これから日高支部法座
日高支部法座である。
国道9号線を、車で3時間ほど。今回は、珍しく同乗者も、助手もない。
春と、秋の二回。同人の方や、その連れ合いの方のお悔やみに窺うことが、急に増えた。ここ数年、毎回、必ず一、二軒はある。前回は、二軒、今回は、一軒。年齢からみても無理のない話だが、今後、ますます加速されていくだろう。次は、11月のご縁になるので、1回、1回がお別れの気持ちが深まる。もちろん、無常は、老少まったなしで、何も、高齢者や病人から順送りというわけではないが、やはり、我が身の無常は、ズーッと先に置いている。ただ、お参りが難しい高齢者のお宅や、お悔やみを兼ねて、5、6軒の月忌参りを頼まれているが、そこで顔見知りになった方が、今回は亡くなっておられるというケースがこうも増えてくると、寂しさを感じる。もちろん、平生業成の教えなのである。その素晴らしさには曇りはないが、どうしても凡夫の情的な部分も捨て難いものがある。
一方で、新しい、壮年層の若手の動きも、ボチホヂ動きだした。支部長も、ぼくの世代の方にバトンッチされた。それで、日曜学校を通じてのお母さん方へのアプローチも工夫され、少しずつ近づいてきてくださっている。もちろん、一度に進まないが、少しでも、この「ご縁」大切にしていきたい。
このあたりのアプローチは、やはり檀家制度もたない、華光ならではだと思う。月忌にお参りするといっても、その家は別に檀家ではない。お寺は別にあり、お葬式を頼まれるわけでもない。ただ、短時間でも、同人の方とご法の話をし、共にお念仏をさせてもらうだけのことである。あくまで同人本人が亡くなられたら、その関係は終わるのだ。だから、亡くなられったことをきっかけに、葬儀や法事で、後の世代の方とのご縁ができるお寺とはまったく逆である。あくまで「家」ではなく、個人が繋がったいるのだから当然だ。
だいたい檀家数の多いお寺の場合、檀家制度に護られ(悪く言うと、そこに縛られている)ていると、伝統を受け継ぎ護ることに主力が注がれる。新しいことをやるのは、所詮、バイトのようなもので、あくまで檀家のお守りが主なのである。もちろん、それにも意義はある。でも、大方は、檀家の法要が中心で、信仰面も含めて、保守的、守旧的になりがらで、可もなく、不可もないアプローチで終わっている。だから、外部の人からみると、既成教団は、魅力で、活性化された教団とは写らない。それどころか、その立場からは、華光のような、信仰を中心に個人が繋がる動きが、理解されることも難い。なまじっか理解したら、我が身の首をしめかないので、従来のお寺の尺度で計って、あれこそ難癖をつけるのだろう。
もちろん、他山の石として、自戒していかないとなー。
自策自励である。小さく固まっていては、勿体ない。
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