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聞くことは難しいナー

 広島の法座で、「法話をこんな風(たとえば、例話をわが身の問題に置き換え聞いているが、それが自分に引き寄せて聞くことなのか)に聞いていますが、どうでしょうか」という話題が、数名の方から出された。(ここをじっくり聞けてよかったです)

 皆さん、ほんとうに真面目に聞法され、ずいぶん、目に見えないところで悩んでおられていることを、再認識させられた。

 確かに、ご法座でのご聴聞と、日常の話を聞くことの違いは、常に強調されている。単に「けっこうなお話でした」とか、「よくわかりました」と聞くのではないのだ。それで、「後生の一大事と驚きを立てて聞け」とか、「わが身に引き寄せて、具体的に聞く」とか、「いま、ここで聞け」とか、「無常と取り詰めよ」などという話が中心になる。つまりは、観念的ではなく、「驚いたり」「引き寄せたり」「取り詰めたり」して、わが身にかけて、具体的で、立体的な聞法を勧めてくださるのである。

 しかも、そのご聴聞している時の、自分の心の動きは人に見えない。そうなると、ますます、いまの自分の聴き方が、正しいのか、間違っているのかが、(特に求道者や、すこし聴き始めた聞法者を中心に)いちばんの関心事になっているようだ。

 でも、法話を聞く間中、この聴き方で、正しい聞法になっているのかと、我が心と格闘しているとしたら、これはなかなかたいへんなことだ。しかも、この作業のメーンは、自分の心と格闘することであって、肝心のご法話そのものは、あまり聞いていないのじゃないか。つまり、法話は、自分の心を刺激する材料みたいなもので、それをいかに強力に感じられるのか、受け止められるのかに腐心していて、肝心の「聞く」ことがお留守になっているんじゃないかと。

 そんな時は、我が心(そんな意識というか、批評家的な面ですね)にかまけないで、その心に捕らわれたり、詮索せずに、とりあえずただ聴かせてもらうしかない。これを譬えると、「勉強は集中することが大切」と教えられて、「集中しよう、集中しよう」と意識がそこにとらわれている間は、実は気が散らばっている証拠である。そんなときは、そんな意識にかまないで、机に向かって続けていくことが、肝要でしょう。聞法だってそんな一面があるんじゃないかなー。

 聞くときは、聞くだけである。

 「え! じゃ、ただ聞いくだけでいいのですか? それでは心もとないのですが…」という、誰かさんのつぶやきが、遠くから聞こえてきそうである。

 少なくても、ぼく自身は、何も考えたり、意識せずに、ただ、楽に聞かせてもらっているなー。

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法味・随想」カテゴリの記事

コメント

おはようございます。             ブレジャー様との交流会の反響、永代経等々、HPやお同行さん方からのお味わいを聞かせて戴くなかで、あらゆるものが能動的に、受動的に、意思を超えて活発に動いている。羨ましくもあり、妬ましくもあり、私にも響いてくる。
「とりあえずただ聴かせてもらうしかない」
「 聞くときは、聞くだけである」
かりもんさんのことばが、すんなり響く「わがはからいにあらず」と。誰かのお言葉に「清浄真実の願信でかためられた名号が人を動かさぬはずない」とあります。また「つまらぬと いうは小さき 智慧袋」という「わたし」が、お念仏を聞きにくくしているとも教えて下さいました。かりもんさんのおことば通り、ただ聴かせてもらうこと、ただ聞くことですよね。そうすれば、響いてきますね南無阿弥陀仏。今朝も良い、ご法にあわせていただきました。ありがとうございます。               

投稿: 稜季の父ちゃん | 2007年5月 9日 (水) 08:01

「えっ、じゃ、ただ聞くだけでいいんですか。」と言ってしまう、私です。
「僕は、何も考えたりせずに楽に聞かせてもらってるな。」と言われて、驚きました。
今まで、ずーっと、こんな聞き方じゃ、だめだ、これも、
あれも、聞けてないぞと、聞けない自分を分析することに気持ちが捕らわれて、肝心のご法話が聞こえなくなってしまってました。「そういう気持ちがでてきても、相手にせずに聞く。」ということを聞かせてもらって、
今、ほっとしています。(どうやっても出てくる心なので、、、。)
そして、いつも「聞くぞ!」ってものすごい力が入って
いたんですが、そこにまた捕らわれていて、それもまた聞けてないんですよね。やっかいな私です。

投稿: Tねこ | 2007年5月 9日 (水) 15:39

稜季の父ちゃんさん、Tネコさん、いつもありがとう。

言葉て、厄介ですよね。言葉を超えた世界を、その厄介な言葉で、しかも生きた言葉を通して聞かせてもらうわけでしょう。

でも、その言葉にとらわれていく。ましてや、ご法話や法座での先生の言葉になるとなおさらですよね。

これってやはり、真理の月を指す指なんでしょうね。

そこにとらわれて、どう聞くのか、ああ聞くのか、ああじゃ、こうじゃと指を問題にしているんじゃないかなと思わされました。

指は、月を指し示してくださっている。有り難いことですね。

投稿: 指月の指 byかりもん | 2007年5月10日 (木) 23:05

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