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ドえらいものを捨てた味

 週末の高山法座は、初日が30名ほど。2日目が24、5名程度でしたが、顔ぶれも少し異なって、約40名の方がお参りされていました。親戚や、以前の善知識をご縁にした人達が中心ながら、確実に新しい人や若い人も増えてきています。頼もしいね。

 さて、今回のご法座で、実際に食べたなら、その味がある、何か滲み出るものだなーということを感じました。

 西光先生の『わが信心・わが仏道』にある短いエッセイ風のご法話「シネラマ」の話です。おばあちゃんが、大阪の梅田で見た「シネラマ」に感激し、興奮して、皆さんにお勧めするお話。実際に感銘したことが、自然に喜びとなって伝わっていく。見もしないものを、見たように装っても、それは不自然で、心を打つことはない。「清浄真実の願心でかためられた名号が人の心を動かさないはずがない。念仏が伝わらないことのほうがむしろ不思議。問題は、法のほうにではなく、念仏者、真実信心をもって許している人のほうに、何か根本的な不自然、致命的な偽装があるのではなかろうか。」と結ばれています。

 実際に食べた経験があるのなら、それは、どんな味がしたのか、うまいのか、まずいのか、腹がふくれたのかどうかなど、味わいのニアンスは違っても、かならず、その食べた味わいを語らずにはおれないわけです。ところが、いくら雄弁にお聖教を語っても、難しい教義を並べても、その味がない人の言葉は、どこか空しい。聞いて、覚えて、納得しただけの信心なら、「それで後生は、大丈夫?」と心配になる。伊藤先生に言わせると、「あんた、如来さんから、何かドえらいもんもらいなさったか。それとも、何かドえらいもんを捨てなさったか。その味がわからない? じゃ、アカンなー」というわけですね。

 いま、ここに躍動している無量の命が、わたしの業魂の腹底に、飛び込んでくださっている。火に触れたら「熱い!」 と叫びように、その生きたナンマンダブツに触れたら、「ナンマンダブツ!!!」にならんわけがない。昿劫以来、一遍も死んだことのない迷いの親玉が、名号の利剣で貫かれて死ぬ瞬間が、「南無阿弥陀仏」と飛び出してくださる水際。その味が一度あるのなら、表現の上手い、下手はともかくも、何か自分なりの生きた言葉で、語れんわけはない。いや、言葉がなくても、その表情や態度で伝わって来る。だって、如来さまは、ここに生きて働いてくださっているのですから。死にものにしては勿体ないなー。

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なんまんだぶつ!

投稿: tねこ | 2007年3月 9日 (金) 17:58

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