« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »

2007年5月の33件の記事

いま、こんな仕事が進行中

 昨夜は、事務連絡の会議があった。途中で、急な雷鳴と共に、激しい雨になる。あたりも冷気に包まれていた。

 本部の行事は、永代経、真宗法座の集いと終わり、6月は支部長研修会、仏青研修会、7月が壮年の集いと続くが、これからの相談は、8月の子供大会、そして、9月の東京公開法座の打ち合わせが中心である。7月発行の華光誌に、案内状を入れるためだ。メーンの先生が入れ代わる子供大会と、富山の仏青研修会。そして、初催しの東京公開法座は、外での開催なので、宿舎、交通も含めて念入りに相談が必要だ。

 その東京公開法座は、チラシやポスター、上映アニメなどは、プロの力を借りて、着々と進んでいるようだ。ご苦労さま。6月末の東京支部法座に合せて、下見なども行うことになっている。当日予定している、「ほとけさまのプレゼント」の手直しも、大詰め。今日を締め切りに、複数の目で教義的表現のチャックをしている。

 また、華光誌の編集作業も、徐々に形になってきた。誌上法話「濁悪邪見の衆生」も、二校に入り、体験記などの記事も40頁の割り付けが終わったので、昨日で本文が出揃う予定だった。ところが、お昼になって、原稿が送付されてきた。当然、次号に回せばいいのだが、特集を予定している、華光誌創刊時からの華光同人、大倉ミヨシ様の追悼記事だったので、急遽、割り付けを変更することにした。そのせいで仕事の段取りがズレたが、なんとか、今夜中に、聖教と目次、ウメを除いた、本文だけでも仕上げたい。

 こころの隅に、明日の午前中は、相国寺で開かれている「伊藤若冲展」を観に行きたいとの思いがあるが、1~2時間待ちのたいへんな人手だそうだし、週末の広島の教案の準備もあるので、実際は5分5という気分。とにかく今夜の仕事次第だなー。頑張ろうー。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

リサ・ガーシュテン、日本の童謡をあなたに

 今日は、朝から雨。早朝は、雨足も強く、長雨の気配だったが、正午すぎには止んで、日差しも戻ったきた。

Img_0536_1  午後の一時、東山の東福寺塔頭、正覚庵へ向かう。

 十条通を直進して本町通りへ。自転車で、だいたい12、3分というところ。ぼくは、三年間、東福寺の境内を抜けて、そのImg_0535高台にある高校に通っていたので、このあたりには詳しいのだが、この塔頭は、初めだった。でも、筆供養の筆塚で、全国的に有名な寺だという。いや、京都は深いなー。

 今日は、ダライ・ラマと共に、インドに亡命している、チベット難民の支援コンサート。リサ・ガーシュテンという米国籍の女性が、日本の童謡、唱歌、童歌など、アカペラで披露した。

 背景の庭が美しい。雨に濡れた新緑に陽があたり、風にそよぐ葉っぱが、無秩序にキラキラと輝くさまが、歌声と響きあう。

Img_0532  前座で、しのび笛の音色を数曲聴いた後、法被とモンペ姿の彼女(東欧系の米国人)が登場。身振りを交えての、澄んだ声が響き渡った。決して、日本語の発音が流暢なわけではないが、それでも言葉を大切に発せられるさまがよく分かった。「月の砂漠」「赤とんぼ」など、誰もが知る有名な曲も多かったImg_0531が、琉球のうたを含めて、全体の1/3程度は、初めて聞くものだった。それでも、とても懐かしく思うのは、なんとも不思議な感覚 だった。

 歌声と共に、静かな余韻が残り、やさしい気持ちになる豊かな時間をいただいた

| | コメント (0) | トラックバック (0)

歯医者

 朝、長女を連れて、上桂(車で20分強)の歯医者まで行く。

 とにかく、この歯科、かなり特徴がある。設備は古いは、先生も奥さんも、お客も、年配の人が中心で、いつも異空間の、濃厚な時間が流れている。ズラッと、4台の診察台に順番に客が並び、ガンガン演歌をかけて、診察室も、待合室も一体になって、世間の風潮や権力について、ボヤいたり、愚痴ったりしている。しかし、腕はいい。絶対に抜いたり、無駄な治療はしない、信頼できる医者だ。

 学校検診でひっかかった子どもの歯も、「なんでも、かんでも出すんや。子どもの歯なのになー」と、ひとしきりいまの制度に一言あって、治療は、すぐに終了。次は、横で待っていたぼくの場合。幸い、虫歯も、腫れもなくて、ちょっとした噛み合わせが原因にあったようで、ちょっと削って、これも5分足らずで終了。

 ちょっとだけのことなのに、原因が取り除かれると、楽になる。不思議だね。ほんの少し、ほんの少しのことなのに、こんなことでも気分が晴れる。

 逆にいうと、ちょっとしたケガでも、病気でも、痛みがあると嫌なものでしょう。痛みを実感している時は、けっこう煩わされていますよ。ましてや、それが深刻になったらどうでしょうかね。にもかかわらず、死ぬとも、無常とも、思っていない。そして、遠いところにおいてうつつを抜かし、「別に怖くない」などとうそぶいている。

 でも、実際は違うなー。毎日、毎日、この体、この心に、煩わされぱなし。執着のかたまり。ちょっとしたことでもおして知るべしだ。これが、命にかかわるとなったら、必死にならないわけがない。

 こんなことからでも、わが身への執着、また無常を知らせる使者、徴候を聞くことはできますね。

 さて、ちょっとこれから、京都みなみ会館のレイトショーに行ってきます。

『幽閉者 テロリスト』という、カルトな映画。監督は、パレスチナで、赤軍の活動をしていた足立正生。「革命? オレはどこにいるのだろう?」。ふん。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

歎異抄第3章「悪人正機章」

 今日は、大阪支部法座。大阪といっても、最近は、奈良の生駒が会場です。いつもより、少な目と聞きましたが、22、3名の参加でした。

 『歎異抄』の第3章を輪読。このことは、3月14日の広島法座で触れていますので、詳細は書きませんが、今回も皆さんに、それぞれの声で、原文を何度か読んでもらいながら、味わいました。

 皆さんから、ここは単なる、善悪の問題にした章だと思っていたけどれ、いつもお聞かせに預かっている「自力・他力」の水際を問題にしているとは思いませんでした、という発言が多かったです。

 歎異抄は、序 聖語編十章、別序、歎異編八章、後序という構造になっています。(たぶん唯円房の)耳の底に留まる親鸞聖人の言葉、法語を残された、前半十章。その中でも、1、2、3章は、安心訓。詳しく言うと、1章が「総説」、残り2章が「別説」で、2章は「信法」、3章は「信機」という分類できます。

 その内、第3章は、有名な「悪人正機の章」。でも、この言葉は、歎異抄にも、親鸞さまにもありません。たぶん、歎異抄の100分の1程度の知名度もない、覚如上人の『口伝鈔』(19条)に、(ここには、如信上人の言葉として、「世の人つねにおもへらく「悪人なほもて往生す、況んや善人をや」が出てきます)に、「善凡夫なお往生せば、もっぱら正機たる悪凡夫いかでか往生せざらん」とあるところです。もちろん、元祖法然上人や、そのお弟子の勢観房の言葉もあるようです。

 ともかく、悪人こそが、弥陀の本願のお目当てであるということですね。

 ところが、本文には、悪人が「往生の正因」と受け取れる表現がでてきます。それで、今日も、「悪人正機」と、「悪人正因」と同じですか、という質問が出されました。悪人正機を押し進めて「悪人正因」だという説をとる学者もいますが、ぼくは、ここは厳密には、分けておく必要があると思っています。

