との返事。 「ああ、なーるほどね」と、一発理解。富山得意組もそこそこあります。でも、ぼくは、富山の法縁はまったく初めて。青年、壮年以外に、老年の方も混じっていますが、初めてのお会いする地元の方もあるので、こちらもワクワクです。

 このゴタゴタしたエネルギーが、どこかワクワクさせるのでしょうね。かなり時間を割いて打ち合わせをしているけれど、どうも、予定どおりいかない予感がありあり。でも、悪い予感はなく、そのプロセス、ハブニングが楽しめそうな雰囲気です。なにか、このごった煮のエネルギーが、面白い方向に動くいて、念仏火山の爆発があるかもしれないなー。

 

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願われ、信じられている

 東京支部法座、ありがとうございました。

 今回は、9月の「東京公開講演法座」の準備、下見も兼ねて、家内も早朝から参加していました。でも、彼女は、法座に参加しても、分級は別だったし、気の毒なほど忙しく、休み時間や懇親会の時も、下見に次ぐ、下見で、すれ違い状態でした。東京の皆さんにかなり手助けしていただきました。

 さて、このところの支部法座では、大経下巻の三毒段を、現代語訳を中心にいただいています。でも、テーマは同じでも、話す話題は異なるところもあるし、その時、その時の味わいも異なる。第一、聞き手が変わると、その雰囲気も変わるわけです。半日でサーッと飛ばして東海支部法座に比べて、東京では、二日間でゆっくりと味わいました。

 今回の場合、三毒段の、大経での位置づけについて、かなり時間を割きました。ちょっと、講習会みたいでしたが、大経全体の構造から、大意、分段なんかも、少しだけ触れました。案外、皆さん、ご存じなようで、体系立てたことはあまり得意ではないようです。ひとつは、たとえば、以前に別の会などで、教学を学んだことが、華光に来て空しく感じられておられる方も、多いからだと思います。

 でも、ここを押さえたおかげで、お釈迦様のお説教(誡め)の真意が理解できると思います。三毒段だけなら、(そこには一言も、阿弥陀様の本願には触れずに、「善」や「道」を勧めておられる)、勧善懲悪的に読めてしまったり、善悪因果の通り理解することだったり、罪悪、無常観の勧めだったり、または信後(俗諦)の身の嗜みと理解で留まってしまうこともあり得るわけですね。

 今回は、35、6名の参加でしたが、2/3の割合で、男性が中心。しかも、仕事に、家庭でも葛藤をかかえ、若老の間に挟まれている30台後半から40台後半の方が、圧倒的に多かったと思います。その意味では、三毒段の、わが身の浅ましさ、人間関係を通じた悲劇と、自分の生活の姿がありのまま感じられたようです。座談会での、皆さんの、具体的な味わいが有り難かったですね。ぼくも、個人的に共感する話がありました。ご同輩、家庭生活もほとほとたいへんですなーと思いましたね。でも、単なる、今生の生活だけに留まらず、そこを通して、仏法に向かう自分を内省させてもらう。ある方が、「まったく、真実と正反対の生き方で、仏法聴けるはずはない」とおっしゃたかと思うと、とても、落ち着いた静かな口調で、「ここにいる資格がない。申し訳なく、辛い」と、ビュアーに内省される方もありました。

 確かに、ほんとうに、わが身が照らされていけばいくほど、無仏・無仏法の自分が見えてくるわけです。でも、そこで留まっているだけなら、ただ機を嘆くだけです。そこから、もう一方で、広大無辺の大悲を仰ぐ、私たちの罪業を、苦悩をみそなわされた、ご苦労をお聞かせにあずかってこそ、ほんとうの自分の有り様が、位置づけれてくるんじゃないでしょうかね。そこがかけると、ほんとうの自分はわからないわけですね。

 そこを聞かせていただきたいものですね。

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ムーブメント

 ぼくの回りで、なにかが間違いなく動きだしています。動くべきして、繋がるべきして、動いています。

 たとえば、この1週間。これは僕自身のところでも、ほんの2、3年前の自分には、絶対に想像できなかった動きですね。例によって時間を作って映画を見たり、食事したり、でもそこで誰かと出会いがあったりする。もちろん、本業のところでも、予想以外の動きが起こっている。40をすぎで、わが身にこんな変化がおこるなんて予想もしていなかったなー。ここが面白い。

 まず、土曜日のワールドワークとの出会い。そこでの人との出会い。宗派を越えた拡がりの予感。

 日曜日には、蒲郡法座で出会い。新しい方が新鮮に驚いてくださる。

 月曜日は、例によって映画を見たけれど、夜には、電話で法座の感激の話をいただく。

 火曜日には、ネットを通じて初めて来館くださる方。後日、予定を変更して、法座に出席を決めてくたさる。

 水曜日の真宗カウンセリング研究会でも、今後のつながりを感じる、初めての方との出会い。

 木曜日は、広島から来館者があり、輪読法座。夜には、久しぶりに、九州から東京に移られたS先生からお電話。9月の東京公演会の講師を快諾くださる。もともと一般参加のつもりで日程を開けてくださっていた。かなり長時間、先生の浄土真宗改革の熱い思い、その困難さも味わいながら、いろいろとお話を窺い、自分がいま目指していることの確かさを味わう同時に、元気もいただいた。

Img_0591  そして、今日。自力整体のあと、久しぶりにマチャプチヤレという、自然食のお店へ。メニュー表に、家内の絵のシールが貼ってあって、びっくり。呼吸法をご一緒しているお店のママが、「いや、すごかったわー」と、インド帰りの大興奮を話してくださる。自力整体での友人と食事をしたけれど、別に仏法とも、カウンセリングとも関係ないけれど、愚痴を聞いてもらったり、またまた示唆にとんだ言葉をいただいたりした。帰り際、店主いわく、「今日は、いい雨ですね」とボツリ。ほんとね。雨降りを、「天気が悪い」なんて、言っちゃいけませんね。

 帰宅すると、広島の本派の僧侶を中心としたカウンセリングの集まりに公開講演会の依頼がある。しかも、S先生を通じての、ぼくへの依頼。不思議ですね。講演のテーマは、ここと同じ。「私の考える実践的真宗法座論」にした。

