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2007年3月の27件の記事

これから日高支部法座

 日高支部法座である。

 国道9号線を、車で3時間ほど。今回は、珍しく同乗者も、助手もない。

 春と、秋の二回。同人の方や、その連れ合いの方のお悔やみに窺うことが、急に増えた。ここ数年、毎回、必ず一、二軒はある。前回は、二軒、今回は、一軒。年齢からみても無理のない話だが、今後、ますます加速されていくだろう。次は、11月のご縁になるので、1回、1回がお別れの気持ちが深まる。もちろん、無常は、老少まったなしで、何も、高齢者や病人から順送りというわけではないが、やはり、我が身の無常は、ズーッと先に置いている。ただ、お参りが難しい高齢者のお宅や、お悔やみを兼ねて、5、6軒の月忌参りを頼まれているが、そこで顔見知りになった方が、今回は亡くなっておられるというケースがこうも増えてくると、寂しさを感じる。もちろん、平生業成の教えなのである。その素晴らしさには曇りはないが、どうしても凡夫の情的な部分も捨て難いものがある。

 一方で、新しい、壮年層の若手の動きも、ボチホヂ動きだした。支部長も、ぼくの世代の方にバトンッチされた。それで、日曜学校を通じてのお母さん方へのアプローチも工夫され、少しずつ近づいてきてくださっている。もちろん、一度に進まないが、少しでも、この「ご縁」大切にしていきたい。

 このあたりのアプローチは、やはり檀家制度もたない、華光ならではだと思う。月忌にお参りするといっても、その家は別に檀家ではない。お寺は別にあり、お葬式を頼まれるわけでもない。ただ、短時間でも、同人の方とご法の話をし、共にお念仏をさせてもらうだけのことである。あくまで同人本人が亡くなられたら、その関係は終わるのだ。だから、亡くなられったことをきっかけに、葬儀や法事で、後の世代の方とのご縁ができるお寺とはまったく逆である。あくまで「家」ではなく、個人が繋がったいるのだから当然だ。

 だいたい檀家数の多いお寺の場合、檀家制度に護られ(悪く言うと、そこに縛られている)ていると、伝統を受け継ぎ護ることに主力が注がれる。新しいことをやるのは、所詮、バイトのようなもので、あくまで檀家のお守りが主なのである。もちろん、それにも意義はある。でも、大方は、檀家の法要が中心で、信仰面も含めて、保守的、守旧的になりがらで、可もなく、不可もないアプローチで終わっている。だから、外部の人からみると、既成教団は、魅力で、活性化された教団とは写らない。それどころか、その立場からは、華光のような、信仰を中心に個人が繋がる動きが、理解されることも難い。なまじっか理解したら、我が身の首をしめかないので、従来のお寺の尺度で計って、あれこそ難癖をつけるのだろう。

 もちろん、他山の石として、自戒していかないとなー。

 自策自励である。小さく固まっていては、勿体ない。

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明日は、日高支部法座

  華光会の決算月は秋だが、ぼくの関わるそれ以外の集いは、4月から新年度を迎える。というわけで、年度末で、ここ数日は、忙しかった。真宗カウンセリング研究会や、仏教青年会などの決算や事務作業に加えて、町内会の引き継ぎの仕事などなど。すんなりいくもの、いろいろと合わずに、頭を悩ませるのも、、さまざまだったが、今日になってだいたい片づいた。他にも、修繕募金の記念品の相談や、東京公演会のボスター作りなど、なんやかんやとあった。このところ、こんなペースである。結局、日高支部の準備は、夜になってから少し焦った。

 明日は、日高支部法座である。妻と子供たちは、広島に帰省し、広島の日曜礼拝である。4月1日は、日高(豊岡)でも、花祭り、広島でも花祭りである。合せて、「花祭り」用のパンフ(リーフレット)に、飴などを添えて、作製してもらった。父は、M先生と、北海道に旅立つ。

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参加者は3名。しかし…

 昨夜は、真宗カウンセリング研究会の月例会があった。4月からの新しいパンフレットが完成し、会報と、6月に予定している「ワールドーワーク」WSの案内を造って発送することになった。ぼくは発送担当ではないけれど、「月例会の前にてみんなで発送しよう」という提案があったので、準備を進めていた。ところが、近づくと、担当者も、提案者も、皆さんご都合が悪くなって、世話人の出席はない。成り行きで、あらたはひとりで作業しておいた。当日、もしかすると、会員の方が、2、3人は手伝ってもらえるだろうと思っていたら、結局、おひとりの方のお手伝だけ。いやはや、思うようにはいきません。しかもこの方、大手の上場企業の役員さんである。 

 月例会も、最終回のまとめなのに、ぼくを含めて3名だけ。ロージァズ全集6巻の「人間関係論」の「いかにして援助的関係をつくるか」に収められている、「人間関係に関するカウンセリングによる一考察」という論文を読んだ。最後なので、順番に声をだして、ゆっくりと読んでいった。35、40分はかかっただろう。1年かけて、とぎれとぎれ読んできたが、改めて新鮮な思いがした。最近、みんなで声に出して読むことの面白さにはまっている。

 参加者は少なかったが、すでに還暦を過ぎられも、現役で活躍されている方たちなので、その声に活気があった。長年、教育畑を歩み、いまは指導的な立場におられる方、大手の企業人でありながら、ふとしたきっかけで、趣の異なるカウンセリングに余生をささげようと考えておられる方。日本の現状を愁いつつも、それぞれの、いまの自分の居所を聞かせてもらって、論文の趣旨の生きた勉強をさせてもらえた。

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さらなる飛躍を期して!

  今夜は、某君の就職のお祝いを設けました。おめでとう。彼は、華光の近くに住んでいて、華光文化教室、そして日曜学校、つまり小学校の時代からのお付きで、もうかれこれ27、8年になろうか。

 たとえ安住の地が決まっても、このご時世である。これからの社会生活も決してたやすくはないだろうが、どうか頑張ってもらいたい。さらなる飛躍を願って、エールをおくった。「お手やらかに」というだったので、この程度で勘弁してあげよう。

Img_0227_2   今夜は(も?)お店(コーダル・オン)は暇なようで、客は、ぼくたち二人だけで、貸し切り状態。大好きな、サファー・ミュージックのジャック・ジョンソンの"In Between Dream"がかかった。やさしく、気持ちのよい音だったなー。

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『ニキフォル』~知られざる天才画家の肖像~

 そして、もう1本は、ボーランドの天才画家、ニキフォルの晩年を描いた作品。(詳しくは、以下の公式サイトで)

