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明日の広島支部法座

 永代経法座の余韻も残る中、明日は広島支部法座がある。お当番を終えたばかりの広島の皆さんの法味をじっくりとお聴きしたいものだ。

 当番の機会でもないと、なかなか京都まで出づらいのに、皆さん、献身的に動いてくださる。久しぶりの華光会館で、お手伝を優先してくださったのである。

 法話を耳や目で聞く。さらに、座談会では口が加わる。でも、それだけでは不十分だ。やはり、からだで聞く。それには、わざわざ旅費をだし、時間を割き、GW休みを費やし、京都まで「出て」、聞法する必要があるのだ。

 もちろん、ネットなどの発達で、家に居ながらでも、法話を聞いたり、読んだり、または書き込みし、離れた人と意見交換をすることもできる。第一、お念仏は、ひとりで喜ぶものだという人もある。でも、それは、このからだの自由がきかなくなった時(まもなくですよ)の楽しみにとっておいていい。

 「わたしが」「おれが」という捕らわれこころに覆われて、同行・知識に親しみ近づくことがないものは、結局、悪を好み、自らの往生の道を妨げと同時に、他も傷つけ妨げる(自障障他)のだと、善導さまはおっしゃている。

 お互いが在家止住の泥凡夫同士である以上、我が心捕らわれず、身をかけて聴かせてもらうことに意味がある。とはいっても、そんなちっぽけな我が心の虜になって、メンツやオレがに捕らわれて身動きとれず、他を攻撃するによせ、自分を責めるにせよ、最後に苦しむのは自分自身。それが分かっていても、なかなか止められない。そこが迷いの正体でもある。確かに、「じぶん厄介なもの」だと、我ながら痛感させられる。

 ただ、そんなぼく自身も、ご法の場で、お同行さんたちと対座し、いろいろなことを感じさせてもらい、率直な言葉もいただき、聴かせていただくしかない。

 結局、さまざまな形で、わたしにかけてくださる種々のご方便のあることが、お手伝いくださる、おひとりおひとりの尊い姿を通して見せていただくのである。もちろん、きれいごとでいかないところも、尊いのである。

 この味、そしてその喜びは、それを体験したものでないとわからない。

 「百花誰が為にか開く」 (『碧巌録』)

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