「見ている」と思ったら大間違い
あるご法座でのことだ。
「如来さまが血みどろになって、頭を下げ頼んでくださっていると聞いているのに、なんとも感じないシラケた自分がいる」と、ありのまま正直に、淡々とお話してくださる方があった。「以前は、ただ自分に信心があることを、先生や同行に認めてもらいたかったが、しかし、今となっては、信心など頂ける自分ではない。また何を言ってもウソしかない」とも、お話してくださる。
まったくそのとおりである。
如来さまの智慧のお光りによって、自分の自性が知らされてきたのである。そのことを見抜き、私の狂った自性を分かり切った上で、そのままを認めてくださり、その心こそが正客だという阿弥陀様の大慈悲のお心が成就されている。もう自力のはからいは役に立たたないのだから、大願にただおまかせするしかない身にならせてもらっているのだ。そこまでのお育てはいかばかりであろうか。
ところがである。その方のお顔が、なぜかさえない。
広大無辺なお慈悲を前に、「無慙無愧」のかたまり、小慈小悲もなき、サソリのような冷たいわが自性が、いま、現前としていきたのに、次の一言を続けて、自らのダメさを嘆いておられる。
「そこまで分かっているに、なぜ、その申し訳なさに、号泣懺悔し、念仏が出ないか」と。
アチャーチャ~
やはり、如来様のご恩徳が高いかを聞かずに、少しご恩徳に触れたことをバネに、「どうしたら、私の心が動くか」「他力の念仏が出てくるのか」と、自分の心の詮索に腐心されているのであろうか。
しかし、わが自性を、自分が見ていると思っていたら、大間違いですぞー
実は、如来様がご覧くださっているのです。そのおかげをもって、無明で、逆謗のこの身にも、やっと知らせてもらえてきたのになー。
ここにも、先手のお働きがある。勿体ないなー。
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コメント
ああー、私だ!
投稿: Tねこ | 2007年5月26日 (土) 15:25