 『ニキフォル』~知られざる天才画家の肖像~

Nikifor_01_1  いやいや、サイートに続き、また初めて知る人でした。でも、チラシには、「いま世界がもっとも注目する、ポーランドが生んだ、アール・ブリュットの聖人-ニキフォル。魂のままに描いた感動のリアルライフ」とありましたが、日本でも人気が高まってきているのは、ここ数年のことらしいです。ただ、こちらは、ドキュメンタリーではなかったけれど、実話に基づくストーリー。また、加工されていない、生のままの芸術という意味のフランス語で、美術教育や文化教養とは無関係に、本人にしかわからない内的衝動にかられた造られた意味をあらわす、「アール・ブリュット」という言葉も、ぼくにはこれまでなじみがなかったですね。

 ボーランドの田舎町の風景。特に雪景色が美しかった。白に、共産党のシンボル赤旗がなぜか新鮮。彼の生涯には、実際は二度の世界大戦を挟んでいるのだが、映画では、1960年代の晩年の姿のみが描いている。出生も不明、貧困と言語障害と、そして肺結核でありながら、まさに神に選ばれて、ひたすら描き続けたニキフォル(映画では、86歳になるポーランド女優が、「彼」を好演している。うまい)。頑固で、絵画に対しては辛辣で、世間の名声や地位は理解できず無頓着で、頑に自分の生活スタイルを貫き通して描き続ける。首都や外国では、大々的な絵画展が開かれる有名な画家も、田舎では、身寄りもなく、結核におかされた厄介ものとして、時に路上生活で物乞いする。

 今回の映画は、彼よりも、むしろ最初は不可解な形で渋々と、しかし後には、妻と対立し、都会への栄転もなげうって、彼の晩年の後見人となって、愛情をそそぎつづけた、平凡な画家との出会いと、彼と過ごした日々が描かれている。天才の言動に振り回されながらも、その才能のみならず、彼自身の人間性に魅せられていく、そのまなざしがよかっかなー。

 映画館のロピーでも、ミニ絵画展やってました。柔らかな素朴なタッチの、温かくて、かわいい絵が並んでいました。

 

Img_0232_1

私の絵は、私が生きた証として永遠に残るだろう。

 私の絵は私の分身なのだ。

 他の奴らの絵とはまったく違う。

 もっと近くで私を見てごらん。」

                (高名な画家、ニキフォル)

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『エドワード・サイード』~パレスチア問題

 今日は、続けて映画2本観ました。自転車で、四条烏丸の京都シネマまで。17、8分ですが、天気も良くて、快適そのもの。早くも京都は桜の咲き始めが宣言されましたが、例年より1週間程度は早いですね。見頃はまだまだですが、もう春ですね。

 パレスチナの現状を伝える、『エドワード・サイード(←ストーリーやサイードについて、こちらから)。日本人の監督が、2003年9月に亡くなった、コロンビア大学の比較文学学者で、パレスチナ出身の、エドワード・サイードの足跡をたどって、イスラエル、レバノン、シリア、エジプト、アメリカなどを旅する、ロード・ムーピィー型のドキュメタリー。

Outofplace_01  実は、この映画で初めて、エドワード・サイードという人を知った。恥ずかしながら、パレスチア問題に関しても、まずマスコミで流れされるステレオタイプのイメージしかもたない。自爆テロの報道などで、「暴力の連鎖」と一方的に伝えられ、「何千年も続く、聖地をめぐるユダヤとアラブの対立」といった程度で片づけられている。単純に、どれだけの人が、イスラエルや、レバノンやシリア、ヨルダンといった周辺国の位置を把握しているだろう。それほど、ぼくたち日本人の意識では、あまりにも遠い遠い国の出来事であり、無関心で過ごせるのである。

 映画は、パレスチナでのサイード一家の痕跡を描いた彼の自伝「OUT OF PLACE」をテキストに、中東諸国の旅が綴られる。テーマのひとつが、故郷を奪われた民の、アイディティティの喪失と、きれいごとではない二民族の二国家での共生という未来への道。それは遥かに遠いように思われる。しかし、監督の言葉を借りると、「故郷を奪われたパレスチナ難民も、様々なディアスポラ体験の末にイスラエルに辿りついたユダヤ人も、境界線上に生きていることには変わりがない。その不安定で揺れ続けるアイデンティティを大らかに受けとめようとする人々を通して、そこにサイードが終生希望を託そうとした未来が見えると思った。「OUT OF PLACE」であることは、あらゆる呪縛と制度を乗り越える未来への指針なのかもしれない」のだという。

 周辺アラブ諸国でのパレスチナ難民への差別と抑圧の現状。それでも、一族が肩を寄せ合い、信仰を基に生きていこうとす人達。実は、多種多様な人種が混じっている、イスラエル人の現実。そこにも、ごく日常の生活があり、過酷な過去があり、明日を信じて、人々が生きている。イスラエルのある町で、昨日まで、隣人であったパレスチナ人が強制排除されたあと、彼らが「いなかったこと」(痕跡もなかったこと)にして振るわれていく恐ろしさ。捜し当てたサイードが過ごし強制移住させられた別荘は、次の住人が、ユダヤ人のマルティン・ブーバー(我と汝ですね)だったのも、単なる偶然とは思えない。

 人知れず、静かに眠るサイードの墓標と、かたわらのオリープの木の背景に、映画は静かに終わる。パレスチナ問題であると同時に、民族とは、国家とは、また宗教とは、そして自分自身のアイディティナィや、帰属の問題という普遍的で、根源的な問いを含んだ映画だったかもしれない。

  「私の人生を表現するなら、出発と帰還の連続です。

  出発は常に不安で、帰りはいつも不確かなのです。」

                    (エドワード・サイード)

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講習会でしたが、、

 講習会でした。東京組2名も、若手だったし、東海、日高、広島も、それぞれ1名だけ。高山や九州の参加者はありませんでした。そう考えると、かなり少なかったのかというと、そうでもなく、福井や和歌山といった新しい顔ぶれの参加があり、京都や大阪の方も多かったです。講義中、「担当は今年で最後かも」とのお話があったそうですが、実際問題、今後、悟朗先生のこれでけまとまった講義を聞かせてもらえるチャンスは、ますます貴重になってくるでしょう。次回があれば、ぜひ奮ってご参加ください。

 とはいっても、今回は、子守り役が中心。いつも縁の下で活躍してもらっている母や家内に出席してもらうためで、初日の午後の講義だけ聞いて、あとは、ズッーと子供と過ごし、その合間で「真宗カウンセリング研究会」の発送作業をしました。食事は、皆さんとご一緒でしたが、顔をだしていないと、なんなくかやの外という感じで、懇親会も早めに引き上げてきました。

