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如来に統一されている

  今日は久々に寒い一日でした。風も強かった。北国は雪だったようですね。

 さて、今日は、朝から華光誌の作業をして、夕方には、印刷所に渡せました。まだ表紙と校正が二度ありますが、一山超えてホッとした気分。今回は、少し急いでいたので、東京や高山法座の往復の列車の中にも、ノートパソコンを持ち込んで、作業しました。往復で6時間程度はあるのですが、この作戦は、いま一つでした。何かに追われる感じがするし、校正段階になると、落ち着いた場所で作業したほうがミスもすくない。やはり、これまでどうり、法座の行き帰りは、本を読んだり、勉強する時間に当てた方が、ぼくには向いています。それに、法座の時は、そこに集中するのが、一番ですから。

 夜は、伝道研究会。HPの「はじめての方へ」の、教義的なところを話し合いました。簡単な質問や表現ほど、実はとても難しい。しかも、あまり教義的な言葉を使わず、それでいて、間違いなく過不足なく、しかも短い表現で伝えようとするわけでしょう。これは至難の技。ただやさしい言葉遣いにすればいいという問題ではありませんし、しかも、制作者の意図や思いもあるから、3時間かけて、4つの設問のうち、出来たのは2つだけでした。

 「なぜ、聞法しないといけないの?」「何を、聞くの?」「どのように聞いていくの?」「聞いたらどうなるの?」。うーん。いろいろと根本的な問題を考えさせられました。もっとも、自分のところでなら、ある程度は答えられるし、いわば、ここをめぐってご法話させてもらっているわけですから。それだからこそ、難しい。人それぞれに味わいというか、切り口が異なってくる。もっとも、そこが、華光のよさでもあるわけでしょう。一国一城の主ですから、みんなが同じ法話をするわけではなく、それぞれの個性があるわけです。つまり「鶏口であるが、牛後の人ではない」。しかし、ただバラバラではなく、根本のところで「如来に統一されている」(『「仏敵』の言葉)という味がないと意味はありません。知識(人)ではなく、如来様が輝くような法座や表現、それによってまた自己が問われ、証明されていく言葉。

 『仏敵』の201~202頁かけて、華光の同人の本質を付いていて、好きな箇所ですが、これは詳しくは後日に。

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