 この章では、単に人間の相対的な「善悪」を問題にしているのではありません。「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」なんですから。ぼくたちの聞法は、あくまで人間のものさしではなくて、阿弥陀様のご本願のものさしで、善・悪を問題にすることが大事です。

 だから、善人のことを「自力作善」の人と言い換えておられる。すると、善人とは、19願や20願の人ということになる。(あの、別にそんな人が他にいるんじゃないのですがね)。だから、その善人が真実報土に往生するのは、「自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてつる」ことだと言われるわけです。

 それに対して、煩悩具足の悪人は、いづれの行にても生死をはなるることがなく、そののものを見抜ききって、その私めがけてご本願を起こしてくださった。だから、単なる「悪人」が往生するのではなく、「他力をたのみたてまつる」悪人が、往生する。そこが正因だと。すなわち、他力をたのむこころ(信心)を正因と取ることができるわけです。

 いずれにせよ、ポイントは、「自力を捨てて、他力をたのむ」-この一点にかかっているわけです。そこで、はじめて、極重悪人としての自覚、いずれの行も及びがたき地獄行きの身が、現前として露わになってくるんじゃないでしょうかね。

 そこで、「ドえらいものを捨てさせてもらった」味がないと、いくら「悪人を救う」と言われても、絵に描いた餅で、まったく味のない空しいものになりますから、頭で固めた聴聞では、今度の後生はおぼつかないですゾ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

歯が痛い

 ここ数日、噛むと右の奥歯が痛む。そこへ、腹の具合もいまひとつ。食べ過ぎなのか腹痛と下痢。なんの生活にも、仕事にも差し障りない、ほんとうに、ほんとうに些細なことなんです。でも、そのほんの少しでも、常にどこかが痛いとか、だるいとか、すぐれないと、ちょっと気分まですぐれなくなるんですね。まあ、ほんとうに我が身かわいいですわー。月曜日には、歯医者に行かないとね。邪魔くさいなー。

  ちょっとお疲れ気味かなー。今日は、午前中、自力整体で、体調整えてきました。教室は、いい風が入って、さわやかな気分。

Img_0522  隣の工事は、土砂降りの昨日から、会館に隣接する北側のブロック塀を取り壊しにかかりました。3mちかい高いものだったけれど、ハッキリと傾いていて、かなり危険な状態。さすがに、耳元での作業でうるさかったけれど、きれいになくました。北側ですが、壁がなくなっただけで、1階が、少し明るくなりました。以前、東側の境界のブロックのことで、裁判沙汰のトラベルが発生したので、今回は、要注意ですぞ。

 今日から高山支部。珍しく、父と母が夫婦でお邪魔しています。ほんうとにお世話になります。

 ぼくは、明日、大阪支部法座。歎異抄の第3章を取り上げる予定です。

 これ以降、、広島(大会)、支部長研修会、東海(蒲郡)、東京、富山(仏青)、また広島(遠方)を挟んで、「壮年の集い」と、7週間続けて、週末の宿泊行事が続きます。

 平行して、華光誌の編集の真っ最中。こちらは、初校、6月8日を渡しを目指しています。まあ、ボチボチですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

5月の輪読法座~いま、ここで、私が~

 華光誌輪読法座も、4回目。今回は、初参加者がなかったが、これは初めてのこと。毎回12名前後で、京都の方を中心に、顔ぶれも決まってきたようだ。暑くなる7月は、平日の夜間の開催でもいいかもしれない。顔ぶれも変わるかもなー。

 66-2号「身で聴く体験」の2回目。前回、半分以上済んだので、今回で法話は終了する予定だったけれど、前から通して読むと、思いの外時間がかかって、3回目も続きからとなった。固有名詞なんかを省略して、心に残った文章引用する。◆◆◆

 「いま、ここで、私が」

「…でも、阿弥陀様は十劫も立っておられる。お寺で内陣に入らせていただいた。阿弥陀様を、横から見たら、なるほど前かがみになっていなさる。ジッとしてられん仏様のお姿。

 伊藤康善先生の『大悲の呼び声』の中には、「八大地獄の業の火が、えんえんとして燃えあがる。驚きたたぬそなたより、驚きたてるこの弥陀は」とある。

 子供が崖っぷちに立ったら、思わず手を伸ばすようなお姿でしょう。人ごとにしていたらダメですよ。私の心の中へ飛び込んで来てくださっている。その飛び込む姿勢を、ああして見せてくださっているの。それが南無阿弥陀仏の姿や。称えやすい、保ちやすい、信じやすい名号を案じいだしたまい。十劫の昔に正覚を取られたが、私はここに座っている。その間ズッと、立ち詰め、呼び詰め、招き詰めなのです。

 だから大事なことは、それを、今、ここで、私に聞く。

 今しかないここで聞くこの私に集中させてもらう。この三つを忘れなはんな。人ごとにして、また、どこかで、いつか聞けると言ってはいかん。……」◆◆◆◆◆◆◆

 ねえ~ 今、ここの、この私のところに、先手をかけて南無阿弥陀仏が飛び込んで下さっているんですからね。これを抜いて、どこで、聞かせてもらうのでしょうかね。

 でも、自分のムネにだけに焦点を当てると、「今、ここで、とは思えいない」とか、「そうなっていないので、そこを迫れると辛い」とかいった、ピンとのボケた話になってくる。それも正直な告白なんだろうけれども、ハッキリいえることは、どれだけ熱心に、その心をいじくっても、ダメなものはダメだということだ。そんな迷いの心に、虚仮不実の心に、構っている暇は、まったくない。それが、「今、ここで」聞くということでしょう。

 別に、法座の時だけじゃない。この文章を読んだそのときだって、「今、ここの、私」に、生きた南無阿弥陀仏が名乗りを上げて、飛び込んで下さっているのです。

 南無阿弥陀仏。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

大安に地鎮祭

 隣地の工事は、昨日、今日と、お休み。もう一息でアスファルトが掘り起こされて、完全に更地になるのに、なぜ休むのだろうと、不思議に思っていた。ゴソゴソとテイトや紅白の幕がはれる。「地鎮祭」のためだった。カレンダーを観て、「なーるほどね」、大安なのである。

 そういえば、華光会館のそれは、仏式(もちろん、地鎮祭でも、安全祈願でもない、起工式として行った)で、しかも仏滅に行うと告げると、工事関係者が激しく難色を示したことを覚えている。なにごともなく、無事故で終わりたいと願うのは当然だか、そのために縁起を担ぎ、迷信にとられ、日を選び、方向を選でいく。それにしても、そこで利用される、神・仏もたまったもんじゃないなー。

 けれど、これが世間の紛れもない、「信仰」の形態なのだろうー。いや、信仰というより、習俗や慣習にすぎないけれど。

 おかげで、今日の輪読法座は、騒音も、振動もなかったので、助かった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『モーツァルトとクジラ』

 ぼくが、アスペルガー症候群、高機能自閉症、高機能広汎性発達障がい(ほとんど同じ意味で使われることが多い)という言葉を、初めて耳にしたのは、かなり以前の真カ研の月例会だった。自閉症はともかく、「高機能?」「アスベルガー?」ってな感じで、さらに、注意欠陥多動性障がい(ADHD) とか、学習障がい(LD) などなど、従来の精神遅滞(MR)・知的障がい以外の、発達障がいの研究や事例が、堰を切ったように多くだされるようになっていった。今では、心理職や教職関係者だけでなく、一般人たちにも、かなり浸透する言葉となっている。しかし、まだ言葉が先攻していて、その実態や正しい理解がに進んでいるのかというと、偏見や誤解が多いのも事実だろう。

Moz  映画『モーツァルトとクジラ』は、アスペルガー症候群の男女の恋愛と、その仲間たちのハートフルなラブストーリー。ちょっぴり痛いけれど、温かい気持ちになれる一本。このタイトルにも意味がある。