 あいにくの天気、しかも地震までありましたが(輪島や富山の皆さん、大丈夫でしたか?)、午後からはいい天気になって、陽気に誘われ、公園で遊びに出ました。でも、足元が悪くてちょっと残念。近くのカフェで、チャイなど飲んできました。

 半日分だけでも、聞いた内容は書きます。大半は、金曜日に書いた内容の詳細だったようです。お世話の皆さんご苦労さまでした。

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明日は講習会

 明日は、華光講習会です。「浄土の荘厳」と題して。一般には、荘厳は、「そうごん」と読みますが、仏教では「しょうごん」となります。うるわしいもので、身や住む国土を飾ることなのですが、仏壇にも使いますね。

 詳しくは、三厳二十九種(さんごん・にじゅうくしゅ)(九も、「きゅう」でなく「く」と読む。19願も「じゅうきゅうがん」ではなく、「じゅうくがん」ですね)。天親菩薩の浄土論に、阿弥陀様のお浄土のうるわしい姿について説かれています。つまり、

 三厳には、依報(えほう)荘厳=報いを受ける主体を住まわせる国土の荘厳、器世間清浄、国土荘厳に十七種。 一方、正報(しょうぼう)荘厳=浄土に住むもの、衆生世間清浄が、仏と菩薩に分かれて、仏荘厳八種と、菩薩荘厳四種の合計、二十九種になります。つまり、国土・仏・菩薩の三種の荘厳が、二十九種類あるわけです。

 天親さまは、一心に阿弥陀仏に帰命し、三厳二十九種の安楽国(浄土)を願生するという、「一心願心」を、自督(自らの信仰告白)をされています。ここで示される浄土の世界を、さらに曇鸞さまは、『論註』の上巻を大半を使って詳しく解説されています。今回の講習会では、このところを中心に、あまり難しくならないように、現代語訳を使っての解説になるようです。テキスト作りがたいへんで、今夜も担当の方が自宅で作業してくださいます。資料がたくさんあるようです。宿泊が不要なら、当日の参加もできますので、お申し込みのない方もぜひどうぞ。

日時:3月24日(土)昼1時30分~夜9時30分

      25日(日)朝9時~16時30分

講師:増井悟朗師

会場:華光会館

「観仏本願力、遇無空過者、能令速満足、功徳大宝海」(仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よく速やかに功徳の大宝海を満足せしむ)

 なくなられた辻本順道先生の晩年、必ず、ご法話のご讃題にあげておられたことを思い出します。そのあとの「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と共に。

 

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お彼岸の中日

 暑さ、寒さも彼岸まで。とはいっても、今年は、2月や3月上旬が暖冬で、このところ少し真冬に戻っているけれどね。さすがにお彼岸の中日。日中は、日も差してボカボカしていました。

 家内と、ムラ君は、早朝4時半起きして、講習会の案内の配布へ。子供が少し泣いたので、ぼくも起きたら、もうそこから眠れなくなった。今日は、祝日だったけれども、ムラ君にだけ来てもらって、4月の法座案内の発送。校正をすればするほどありますね。少し花祭りの準備や事務作業をしたけれど、けっこう子供にもまとわりつかれたので、仕事はボチボチ。夕方から、家内が、年に1度のお楽しみで、スピッツのコンサートへ。子供たちと3人で外食。子供の希望で、久しぶりに回転寿司を食べに行くと、すごく混んでました。でも、二人は目を輝かせて大喜び。日頃、この手のものは食べさせないのでね。寝かしつけころに、家内が幸せそうな顔をして帰ってきました。まだまだ3歳の下の子は手はかかるけれど、それでも徐々に世話がなくなってくるものですね。成長が楽しみ。

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子鹿のように繊細

 昼前に、華光誌を印刷所に渡した。これで今月中に出来上がり、4月上旬にはお手許に届くだろう。入力し、手直しをし、校正をして、何度も本文を読むのだけれども、ゲラ刷りを読むのと、完成してきた本の重みを感じながら読むのとは、まったく別物だ。さらに、輪読法座を始めてたら、また違う角度で華光誌と接するようになった。華光誌を使って、法座をされている方からも同じような感想をいただくが、せいぜい一人で読むだけでなく、分かち合いをしていただくと、さらに別の光りが差し込んで来る。

 そのあと、久しぶりに、一般の方のカウンセリングを引き受けた。ご示談や、または同人の相談が大半だけれど、ボチボチとそれ以外の方からもお声をかけていただく。ぼくよりも家内の方が多いかもしれない。誰にも相談できずに、子育てや、家庭生活で悩み、孤立しておられる方が増えてきておられるのだろう。もろちん、あくまでもそれはきっかけであって、「子育てを通して」自分自身に焦点があたっていくケースが大方だ。

 入れ代わって、MAUN.さんたちと、修繕募金の記念品の相談にかかる。限られた予算で、なかなかか難しいものだが、できるかぎり最善のものをと、いろいろと知恵を絞ってもらっている。なんとか、永代経には間に合わせてくださるようだ。

 保育園に子供をお迎えに入った後は、月一度の呼吸法。縁あって、華光会館を貸し会場にされているので、サリーの艶やかなインド人女性に指導していただく。呼吸法の前に、からだをほぐす。今日のヨガが少しハードだった。ヨガは、手足の長いアーリア人向けだと、自力整体の創始者の矢上先生が言っていたが、ぼくも一時、佐保田鶴治氏の流れのヨガを少しだけかじっていて、いろいろあって自力整体にであった次第である。

 呼吸法である。家の中の持ち物もそうだけれども、からだも、こころも(感情も)不要なものを溜める名人である。「いまの、一息、一息」に集中することが、いま一瞬、一瞬を大切にすること以外にない。不要なのを吐き出して、やさしい気持ちで接すると、自分自身が姿を現して来た。雨にぬれて震える子鹿のようで、臆病で、非常にデリケートで、か弱いので、やさしく、ゆっくりと接しないと、すぐに姿を見失ってしまうが、その点は、今回は、わりと接することが出来て、気づいたことも多かったかな。

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事務作業

  月曜日。Tさんの休養日なので、だいたいはゆっくり目の仕事ですが、今日は朝から、大忙し。おかげで仕事はかどりました。

  印刷所から、華光誌の最終校正が来ました。まずは、前回の訂正箇所の照会。マアアマかな。ちょっとイメージとちがうところもあったけど。念のために全体を見直してみました。ここ、もう少し直したいなーというところは我慢して、ほんとうのミスだけの訂正。あれだけ見てもらっているのだから、もうないだろう思っていても、やはり1、2カ所、見落としているところあるんですね。きりがないですが、一応これで校了。明日渡して、華光誌の作業終了ですね。

