『歎異抄』第3章。~善悪相対から、自力・他力の廃立~
日曜日の広島支部法座では、『歎異抄』の第3章の法話。いわゆる「悪人正機」章。有名なのに、今回まで取り上げたことがなかった。
歎異抄の一つのテーマは、善悪の問題にある。その背景には、当時の念仏者の間で、身近な実践的な信仰にかかわって、身を嗜み、悪を廃して善を成していくことがご本願に叶うのだという「賢善精進派」の念仏者と、「極悪人こそお救い」と、本願に誇り、薬(本願)があるからと好んで悪を行う、「造悪無碍派」の念仏者の対立があったことが、歎異抄や聖人の消息などからも明らかである。それで、歎異抄の著者(唯円房と思われる)も、「善悪」の問題と、本願の関係について触れているのである。
つまり、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころに善しとおばしめすほどに知りとほしたらばこそ、善きをしりたるにもあらめ、如来の悪しとおばしめすほどに知りとほしたらばこそ、悪しさをもしりたるにもあらめども、煩悩具足の凡夫は…」という後序。また、「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず。念仏にまさるべき善なきがゆえに。悪をもおそるべらかず。弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえに」という第1章。そして、第13章では、「卯毛・羊毛のひきにいるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなし」と知れという仰せに、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべき」罪業のわが身を深く自覚し、人間の相対的な善や悪にとらわれずに(「賢善精進派」の念仏者も、偏った「造悪無碍派」の念仏者に対しても)、ただ、老少善悪を選ばれない弥陀の本願に帰依せよと、終始一貫し、異義を歎き、正信を勧めているのである。つまり、善であろうが、悪だろうが、人間的な相対的善悪に捕らわれる姿こそが、善悪を超えた弥陀の本願をさまたげる、自力疑心の心そのものであると、断罪しているのである。
それで、この第3章も、一見、善人、悪人を問題にしているようだが、実は、対立的に、どこかに善人がいたり、念仏をたのむ悪人(だいたい、ここで聴聞している自分たちだと思っている)がいるのではない。善悪の問題ではなく、煩悩具足で、いずれの行もおよびがたい無力な悪人と知らされたならば、その自力のこころを捨てて、他力を頼めよという、自力・他力の廃立がメーンなのだ。つまり、善人であろうと、悪人であろうと、「自力のこころをひるがえし、ただ他力を頼め」の一つが示されている。それが唯一つ、善人が救われていく道であり、また悪人をお目当てとした弥陀の本願のお心なのだ。つまり、「弥陀の本願には、老少・善悪のひとを選ばれず、ただ信心を要とすと知るべし」(第1章)という、広大な本願のおこころと呼応するお示しである。
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