 自閉症の映画といえば、ダスティ・ホフマンが好演した『レインマン』を思い出したけれど、それもそのはず。同じ脚本家が書いたものだった。なーるほど。しかも、モデル本人が、監修しているが、彼は、精神科医がすすめた『レインマン』を見て、自らがアスペルガー症候群であることに気づき、同じ悩みを持つ大人たちを支援するグループを立ち上げて、そこで、将来の妻となる女性と出会ったという、実話をベースにしている。

 主人公(ジョシュ・ハートネット)は、優秀な成績で大学を卒業し、こと数学(数字)に関しては、天才的な能力を発揮するが、社会的な人間関係や、コミニケーションが困難で、感覚機能がうまくコントロールできずに苦しんでいる。

 アスペルガー症候群の、表面にあらわれる特徴には、独特の対人関係(社会性の問題)がある。たとえば、曖昧な表現(「後で電話して」と言われると、「後とは、何時何分後か」と苦悩し、面接で、「将来のプランは?」と尋ねられると、「これからマクドで食事します」と答えてしまう。)が理解できなかったり、初対面の人を正視できず、自分にとって関心事は、相手にとっても関心事だと信じきて、延々と個人的な関心をまくしたてる。ジェスチャーや表情、距離のとり方などのノンバーバルのコミュニケーションや、比喩的な表現も苦手。パターン的(反復)行動は得意だが、生真面目すぎて融通が利かず、ちょっと部屋が整理されただけでも、極度の不安から、常同運動を繰り返したり、パニックになったりする。

 彼の前にあらわれた、一見、積極的な彼女もまた、同じ苦しみをもっていた。音楽と、絵画には天才肌の彼女も、相手の立場や状況を察することができず、正直に見たままを口にしてしまい、時には、ところ構わず、平気で性的な言葉を発をする。また金属音に、過剰なほど反応しパニックになっていく。

 たとえ、饒舌でも、話すほどに混乱し、さらに、人の話を理解することも苦手な場合もある。社会生活の暗黙のルールが理解できず、もしくは、回りの無理解から、人間関係や社会生活に傷つき、孤独に苛まれているのだった。

 そんな二人が、何度も傷つき合い、混乱しながら、お互いを察し合う努力を重ねて、また仲間たちに支えられて、家庭を築いていくのだけども、現実はもっと厳しいものだろう。

 それにしても、見れば見るほど、人ごととは思えない面もあるよ。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

笑顔で今日も

 朝から日差しが強く、半袖の気分。一足早く、夏が来たようだ。

 二女を保育園に送った足で、長女の小学校へ。

 2年生、最初の授業参観。1時間目の国語と、次が音楽の授業だった。

 京都市の中心部は、ドーナツ化。高齢化と少子化で、小学校や中学校の統合が進んでいる。長女の通っている小学校付近も、そのすぐ近くで、京都市でも最大級の複合ショッピングモールやシネコンが入る、大規模の工事中だ。京都のネックだった道路も徐々に整備され、会館近くまで、高速道路が伸びるのも、まもなくだ。結局、中心部の集客は進み、便利になるのだろうが、車を利用する若い人達は郊外に移り住むというわけだ。

 そのせいか、小学校も、1学年に1クラスしかない。それも、30名未満という少数だ。単級を補う意味で、遠足などの行事は、学年を越えた縦割りでおこなわれることが多い。6年間、同じメンバーというのは、寂しい限りだが、学年を越えた交流は悪いことではない。

 たまたま覗いた音楽の授業は、2年生による、1年生を迎える会のリハーサルを兼ねていた。手話を交えた歓迎の言葉と、ジャスチャーを交えた歓迎の歌を披露してくれた。みんな素直で、ほんとうにかわいい。元気よく、跳ね、回り、楽しそうに踊っていた。

 「はねて はねて、ピョンピョンピョン。笑顔で今日も~

 友達と向かい合い、ピョンピョンピョン。

 大きく背伸びだ、両手をあげて。

 こぶしをつきだせ、グングングン」

ぼくたちは、こんな素直な気持ちと、イキイキした態度を、いつ、どこで失ったのだろうかね。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

音声回向

 響流十方と、三千大世界に轟き、響きわたる南無阿弥陀仏。

 呼び声となり、まさに、わが業魂(ごうだましい)の真っ只中に、飛び込んでくださっているとは!

 南無阿弥陀仏

| | コメント (1) | トラックバック (0)

「見ている」と思ったら大間違い

 あるご法座でのことだ。

 「如来さまが血みどろになって、頭を下げ頼んでくださっていると聞いているのに、なんとも感じないシラケた自分がいる」と、ありのまま正直に、淡々とお話してくださる方があった。「以前は、ただ自分に信心があることを、先生や同行に認めてもらいたかったが、しかし、今となっては、信心など頂ける自分ではない。また何を言ってもウソしかない」とも、お話してくださる。

 まったくそのとおりである。

 如来さまの智慧のお光りによって、自分の自性が知らされてきたのである。そのことを見抜き、私の狂った自性を分かり切った上で、そのままを認めてくださり、その心こそが正客だという阿弥陀様の大慈悲のお心が成就されている。もう自力のはからいは役に立たたないのだから、大願にただおまかせするしかない身にならせてもらっているのだ。そこまでのお育てはいかばかりであろうか。

 ところがである。その方のお顔が、なぜかさえない。

 広大無辺なお慈悲を前に、「無慙無愧」のかたまり、小慈小悲もなき、サソリのような冷たいわが自性が、いま、現前としていきたのに、次の一言を続けて、自らのダメさを嘆いておられる。

 「そこまで分かっているに、なぜ、その申し訳なさに、号泣懺悔し、念仏が出ないか」と。 

 アチャーチャ~

 やはり、如来様のご恩徳が高いかを聞かずに、少しご恩徳に触れたことをバネに、「どうしたら、私の心が動くか」「他力の念仏が出てくるのか」と、自分の心の詮索に腐心されているのであろうか。

 しかし、わが自性を、自分が見ていると思っていたら、大間違いですぞー

 実は、如来様がご覧くださっているのです。そのおかげをもって、無明で、逆謗のこの身にも、やっと知らせてもらえてきたのになー。

 ここにも、先手のお働きがある。勿体ないなー。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

真宗法座の集い(終わりました)

 真宗法座の集い。「始まったー」と思ったら、「終わりました」。ほんとうに、アッーーーという間に、2日間が過ぎていった気がします。

 長いようで、この娑婆-人生も、こうして過ぎていくのでしょう。ほんとうは急がねばならないことを後回しにして、どうでもいいことに必死なっているうちにね。

 で、今回は、役割分担をし、じっくり自己紹介をし、グループ分けの意向を尋ね、夜に法話を拝聴した後で、ちょっとバタバタ急いで(ここ急ぎ過ぎたけど、時間的にはリミットか)、2日目から3グループに分かれました。7~9名のグループでしたが、かなりこじんまりした感じで、じっくり話を聞けたのかというと、ひとりひとりに丁寧にかかわるには、時間が足りなかったなーといのうが正直なところです。

 ぼくのグループで言うと、点(個)が、バラバラにあって、それが、ぼくとの関係で点と点が単線になり、だんだん蜘蛛の巣のように(まさにウェブだね)なり、やがて面になる。そして、さらに成熟してそれが立体的に立ち上がり、ご法が躍動するというプロセスでいうと、やっと、点と点とが線で結ばれだして、さて、これからというところに、「終了!」という感じでした。