4月の法座案内に同封する、「永代経法要」の案内と、「真宗法座の集い」の案内の最終チェック。だいたいは昨日造ったのですが、一部手直しをして、コピーもしてもらいました。 その4月の法座案内。法座案内ハガキに収まらないほどの過密スケジュール。父も、ぼくも、家内まて、超多忙な月になりました。ぼくが、日高、広島、九州に、輪読法座。さらに先月に、泉佐野と、兵庫県宍粟のお寺からの出講依頼をいただいて、一気に忙しくなりました。父も、北海道、東京、東海に、聖典講座。家内まで、広島での子供会に、イギリスのディビット・ブレイジャー氏を招いての法座。そして月末の4月28日・29日・30日に永代経法要を控えているので、ぼくも、父も、月のうち半数近くは、法座に出ることになりました。たいへんそうですが、慣れるとそうでもない。ほんとうに有り難いことだと、喜んでおります。

  新聞チラシに入れる、「文化教室」(ピアノと、書道)のチラシも、リニューアルしました。細かな点を何度も、何度も修正してもらって、やっと完成。保育園の迎えに、新聞販売店に持参してきました。さらに、仏青研修会の決算書作りに、ポスティングする講習会のチラシ。事務バイトのムラくんも、 ネットだけなく、子供会の花祭りのハガキもつくったりたいへん。格安のバイト料で、毎回、多忙に働いてもらっています。感謝!!

  おかげで、ぼくの方は、講習会までは大きな仕事は終わりました。明日は、同人子弟の方の相談活動と、呼吸法の予定。今日は、入浴して、早めに休みます。では。

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『合唱ができるまで』+2本

  珍しく、日曜日なのに、父子共に法座はなし。昨日が輪読法座だったのと、講習会の前週なので、支部法座はお休み。午後には、「仏青例会」がありましたが、家内が参加するので、今日は子供たちと、公園で遊んできました。(仏青の方は、参加者がかなり寂しかったみたいだけどね)。ばっちり気分転換できて、夕方からは、「永代経」と「真宗法座の集い」の案内は、うまく作業できました。

 朝、気分がよかったので、モーニングの映画を1本。お彼岸の入りだというのに、今日も寒かった。雨から珍しく雪がチラチラする中を、自転車で5分弱の京都みなみ会館へ。ちょうど予告編が始まるところでした。

 『合唱ができるまで』という、フランス映画。まさに、タイトルそのまま。ドキュメンタリDekiru_1 ーなのに、ナレーションも、インタビューも、状況説明も、解説も一切ない。ただ、パリのアマチュア合唱団の練習風景(たぶん、何日分もなんでしょう)のみで構成されている。90分続くと、映像が常に教室のみなので変化が乏しく、少し退屈する場面もあるけれど、そこが逆に効いてくる。

 各パートに分かれて練習するのだけれども、幼児・低学年クラス、ティーンエイジャーの女子クラス、本格的なクラス、リタイヤした人達のクラス、そしてストリングスのパートなど、まさに老若男女、さまざまな人達が、練習を繰り返し、バラバラだった声が、グループでまとまり、さらに100名ほどの声と音が、奇跡的に一つになっていく瞬間が捉えられていくんです。

 その指導法のユニークさ。からだ全体で躍動してくる。特に、低学年や、リタイヤ組で楽しむだけの素人さんのおじいちゃんたちを相手にするところ。勉強になりました。そうなんですよね。いくらダメな者に、「ダメ」だと言っても、言うだけで直るわけじゃない。本人がハッキリ自覚する必要がある。また、いくら理屈を説明しても、実際の声は出ない。それには、目の前で同じようにやってみせる。繰り返し、それを聴かせ、見せ、具体的になるよう、さまざまにからだを使ってイメージをさせる。その過程がユニーク。だから、ぼくもその練習参加者になった気分にさせられて、一緒に顔を叩いて準備したり、声を出しそうになったりする、いわば参加型の映画。

 なによりも参加している子供たちも、お年寄りのも、若い人達も、そして先生も、とてもいい表情をしている。からだ全体で楽しんでいる。まさにホリスッテクな営みを切り取っている。ぼくたちは、同じ場所で、同じものをみていても、それぞれの見方が異なり、また多くの素晴らしいものを見逃しています。それが、カメラを通して、何を見せ、クローズアップしていくのか。どこを切り取っていくのかが明確で、しっかりと見せたいものに焦点が当たっていました。そして、いよいよ本番。教会の行事かなにかで、宗教音楽の合唱が始まる。その風景を背景に、エンディングロールが出てます。徹底している。まさに、「合唱ができるまで」。

 ここまで書いて、別のお薦めを書きたくなりました。コーラスつながりで2本。

 一昨年封切られた、フラスン映画のコーラス』。サントラの、澄んだボーイソプラノの歌声を繰り返して聴いています。物語は、問題児が集まる寄宿舎へ、新しい音楽教師が赴任するのだけれど、体罰主義の校長に疑問を懐き、子供たちの心を開くために合唱団を結成するというお話。中でも、学校一の問題児の美声に驚嘆し、やがて子供たちは、歌を通じて純粋な心を取り戻していくのだが………というジーンとくる映画。

 あと、スウエーデン映画『歓びを歌にのせて』は、心身共に疲れた世界的な天才指揮者が、故郷のド田舎の町に戻り、教会のアマチュア合唱団を指導することから、名声でも才能でもなく、ほんらいの自分を取り戻す物語。このラストにも、ぼくは弱い。なかなか感動的で好きです。 

 

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仰せを聞くだけなのに…

  お昼を、子供たちと一緒に食べた後は、2回目の華光誌輪読法座。少し顔ぶれも代わりましたが、だいたいが同じ顔ぶれ。M先生もお参りくださいました。京都の方が中心で、大阪の方も数名入って、合計13名。誌上法話の「知恩・感恩・報恩」の2回目。聞く耳もない、感じる心もないものだからこそ、ただ先達の言葉を聞かせていただく。教え(仰せ)を仰ぐ一つで用事が足りるように出来ているご本願なのにね。でも、自惚れている。カッコ悪いのに、イケてると錯覚している。それに気づかないほどの自惚れの塊。だから、「そのまま救うぞ。悪人のまま、そのまま来いよ!」との18願の仰せ一つが聞けないんでしょうね。

