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『東京大学のアルバート・アイラー』

 少し前に読んだ1冊だけれども、これはすごく面白かった。まずタイトルに引かれたけれど、これまで読んできたジャズの本は、「ジャズはニュー・オリンズで始まり…」といった類の歴史ものか、個人の趣味の趣向(といっても超人的に聞き込んだ人達)が歴史的CDを語るものが中心。唯一、愛読しているのは、アドリブソロを理解するための『ジャズを聴く』(ジャリー・コカー著)のみで、ほんとうに聴くべきものや、聴きどころを理論的にも、歴史的にも語った評論が、(特に日本では)停滞している感がしていた。

494412419801  マルチリード奏者の菊池成孔と、大谷能生が、東京大学での一般教養の講義を行った前期分の講義録をまとめたのもの。同世代なので、70、80年代の時代的な引用も、またそのポップな語り口も抱腹絶倒だったが、その内容も目からうろこ。「ジャズ」を歴史的に読み解くというものだけれども、明らかに従来の歴史ものとは一線を画している。「モダンジャズ」を俎上に、その前史であるバッハの12平均律から、コード体系をとことんまで突き詰めて構築(記号化)したバークリー・メソッドを中心に、その後の展開のMIDIを挟み込んで、音の記号化という側面から、「モダンジャズ」が、「プレモダン」から「モダン」に至り、また「ポストモダン」に展開する必然が、スリリングに語れていきます。(まあ、なんのこっちゃ?ということでしょうが)。音楽好き、ジャズに関心のある方にのみ、お勧めの一冊です。

 で、最後に評論、批評する行為について触れられている。直接的には、本論とは関係ないけど、この下りもぼくには面白かったので、要約してみます。

 「批評」とは、人間の書く散文のひとつのジャンルだけれども、ネットの普及によって、批評という行為が爆発的に増幅し、日本人の書き文字が、今後批評文やコメントだけになってしまうのではないかというほど、日本人総批評家(コメンテーター)時代になっている。日夜、ジュースを買っては批評し、映画を見ては批評し、人物を見ては評している。〈ウーン確かにね。〉

 ところが、本来、批評という行為には、自分が実際に経験してた事柄以外へと開かれていく、外部的な視座・視点といったのもが不可避的に必要になってくる。つまり、それが歴史や理論だったりする。批評には、個人の嗜好、経験、身体性、心の問題といったパーソナルな要因が必要だけれども、当然、個人的なファクターと、外部からの批評視座とのあいだには、ノイズや軋轢が生じる。その内部(自分の身体の反応)と、外部(歴史や教育)との相剋を、どうにしかしてねじ込むのが批評という行為だと位置づけている。

 しかし、今日のネットでの批評の多くは、外部に目を向ける苦しさを放棄して、自分の身体性一辺倒の方向で塗りつぶされている。そこから生れるものは、現代の自分の尺にあったもの、気に入ったもの関しては「偏愛」する。自分の気に入らなかったものに関しては「目茶苦茶なクリーム」をつけるという、ある種の心理的な暴力ともいえる批評ばかりが増加している。〈辛口と称して批評するサイトに、よくみかけます。またそれが面白い場合もあるけれど、その時はその人の何かを削っているんだよね。〉 これは、ネットというツールの外部遮断的能力の高さにも起因して、また「分断して、統治する」という現代社会のシステムにもよるけれども、ともかく、批評するには、ただ自分の身体、感性だけでなく、何かを学習して、批評する作業が重要となる。

 要は、自分の好き嫌いの感情だけで書き飛ばす習慣から、歴史を学ぶ、つまり批評的視座を学ぶことは、それまで自分の外部にあった、自分とは関係ないと思っていたものとコミニュケートする行為であり、必然的に、自己像の更新も伴うもので、時に苦しい作業でもあるわけで、その相剋が批評となるのだと…。

 エーと、これからこれが、なぜかお味わいに展開します。(つづく)

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