 グループ分けの相談の合間に、2席の長い法話が入ったので、正直、2日間では勿体ない感じでした。皆さんの、聞法の焦点がキチッと定まっている以上、もう少しグループ分けを早く働きかけてもいいかとも思いました。ただ、いつも、いつもただ「おまかせ」では、ひっかかることもなく、当たり前になってサアーと流してしまうので、たまには、ちょっとモタモタしたり、無駄なようでも、もっと個々がわがままになって、聞いていく、そんな、ひたむきさがあってもいいかなーと思いました。

 今年、面白かったのは、参加者全員が、何か役割をもって、(食事担当、掃除、お茶、勤行や、書籍販売、懇親会係、昼食の幹事など)もらったことですね。皆さんの違った一面が見られて、身近に感じられた気がします。

 ご法の上で、味わったこともありますが、今回は進行上のことを中心に。

 ご参加の皆さんの、ご感想、ご意見、お味わいも、ぜひ、お聞かせください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

真宗法座の集い(始まります)

 さあ、始まります。

 昨年は、2度-4月に京都と、8月に広島で開いているので、今回が第5回目。それでも、初めてから4年目も経ったんですね。早いね~

 これから、世話人4名で、打ち合わせ。昨日、名簿や打合表を造ったので、それに沿って相談していきます。

  今回は、お手伝いの相談も、参加者全員でしてはどうかと思います。子供大会みたいに、班別対抗なったりしたら、さらに面白いけどね。

 老(80歳台)若(20歳台)男(11名)女(13名)と、なかなかバランスのいい顔ぶれになった。でも、わりと、ここ1、2年で華光のご縁ができた人が中心8割。同人や誌友以外の人も、4、5名おられる。

 さて、どんな展開になるのか。顔ぶれが顔ぶれだけに、予想つかないです。全体、(1グループ)では人数が多いので、グループ分けとなりますが、どう分かれるのが、ひとつポイントですね。あまりモタモタしていても時間ないし、すきな人、話やすい人とだけ分かれても面白くない。いつものように、先生で分かれていっても、いつも聞法パターンと同じになる。。。。なかなか導入と、ここのところが難しいですね。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ボタ餅となって、食べられろ!

 明日から2日間、真宗法座の集いだ。

 個人的には、華光の法座のなかでも、この真宗法座の集いや、輪読法座が好きだ。

 だって、法話の準備をしなくていいから……。なんてねー。半分冗談、半分ほんとう。

 確かに、聖教量としての法話や説教は大切だ。それで、講習会のような講義・法話のみの法座もあるし、普段の法座も、まず法話があり、後で信仰座談会が開かれる。しかし、年に1、2度は、比量を中心、座談会や示談を中心にした法座があってもいいと思う。そこにも、聖教量も、現量も含まれているのだから。

 第一、参加者が、より積極的に法座に関わりをもってもらえる。法座・聞法の時間をどのように使うのかを、ひとりひとりが、自分の問題として考えて、動いてもらえる。いや、そうして法座を、その時間も、そこにおられる先生も同行も、自分のものとしてフルに活用してもらいたいのだ。

 とはいっても、「他力」という教えの性格上、聞法の姿勢が、どうしても受け身になりがちなのも、ある種、致し方のないことかもしれない。特に、未信者や求道者なおさらだ。浄土真宗では、行者の側からの働きかけ、自力修行を否定するので、聞くという営みも、先に、弥陀の本願をお取り次ぎして下さる、先達や善知識の言葉があって、それをどう受け取り、受領するのかを、それぞれが腐心しているのだからね。

 もちろん、阿弥陀様からの一方的な、先手をかけたお働き、如来のおひとり働きに直参するのであるから、我が自力のはからいを捨てて、広大無辺の他力に帰する以外に道はない。

 しかしである。

 他力本願の教えは、ただの「棚からボタ餅」と考えるのは、とんでもない誤解。

 善知識や先達が、なんとかしてくださると思っているのなら、そんな甘くはないぞー。

 でも、どんなに熱心で、真剣な、(一見)命がけの求道者も、どこか最後のところで、それを期待している節があるのだ。……だって、「他力なんでしょう」と。

 違うなー。

 バカみたいに、ホカーンと口を空けて、南無阿弥陀仏のボタ餅を待っていてもダメだ。

 「え! じゃ、せいぜい宿善を積んで、自力も徹底的にやり遂げて、やり遂げて、やり遂げたら、転じて他力になるということですか?」

 なに、寝ぼけたこと言ってるの。そんなの論外だ。

 他力のおみのりは、

 「自ら、ボタ餅になって、落ちていけ! 如来様は、喜んで食べてくださるゾー」

 これだね。でも、口を空けてるだけでなく、強者になると、ボタ餅を製造している奴もいるようだね。もっとひどい奴は、それを他人に、販売までしているようですかなー。

 エへへ、これ伊藤康善先生の法話の受け売り。それにしても、面白いーね。

 ボタ餅の皆さん、お気をつけてお出かけください。そして、如来様に食われましょうや。

 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

『真宗法座の集い』と、お通夜と。

 今夜は、前々から、イタリアのピアニスト、ステファノ・ボッラーニー・ジャズ・トリオの京都公演に行こうと、密かに考えていた。ただ、華光誌もあるし、週末は「真宗法座の集い」もあるし、ちょっと迷いもあって、当日券狙い。しかし弱気な時は、やはり実現しないもの。昨夜、町内会でお悔やみがあり、今夜がお通夜。やっぱりなー。無理するなということかと、あっさり諦めた。

 で、今日は、華光誌の誌上法話と、「真宗法座の集い」の懇親会の買い物や、打ち合わせなどの作業。

 真宗法座の集いは、出入りを押さえ、顔ぶりを固定して、じっくりと最後までかかわることを目的にしている。今回は、華光のご縁が新しい方も多く、かなり新鮮な顔ぶれとなった。もしかすると、戸惑われ方もあるかもしれいなが、どんな動きになるか、いまから楽しみだ。

 かなり早い時点で、定員の20名に達し、定員待ちも3名あったが、ここにきてキャンセルが続いて、とうとう定員を切った。もし、参加を希望される方あれば、当日参加や部分参加は受け付けないが、至急、華光会館にご連絡ください。1名だけ受け付けることができる。詳細は、以下からどうぞ。

 『真宗法座の集い』参加要領

 お通夜にお参りすると、浄土真宗のご門徒だった。かなりゆっくりと『阿弥陀経』があがっていた。このところ、お悔やみに参列することが増えたが、考えてみると、ここ数年、お葬式の導師をしていない。いや、依頼をうけても、本業の法座と重なってお断りをしていることもあるのだけど…。

 出かけようとしたら、長女も一緒に付いていくという。毎日、学校の先生に提出する日記の材料にしたかったようだ。「今日は、お父さんとお葬式に行きました」と始まり、ちょっとだけ描写があって、最後に粗供養をいただいたこととに触れ、「また、行きたいです」と結んであった。いえ~、ぼくは、なるべく行きたくないけどなー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

憤り、歎き、ふり返り、ウダウダと

 真宗カウンセリング研究会の月例会。新規のテキストが始まった。今年度は、人間関係論の「援助的関係の特徴」を輪読していく。

 といっても、6月16日(土)に予定している、「ワールドワーク」の体験学習会の打ち合わせや、また輪読方法や担当者の相談もあったので、あまり内容には入らなかった。

 それでも、ロージャスが示そうとしている、あらゆる人間関係、援助的な関係における、人間尊重の姿勢、態度のさわりに触れることができた。つまり、成長させ、発達させ、成熟させ、機能の働きをよりよく促進しようとする、ある種の意図ある関係を指しているが,それは、「当事者の一方が、その関係によって、相手方、あるいは自分と相手方の双方が、その人の中にうずもれている資質をより高く評価するように、よりよく表現するように、もっと有効に働くようになることを目指す関係である」と定義されている。それは、ひとり対ひとりの関係でもあるが、同時に、個人対グループ(集団)の相互作用も含まれる、成長を促進することを目指す、さまざま人間関係(親子関係、教師と生徒、医者と患者、カウンセラーとクライエントなどなど)に当てはまるのであると、述べられる。

 それから、45年以上がたったが、いまの社会の現状はどうか。ほんとうに、親や先生は、子どもたちの、「その人の中にうずもれている資質をより高く評価するように、よりよく表現するように、もっと有効に働くように」なる、そんな成長を促進する関係を、社会や個人が目指しているのかと問われると、現状は、ますます憂慮する事態が進行している。

 いま直面しているこの雰囲気の息苦しさ!