 これに関連してちょっと書きたいけれど、今夜はこのくらいで。いろいろ終わって、少しホッとしました。

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子供たちは輝いていた

Img_0220_1  今日は、「輪読法座」ありましたが、前後も地域の行事がフル稼働。誕生日会に、法座に、町内会の総会にと大忙しでした。

 法座までは、長女のお誕生日会。初めてですね。子供と、室内を飾りつけをしたり、家内も料理にハッスル。いつもお世話になっているご近所や、同級生の子供たちを11名をお招きしました。ぼくの子供の時には、一度も、こんなことなかったなー。みんなも楽しく、大はしゃぎで遊んでいました。家内の手料理も、子供Img_0223_1向けで、みんな大満足。手作りケーキと、フルーツポンチに、目をキラキラさせていました。「こんな手料理の上手な奥さんをもらって、旦那さん幸せですな」と、小4年の女の子にお褒めに預かりました。ハア、まあ、いつもこういうわけには行きませんから、現実はいろいろありますがね。でも、当たり前と思って不平不満が、実は、有り難いことなんですが、それがわからんので、迷っております。

 このあたりも、都会のドーナツ化減少もあって少子化の一途。今年の新1年生は、たった29名で、単級。もう少し多い学校もあるけれど、10名台のところも近くの小学校にはあって、統廃合の可能性もあるかもしれません。でも、楽しく遊ぶ姿はエネルギーの塊そのもの。騒がしいけれど、ほんと面白かったなー

 メーンの輪読法座を挟んで、町内会の最後の仕事。総会を兼ねた役員会でした。選挙の新役員の改選を行いました。今度の会長も、40代のぼくの後輩に決まりましたが、お願いにするのが一苦労。そうですよね。誰だって喜んでやる仕事じゃなもいの。少子化、高齢化が続いて、40代、50代の世代の人達が少なくなって来ているので、地域の運営もたいへんになってきます。次回の事務引継ぎで、1年の町内会長が終了。ただ、予定外の仕事も引き受けることになりましたが、まあ、この程度ならよしでしょう。それより、今度は、PTA会長(1年目は副ですが)の話が来ました。泣きつかれましたが、これは固辞しました。結局、やり手がなくて、同じ方が留任。この調子なら、来年またお話があるなー。一方で、他人にお願いする立場で、一方でお断りをする。どちらもいやな気分になりますが、世間のお付き合いは、仕方がないですね。でも、いろいろと人も出入りし、けっこう騒がしい「華光会館」をやらせてもらっている以上、ご近所づきあいも、大切な仕事と思える、そんな年齢になってきたということでしょう

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『ディパーテッド』

 3月始めに、アカデミー関係の作品を続けて観た。

4da705fa_2 今年のアカデミー作品賞は『ディパーテッド』香港映画『インファナル・アフェア』のリメイクが、マーティン・スコセッシに待望のオスカーをもたらした。香港から、ボストンを舞台に、下層階級であるアイルランド系のマフィアと、警察組織をあげた死闘を描かいている。バイオレンスシーン以上に、敵対組織に潜入した男の二人の心理描写がドキドキもの。 マフィアに潜入した警察官(レオナルド・ディカプリオ)と、警察官となり組織を追求する立場になったマフィア(マット・デイモン)、ある種、表裏一体(共に本物の警察官には違いはない)の二人が、極限の精神状態の中で、対決していく。ジャック・ニコルソンがマフィアのボス役、潜入捜査を実態を知る警察上官がマーティン・シーンと、脇を名優が固める万全の体制。でも、正直、これが作品賞とは意外な感じ。大物マフィアのジャック・ニコルソンが、なぜか、ちんけな所場代の小銭を集めたりと、なにか小さな組織のチンピラ風なのが、不思議。すごく存在感あるのになー。それに、よくも悪くも、元ネタの比べて見てしまって、あらすじもだいたい知っているで、その点が難。『インファナル・アフェア』(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ)は、3日間、映画館に通って、モーニングで3部作を一気に観たこともあるが、「Ⅰ」が断然、お薦め。最初、涅槃経か何かの「無間地獄」の経文が出てきたような記憶があるが…、とにかく、元ネタの方が面白い。(続く)

 

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『ドリーム・ガールズ』

 引き続いて、『ドリーム・ガールズ』。ブロードウェイミュージカE2736074_4 ルの映画化で、極上のエンターテインメント。この手のミュージカルは、ハリウッドの大手の得意とするところだ。アメリンカ・ドリームを体現する、コーラスグループの黒人女性3人組たちの出世物語。60年代のモータウン音楽と、当時の芸能・エンターティメントの世界が垣間見れる。野心家で、大成功を収めながらも、違法行為にも手を染め孤独を深めるプロモーター役のジェイミー・フォックス。ソウル魂で、時代の寵児になりながら、結局、時代遅れになっていく悲劇のスター、エディ・マーフィ。彼のけっして上品でないパーフォマンスが、おいしい。でも、なにより主役は、黒人3人組の女性たちが披露する歌声と、魅惑的なパフォーマンスが圧巻主演女優のビヨンセ・ノウルズが、華麗! また、大物を食ってしまうほどの存在感があったのが、助演女優賞受賞のジェニフアー・ハドソン。太めの体型から、圧倒するほどの歌声! スターとしてのわがままぶり、仕事にも恋愛にも挫折し、地道に再チャレンジする役回りもよかった。とにかく、ご機嫌なナンバーと、ダンス☆ダンス。2本続けて観たけれど、十分楽しめました。(もう少映画ネタつづく)

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今日はこんな日でした。

 昨日から、印刷所から上がってきた華光誌のゲラの校正。文字化けもあって、今朝、印刷所に渡りました。もう1度、2校が上がってきて、それを確認した時点で、完成。後は、発送の準備。

 午前中、伏見桃山の自力整体の教室。珍しく、家内と一緒でした。人数少なめで、ノビノビ声を出してきました。教室が終わってからは、家内とは別行動。行きつけの伏見桃山のカフェ(agio iichan.chi)が、近いところに移転したので、一人ランチ。しかもご招待で無料!(ラッキー)。お店は、シックなお洒落な雰囲気。客席のキャパが3倍に増えていた。ホールのスタッフも3倍増しだったけれど、満席に近くてバタバタとたいへんそう。「大きくなりましたね。最初から繁昌ですね」と話すと、「新しいスタッフも増えたし、まだてんてこ舞いです」と、ママの答え。確かに、開店1週間では、動きにも慣れてないだろうし、新しいスタッフを増やすだけでもたいへんなことだ。所帯を大きくしたら、それだけ、よりやりがいもあろうが、人件費や家賃も、責任も重くなり、忙しさも増すだろう。以前の、ゆっくりできた静かなカフェと同じ雰囲気やサービス、もしくは別の付加価値を提供できるのかどうか。このあたりはなかなか難しい問題ですね。バタバタはしていたけれど、内装など、店自体の雰囲気はよかったのです。