 明日から2日間は、東京支部法座。

 山あり、谷あり、いろいろあるけれど、なにか大きな力に導かれて、しかし自分の足で歩まされていることが実感できる1週間。

 いまの喜びやワクワク感を、東京の皆さんと分かちあえることがあればいいですね。

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6月の輪読法座~「身で聴く体験」

 昨日は、華光誌の輪読法座があった。

 毎回、12~15名くらいの参加で、メンバーも固まってきたけれど、初めて参加してくださる方が、3名あった。年代的には、仏青世代のお嬢さん方々。また、このためだけに広島からわざわざ遠征してきてくださった。

Img_0590  少し早めに来館され、家内がお相手する予定だった。でも、体調不良で、ぼくが代わって一緒にランチに出かけた。彼女たちとは、いつも広島法座で顔をみるけれど、京都でランチをするのも、不思議な感じがした。でも、せっかく休みを取って、来てくださった。まだまだ聞法の緒の緒というところなのだが、砂地に水が吸い込むように吸収されていく、その姿勢がうれしい。理屈や教義以前に、大切なものは何かを肌で感じて、素直に聞いておられるようだ。その姿勢は、逆、理屈ぽく、頭でっかちになりがちな身には、新鮮で、教えられる気がする。

 輪読は、「身で聴く体験」。「いま、ここで、かけがえのない「私」が聞く」ということが、テーマとして繰り返して示されて来る。そうなんてすね。人ごとではなく、自分の問題以外はないわけです。

 輪読するうちに、いろいろと疑問が出されてくる。たとえば、(華光用語でしょうが)三つの機「黒い心」「暗い心」「白い心」のところで、「暗い心とは何か。それを捨てるとはどういうことか」との質問がだされた。

 また、「落ち機を知る」「落と身になる」というところで、この「落ち機」とは何か。「地獄行き」の「地獄」をどう捉えるのかという質問もあった。

 正解を答えることは、簡単である。説明もいくらでもできる。もちろん、教義的に、または知的レベルでも、そこを押さえておくことも必要な場合もある。

 しかし、それを用語として知っただけで、一体、どんな役に立つのだろうか。質問者も、けっして、そんな知り方を望んでられるわけではない。そんなことは、説明を読めば分かることだし、覚えることもいくらでもできる。

 いま、ここでの、「私」の、この身のところに、どう関わっているかがポイントになるのだろう。そこが難しい。

 だから、説き手も、知っていることを与えるだけでなく、問題が出て来る根のところ、その根本の気持ちや状況のところを大事にして、正解を与えるだけでなく、求め手と共に、他の中の、分からないモヤモヤのところに留まって、そこをじっくり味わってみる必要もあるんじゃないかと思った。もしくは、説き手側が、結果を焦らないで、共に歩んでみる姿勢も大切なのかもしれない。

 それにしても、またまたこれも難しいことだ。

 本文の「身で聴く体験」というテーマに、ピッタリの状況ですよね。

 

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援助的態度

 昨日、「華光誌」の原稿渡しが終わり、こちらの方は一安心。

 みんな体調を崩しているので、真宗カウンセリング研究会も、欠席する予定だったけれど、家内にすすめられて顔を出すことができた。ありがとう。

 やはり、参加すると刺激をいただく。特に、今回は、ワールドワーク研修会の直後だったので、みんなその余韻を味わいながらの集いとなった。しかも、今年から新加入された3名の方が、そろって参加くださり、新鮮な顔ぶれ。M先生を中心に、地道でも、こうして集いが継続されていることに、意味があるのだろう。じり貧になることなく、新しい出会いも経験させてもらっている。

 今回は、ロージャズさんの言うところの、援助的な人間関係、その態度の具体例を読んでいった。親や教師、カウンセラーにしても、医者にしても、「あたたかい感情に満ちた表現をし、自分の個性や他人の個性を尊重し、支配的なところのない心遣いを示す人が、自己実現を促進することができるであろう」との言葉があった。

 他人の個性の前に、自分の個性を尊重する。いわば自己受容のところが、ハッとしました。また、参加者のベテランカウンセラーの先生から、正直な告白として、実際は、やはりクライエントによかったと言われたかったり、よくなったと進んだ感覚を大事にしたり、自分の中には、非援助的な操作的な部分しかないけれど、そのことを自覚して、だからこそ、援助などできる自分ではないがその場におまかせしますという、とても深く内省的なお言葉を聞かせていただいた。

 そうだなー。ぼくもまったくそのとおりだなー。

 でも、昨日今日、勉強はじめられた方ではない。先生の実績から考えると、ほんとうはびっくりするような言葉だった。でも、そんな自分をしっかりと押さえ、力まず、自然に受いれられているところに、誠実さ、人間的な魅力が感じられた。ほんとうに自己を知り、その場を信頼され、相手を尊重される姿勢に、教えられる気がしました。

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病気に、事故に、思いどおりにはならない

 一昨日は、保育園から電話がかかってきて、「熱があるので、すぐにお迎えに」とのこと。そこへ、家内まで体調を崩して、寝込んで、家の中は、どこか暗くなってくる。昨日は昨日で、子どものお友達のお母さんから、「お子さんが、自転車で車にぶつかって、擦りむいた程度のケガをされていますが…」との電話。本人としゃべってもいたって元気そうだったけれど、あわわて迎えに行く。なかなか要領はいないけれど、どうもパーキングからバックしてきた車を避けようとして、すこし擦りむいたのか、軽く接触した程度のようだった。まったく大事にならなかったけれど、小さな子どもは、状況がわからないで、まだまだ心配です。

 結局、今日になって、家内以外は、みんな元気になっているけれど、ちょっとしたことで、なにが起こるかわからん身を抱えているんですね。でも、喉元すぎたら熱さ忘れるです。元気になると、今夜も、明日も、大丈夫。みんな元気で過ごせると根拠もなく、生きとります。

 

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ワールドワークの感想(1)

ぼくの中に、ぼく自身が抱えている課題があります。

それは、ぼく自身の極めて個人的な課題であると同時に、ぼくが両親から意識・無意識に関わらず引き継いだものでもあり、それは先祖(人類)から流れているものであり、または、環境の中で育まれてきたものでもあります。