 自由や自己責任という言葉の下で、格差は拡がり、利益のみ追求し、成果や効率が優先される。ますます個は分断され、巧みに操作され、支配されていく。

 若者も高齢者も、明日への希望を見いだせず、諦めムードや、なげやりで刹那的になるか、常にギリギリですり切れるばかりに身を削るか。当然、未熟なもの、不完全なもの、些細な過ちにも不寛容で、気長にその成長を待つことなどは難しく、常に、声を荒らげ、感情的にイラツキ、生活に汲々している。

 そんなぼくたちの生きる社会やその空気と、ここで示される理念の乖離を、具体的な例話を交えながら、憤ったり、嘆いたり、反省しながら、なんやかんや、ウダウダ、ブーブーと分かち合ったのでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

隣地の建設工事

 昨秋、華光会館の外壁の改修工事が終わったばかりなのに、北側に隣接する土地の工事が始まった。長らく、大手家電メーカーの京滋事務所と、倉庫があったが、ここしばらく空き家状態。それが、4月下旬から取り壊しが始まって、連休明けから本格的に作業が進んでいる。さすがに、ぼくの書斎兼仕事場兼寝室の真横なのImg_0501 で、かなりの騒音と振動だが致し方ない。

 今夜は、更地になった後に始まる、建設工事の説明会が開かれた。跡地には、大阪に本社がある薬問屋の事務所兼倉庫が入るようだ。敷地面積が3100㎡、のべ建坪が、5200㎡の建物になる。工事も8ヶ月以上かかるようだ。会館との境界の傾いたブロック塀も、きれいになる。境界、安全面と騒音、衛生面。そして掘り起こしの際の問題、さらに法座の時などは、騒音などで多少の影響が出るのは仕方ない。土曜日の行事によっては予め工事の自粛をお願いしたいが、なかなか難しいようだ。

 華光会館の正面は、近鉄電車の高架だが、その高架下に、軌道保守の事務所が立ったのも、少し前のことである。夜中も顔見知れの作業員が常駐するようになって、少し安心もある。隣地は、どんな感じになるのやら。風景も変わるだろう。五山の送り火もだんだん見えずらくなって、いま3ケ所だけ。そのうち、東寺や京都タワーも見えなくなるのかもしれないー。

 完成は、来年1月末の予定。しばらくは、皆さんにもご不自由をおかけする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『ブッダの旅』

S1072 花祭りで、お釈迦様のお誕生をお祝いした。お釈迦様のご生涯については、さまざまな書物が出でいるが、最近、岩波新書から、カラー版『ブッダの旅』が出された。

 まず、新書版なので価格が手頃。そして、なにより写真がきれいだ。お釈迦様のご生涯の歩みが、テキストの伝説や伝承以上に、その現地の雰囲気、空気が写真から伝わって来る。当然、新書版なので、写真集とはいえず迫力がないが、それは仕方がない。

 華光会でも、2度、インド仏跡のツアーを組んだ。第2回には、ぼくも参加したが、あれから、もう25年以上経過した。ちょうど信にめざめた直後の旅だったので、一層、感銘を受けた。まさに身を使い、五感を使い、お念仏の起源に出会うような旅だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『ツォツイ』

 アフリカを舞台にした映画で、特にぼくの心を打ったれたのが、『ツォツイ』と『ルワンダの涙』だ。

 ハリウッドか、元宗主国の欧州資本で造れたものが中心で、監督も、欧米人である。ところが『ツォツィ』は、イギリスと、南アフリカの合作で、アフリカ製作、アフリカの監督の作品としては、初のアカデミー賞外国語映画賞受賞を受賞している。

Tsotsi_01_1   冒頭のザラザラした映像、打ち込み系の激しいビートとラップの音楽(クワイト)、そしてツォツイ(Tsotsi=不良、ワルの意味のスラング)の4人組が登場する。グーンと引き込まれる。明らかに、ぼくの居る世界、ぼくの感じているものとは、(表面的には)異なる世界の出来事なのに、なせか、この手の荒れたシーンにもこころが揺さぶれる。

  舞台は違うけれど、ブラジル映画『シティ・オブ・ゴッド』(これは名作の誉れ高し)。ただし、それに比べると本作は、かなり甘い気もしたけれど、それも欠点ではない。

 アパルトヘントが終焉した南アフリカのヨハネスブルク。人種間の格差以上に、黒人の間でも格差社会を生み出している。貧困、治安の悪化、エイズの蔓延、ストリートチルドレンの増加…。ただ生れによって、過酷な生活を強いられる子どもや若者たち。

 そんなストリートチルドレンの土管の生活から、仲間からも本名を知られず、過去を封印し、未来への希望もなく、ただツォツイ(不良、ワル)として、暴力と犯罪を糧に生きる青年。平然と、窃盗や強盗、時には、殺人も犯していく。ところが、黒人の裕福層を狙ったカージャックがもとで、生後間もない赤ん坊と暮らすことで、徐々に彼のなかで封印されていた「何か」か目覚めていくのである。

 愛情を示すことも、そして愛情を受けることも知らず、その適切な表現を知らないのである。ドキマギするような赤ん坊を扱うシーンは、目を不向けたくなった。でも、決して乱暴でも虐待でもない。ただ無知なのである。

 お乳をもらう若い娘の、ひたむきな強さがいい。その愛情に、彼自身が癒され、育ち直しはじめる。赤ん坊を尋ねられて、その名前も…。

 ラスト。情感的にするなら、彼のアップ(これがいい!)だけでもよかった。もっとスッキリした終焉も選択できる(ある種、それをどこかで望んでいた)。しかし、実際は、三者三様の曖昧さに少し戸惑いもある。それが、逆に観る側に、かすかながらも彼方への希望を懐かせる余地が残った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「花祭り」と、歓迎会

 今年の「母の日」は、スッキリと晴天に恵まれた。花屋さんの前をとおりかかりると、小さなお店に人が溢れていた。夜に通ったときも、まだ賑わっていた。

Photo_2  華光日曜礼拝は、今日が「花祭り」。案外、行事は有名でも、その意味まで深く知る人は稀だ。大人の座談でも、ある方が話されていたが、仏教の教えに出会うまでは、それほど意識したこともなく、おしゃか様のお誕生日以外は、それが何日だったのか、なぜ七歩も歩まれたか、「天上天下 唯我独尊」の意味や、甘茶のおいわれなども、案外知らていないのかもしれない。

 ほんとうは四月八日、いまから、二千五百年前の、北インドにあったカピラ城の王子様として、ルンビニーの花園でお生まれになったことぐらいは、皆さんならご存じであろう。

 今日は、かなり時間をいたいだて、法話をした。ほんとうは、お釈迦様のお誕生の意義みたいなテーマだけれども、1、2年生の子どもたちには、いきなりでは無理。それで、まず、わたしもこの世の中に、親の慈愛を恵まれて、願いをこめて生れさせてもらってきたことをお話した。その手がかりに、自分につけてもらった「名前」を、ひとりひとりに歌で尋ねっていて、漢字を黒板に書いたもらって、その親の願いや、由来について尋ねてみた。驚いたことに、高学年の子どもたちでも、案外、自分の名前の由来を知らなかった。むしろ、大人のほうが、そのことを通じて、親の愛情や、または、自分が親となって、子や孫の命名に、知恵をしぼり、あれこれ考え、願いを込めて名付けたことを思い出されたようである。不思議なもので、自分自身でありながら、これも親からいただいたものである。

