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ボタ餅となって、食べられろ!

 明日から2日間、真宗法座の集いだ。

 個人的には、華光の法座のなかでも、この真宗法座の集いや、輪読法座が好きだ。

 だって、法話の準備をしなくていいから……。なんてねー。半分冗談、半分ほんとう。

 確かに、聖教量としての法話や説教は大切だ。それで、講習会のような講義・法話のみの法座もあるし、普段の法座も、まず法話があり、後で信仰座談会が開かれる。しかし、年に1、2度は、比量を中心、座談会や示談を中心にした法座があってもいいと思う。そこにも、聖教量も、現量も含まれているのだから。

 第一、参加者が、より積極的に法座に関わりをもってもらえる。法座・聞法の時間をどのように使うのかを、ひとりひとりが、自分の問題として考えて、動いてもらえる。いや、そうして法座を、その時間も、そこにおられる先生も同行も、自分のものとしてフルに活用してもらいたいのだ。

 とはいっても、「他力」という教えの性格上、聞法の姿勢が、どうしても受け身になりがちなのも、ある種、致し方のないことかもしれない。特に、未信者や求道者なおさらだ。浄土真宗では、行者の側からの働きかけ、自力修行を否定するので、聞くという営みも、先に、弥陀の本願をお取り次ぎして下さる、先達や善知識の言葉があって、それをどう受け取り、受領するのかを、それぞれが腐心しているのだからね。

 もちろん、阿弥陀様からの一方的な、先手をかけたお働き、如来のおひとり働きに直参するのであるから、我が自力のはからいを捨てて、広大無辺の他力に帰する以外に道はない。

 しかしである。

 他力本願の教えは、ただの「棚からボタ餅」と考えるのは、とんでもない誤解。

 善知識や先達が、なんとかしてくださると思っているのなら、そんな甘くはないぞー。

 でも、どんなに熱心で、真剣な、(一見)命がけの求道者も、どこか最後のところで、それを期待している節があるのだ。……だって、「他力なんでしょう」と。

 違うなー。

 バカみたいに、ホカーンと口を空けて、南無阿弥陀仏のボタ餅を待っていてもダメだ。

 「え! じゃ、せいぜい宿善を積んで、自力も徹底的にやり遂げて、やり遂げて、やり遂げたら、転じて他力になるということですか?」

 なに、寝ぼけたこと言ってるの。そんなの論外だ。

 他力のおみのりは、

 「自ら、ボタ餅になって、落ちていけ! 如来様は、喜んで食べてくださるゾー」

 これだね。でも、口を空けてるだけでなく、強者になると、ボタ餅を製造している奴もいるようだね。もっとひどい奴は、それを他人に、販売までしているようですかなー。

 エへへ、これ伊藤康善先生の法話の受け売り。それにしても、面白いーね。

 ボタ餅の皆さん、お気をつけてお出かけください。そして、如来様に食われましょうや。

 

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コメント

先生、お世話になります。
ボタ餅製造とはどのような意味でしょうか?
よろしければご教授下さい。

投稿: TDM900 | 2007年5月19日 (土) 23:36

TDM900さん、お久しぶりですね。
これは、一種の禅でいう「公案」(こうあん)のようなものだなーとぼくは思います。正解を、聞くのではなくて、自分の身で体験する以外に、ここは味わえないところですね。

ただし、「ボタ餅」製造に関しては、「自力建立」の信と、単純に味わっています。その製造法は、皆さんの方が詳しいでしょう。だって、蛇の道はヘビですからね。

TDM900さんは、どう味わいましたか?

投稿: かりもん | 2007年5月20日 (日) 21:32

先生お世話になります。

TDM900さんは、どう味わいましたか?ですか。

結局、自分の気分が良ければOKなんです。
僕にとっての仏法はそういうものです。
無明の存在とはお聞きしますが、
そう聞くとまた気分が良くなります。

ご質問の答えになったかよく分かりませんが・・。

投稿: TDM900 | 2007年5月23日 (水) 21:33

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