麻痺している者へ
永代経法要法座、終わりました。いいご縁をいただきました。
「後生の一大事」と聴きながら、「身命を顧みずに」(命懸けで)と聴きながら、「無常」と聴いても、「罪悪深重」と聴いても、どこまでも人ごとで、惚けている、麻痺しているわが身を聴かせてもらいました。ほんと、あきれます。
もしかすると、なんとか「後生の一大事」を取り詰めよう、「命懸け」になろうと、無駄な努力を必死になっている、自称求道者の方が、一途かもしれませね。
でも、それはしょせん、わが身をたのむ「自力こころ」そのもの。
わが心にではなく、もちろん他人の心でもなく、「聖教」に、「ご法」に、「仏様」へと、そのこころを返していくことをお聞かせいただきました。
惚けている、麻痺しているどころか、石・瓦・つぶてのようなこの者に向かって、叫び、願い続けてくださる大悲のお働きが、なんと深く、広く、尊いことか! 南無阿弥陀仏
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コメント
その折はありがとうございました。
「無常」と聞いても言葉だけ、「後生一大事」と聞いても耳慣れになって驚かず、「麻痺している」以下である、ホントですね。
ある座談、あるお同行さまが、未信のかたに向かって「(これから死なんならんとなって)最後に言い残す言葉は?」と問われたとき、その言葉、ギラリと地獄の青龍刀が抜かれるような音に聞こえました。口に樫の棒を突っ込まれたようになった。私の方からは念仏も何も出ない。言葉も出ない。何もわからぬ盲目性だけ。
座談空間でのお育て、ありがたいです。
投稿: Mです | 2007年5月 4日 (金) 23:05
樫の棒突っ込まれて念仏も何もないとは勿論わたしのことで書きました。読み返してみて、あるいは誤解あるかと思ったので念のため。
まあ、殊勝に懺悔しても、数分後には懺悔まで手柄にしようとする自惚れのかたまりです。どこまでいってもホンマ無明!私はそれだけなんだ。
投稿: Mです、自己レス | 2007年5月 4日 (金) 23:13