 早めに帰って、みなみ会館で映画を1本。フランス映画、「愛されるために、ここにいる」。冒頭から、気に入ってしまいました。こういう時は、映画館のシートに座って、しばし幸せな気分を味わいますね。タンゴが奏でるメランコリックな雰囲気。仕事に疲れ、父や息子との関係に疲れている、冴えない中年(50代前半)男性と、清爽な(30代後半)女性との出会いの映画。よかったなー

 夕方に雑用を片づけて、夜は、書道教室。2月から、千字文を習っています。今日は、「天地玄黄 宇宙洪荒 日月盈昃 辰宿列張 寒来暑往 秋収冬蔵…」のあたりでした。

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『歎異抄』第3章。~善悪相対から、自力・他力の廃立~

 日曜日の広島支部法座では、『歎異抄』の第3章の法話。いわゆる「悪人正機」章。有名なのに、今回まで取り上げたことがなかった。

 歎異抄の一つのテーマは、善悪の問題にある。その背景には、当時の念仏者の間で、身近な実践的な信仰にかかわって、身を嗜み、悪を廃して善を成していくことがご本願に叶うのだという「賢善精進派」の念仏者と、「極悪人こそお救い」と、本願に誇り、薬(本願)があるからと好んで悪を行う、「造悪無碍派」の念仏者の対立があったことが、歎異抄や聖人の消息などからも明らかである。それで、歎異抄の著者(唯円房と思われる)も、「善悪」の問題と、本願の関係について触れているのである。

 つまり、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころに善しとおばしめすほどに知りとほしたらばこそ、善きをしりたるにもあらめ、如来の悪しとおばしめすほどに知りとほしたらばこそ、悪しさをもしりたるにもあらめども、煩悩具足の凡夫は…」という後序。また、「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず。念仏にまさるべき善なきがゆえに。悪をもおそるべらかず。弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえに」という第1章。そして、第13章では、「卯毛・羊毛のひきにいるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなし」と知れという仰せに、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべき」罪業のわが身を深く自覚し、人間の相対的な善や悪にとらわれずに(「賢善精進派」の念仏者も、偏った「造悪無碍派」の念仏者に対しても)、ただ、老少善悪を選ばれない弥陀の本願に帰依せよと、終始一貫し、異義を歎き、正信を勧めているのである。つまり、善であろうが、悪だろうが、人間的な相対的善悪に捕らわれる姿こそが、善悪を超えた弥陀の本願をさまたげる、自力疑心の心そのものであると、断罪しているのである。

 それで、この第3章も、一見、善人、悪人を問題にしているようだが、実は、対立的に、どこかに善人がいたり、念仏をたのむ悪人(だいたい、ここで聴聞している自分たちだと思っている)がいるのではない。善悪の問題ではなく、煩悩具足で、いずれの行もおよびがたい無力な悪人と知らされたならば、その自力のこころを捨てて、他力を頼めよという、自力・他力の廃立がメーンなのだ。つまり、善人であろうと、悪人であろうと、「自力のこころをひるがえし、ただ他力を頼め」の一つが示されている。それが唯一つ、善人が救われていく道であり、また悪人をお目当てとした弥陀の本願のお心なのだ。つまり、「弥陀の本願には、老少・善悪のひとを選ばれず、ただ信心を要とすと知るべし」(第1章)という、広大な本願のおこころと呼応するお示しである。

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今日もバタバタと過ぎていきました

 2月、3月初旬が温かかったのに、このところ寒い日(たぶん平均的でしょう)が続いていますね。今日は、いろいろとバタバタと過ぎていきました。

 下の子が風邪気味で、無理をささずに保育園を休ませました。家内は、好評の「暮らしの中のカウンセリング」の集いがあるので、午前中は、子供と遊んですごしました。元気ですが、ちょっとグズグズするところもあって、体調は万全ではなさそう。でも、可愛いー。なにより、妨げられずに、キラキラとエネルギーに溢れています。

 お昼を食べてから、華光誌の表紙関係の最終校正と印刷。張り合わせは事務方に任せて、その後、仏青の会計担当者と、総会に向けた仏青会計の決算書の相談(確認)をしました。これが思わぬ時間をとらるハメに。作業を滞っていたのか、なかなかうまく照合しなくて、結局、後日、ぼくが詳細なチョックを入れねばならなくなりました。その合間に、先生と、9月の東京公開講演法座のテーマの打ち合わせ。何を訴えていきたいのかの大きな相談。今回の講演会の趣旨は、今号の華光誌にも掲載(ぜひご一読ください)していますが、そのテーマをどうするのか。いくつか候補を探っています。せっかくなので、一人でも多くご参加いたたきたいものですね。夜は夜で、町内会の最後の仕事。週末の三役改選に向けた準備。とにかく、今日も、あれや、これやとバタバタと過ぎていました。

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明日は清掃、広島、日礼遠足、そして大阪支部

外は、冷たい雨が降っています。

 今日は、華光誌の表紙関係の作業。写真の説明文や、巻頭言、後記、裏表紙の行事の案内などです。今回の巻頭言は、福岡のK君に依頼。親子2代での登場となりました。今後も、若手の皆さんに順番にお願いしていく予定です。

 家内は、仏青、日曜礼拝の先生方と、特にこれからの日曜礼拝をどうするのかを、KJ法を使って話し合っていました。思いのほか、創造的な話し合いになったようで、少し澱んでいた空気が、軽やかになったようですね。

Img_0213_1  昨日、事務所を若干模様替えしました。本棚移動して、応接ソファーを少し動かしただけですが、こんな感じになりました。違い分かりますかね。

 明日、ぼくは広島法座。そのあと、3度目のヴィストレーニング。父は、大阪支部法座。東海支部でも座談会。日曜礼拝は、年に1度の遠足。京都にオープンしたマンガミュージアムへ。長女の小学校のお友達も何名か参加してくれるようです。

 早朝は、町内会長として最後の地域清掃。掃除だけならいいのに、今回は、ご丁寧に出陣式のようなイベントがありまして、町内へも動員があって、出かけなくてはいけません。雨なら中止だそうですが--。来週にも、自主防災の表彰式があって、こちらも法座と重なって困っていますね。形式的なイベントで、お役所的な発想で、ほんとうは固辞したいのですが、個人じゃないので、そうもいきませんわ。