 そんなことを考えると、とても大げさになるけれども、要は、いまのぼく自身が直面する課題にほかならないわけで、当面は、この45年間の生涯の中で、築かれてきたぼく自身にほかなりません。だから、ちょっとや、そっとで、簡単に変化するものではないけれど、なにかその向かうべき方向性みたいものはあるんじゃないか。そのところを、ひとつひとつ、まさに一歩、一歩と歩いているんだなーという実感があります。

 今回のプロセスワークでも、そんな課題の一旦に確実に触れた気がします。

 自己紹介や内容説明のあと、導入に、簡単なワーク(フォーカシングのようなものでした)がありました。

 自分の体の感じに焦点を当てるものでした。ちょうど、抱えている2、3気になる問題がありました。(数日前に、自転車同士の、小さな接触を起こして、被害者?加害者?的なことで、なかなか自分の本心が言いづらいと思うことが続いていました。)。それを「からだ」がどんなふうに感じているのかに焦点があててみると、ミゾウチのやや左上あたりの、少し深いところになにか違和感を感じました。そこに絞って焦点をあてていくと、それらは、とても重くなりました。しかも、表面の皮膚の部分ではなく、少々深いところに、固まっている。それをイメージすると、黒いものが内蔵のおくに隠れて広がっているようです。

 次のステップで、ファシリテーター(一般でいう講師ですね)から、「それがそこにいることを認めてあげてください」との指示があったけれど、「そこにいてOKだよ」と声をかけようとすると、「いやダメだ。NO」という声があるんですね。これにはビックリしました。自分の中にある嫌なものを、認めたがらないものがあるんです。でも、その声に深く関わらないで、「またそこはゆっくり聴きますから、いまはOKを出そうね」と、やさしく提案すると、受け入れもらえて、「OK」がでました。

 次に、その黒い重い固まりが動き易いように、スペースを作るステップになりました。隠すように、臓物と臓物の内で、小さく固まっていたシコリのようなものが、徐々に動きだすと、堅い固まりが、やわらかなブヨブヨとしたビニールようなものに、真っ黒な液体状の袋となって、現れてきました。瞬間、これがはじける姿を想像しました。そして、きれいだった回りをコールタールのように黒く汚していくのでした。でも、そうなることを、嫌がっている部分と、なにかはち切れて破れたい、爆発したい部分とが、拮抗しているかのようでした。

 で、最後に、その意味を味わうことになりました。どんなメッーセージがあるのか。からだに聞いているうちには、思わぬ展開に驚いていましたが、ちょっとこのステップになると、「こじつけて、解釈しているのかな?」と思わなくもない気がしました。もしすかると、もう少し、経験の中にいたくて、言葉にするのには早かったかもしれませんね。

 でも、初めての方と組んで、二人組で分かちあっているうちに、いろいろと味わうことがあります。

 どこかで、優等生というか、いい子になっているんですね。立場上、それは求められることでもあるかもしれない。善き指導者、善き上司、善き父、善き子…。(ほんとうにそれが出来ているかはともかく)人の話はよく聴き、なるべく問題を起こさず円満に、自分を殺してでも、伝わってきたものを大切にするという姿ではないか。それでいて、汚れることを畏れている。または汚れていくことを怖がっている自分の姿のようにも思えました。

 その意味では、なにも変化していません。でも、このことに気がついて、自分の中で、なにかがグーンと動いた、開いた気がします。まずは、黒い部分を抱えていることがOKだということ。そのことで、嫌な気になることもOKだということ(ここがけっこう収穫ですね。弱さを克服しないとと思っていましたから)。そして、それを抑圧するのでなく、逆に自由に動けるスベースを与えていくと、動くように動いていき、そのことをコントロールする必要がないことにも経験できました。

 そのあとのワークでもそうでしたが、ぼくの中での男性「性」の部分、ある種の暴力的な部分、そこまでいかずとも、腹底から大声をだしたり、激しく号泣したりする部分が、表に動いた気がします。

 まずは、前半戦。これから、真宗カウンセリング研究会に出かけてきます。

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ご縁

 今日は、ちょっと拡がりを感じる、うれしい電話や来客が続いた。詳しく書けないが残念なぐらいだ。

 先日の東海支部の法座で、初参加された方からも、これからの聞法の相談を受けた。皆さんのイキイキした姿、明るい態度に、たいへんな驚きを感じておられるようだった。なにより、身近にご法を生きて喜び人に出会えた興奮を語ってくださり、家庭や仕事の生活の限られた条件の中で、どう聞法していくのかをお尋ねくだされた。

 また、来客の方も、学生時代に浄土真宗を学ぶ、数十年後、また『仏敵』やネットを通して、華光会や伊藤先生に関心をもってくださる方もあった。少しお話を窺うことができた。

 今後のご法座が楽しみだ。

 最近、このようなご縁で、会館に直接、連絡くださる方が、めっきり増えた。なかには、なにかを感じてくださり、実際にお参りしてくださる方も多い。そんな仲間がずいぶん増えてくのと、その方々が、とても喜んでくださるだけでなく、こちらの方まで、元気をいただき、力が湧いて来るから、不思議だ。

 小さなことでもいいので、丁寧なお付き合いをし、そのご縁を大切にしていきたいな。

 夕方、華光誌の最終校がきた。明日に向けて、いま校正をしている。

 

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かなり興奮しました。

 土曜日の「ワールドワーク研修会」、久しぶりに興奮しましたね。

 これまで学んだり、法座で実戦していたことの、自分自身の取り組んできた、方向性に間違いがないことがわかった気がします。言葉だけでなく、体や態度、空気のようないろいろなチャンネルを使ってアプローチしてきたことや、その場で起こっていることが、なんらかの意味をもつことなど、改めて位置づけてもらえました。これはもう少し本格的に学ぶ必要があるなと、なんとか8月に関東である3泊4日のワークに参加できないかと、いま、意欲を燃やしております。

 それに、自分自身の内面の課題にも、かなり取り組めた気がします。

 ぼく自身は、なにも変わっていない。やっぱり、「カチン」とくる。「ドキッ」とすぐに傷つくし、腹立つし、(傷つくことを)畏れているこころもいっぱいあるし、いいかっこしたいし…。でも、なにかが、はっきりとシフトした感覚だけはあります。抑圧されてきたもの、抑圧してきたもの、そのあたりが、とうとう動きだしたか!ということですね。なにかとてもうれしいです。