 花祭りでは、灌仏(2匹の龍の由来で、お釈迦様に甘茶Photoをおかけします)をしてもらったり、散華をしたりした。あと、アトラクションで、昨年は、ケーキ作りだったが今年は、握り仏様を、各自が作製。粘土を、ギューと握って、合掌されている姿を原型にして、目鼻をつけていく。これがけっこう楽しい。大人も、子どもも熱中していた。そして、完成したものをみると、十人十色。まさに青色青光、赤色赤光。上手いとか、下手とかなくて、それぞれに味がある。ひとりひとりに違ったご縁があり、仏様がついてくださっているんですね。誰一人として、同じものはなかったから、焼き上がってくるのが楽しみだネ。

●●●●さて、花祭りが終わってから、仏青と日曜礼拝の先生方の新入生の歓迎会を持ちました。日曜礼拝の前にも、お昼一緒に食べましたが、そのときは、4年前からいるのは、1人だけで、顔ぶれの変化を実感しました。

Photo_4  行きつけのカフェ、ティコンセプション。とてもおいしかったので、みんな満足しました。しかも、前菜は、イクラと温泉タマゴのジェル、コンセメとじゅんさいのスープ、エビのフリッター、そしてメーンの肉か魚で(ぼくは魚にしましImg_0498た)、おいしいポットでの紅茶と、デザートで、今日の会費は2000円也。とても良心的な、リーズナブルなお店です。

 それにしても、歓迎会でも、ずいぶん、新鮮さ、若さを感じました。

 これからの仏青や日曜礼拝をよろしくたのみますね!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

明日は、花祭り

 さて、今回の記念品も、MAUN.さんにはたいへんなご尽力をいただいた。また、この数日は、事務の皆さんで、発送作業を手際よく進行してもらった。

 おかげで、その間、ぼくは華光誌などに取り組み、家内も、花祭りのための買い物や準備-お菓子や粘土-もすることができた。

 けっして、大きくはないけれど、華光の事務も、少しずつ分業できる方向になってきたようだ。ほんとにう有り難いことである。

 今日、明日と、父は、Tさんの運転で、日高支部法座へ。

 日曜礼拝の先生方は、明日の花祭りの飾り付けや準備のために集ってきている。

 3階の研修場は、フォーカシングの自主学習会に会場提供している。

 明日の日曜礼拝の花祭りは、久しぶりに法話を担当する。皆さんひとりひとりに、名前を聞きながら、その名前にこめられた親の愛情、願いについて考えてもらう予定だけれども、低学年の子供たちも多いので、いろいろと工夫をしていきたい。もちろん、最後は、南無阿弥陀仏という仏様のお名前にこめられた、その願い、大悲のお心についても触れてみたい。

Photo_1   今年は、花祭りのパンフレットも作製した。また各自が、簡単な粘土の作業で握り仏(後日、窯で焼き上げます)を造る予定もある。もちろん、大人の分級座談会もあるので、大人の方も、奮ってお参りください!!

  

     ◎5月13日(日)昼1時30分~4時30分

  ◎華光会館(近鉄十条駅・北へ徒歩1分)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

修繕募金の御礼

 華光の同人や有縁の方々には、この度の華光会館の修繕改修工事に伴うご喜捨をいただき、ほんとうにありがとうございました。

 先日の永代経で、報告の法要を厳修し、本日、ささやかながらすべての記念の品も送付することができました。あらためてお礼申し上げます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ピアノの調律

 昔は、華光会館の道場にピアノがあった。いまは、3Fの研修場に移った。

 このピアノは、日高支部のある同人が寄贈してくださったものだ。

 強信者ぞろいの日高同人のなかでも、その強烈なお勧めぶりで知らぬ人がなかった強信なお母さま。6年前、無常と共に、お浄土に還られたが、そのご縁で久しぶりに、ご兄弟が華光会館に揃われた折のことである。

 学生時代には、華光会館にも下宿されながら、少しご縁は遠のいているのだが、以前から、毎年、この時期に、ピアノの調律のご奉仕してくださっている。そのために、今日も、会館に寄ってくださった。それだけのご縁でも、どこかで繋がってくたさっていることが尊い。

 こういう人達にも支えられて、今日の華光会館があるのだ。

 「仏法聞けよ」の念仏道場である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

二日酔い

 昨日は、5月だというのに真夏日。京都でも、32度近くまで気温は上昇した。平年並みに戻ると、肌寒く思うほどだ。二女の保育園は、いちご狩り。これまで、雨、雨、雨で3度も延期。そして今日も雨。これまでで、いちばん強く降って、風も強い。でも、これ以上の延期はなく、雨の中、出発していた。

 昨夜は、珍しく木屋町で飲んだ。珍しくもなにも、目的もなく、あまり知らない人と、飲みに行くなんてことが、ぼくにはなかったことだ。

 入り組んだ古びたビルの一角に、ひっそりとある小さなバー、ジャンゴ(Django)。ジプシージャズギターのジャンゴ・ライハルトの、レコードが1枚飾ってある。壁には、これから上映されるみなみ会館のチラシが…。音楽も、ノイズが入ったジャンゴのギター。その佇まいがステキなマスターは、仕事よりイヤホンで静かに野球中継に熱中。ちょうど、阪神が9回に逆転され、9連敗にガッカリという様子。

 3軒ほど飲み歩いて、「図書館」というバーで、お相手がグーウグーウ寝てしまったので、「バー変質者」にはたどりつかず、ぼくも酩酊状態で帰宅した。

 朝は、珍しく二日酔い。これも、学生時代以来だなー。

 フラフラしながらも、華光誌の編集作業を、ボチボチ始まることにした。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『ダーウィンの悪魔』

Dar  『ダーウィンの悪魔』人間格差の現実と、いま世界が抱えているあらゆる難問を浮き彫りにした、強烈なドキュメンタリーだった。ヴィクリア湖は、生物多様性の宝庫であることから「ダーウィンの箱庭」と呼ばれていた。その湖に、新しい生き物が放たれた。日本にも、白スズキとして輸入される白身魚。肉食の外来魚ナイルパーチは、固有種の多くを駆逐して爆発的に増加。湖畔にはナイルパーチ一大魚産業が誕生し、周辺地域の経済は潤う。それは「けっこうなことじゃないか」では終わらない。一方で、悪夢のような悲劇が生み出されていた。ごく一部の裕福層が搾取し、新たな経済格差から、貧困→売春→エイズ→ストリートチルドレン→ドラッグ→湖の環境汚染と、まるでドミノ倒しのように悪夢が連鎖していく。さらには、この魚を輸出するロシア籍の輸送機は、環視の手薄な空港に、密かに武器輸入しているとの疑惑が浮かぶ。この武器こそが、さらなる貧困や少年兵を生み、かの地での殺戮や紛争をますすま助長し、悪夢の循環はさらに深まっていくというのだ。

 一握りのその日の糧を争うように奪い合う子供たち。恐怖におののきながら、肩を寄せ合い、粗悪なドラッグで一時の安らぎを得る。彼らのその表情に、背筋が凍りつく思いがした。強大な資本主義が世界中を覆いつくしている今日、悪夢のグローバリゼーションは、決して日本に住むぼくたちにも、無関係ではいられないと警鐘をならしている。