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昨年の日本映画と『赤い鯨と白い蛇』

 日本映画が、興行的にも好調だという。ぼくは、昨年、新旧合せて、150本ほど映画を見たが、そのうち120本ほどが、映画館で見た新作。でも、ほとんどは洋画である。でも、ハリウッド大作よりも、ヨーロッパやアジア、南米映画のほうが多くて、多種多様の国籍だった。日本映画は、そのうち1割強しか見なかったが、でも心に残る作品が多かった。各種映画賞の評価とも一致していた。内容的にも、充実していて、今年は日本映画を観に行く機会が増えそうだ。

 お薦めは、『ゆれる』。あと、『嫌われ松子の一生』(これは意外な展開で、思いのほかおもしろかった)、『フラガール』、『雪に願うこと』、『武士の一分』(手堅い)あたり。評判の『かもめ食堂』は、ぼくには退屈。ドキュメンタリーでは、『蟻の兵隊』がよかったし、『ヨコハマ・メリー』、『三池』も、終戦から戦後の高度経済成長の日本を支えた、負の遺産(風俗と経済の違いはあるけれど)に、奇異ではなく、温かなまなざしが向けられていてよかった。

 Akaikujira_siroihebi_01_2 もう1本あげると、昨日観た『赤い鯨と白い蛇京都では今年の上映作)が、静かに、こころに染みる深い作品だった。まったく派手さはないし、何も起こらないのだが、こういう作品が珠玉の名編というのだろう。監督は、齢77歳にして、映画監督デビューのせんぼんよしこ。女性として年齢を重ね、また戦争の記憶持つ世代として、徐々に薄れゆく戦争の記憶を、声を荒らげずに、まことに静かに訴えていた。「赤い鯨」の意味も、映画の後半になるまでまったくわからないが、どこか悲しい。何か黒木和雄監督紙屋悦子の青春』に通ずる匂いを感じた。

 映画は、房総半島の館山の風光明媚な地に戦前から建つ、田舎の旧家が舞台。いまや取り壊されようとするその茅葺き屋根の旧民家にかかわってきた3組-5世代(70代後半、60代~50代後半、40代~30代後半、そして20代と、10代)の、世代も背景も異なる女性たちが、家に引き寄せられるように現れ、出会い、再出発する物語である。それ以外の登場人物はない。男性は後ろ姿やイメージ。電話など相手方でも、声すら出て来ない。ただ、その男性たちとの関わりにおいて、皆、どこかいわくありげで、表面的には何事もないようでも、「女性」として生きる上での、深い葛藤を抱えている女性たち。

 老境の女性(香川京子)の上に、人生の晩年に訪れた転機。その彼女の上に、戦争によって、無念にも、「自分に正直に生きる」ことなく犬死にした一人の青年特攻隊員との記憶と、その約束が、60年ぶりに蘇った時、他の女性たちも共鳴し合うように、自分自身の何かに出会い、女性としての新たな歩みを始めていく物語だった。客層も9割が中年以上の女性だったが、男性のぼくの琴線にも触れた。

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ドえらいものを捨てた味

 週末の高山法座は、初日が30名ほど。2日目が24、5名程度でしたが、顔ぶれも少し異なって、約40名の方がお参りされていました。親戚や、以前の善知識をご縁にした人達が中心ながら、確実に新しい人や若い人も増えてきています。頼もしいね。

 さて、今回のご法座で、実際に食べたなら、その味がある、何か滲み出るものだなーということを感じました。

 西光先生の『わが信心・わが仏道』にある短いエッセイ風のご法話「シネラマ」の話です。おばあちゃんが、大阪の梅田で見た「シネラマ」に感激し、興奮して、皆さんにお勧めするお話。実際に感銘したことが、自然に喜びとなって伝わっていく。見もしないものを、見たように装っても、それは不自然で、心を打つことはない。「清浄真実の願心でかためられた名号が人の心を動かさないはずがない。念仏が伝わらないことのほうがむしろ不思議。問題は、法のほうにではなく、念仏者、真実信心をもって許している人のほうに、何か根本的な不自然、致命的な偽装があるのではなかろうか。」と結ばれています。

 実際に食べた経験があるのなら、それは、どんな味がしたのか、うまいのか、まずいのか、腹がふくれたのかどうかなど、味わいのニアンスは違っても、かならず、その食べた味わいを語らずにはおれないわけです。ところが、いくら雄弁にお聖教を語っても、難しい教義を並べても、その味がない人の言葉は、どこか空しい。聞いて、覚えて、納得しただけの信心なら、「それで後生は、大丈夫?」と心配になる。伊藤先生に言わせると、「あんた、如来さんから、何かドえらいもんもらいなさったか。それとも、何かドえらいもんを捨てなさったか。その味がわからない? じゃ、アカンなー」というわけですね。

 いま、ここに躍動している無量の命が、わたしの業魂の腹底に、飛び込んでくださっている。火に触れたら「熱い!」 と叫びように、その生きたナンマンダブツに触れたら、「ナンマンダブツ!!!」にならんわけがない。昿劫以来、一遍も死んだことのない迷いの親玉が、名号の利剣で貫かれて死ぬ瞬間が、「南無阿弥陀仏」と飛び出してくださる水際。その味が一度あるのなら、表現の上手い、下手はともかくも、何か自分なりの生きた言葉で、語れんわけはない。いや、言葉がなくても、その表情や態度で伝わって来る。だって、如来さまは、ここに生きて働いてくださっているのですから。死にものにしては勿体ないなー。

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如来に統一されている

  今日は久々に寒い一日でした。風も強かった。北国は雪だったようですね。

 さて、今日は、朝から華光誌の作業をして、夕方には、印刷所に渡せました。まだ表紙と校正が二度ありますが、一山超えてホッとした気分。今回は、少し急いでいたので、東京や高山法座の往復の列車の中にも、ノートパソコンを持ち込んで、作業しました。往復で6時間程度はあるのですが、この作戦は、いま一つでした。何かに追われる感じがするし、校正段階になると、落ち着いた場所で作業したほうがミスもすくない。やはり、これまでどうり、法座の行き帰りは、本を読んだり、勉強する時間に当てた方が、ぼくには向いています。それに、法座の時は、そこに集中するのが、一番ですから。

 夜は、伝道研究会。HPの「はじめての方へ」の、教義的なところを話し合いました。簡単な質問や表現ほど、実はとても難しい。しかも、あまり教義的な言葉を使わず、それでいて、間違いなく過不足なく、しかも短い表現で伝えようとするわけでしょう。これは至難の技。ただやさしい言葉遣いにすればいいという問題ではありませんし、しかも、制作者の意図や思いもあるから、3時間かけて、4つの設問のうち、出来たのは2つだけでした。