 もう少し、言葉にしたいけれど、今日もいろいろあって疲れました。

 終了してから、皆さんとお茶を飲みにいき、すぐに東海支部の蒲郡に向かいましたが、前夜祭の飲み会でも、けっこう興奮して饒舌だったしょうね。身振り手振り交えて、自分の動きを再演してたんじゃないかなー。

 東海支部の法座も、初めての方がお出でくださって、よかった。三毒段の、「人生の苦」の実体について、かなり具体的に聞かせてもらいました。浅ましい姿に耳をふさぎたいのに、そこがありがたいのが不思議ですね。

 終了後、懇親会があり、またまた飲んでいました。途中で、たまたまある華光同人から、電話がかかって、家人に代わってぼくが出ると、かなり動搖されていました。ちょうど、福井法座で起こっていることと合せて、その偶然が偶然と思えず、彼からの電話もなにか意味あるものと思えました。それで、日頃、彼に感じていること、かなり促すような、強いメッーセージを、遠慮せずに話しました。(もちろん、彼のところも聞かせてもらえました)

 でもそれは、彼ではないんです。ほかでもない、ぼくが、ぼく自身のために、励まし、促し、目覚めさせるものでした。

「お前、誰の人生を生きとるねん! 人のためか。組織のためか。違うやろ。なにを畏れているんや。なんのために、命もらったと思ってるんや」と。

 いやあー。燃えてきたぞ。

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ワールドワーク

  おはようございます。

 昨日、華光誌の初校が来て(、レイアトウが思い通りじゃないんですわー)。 いまから、印刷所に渡すところ。10時から、事務世話人をしている、真宗カウンセリング研究会主催、ミンデルさんのブロセスワークの中で、「ワールドワーク」の研修会に出席します。終了後すぐに、MAUN.さんの運転で、明朝ある、東海支部法座の蒲郡に、一足早く向かう予定です。

  なかなかタイトな1日になりそうですね。

  さて、「ワールドワーク」、楽しみです。これまで、いろいろと体験者の話や、ミンデルさんの書物の知識はあるけれど、体験するのは初めて。もっとも、今回は、1日だけの体験入門的な色彩もあるけれど、とにかくワクワク、ドキドキです。

 報告は、後日になるけれど、案内状を作製したので、参考までに、その説明文をここにも転用しておきます。

<ワールドワークの基本理念>

深層民主主義:場にある多数派の声も大事にするが、同時に少数派の声も大切にすること。

<ワールドワークの世界観>

3つの次元:下記の3つの次元が同時並行におこっているので、ファシリテーターは、場に自覚をうながして進行していく。

a.現実の次元(日常意識、意図している出来事、実存的レベル、個人は個人である)

b.夢の次元(非日常的意識、意図しないで起こる出来事、夢が起こっているのと同じレベル、個人は個人でもあるが場が必要とするロールでもある)

c.エッセンスの次元(一なる次元、世界が分離する前の混沌)

グループは、ひとつの有機的生命体であり、その有機的生命が、自分自身を知るために、問題や葛藤がおこる。起こることには、意味や目的がある。

〈ワールドワークのステップ〉

1,場の気配を感じ、非言語的な感覚を自覚する。

2,取り組みたいトピック(問題、話題、関心事)を各自提出する。

3,場がもっとも反応したトピックをひとつ選び、ワークの入り口とし、その選ばれたトピックを傘とし、提出された問題は、場にあるものだと受け止めて、グループプロセスに入る。

4,選ばれたトピックを提出した人が改めて語る。

5,自由な対話を始める。

6.ファシリテーターは、ホットスポット(場が氷ついたり、摩擦する瞬間)やゴースとロール(名前は出るが誰も体現しないロール)を捕まえて、ワークを深めて、(瞬間的な)完了をみつけ、ワークを終了していく。

 これだけでは、なにかよくわかりませんね。もう少し詳しくは、A・ミンデル著『紛争の心理学』~融合の炎のワーク~(講談社現代新書)が、やすくて手頃な一冊です。

とにかく楽しんできます。無事終わったら、蒲郡の懇親会に合流できるかなー。

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『ボンボン』

Bombon_01_1  『2:37』のあと、もう1本『『ボンボン』を観る。

 緊迫感から一転、のんびりした、オフ・ビートの感覚の映画。アルゼンチンですか。このところ、アフリカを素材にした映画が多いが、メキシコ、ブラジルなどの南米ものも、いいものが多いね。

 一昨年だったか、映画小国「ウルグアイ」から『ウィスキー』が、ちょっと話題になったけれど、やはり、オフ・ビートのとぼけた味で、それでいて、メランコリックで、温かい雰囲気のある、なんとも味のある映画だった。案外、アキ・カウリスマキのフィンランドや、アイルランドとか、ノルウェー(『キッチン・ストーリー』がお勧め)なんかの、大国の周辺部の、映画小国のほうが、とぼけた、味のある映画を造る余裕があるようだ。もしかすると、商業ベースとの絡みがあるのかもしれない。ちょっと横道に逸れた。

 で、『ボンボン』。ほとんど、素人俳優さんだそうだすが、主役の、さえない中年(日本なら団塊世代ですな)おやじが、いい味をだしている。(本名のまま、役名も本名のまま出演しているそうな)。整備工として勤めていたGSを首になり、現在、失業中。しかも、かなり以前に奥さんにも逃げられ、娘のところに、肩身狭く居候している。でも、この家も、旦那がさえず、子だくさんで、貧窮していることが、アリアリ。アルゼンチンも、大都会の裕福層を除いて、かなり失業も多く、庶民の生活と、決して楽ではないことが、画面から滲み出ていますね。地方都市の、下層部にしわよけがきている。

 でも、このおやじ、穏やかで、いかにも人が良く、気が弱そうな雰囲気のオーラがいっぱい。商売は下手。手作りのナイフも売れ残り、あげく警察に捕まったりと…。まったく冴えないダメぶりがいい。それが、ちょっとした親切から、「ボンボン」となづけられる犬を押しつけられるから、たいへん。この、ボンボンが、またまたとぼけたいい味だしている。でも、こいつが立派な血統書付の、ドゴ・アルヘンティーノという種類の猟銃犬で、愛犬家の間でも、注目を集めるような名犬だった。その犬のおかげで、おやじさんにも、少しずつ幸運が舞い込んでくる、ラテン版「わらしべ長者」というお話。