 上映が終了したけれど、たまにアンコール上映もなるようだ。けっして、気分のよくなる映画じゃないけれど、機会があれば、ぜひご覧いただきたい。(もう少しつづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アフリカを舞台にした映画あれこれ

 昨年あたりから、洋画は、ちょっとしたアフリカブームである。

 日本人にすると、距離的にも、経済的にも、そして精神的にも遠い地域で、まだまだ昔のアフリカというステレオタイプから脱しきれていない面がある。

 でも、ヨーロッパからみると、事情は異なる。特に北アフリカは、地中海を挟んでお隣同士だし、戦前の植民地だったこともあり、言語的にも通じている。日本から見ると、経済的にも結びつき、エスニックの匂い漂う東南アジアよりも、まだ近い関係なのかもしれない。

 それでも、昔の映画では、大自然や野生王国的な、未開拓の異文化の地奇異な目で捉えられていた。しかし、このところの映画は違う。かの地での貧困や紛争が絶えない大きな要因として、ヨーロッパなどの先進諸国の経済的な植民地として、さまざまな不平等や資源などの搾取を受けている、その巧みな手口にスポットを当てた社会派の映画も多い。しかも、それらが、高い評価を受け、興行的にもそれなりの評判を呼んでいる。

 昨年は、レイチェル・ワイズがアカデミー助演女優賞に輝いた『ナイロビの蜂』。外交官と、社会活動家の妻が、アフリカの地と、人々を食い物にする強大な製薬会社との暗闘をテーマにした、悲劇のラブ・ストーリー。

 そして、上映を求めた運動で、ちょっとした社会現象にもなった、『ホテル・ルワンダ』。94年にルワンダで起きた史上最悪の大虐殺を取り上げたもの。当事者同士でも、実は見分けがつかない、ツチ族と、フツ族たちが、ナタや刀など振りかざして、100日間で、100万人も大殺戮が起こった。殺戮が始まると、白人や外国人しか護れない、国連平和維持軍の活動は限界に到り、見捨てられた現地の人々を、叡知と勇気に溢れた行動で救出し、後に、アフリカのシンドラーと呼ばれるホテルの支配人の物語。ほんの10数年前のことである。なのに、あまりにも日本に住むぼくたちは無関心で過ごしている。同じ背景で、いまは、『ルワンダの涙』上映されている。『ホテルルワンダ』の方が、評価が高いが、ぼくは『ルワンダの涙』に涙した。実在のキリスト教の神父をモデルに、ある種、信仰の無力さと同時に、その尊厳さを伝え、また人間の恐ろしいまでの狂気や弱さの一面と同時に、美しさを伝える作品だった。SHOOTING DOGSという原題の意味の深さが伝わる。

20070415153744 ナイロビの蜂が、薬なら、『ブラッド・ダイヤモンド』は、ダイヤモンド。ダイヤしか信じない野心家でありながら、大きな孤独感と傷をもった男をディカプリオが演じる、ハリウッド・メジャーの大作。西アフリカのシエラレネスの内戦を背景に、先進国による資源の搾取-血に染まった不法ダイヤも浄化されて、高価な商品となり、先進国に住むぼくたちの購買欲を刺激していくことになる-さらに、誘拐されて洗脳されていく、少年兵の問題にも言及している。

 いま、上映中。かなりヒットしています。(つづくのだ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

聞くことは難しいナー

 広島の法座で、「法話をこんな風(たとえば、例話をわが身の問題に置き換え聞いているが、それが自分に引き寄せて聞くことなのか)に聞いていますが、どうでしょうか」という話題が、数名の方から出された。(ここをじっくり聞けてよかったです)

 皆さん、ほんとうに真面目に聞法され、ずいぶん、目に見えないところで悩んでおられていることを、再認識させられた。

 確かに、ご法座でのご聴聞と、日常の話を聞くことの違いは、常に強調されている。単に「けっこうなお話でした」とか、「よくわかりました」と聞くのではないのだ。それで、「後生の一大事と驚きを立てて聞け」とか、「わが身に引き寄せて、具体的に聞く」とか、「いま、ここで聞け」とか、「無常と取り詰めよ」などという話が中心になる。つまりは、観念的ではなく、「驚いたり」「引き寄せたり」「取り詰めたり」して、わが身にかけて、具体的で、立体的な聞法を勧めてくださるのである。

 しかも、そのご聴聞している時の、自分の心の動きは人に見えない。そうなると、ますます、いまの自分の聴き方が、正しいのか、間違っているのかが、(特に求道者や、すこし聴き始めた聞法者を中心に)いちばんの関心事になっているようだ。

 でも、法話を聞く間中、この聴き方で、正しい聞法になっているのかと、我が心と格闘しているとしたら、これはなかなかたいへんなことだ。しかも、この作業のメーンは、自分の心と格闘することであって、肝心のご法話そのものは、あまり聞いていないのじゃないか。つまり、法話は、自分の心を刺激する材料みたいなもので、それをいかに強力に感じられるのか、受け止められるのかに腐心していて、肝心の「聞く」ことがお留守になっているんじゃないかと。

 そんな時は、我が心(そんな意識というか、批評家的な面ですね)にかまけないで、その心に捕らわれたり、詮索せずに、とりあえずただ聴かせてもらうしかない。これを譬えると、「勉強は集中することが大切」と教えられて、「集中しよう、集中しよう」と意識がそこにとらわれている間は、実は気が散らばっている証拠である。そんなときは、そんな意識にかまないで、机に向かって続けていくことが、肝要でしょう。聞法だってそんな一面があるんじゃないかなー。

 聞くときは、聞くだけである。

 「え! じゃ、ただ聞いくだけでいいのですか? それでは心もとないのですが…」という、誰かさんのつぶやきが、遠くから聞こえてきそうである。

 少なくても、ぼく自身は、何も考えたり、意識せずに、ただ、楽に聞かせてもらっているなー。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

充実した法座でした

 5月の広島支部法座も終わって、さきほど、戻ってきました。

 永代経法座に引き続くので、さすがの広島の方のお参りも少なめでしたが、その分、じっくりいい座談会になったのではないでしょうか。ぼく自身も、日頃、発言されずらい方にも、向きあえる機会になったし、最後に、九州でもやった、「百重千重囲繞」のお念仏の輪を体感していただきました。ほんとうにひとりひとりが、愛しく、願われいるかけがえのない存在であるということを感じさせられて、離れがたい気分で別れました。

 かなり充実していた分、疲れていましたが、もう一頑張り。広島法座の終了後は、例によって、ボイス・トレーニングを受けてきました。今回は、ご法話を直接、聞いてもらって、観察して気づかれたことをいろいろと指摘していただきました。内容そのものではないけれど、話し方や姿勢や、目線や、声、導入など多岐にわたります。ぼくの長年の癖や欠点もあらわれてきます。ほんとうに伝えたのなら、ただ誠実であるだけでなく、まだまだ学ぶことはたくさんあります。華光のように聞く姿勢の出来た聴衆に助けてもらっているんです。どんな下手な話でも、食いつくように聞いてくださいますから。でも、そこに甘えることなく、これらかも、毎日、続けて訓練していきたいですね。

 さすがに、GWの最終日。行き帰りとも、大きな荷物とお土産を抱えた人々で、新幹線は混んでいました。でも、法座の後の移動は要注意やね。急にニヤニヤしたり、有り難くて、お念仏が出たりしますから、隣に座った方は、へんなやつだと思われたことでしょう。

 いつも以上に疲労感ありますが、同時に充実感も味わいっています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

明日の広島支部法座

 永代経法座の余韻も残る中、明日は広島支部法座がある。お当番を終えたばかりの広島の皆さんの法味をじっくりとお聴きしたいものだ。

 当番の機会でもないと、なかなか京都まで出づらいのに、皆さん、献身的に動いてくださる。久しぶりの華光会館で、お手伝を優先してくださったのである。

 法話を耳や目で聞く。さらに、座談会では口が加わる。でも、それだけでは不十分だ。やはり、からだで聞く。それには、わざわざ旅費をだし、時間を割き、GW休みを費やし、京都まで「出て」、聞法する必要があるのだ。