 「なぜ、聞法しないといけないの?」「何を、聞くの?」「どのように聞いていくの?」「聞いたらどうなるの?」。うーん。いろいろと根本的な問題を考えさせられました。もっとも、自分のところでなら、ある程度は答えられるし、いわば、ここをめぐってご法話させてもらっているわけですから。それだからこそ、難しい。人それぞれに味わいというか、切り口が異なってくる。もっとも、そこが、華光のよさでもあるわけでしょう。一国一城の主ですから、みんなが同じ法話をするわけではなく、それぞれの個性があるわけです。つまり「鶏口であるが、牛後の人ではない」。しかし、ただバラバラではなく、根本のところで「如来に統一されている」(『「仏敵』の言葉)という味がないと意味はありません。知識(人)ではなく、如来様が輝くような法座や表現、それによってまた自己が問われ、証明されていく言葉。

 『仏敵』の201~202頁かけて、華光の同人の本質を付いていて、好きな箇所ですが、これは詳しくは後日に。

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華光誌(本文)もう一息です

 華光誌(本文)の編集作業が大詰め。印刷所から催促の電話がかかったので、「明日、夕方に渡します」と伝えました。木曜日にしようかなと、迷っていましたが、明日と伝えたので、逆に仕事が進みました。本文・タイトルなどが、一応、いま終わりました。あとは、最後のチェックと、赤字(級数とか、書体とかの指示ですね)を入れる作業は、明日です。

 今号の華光誌に、法座で、増井先生から「常念仏」を勧められる話がでてきます。また、ある会に熱心だった時に、朝晩「正信偈」の勤行をしていた青年の体験記が出ています。 

 確かに、自力・他力の水際は大事です。本願の嘉号を己の善根にするような心で、称える念仏は捨てもので、ここのところはしっかり聴かせてもらう必要がある。しかし一方で、自力か、他力かと、詮索する暇があるのなら、お念仏(称名)をさせてもらうことも尊いことです。特に、本願を喜ぶ身になったものは、なおさらのこと。信心一つというものの、どこまでも懈怠になっていく身がお粗末すぎて、恥ずかしい限り。南無阿弥陀仏。

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静かな、偉大な念仏者

 3日昼、高山の法座に出発する直前でした。

 また一人、こ法のためにご尽力くださった華光の大先輩の訃報が届きました。しかも、華光誌創刊号からの、華光同人だった、新潟のミヨシさまが、静かに、お浄土に還っていかれました。華光会館の創立や、再建には、たいへんなご尽力くださった御方です。すべて、後に続く者たちの念仏相続を願ってくださった、尊いお働きの賜物です。

 静かな、静かな常念仏の御方でした。一昨年、新潟の娘さんのお宅で、コタツにはいれながら、二人きりでとお話を窺うことができました。ぼくにはそれが最後でした。伊藤康善先生との出会い、厳しい求道、そして一念の喜び、ボツボツと70年近く前のことを語って下さいました。この世のことは、かなり厳しくなっておられましたが、ご法の味わいは何一つブレておられませんでした。そのお話の内容は、訥々とした口調で、途切れ途切れだったのですが、その合間、合間は、常に、お念仏さまでした。しかも、静かな、静かな、それでも温かい響きのお念仏さまでした。日頃、懈怠なぼくも、その威徳のおかげで、共に、お念仏させてもらっていました。

 大声もいらない、力みもいらない、有り難い気持ちも、無理強いもない。ただただ、静かな「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」の響き。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

 お浄土で懐かしい伊藤康善先生と再会を果たされる間もないほど、すぐに還相回向のお働きで、さぞやお忙しいことでしょう。

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無仏世の衆生は重罪

 明日は、高山法座。3席法話があるので、華光誌の作業を睨みながら、教案造り。途中、気分転換に東本願寺の前のカフェで、紅茶を飲みながら、教案を考えてきました。

 今回は、1)報恩講で話した「四依」を取り上げます。聞法をする上での大切なポイントの一つだと感じています。何をその拠り所、たよりにして聞いていくのか。ここを取り違えると、いくら聞法しても、いくら熱心であっても、ご法が届くことがないわけです。報恩講ときは、40分ほどのご法話だったので、今回は、新たな例話も加えて、でも、ポイントは繰り返してお伝えしたいです。その箇所のお聖教を読んでいて、出会った言葉。(現代語訳)

「無仏(仏のおられない世)の世の衆生を、仏(釈尊)は罪が重いとされた。仏を見たてつまる功徳を積まなかった人たちであるから」

 三毒の煩悩だけが罪悪じゃないですね。無仏の世に生れた、つまり末法に生れたということ自体が、無宿善の機だといわれている。これは、厳しいお言葉です。だから、末代の道俗は、この四依によって、こころして念仏を教えを聞きなさい、と結ばれています。

 翌朝は、2)誌上法話の輪読し、3)もう1座は、歎異抄を取り上げます。これまでも、よく歎異抄を取り上げていますが、だいたい1章、2章、4章、9章と、13章というところ。何度も繰り返し読んだり、みんなで話し合ったり、工夫をしています。でもなぜか、3章の悪人正機の章は、ご法話したことがありませんでした。世俗・相対的な善・悪を超える教え、自力と他力の廃立にかかわってくるところですね。一章、二章と並んで、歎異抄の法語編でも大切な章です。

 夜も、聖教や資料を読んだりしていましたが、明日の華光誌の段取りをしておこうと、少し前まで校正に手をいれていると、ちょうど1頁分不足してることに気がつきました。でも、いまならまだ間に合います。さいわい、アメリカの方から誌友通信になる手紙が来ていたのを次号回しにしていたので、うまく補えそうです。

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『鉄コン筋クリート』

 今日も朝から、華光誌の校正作業。これからコツコツ地道な作業にはいります。映画の日だったので、途中、2時間ほどあけて、京都みなみ会館へアンコール上映の映画を一本。帰ってから、高山の法座の準備(法話の構想を練っています)、町内会の仕事(もう一息だ)もしました。

 映画は、『鉄コン筋クリ ート』(てっコンきんクリート観ましTetu_1 た。『ピンポン』などでも高い支持を集めている松本大洋の漫画作品を元にした劇場版アニメ。ぼくとがアニメを見にいくのは、珍しいけれど、今年は『パプリカ』についで、2本目。劇場のアニメは、声の出演が豪華。今が旬の映画人が総出演っという感じでした。ぼくは、この人、画風というかタッチが、ちょぴり苦手なところがあるんですが、監督や製作の異なるアニメになると、また雰囲気は違いました。ただ内容も、正直、まあまあというところかな。ちょっと感想も触れたかったたど、下の子が何度も夜泣きするで、たびたび中断。このあたりで。三歳半ですが、いつまでも夜泣きが激しいです。

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