 もっとも「長者」というのもなんだけれどね。けっして大作や、問題作だけでなく、ちょい哀愁に、でもホノボノと温かい気分になれる、とぼけた味の映画は、アクセク働く人にお勧めかも。ましてや愛犬家にはたまらんでしょうなー。そうそう、絵本仕立てのパンフレットも愛らしいです。

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「棚からボタ餅?」でどうにか

 いや、おかげで、なんとかかんとか書きました。

 結局、あのまま「棚からボタ餅?」をテーマにしました。

 「パッチング・ケア」や「擔板漢」は、またの機会にぜひ、まとめます。

「今こそ、恐れないで、ありのままの自己を見つめよ。そこに何があるか? 罪業抱え、死んで行かねばならない。その死を凝視せよ。誰も代わることなく、ただ一人出て行く後生を問うのだ。

 「棚からボタ餅」-自力でジタバタしても始まらないと、ただ大口を開け、阿弥陀様自家製の、おいしいボタ餅が落ちてくるのを、いつまで待っているつもりなのか。

 たった一度でいい。自らが、ボタ餅になって、阿弥陀様の口に落ちていけ! そして、仏様に、「おいしい、おいしい」と、ムシャムシャ食べていただこうではないか。」

 まあ、こんな感じですね。

 明朝、少し推敲しますが、間に合いますね。

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行き詰まっちゃたなー

 隣地との境界にはブロック塀が立っていたが、いまは基礎だけが残っている。ここで、境界確認の手続きがあった。すでに両者で確定済みなので、双方に異論はなく、改めて確認の上、書類を交わしあうことになった。

 ただし、大型重機が入って、仕事部屋はうるさい。すぐ前なので、暑くても窓があけられないのも、不自由。でも、当面の辛抱だね。

 仕事は、月曜日から華光誌の表紙関係。

 8月の仏の子供大会、9月の東京公開講演法座の案内があるので、その打ち合わせが続いている。6月の富山の仏青研修会でもそうだが、いかに、華光会館が便利で、有り難いかがわかる。毎回の食事、風呂、会場、法話会場に、分級部屋等、交渉事が多岐に渡り、お世話役はたいへんである。会場までの交通手配ひとつでもたいへんだ。皆さん、ご苦労さまです。

 それで、裏案内、後記、写真の記事などは完成したが、「巻頭言」が不調。どうも、行き詰まっている。

 1)いちおう、「棚からボタ餅?」と題して、書いているけれど、どうもいまひとつ、ふたつというところ。

 2)いまは、支部長研修会の最後にまとめでお話させてもらった、認知症のケアに関しての「パッチング・ケア」という問題にも、かなり心が寄っている。

 ある本で読んだのだが、認知症の患者さんに対して、「かわす、はぐらかす」ようなやさいしケアと、それを批判した形で、しっかり現実に向き合い、事実を事実として認識させる「パッシング・ケア」。しかし、第3の道として、かわしたり、はぐらかしたりするのでも、また特定の人が力んで向き合うのでもなく、各自が、それぞれの立場で小さなケアを重ねていき、一見すればケアらしいことはなにもせず、偶然にゆだねるがのごとくしながらも、その自然なかかわりや態度によって、その関係がシフトしていく「パッチング・ケア」。ひとりひとりが丁寧な関わりをもつことで、場の空気が包みこむようなケアを指すというテーマが、頭をめぐる。

 これは、ご法の伝え方、人と人との関わり方の変化に対して、ひとつの大きな示唆となるのではないかと思っている。

 3)もうひとつは、「擔板漢」という、禅宗の言葉から、ヒントをもらったテーマ。これも以前から考えている。「たんぱんがん」とは、板を担いだ男という意味。板を担ついで、坂道をいけば、その担ぐ板が大きければ、大きいほど、片方しか景色は見えない。普通は、ものの一面だけ見て、自分の小さな考えに固執して、全体を見渡すことのできない偏見者をさしている。また、自分が抱えこんでいる物や理念に左右されて行動する人。そういう禅者を揶揄する言葉だそうだ。(参照:「仏教語大辞典」)。

 でも、問題なのは、片方でも景色が見えているという点だ。象のしっぼだけを持って、象の一部と思うのも同じで、なにか体験したり、経験があるからこそ、これが逆に重い足枷になってしまう。だって、一面とはいえ、それもほんとうなのだから、ますます偏狭になり、それどころか、この偏った知恵で、他人を批判したりして、自分も他者も苦しむのだから、迷いは深いわね。所詮、自分の「確かだ」は、ほんとうの智慧でないことを教えていただくのでしょうね。でもここが難しい。それには、その知恵を、一度、捨てる必要があるのもね。担いでいる板も、握っている尻尾も、一旦、離してみることの難しさ。仏智に会って破れない限り、私の知恵は、いつも擔板漢なのだなーと、しみじみ感じますね。

 このまま「ボタ餅」にするか、「パッチング・ケア」になるか、それとも「擔板漢」にするのか。さあ、どうする? タイムリミットは今夜いっぱい。頑張れー。

稜季の父ちゃんさん>>支部長研修会、こちらこそありがとうございました。ほんとうですね。また「その2」を書くつもりです。

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真宗連合学会(1)

Img_0580_1 金曜日は、朝から大谷大学で開かれている真宗連合学会に出席しました。

 地下鉄の北大路駅からすぐなので、会館からでも30分ほど。あいにく大気不安定で、途中で雷鳴と共に、激しい雨になりましたが、北山を背景に、鴨川が流れ、右手に植物園もあって、いかにも京都らしい風景ですね。

 ぼくは、仏教学関係の学会と、心理学関係の学会のいつくかに属しているのだけれど、大学院修了後は、あまりかかわりを持っていません。それでも、たまに京都の大学である時ぐらいは、別の空気を吸うつもりで、顔だすことがあります。