 もちろん、ネットなどの発達で、家に居ながらでも、法話を聞いたり、読んだり、または書き込みし、離れた人と意見交換をすることもできる。第一、お念仏は、ひとりで喜ぶものだという人もある。でも、それは、このからだの自由がきかなくなった時(まもなくですよ)の楽しみにとっておいていい。

 「わたしが」「おれが」という捕らわれこころに覆われて、同行・知識に親しみ近づくことがないものは、結局、悪を好み、自らの往生の道を妨げと同時に、他も傷つけ妨げる(自障障他)のだと、善導さまはおっしゃている。

 お互いが在家止住の泥凡夫同士である以上、我が心捕らわれず、身をかけて聴かせてもらうことに意味がある。とはいっても、そんなちっぽけな我が心の虜になって、メンツやオレがに捕らわれて身動きとれず、他を攻撃するによせ、自分を責めるにせよ、最後に苦しむのは自分自身。それが分かっていても、なかなか止められない。そこが迷いの正体でもある。確かに、「じぶん厄介なもの」だと、我ながら痛感させられる。

 ただ、そんなぼく自身も、ご法の場で、お同行さんたちと対座し、いろいろなことを感じさせてもらい、率直な言葉もいただき、聴かせていただくしかない。

 結局、さまざまな形で、わたしにかけてくださる種々のご方便のあることが、お手伝いくださる、おひとりおひとりの尊い姿を通して見せていただくのである。もちろん、きれいごとでいかないところも、尊いのである。

 この味、そしてその喜びは、それを体験したものでないとわからない。

 「百花誰が為にか開く」 (『碧巌録』)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

オーチス製のエレベーター

 先月、六本木ヒルズ・森タワー(東京都港区)で、エレベーターのワイヤの一部が破断して、火災が発生する事故があった。国交省の指導で、製造元の日本オーチス・エレベーターが、全国、約5万6000基ある同社製エレベーターの緊急点検を始めるというニュースが、先日流れていた。

 実は、会館の4人乗りの小さなエレベーターも、同社製だ。でもね、有名な超高層ビルの事故である。どうせ、点検は、高層ビルの大きなエレベーターだけだろうと思っていた。

 ところが、GM にもかかわらず、華光会館にも緊急の点検が行われた。

 「わたし、保育園お休みやねん。おっちゃんは?」という、下の子の問い掛けに、点検作業員は、急遽、休日返上で、総動員になって休みがないと、こぼしていた。ほんと、ご苦労さまですな~。

 遠いところのニュースが、瞬間だけ身近になり、すぐにまた遠くなっていった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

吉祥院天満宮へミニ・ピクニック

Img_0462_1  連休前半の永代経法座。子供たちは、せっかくの休日にもかかわらず、休日保育などに行ってもらった。無事にご法座が持てたのも、いわば子供のおかげでもある。

 と、いうわけで、後半の連休は、ささやかな子供サービス。と、いっても、ほんとうに車で、5分以内という超近場で遊ぶだけだ。

 昨日は、近所のスーパー銭湯に連れて行き、 今日はImg_0464 、会館から3、4分ぐらにある吉祥院天満宮でお弁当を広げた。MAUN.さん一家もご合流してくれたので、子供たちはますます大喜び。まったく観光地じゃないので、最初は、ぼくたち以外は誰も人がいなかったが、ここは菅原道真の誕生の地で、へその緒が埋めてあるそうな。国道からひとつほど奥まっているだけで、ずいぶん、緑がきれいで、静かなことろ。

 隣接するごく普通の児童公園で思いっきり遊んだ。サッカーやキャッチボールをしたり、砂場で遊んだり、自転車の練習をしたり、子供と遊ぶのも楽しかった。

 この歳ぐらいなら、別に、遠くの珍しいところに行かなくても、親と一緒にすごし、安心して遊べることが、子供たちにもなによりもうれしいようだ。お友達も一緒で、ほんとうに楽し Img_0465そうで、疲れて眠ってしまった。

 でも、45歳にもなると、初夏に近い日差しの元で、子供と共にすごすだけでも、かなり疲労感がありあり。同時に、さわかで、清々しい気分の半日でした。(←ツツジもきれいに咲いてました

| | コメント (0) | トラックバック (0)

永代経法座雑記(1)

 今回のご法座を通して、いろいろと気づかせていただきました。

 諸先生方の法話を聴かせていただき、分級座談会でのやりとりを通して、または、懇親会での話し合いを通して。そうすべてご法の場で、わが身に聴かせていただきました。

 まずは、当たり前のことなのに、すぐに忘れてしまうことが、誰のためにご聴聞しているかということですね。知らず、知らずに、人の為-特に初めての方や、求道者をが来ると、まずはそこに焦点があたってしまう-に、時間を過ごしてしまうような気がします。もちろん、それも心がけないといけない大切なことです。でも、やっぱり自分が聴かせてもらうことを抜いては、人に伝わることはないんですね。この、みんなわかりきっていることに、今回、あらたに光りを当ててもらえた気がします。「後生の一大事」と踏み出すのは、初心の方でも、未信の方でもない、ぼく自身。そうなると、ほんとうは、もっともっと緊迫した、座談会になるはずでよね。

 でも、自称獲信者は当然のこと(なんで、あんなにノンビリ座ってられるのかね。見事に人ごとだわー)、司会役や先生役のぼく自身も、とてもノンビリと聞いているです。それでいて、求道者には、「後生の一大事と取り詰めよ」と迫っている。ああ、これは逆やね。さらに、その求道者も、とても真剣なようで、最後はどこか人ごとなんですね。先生や先輩同行に「聴かせてもらう」ことを期待している。先生がなんとかしてくれる。(他力の履き違い)でもね。残念ながら、華光にも、先生方も、もちろんぼく自身も、なーんにも持ってませんよ。みごとにNothing。

[これは次に書きますが、一種の「獲信双六」(いま風なら、新・人生ゲームならぬ、獲信ゲーム)だなーと痛感させらました。どんなに真剣なようでも、完全にずれている。]

 十昿以来、いのちがけで呼び続けてくださる阿弥陀様のおこころに触れないかぎり、これはえらいことになりますぞー。

 でも、そんな惚けた人が大集合なのに、法座ってすごいです。

 このパワーはなんなんだ! 

 惚けている、麻痺しているわが身に、南無阿弥陀仏の鉄槌が加わる。オオ~~! 

 結局、ぼく自身が大きな得(徳)をいただきました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

麻痺している者へ

 永代経法要法座、終わりました。いいご縁をいただきました。

 「後生の一大事」と聴きながら、「身命を顧みずに」(命懸けで)と聴きながら、「無常」と聴いても、「罪悪深重」と聴いても、どこまでも人ごとで、惚けている、麻痺しているわが身を聴かせてもらいました。ほんと、あきれます。

 もしかすると、なんとか「後生の一大事」を取り詰めよう、「命懸け」になろうと、無駄な努力を必死になっている、自称求道者の方が、一途かもしれませね。

 でも、それはしょせん、わが身をたのむ「自力こころ」そのもの。

 わが心にではなく、もちろん他人の心でもなく、「聖教」に、「ご法」に、「仏様」へと、そのこころを返していくことをお聞かせいただきました。

 惚けている、麻痺しているどころか、石・瓦・つぶてのようなこの者に向かって、叫び、願い続けてくださる大悲のお働きが、なんと深く、広く、尊いことか! 南無阿弥陀仏

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »