『東京大学のアルバート・アイラー』(続)
なるほどね。ちょっと意味合いは違うけれども、聞法も、(特に、お聞かせいただい後は)同じじゃないかな。自分の身体、感性も大事だけれども、そこに学ぶ、聴く(聴聞、聖教)という行為がないと、単なる同じ味わいを繰り返し、自分を肯定するだけの聞法に終わる。もしくは、ただ聖教のみに寄っていると、なんら今の自己が問われることのない、真宗評論家に成り下がる。(けっこう、世間の大方かも…)。自分の気持ちを大事にする(聴きたいとか、今は聴きたくないとか、お許しで仕方ないとか、喜べないとか、単に有り難かってよかったとか)も大切にしたいけれども、それだけではないことを教えていただくと、聞法の幅も、ずいぶん広がるものです。当然、あるところで安住するほうが楽だし、そこを破って聴かせてもらうことはしんどいけれど、それこそが聞法の尊いポイント。実は、聴くという営みは、機と法とのある種の相剋でもあるのですから。例の三量(聖教量、現量、比量)を含めて、少しこじつけて、味わってみました。アルバート・アイラーがえらい話になってきましたなー。
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コメント
掃除をしているとふと華光誌64-4巻が目に留まり誌上法話を読ませていただきました。本物だなあと思いました。同時にこのホームページに感じていた違和感の原因もはっきりさせていただきました。ここは華光誌とは全く異世界なのですね。
南無阿弥陀仏を忘れ通しの私も見せていただきました。ありがとうございました。南無阿弥陀仏。
投稿: あるある会員 | 2007年2月18日 (日) 07:48