 今回は、親鸞聖人の流罪八百年に当たるので、それに関する古田武彦先生の発表を聴きたかったんですが…。

 でも、面白かったのは、中国浄土教理史的の必然的な展開として、理観から、事観へ、さらに称名念仏へと発展する過程、つまり浄土の行が、「観ること」から「称えること」という画期的な転換を、道綽、善導の『文殊般若』の「一行三昧」の引用から考察するものでした。善導様の当面で、読み替えで引用された『文殊般若』の「一行三昧」の引用部分は、宗祖も教行信証の行巻の中で 、『往生礼讃』から引用されておられます。(ちなみに、一行三昧は、ただ念仏の一行のみを修する行です。でも、その「念仏」とは、今、私達が普通に考える称名ではなかったんです。それが、無量寿仏の名字を称える、つまり口称念仏となったことは、たいへん画期的な転換だったんですね。もちろん、それは単なる口称ではなく、本願力に相応する念仏というところが、大事ですが)。

 面白かったのは、その問題を、今日の浄土真宗の東漸というか、国際化に絡めて、「行」の問題と結びつけた問題提起にありました。つまり、親鸞さまが、一部の力量のある人の、個人内の神秘的な宗教体験に留まる可能性のある天台の止観行(すなわち、心を凝らして観る行ですね)を捨てて、より易く、共に称えて、念仏の声が響きあう、他力の行としての称名を選ぶという宗教的な決断があった。

 ぼくなりに理解したところでは、今日の私達は、一切衆生に開かれた弥陀の本願の行以外では救われていく手がかりがないわけですが、それはある種、大乗菩薩道精神のより積極的な発露の結果といえるわけですね。

 ところが、21世紀の現代アメリカ社会において、浄土念仏の一行だけでは、受け入れ難い。そこで、真宗寺院でも、入門として、禅やウォーキング・メディテーション(歩く瞑想・行道ですね)を前段階として、進んで信と、信に伴う称名が勧められるケースもあるか、これを雑行・雑種として批判するだけなら、非日系人を浄土真実の教えの入り口で拒否することになりかねない。この問題を、観ることから、称えることへの大転換をした浄土教の歴史から、新たな位置づけ、光りを当てることができるのではないかという趣旨だったと、理解しました。

実践的に伝道にかかわっているものとしては、このあたりのテーマは面白いです。

少し長くなりそうなので、このあたりで。(2)へつづく……。

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支部長研修会も懇親会は楽しいなー

 土曜日、日曜日は、「支部長研修会」。たぶん、一般の華光同人にはいちばん接点のない行事だろう。

 でも、ある種、華光のご法座の有り様、ご法の勧め方、そして、その悩みや苦しみを忌憚なく話し合う貴重な場であり、阿弥陀様のご苦労を身を持て知らせていただくという意味では、総会と並んで尊い法座である。

 各支部の活動報告と、問題点が話し合われた。

 その中で、皆さん、異口同音に言われたことが、「うちの支部の問題点は、私みたいなものが支部長をしていることです。」。いや-、有り難いね。普通は、逆でしょう。それを本気で皆さん、思っておられる。だってね。自分を真摯に眺めたら、どう考えても人の上にたつような器じゃない。でも、そこが尊いですよね。煩悩具足の泥凡夫が、ご法のために働かせてもらう。いや、その真似事をさせてもらう。それが、身を使い、時間を使い、体を使って、ご聴聞させてもらう。決して、口だけの輩で、汗を流せん奴とは違う。誰も、喜んでやっていないからこそ、華光の尊さがあるんだなー。

 でもね、だからこそ、自分がやっていると思ったら大間違い。如来さまのおかげなんだー、これが。

 懇親会も、二次会。多いに盛り上がってます。ぼくも、Nさんから、このブログの映画のこと、本のこと、音楽のこと。おいおい、仏法はどこいったねん! を褒められて、喜んでます。ほんとうに単細胞だよね。でも、そこがまた有り難いなー。

 さて、もう一息飲みましょうか?

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『チベット 求法の旅人』

Img_0581  真宗連合学会で、招待券をいただいたので、昼休みに、構内にある大谷大学博物館を覗いてきました。学内にきれいな施設があるんですね。
 入口に、一見して、畠中光享さんのものだとわかる絵が迎えてくれました。ぼくは、この人の絵、好きですね。
 Img_0582
 『チベット 求法の旅人』と題して、明治時代に、有名な 河口慧海師に先立って、鎖国中のチベットに入った二人の真宗僧侶の足跡をたどる展示でした。いまでもたいへんでしょうが、明治期ですからね。中国のシルクロードを経て、今日の青海省から入るか、または雲南省から入るから、インドを経由するか。いずれにせよ、命がけの行程には違いない。一人の方は、再度の入国を試みた際、中国の雲南省で消息を絶たれています。
 「タンカ」(Thanka)とは、インドからチベットへ伝播した仏教がその地に根付き、チベット文化圏で発達した独特の宗教画です。 布に描かれた宗教画で、掛け軸のように表装されて飾られたり、携帯用のものあります。たとえば、マンダラは有名だけれど、タンカはあまり知られていない。
 
 実は、華光会館にも、ある不思議なルートで寄贈されている。しかも、観光客用のものではなく、少々古くていわく因縁のある品物。けっこう精密です。一度、大学の専門家にも鑑定をしてもらって、それなりの価値があるものだと聞いています。旧会館の時はよく出ていましたが、新会館では、一度も出しいていない。久しぶりに虫干しで飾ろうかなー。
 他に、小さなものですが将来品の如来像や、紙本木版の経典が出ています。チベットの経典ってと、どうしてあんなに美しいのでしょうかね。

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6月7日

  華光誌は、かなり時間的にギリギリだった。

 パソコンがトラブッたりして、最後は、ちょっとイラついてもくる。校正などの仕事や、地方法座の日程などを考えると、6月中の発行は、今日がタイムリミット。夕方4時という約束の時間まで作業を続け、3分ほど待ってもらった程度で、間に合った。

 今日は赤字を入れたが、ほんとうは、もう1度だけ目を通しておきたかった。でも、それは次の初校時にと割り切った。表紙関係が残っている。先にタイトル名のみ出した「巻頭言」も、書かねばならない。しかし、それは来週の仕事になる。週末には、「支部長研修会」がある。

 でも、とにかく、ホッとした。Img_0573

 ブログのチェックをしたら、カウンターが、ちょうど、「33333」となっていた。別になんの意味もないけれど、なにかちょっといい気分。

 しばらく散髪にも行けていなかったので、アンシャンテに、カットに行くことにした。Img_0576

 入り口に家内の大きな絵が飾ってあるが、鏡と鏡の間に、家内の絵が増えていた。月代わりで、飾られるという。「いちごジャム」という題のものだろう。

 あまりいい写真じゃないので、彼女の絵ブログを見てほしい。毎日、更新中である。

(ブログ右の、「お気に入りページ」からでも、アクセスできます)

  http://bonbon18.at.webry.info/

 夜は、少しだけ書道の手直しを受けた。

 子供たちが、「おじいちゃん、おめでとう」と、言いに来た。

 そうか、6月7日か。

 父の82歳の誕生日だった。ぼくは、すっかり忘れていた。

 ご承知の通り、現役バリバリで活躍中。もちろん、年齢相当に、老苦、病苦もあろうし、不調な部分も増えてきているが、まだまだ法座になると、元気が出るようだ。それが相乗効果となっている部分もかなりあるのだから、ほんとうに勿体ないことである。

 

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寝不足

 このところ寝不足だ。

 残念ながら、寝食を忘れるほど仕事をしているわけではない。数年前までは、華光誌は徹夜の作業が当たり前だった。でも、いまはそんな無茶はしない。

 読書である。

 広島法座の帰り、駅前の大型書店で、少し本を買った。

 仕事を終え、ブログも書き、ご丁寧に10年日記を付ける。0時30分か。今夜は、少し早目に休もう。でも、それにしてはちょっと早いな。買ってきた本をパラパラ見る。これが運の尽きだ。

 最初は、ほんの10分程度のつもり。だから、けっこうへんな姿勢だったり、着替えの途中で、シャツ一枚とか、靴下片方だけなって、おかしな恰好だったりする。すぐに止めるつもりが、もう少し、もう少しと、すでに1時を回っている。……明日も華光誌あるぞ。工事も朝からうるさいしな……絶対、1時30分には寝よう……。でも、時間はどんどん過ぎていく。

 今度こそ、「さあ、寝よう」と、本を置く。ところが、ちょっとだけと横の本を手にしてしまう。もう、ダメ、ダメ。こんなことが数日繰り返すと、日中が眠いというわけ。

 で、どんな本を買ったのかというと、

『君自身に還れ』(大峯顕・池田晶子共著=予想以上に面白そう)

『待つということ』(鷲田清一著=最近、阪大の学長になられたんじゃないかな。阿弥陀様は、十劫も待っておられる。)

『仏教と日本人』(阿満利麿著)

『人は感情から老化する』(和田秀樹著)

『環境問題はなぜウソがまかり通るか』(武田邦彦著=そうだろうね。けっこう正義づらしたマスコミや環境利権に踊られているのだろう)

『さよなら、サイレント・ネイビー』~地下鉄に乗った同級生~(伊東乾著)

そして『水滸伝8』(北方謙三著=いま、これにはまっている。中学生以来の水滸伝フリークなので)といったところ。

 あんまり脈絡がないなー。けっこうパラパラと斜め読みした。さすがに、今夜は華光誌の大詰め。編集作業がたいへん。でも、ほどほどにしないとなー。

 

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華光誌編集作業が大詰め~聖教のこころは~

 華光誌の編集作業が大詰め。

 できれば、7日の木曜日には、印刷所に渡したい。

 今日は、誌上法話の校正と、その他の頁の編集で、40頁が出揃った。

 1段のウメグサ(たとえば、テープとか、死亡通知などお知らせのアキ)が、あと3ケ所。一つは、テープ。もう一つは、死亡通知で、小さな1ケ所が未定だけど、「壮年の集い」の案内にしようかなと、考案中。

 「目次」と、「聖教のこころ」は完成。聖教は、最初、歎異抄の第3章を書いていたけれど、広島の車中で、「往生要集」の大焦熱地獄の文に変更した。

 自らの業風で誘われる世界は、自らの業の縄で縛られて、そして自らの業火によって、無量百千万億無数の間、常に焼かれ尽くされていく大焦熱地獄の入り口。その間、ただただ、苦しみ、悲しみ、愁い、畏れる罪人の啼き叫ぶ苦悩の声のみが、響き渡っているのを聞くのだという。

 何一つとして、自らの三毒五悪の結果にほかならないものはない。貪り、惜しみ、盗み、怒り、恨み、殺し、犯し、そして、因果の道理を信ぜず、仏法を誹り、それを説く僧や尼僧を傷つけ、穢している。わが身の現実を聞けよとの大悲のお示しである。

 恐ろしいなー! 後生を「感じる、感じない」「信じる、信じない」にかかわらず、自ら犯した罪業のよる、苦しみと、悲しみと、後悔の、啼哭の声のみが響き渡たる暗黒の世界が、まさに私の一歩先の足元に開いていることが、仏眼にはクッキリと写っているんだものー。

 「南無阿弥陀仏」を、今、聴くしかないんだ。

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大悲摂化

  広島には、毎月、支部法座にお招きいただています。6月は、(9月と、昨年のみ8月も)恒例の宿泊法座です。今回は、広島支部以外に、高知からも参加してくださる方もありました。

 意訳(現代語訳)で、『大無量寿経』の三毒段を、諄々に味わってまいりました。

 ここを通して読むだけで、ほんとうにまいります。グーの音もでない、痛ましい私の迷いの姿。単に、貪欲は「むさぼり」、愼恚は「いかり」、愚痴・無明は「おろかさ」と、きれい分類できるものではなく、それぞれが絡み合い、影響しあい、まさに複合汚染として、煩悩具足し、悪道に導かれる痛ましい姿が、具体的に、具体的にわが身に沿って述べられています。

 むさぼりが、怒りを生み、畏れおののき、そして、愚痴によって、またむさぼりやいかりが増していく。小さな憎しみが、怒りになり、怨みになり、恨みになっていく。財への執着、愛情への執着。気に入るものを近づけたい(貪欲)、不快なものを遠ざけたい(愼恚)と、必死!必死!必死!。そのことで、身近な家族も他人を、苦しめ悩ませるだけでなく、自らも心を閉ざしたり、胸をかき乱して寿命を縮めるほど悩んでいる。

