歎異抄第3章「悪人正機章」
今日は、大阪支部法座。大阪といっても、最近は、奈良の生駒が会場です。いつもより、少な目と聞きましたが、22、3名の参加でした。
『歎異抄』の第3章を輪読。このことは、3月14日の広島法座で触れていますので、詳細は書きませんが、今回も皆さんに、それぞれの声で、原文を何度か読んでもらいながら、味わいました。
皆さんから、ここは単なる、善悪の問題にした章だと思っていたけどれ、いつもお聞かせに預かっている「自力・他力」の水際を問題にしているとは思いませんでした、という発言が多かったです。
歎異抄は、序 聖語編十章、別序、歎異編八章、後序という構造になっています。(たぶん唯円房の)耳の底に留まる親鸞聖人の言葉、法語を残された、前半十章。その中でも、1、2、3章は、安心訓。詳しく言うと、1章が「総説」、残り2章が「別説」で、2章は「信法」、3章は「信機」という分類できます。
その内、第3章は、有名な「悪人正機の章」。でも、この言葉は、歎異抄にも、親鸞さまにもありません。たぶん、歎異抄の100分の1程度の知名度もない、覚如上人の『口伝鈔』(19条)に、(ここには、如信上人の言葉として、「世の人つねにおもへらく「悪人なほもて往生す、況んや善人をや」が出てきます)に、「善凡夫なお往生せば、もっぱら正機たる悪凡夫いかでか往生せざらん」とあるところです。もちろん、元祖法然上人や、そのお弟子の勢観房の言葉もあるようです。
ともかく、悪人こそが、弥陀の本願のお目当てであるということですね。
ところが、本文には、悪人が「往生の正因」と受け取れる表現がでてきます。それで、今日も、「悪人正機」と、「悪人正因」と同じですか、という質問が出されました。悪人正機を押し進めて「悪人正因」だという説をとる学者もいますが、ぼくは、ここは厳密には、分けておく必要があると思っています。
この章では、単に人間の相対的な「善悪」を問題にしているのではありません。「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」なんですから。ぼくたちの聞法は、あくまで人間のものさしではなくて、阿弥陀様のご本願のものさしで、善・悪を問題にすることが大事です。
だから、善人のことを「自力作善」の人と言い換えておられる。すると、善人とは、19願や20願の人ということになる。(あの、別にそんな人が他にいるんじゃないのですがね)。だから、その善人が真実報土に往生するのは、「自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてつる」ことだと言われるわけです。
それに対して、煩悩具足の悪人は、いづれの行にても生死をはなるることがなく、そののものを見抜ききって、その私めがけてご本願を起こしてくださった。だから、単なる「悪人」が往生するのではなく、「他力をたのみたてまつる」悪人が、往生する。そこが正因だと。すなわち、他力をたのむこころ(信心)を正因と取ることができるわけです。
いずれにせよ、ポイントは、「自力を捨てて、他力をたのむ」-この一点にかかっているわけです。そこで、はじめて、極重悪人としての自覚、いずれの行も及びがたき地獄行きの身が、現前として露わになってくるんじゃないでしょうかね。
そこで、「ドえらいものを捨てさせてもらった」味がないと、いくら「悪人を救う」と言われても、絵に描いた餅で、まったく味のない空しいものになりますから、頭で固めた聴聞では、今度の後生はおぼつかないですゾ。
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