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5月の輪読法座~いま、ここで、私が~

 華光誌輪読法座も、4回目。今回は、初参加者がなかったが、これは初めてのこと。毎回12名前後で、京都の方を中心に、顔ぶれも決まってきたようだ。暑くなる7月は、平日の夜間の開催でもいいかもしれない。顔ぶれも変わるかもなー。

 66-2号「身で聴く体験」の2回目。前回、半分以上済んだので、今回で法話は終了する予定だったけれど、前から通して読むと、思いの外時間がかかって、3回目も続きからとなった。固有名詞なんかを省略して、心に残った文章引用する。◆◆◆

 「いま、ここで、私が」

「…でも、阿弥陀様は十劫も立っておられる。お寺で内陣に入らせていただいた。阿弥陀様を、横から見たら、なるほど前かがみになっていなさる。ジッとしてられん仏様のお姿。

 伊藤康善先生の『大悲の呼び声』の中には、「八大地獄の業の火が、えんえんとして燃えあがる。驚きたたぬそなたより、驚きたてるこの弥陀は」とある。

 子供が崖っぷちに立ったら、思わず手を伸ばすようなお姿でしょう。人ごとにしていたらダメですよ。私の心の中へ飛び込んで来てくださっている。その飛び込む姿勢を、ああして見せてくださっているの。それが南無阿弥陀仏の姿や。称えやすい、保ちやすい、信じやすい名号を案じいだしたまい。十劫の昔に正覚を取られたが、私はここに座っている。その間ズッと、立ち詰め、呼び詰め、招き詰めなのです。

 だから大事なことは、それを、今、ここで、私に聞く。

 今しかないここで聞くこの私に集中させてもらう。この三つを忘れなはんな。人ごとにして、また、どこかで、いつか聞けると言ってはいかん。……」◆◆◆◆◆◆◆

 ねえ~ 今、ここの、この私のところに、先手をかけて南無阿弥陀仏が飛び込んで下さっているんですからね。これを抜いて、どこで、聞かせてもらうのでしょうかね。

 でも、自分のムネにだけに焦点を当てると、「今、ここで、とは思えいない」とか、「そうなっていないので、そこを迫れると辛い」とかいった、ピンとのボケた話になってくる。それも正直な告白なんだろうけれども、ハッキリいえることは、どれだけ熱心に、その心をいじくっても、ダメなものはダメだということだ。そんな迷いの心に、虚仮不実の心に、構っている暇は、まったくない。それが、「今、ここで」聞くということでしょう。

 別に、法座の時だけじゃない。この文章を読んだそのときだって、「今、ここの、私」に、生きた南無阿弥陀仏が名乗りを上げて、飛び込んで下さっているのです。

 南無阿弥陀仏。

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コメント

トドメ!をさされているように感じます。
何かもっと特別なことを聞くように聞いてきました。
そして、「これではいけない、これではいけない。」と、聞かせていただいたことをこねくり回して、、、、。逆向きに突っ走ってる。
今、聞かせていただいてるそのまんまなんだなあ。

投稿: Tねこ | 2007年5月28日 (月) 08:56

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