 当然、善悪因果の道理を否定し、仏道を歩まず、ただただ真っ暗な後生へと、狂気の声を上げて落ちていく。その痛ましく、哀れな現実を、如来様の大悲のおこころだけが、ありのままに、畏れることなくみそなわし、救い取る手だてをご成就したことをお示しくださる。そのおこころを、ただお聞かせに預かるだけなのに、「易き往くして、人無し」です。

 お釈迦様は、そこを、1)三毒五悪の故に、2)難遇善知識の故に、そして、3)仏智疑惑心の故だと誡められると同時に、ただ弥陀の本願を一つをお勧めになってくださっています。そのお心の尊さ、勿体なさを、皆さんでいただきました。

Img_0564(←被爆した石で刻まれている)  ところで、会場は、原爆被爆者の療養保養施設で、一般にも開放されています。牛田山(?)からの眺望が見事で、大田川(とその支流)が眼下に流れ、夜景がとてもきれい。でも、わずか、60数年前Img_0566 には、ここら一体が、未曽有の焦土と化し、川面に焼け爛れた死体で溢れていたのでしょう。今回の参加者の中にも、被爆されている方がおられるのですが、今では、まったく想像もつかないのです。

 しかし、それが事実なんてす。いまでも、美しい眺めも、一瞬にして焦土に化する恐ろしい業をお互いがもっている。私達の共業のあらわれ、三毒五悪の究まってもたらされた人間生活の悲劇と言えるわけです。

Img_0546 自利利他円満し、智慧と大悲が満々ている、お念仏の教えに遇わない限り、真の平和や安らぎもありませんね。

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これから広島支部法座

 今週末、2日(土)3日(日)と、広島支部の宿泊法座。

 「神田山荘」という原爆被爆者の療養施設が、会場。高台にあるので、ここの大浴場、露天風呂からの眺めは、なかなか美しい。

 今回は、大無量寿経の三毒段を中心に味わっていこうと思います。法話は四席あるので、まず大経の構造について話す予定。あまり小難しくなってもダメなので、本山から出ている「大経」のビデオを鑑賞しようと思います。30分ほどで、なかなかいいですが、これだけでは、不足なので、それを補う形で、お話するとわかりやすい。

 さいわい、会場に問い合わすと、プロジェクターと、ビデオデッキが借りられるということ。しかも、太っ腹! 使用料も不要とのこと。その前に、東京のいつもの会場に同じ内容で問い合わすと、ビデオデッキだけで、1回8,400円!と言われました。これじゃ、1台買えますよ。

  メーンは、三毒段を書き下しと、意訳を中心に、じっくり輪読し、味わって行きたいと思います。

 実は、以前にもここをテーマに詳細な法話をしたことがあります。その時の反応や印象が強烈だったので、しばらく触れずにいました。でも、調べたら、1999年のこと。つまり、今世紀になって、なんと初めて取り上げるということだなー。ぼく個人の味わいの上でも、まだ父親になっていなかった。長女の誕生が、2000年3月ですから。家族に繋がれ、護るべきものが増え、ますます不自由に、貪欲に罪業を作っている毎日で、味わいも異なっていることでしょう。

  お釈迦様の目に映る、迷える凡夫の実相を通じ、それが故の大悲のおこころを、我が身の三毒の姿を実際に通して、味わっていこうと思います。

  楽しみです。

 家内は、一足早く出かけました。昨日から、仁和寺の御室会館で開かれている、白岩先生のフォーカシングの体験研修会に出席しています。

 さて、ぼくも、新幹線で、広島へ。広島の皆さん、どうぞよろしく。

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『伊藤若冲展』~釈迦三尊像と動植綵絵~

 朝から、相国寺「承天閣美術館」の、『若冲展』~釈迦三尊像と動植綵絵~に行ってきました。

Img_0537  近年の若冲の大ブーム。江戸期の画家で、これだけ再評価されて人気の出た人も、ちょっとないでしょうね。とにかく混雑ぶりを聞いていたので、開場の30分前に到着したら、予定より早く開場中で、すでに40分待ちの状態。最初から並ぶ覚悟を決めていたのが、20分ほど待って入場できて、かなりラッキーでした。でも、中でゆっくり鑑賞とはいかず、外に出てみたら、長蛇の列。120分待ちの表示がありました。Img_0538

 相国寺は、京都五山の第二位。一昨日に出かけて東福寺は 四番目。有名な金閣寺、(北山の鹿苑寺)や、銀閣寺(東山の慈照寺)を、その傘下(?)に収めている、臨済宗の大本山。

 でも、その大本山も、明治の廃仏毀釈の波に揉まれて、釈迦三尊像は残して、若冲の「動植綵絵」を皇室に献上。そのおりの下賜金で、お寺が建て直されたと聞いたことがあります。その、相国寺所蔵の「釈迦三尊像」と、宮内庁からお里と帰りした「動植綵絵」の120年ぶりの再会を、3幅+30幅を展示することを見越して設計されたという、第二展示場で見てきました。

 圧巻でした。

 鮮やかな絹本着色の三十三幅。保存状態もよく、修復もされているので、息をのむ美しさ。

 若冲といえば、鶏というわけではないですが、「群鶏図」が気にいました。本来なら、ゴチャゴチャし過ぎるはずのなに、各々がまったく死んでいない。しかも、細部にわたる綿密な筆遣い。「雪中鴛鴦図」や「牡丹小禽図」、また「池辺群虫図」などの細やかな遊び心も面白かったですが、どれも、じっくり見ると吸い込まれるようでした。独創的な画風で、感激しました。

 だだし、ゆっくり鑑賞とは行きませんが、最後に、全体を俯瞰的(といっても、人越しだなー)にで眺めてきました。

 また、どうしても第一展示室の 印象が飛んでしまうけれど、重要文化財の金閣寺の大書院の襖絵も、ズラッーと展示さていました。墨絵で、余白も多くて、かなり趣を異にしていますが、こちらも見事なものでした。

 図録が飛ぶように売れていて、三十幅を六枚セットに五種類ポストーカードも販売。まあImg_0541_1 それだけならいいけれど、若冲まんじゅうに、若冲Tシャツ…。商魂たくましいー。

 最後にホッと一息。烏丸今出川の角にある「わImg_0543びすけ」へ。同志社大学の方面に出て来ることがあると、ここでお茶します。金魚を眺めながら、アイスコーヒーを飲んできました。

 

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