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2007年2月の15件の記事

今日の仕事です

 今年は温かいですね。ちょっと、今日は冷えたけれど、それでも、雪ではなく雨でした。

 今日も朝から、華光誌の編集。おかげで、本文は、テープ広告の1段を除き、32ページが出揃いました。これで、高山法座を挟んで、1週間後には、印刷所に入力原稿が渡せるメドがたちました。頑張ってます。明日も、作業はつづきます。

 夜は、今年度(10月)からはじまった「事務連絡会議」。半分は、華光会HPの報告が中心でしたか、それ以外にも、各人から、それぞれの仕事の状況や、問題点が出されました。確実に、個人商店から、同人の手に仕事が広がるようになり、それが無責任ではなく、連絡をし合い、責任者が把握できる体制が整いつつあります。今日も、組織で動くことと、担当者の権限との兼ね合い、責任者の関わりなどを確認し合いました。この状況が、さらに地方の運営委員会のレベルにまで広がると、華光におられる人材を、より生かせていける集いになれるという予感がしています。いまは、まだその過渡期です。いわば勉強中。その意味では、ずいぶん、僕自身の役割も変わってきたと自覚しています。

 ところで、2月も今日まで。早いですねー。いや、早いと感じる歳になったのでしょうか。今月のプログは、ブチお休み傾向。あいかわらず、映画も、毎月10本以上のペースで見ているけれど、まったく触れてません。アガデミー賞にも一言いいたいところ…。また、いろいろ読んだ本のことや、いま、聞いている音楽のことも、書きたいことは山々あれど、ちょっと華光誌終わるまでは、このペースかなー。

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うっかりしてました。法座案内ハガキ追加

 華光同人の皆さんには、先週末に「3月の法座案内」のハガキを送付しましたが、法座案内を見ていて、急に、1つ行事が抜けていることに気づきました。追加します。

3月17日(土)午後1時30分~5時
  「華光誌輪読法座」
  内容:華光誌66-1号の誌上法話の輪読。

  HPの法座案内にも追加して、掲載してもらいます。

◆誌上法話の輪読は、3月の高山支部の2日目朝(4日)にもする予定です。もし華光誌お持ちならご持参ください。(66-1号「知恩・感恩・報恩」)

 出来上がってきた原稿を、カレンダーの上で、日時や場所などを確認したのですが、作製前に、打ち合わせ確認をしなかったための、うっかりでした。手帳にも記入し、複数の目で見ているのにね。今は、華光誌の校正中ですが、決め込んで見ていると、こんなボカがあるんです。

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華光誌、グーンと進みました

遅れていた華光誌の編集作業も、週末に法座がなかったので、この4日間でかなりはかどり、例年並みのペースに。ちょっとホッとしています。原稿も、催促やら、急なお願いやらで、なんとか体裁が整いました。最近はページ増になることも多かったけれど、今号は薄目です。その分、編集作業がはやく出来そう。3頁弱空いたので、9月の東京の公開講演法座の意義について書くことにしました。このあたりはもう一息。

 例によって、仕事の前には、ゴチャゴチャしてきた部屋を片づける作業から始めました。いろいろなものがため込まれいます。新聞の切り抜きに、法話の教案に、映画のパンフレットやチラシに、CDに、新書や専門書、雑誌も、ジャズ、映画、カルチャー誌から、真宗や心理療法の学会誌、それに書類や手紙、資料と、重要度はさまざまあれど、加齢と共に、ドンドン執着するものが、深く、広くなって、ますます溜めていく一方。ほんと、目にものみせられますね。机の上や仕事部屋の整理がつくと、一時だけは、少し心にも、クリヤースペースができるような気がするのですがね。まあ、今夜は、もっとゴチャゴチャしていた居間の子供のおもちゃなどを片づけて、珍しく掃除機をかけたら、気分までスッキリ。原稿も、いいアィディアが浮かぶかもね。

 結局、みんな捨てていくんだけどね。どんな嫌でも持ってはいけないもの。でも、一旦「おれが」と溜めたものは、なかなか捨て難い。モノだけではないです。家族や人でも、こころでも、「我」がつくと、ほんとう厄介です。この「我」こそが、いちばん厄介ものですね。捨てるに捨てきれず、お互い、ここまで迷いに迷いを重ねてきたわけですね。アア。

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先週の広島法座

 初めての方も含めて、25、6名のお参りがあった、先週の広島法座。華光誌の輪読にした。これまで、せっかく本人が足を運んでいるのに、自分の華光誌を輪読するのは、手抜きとはいわないでも、少し申し訳ない気がしていた。でも、前々の誌上法話を輪読後から、その気持ちに変化が起こったことは、以前にも触れた。

 一方的なご法話よりも、逆に緊張感もある。小さく区切れば、まめに話し合いも出来る。今回の広島では、「とても分かりやすかったですが、いつも話されていることと同じですか」という質問まで出た。確かに、比較的な分かりやすい内容ではあるが、よく似たテーマで何度も法話を聞いてもらっているのに、「聴く」と「読む」、しかも、声に出し、分からない点を質問し、補足を加えてもらい、味わうという、進行ひとつで、受け取り方にも変化がでるということだろう。お伝えする側にも、さまざまな工夫が必要だなー。

 今回は、質問を交えて3時間で読みきって、あとの1時間は、自由な座談会にした。中でも、死別をきっかけに、お参りしてくださる初参加の態度が尊かった。

 死ぬことは、わが身の無常という死苦だけでなく、愛別離苦の苦しみももたらす。ましてや、長年連れ添った夫婦や愛しい子供だったり、予期せぬ別れはなおさらである。その事実がありのままに受け入れるまでには、さまざまな心の経過を経て、時間を費やすケースがほとんどである。ほんらいは、自身の聞法への最大の機縁になるものだが、あまりにも悲しみが深すぎても、聞法への扉は閉ざされたままのことが多い。またたとえ、その傷が癒えてきても、今度は亡くなった方への追悼供養が目的になったりして、なかなか自身の後生の問題へと転じていくことは、稀なことなのだ。

 今回の法座は、その稀なるケースになるような予感がある。輪読のポイントと、ボイントで大切な質問され、自分自身の問題として発言してくださった。こんな方に出会えるのも、また法座の楽しみである。

 法座の後、2回目のボイス・トレーニングに足を延ばした。これまでの態度を反省させられると同時に、気づかされることが多かった。勉強になります。これはまたの機会に。

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唯「聴」弥陀本願海

 平日の東京支部法座でした。いつも感じることですが、東京支部は、青年、壮年の男性が多いところです。男女比も半々ぐらいかもしれない。それが、平日法座なので、お勤めの関係でお参りが少なくなるかと思うとそうでもなくて、けっこう有給などとって(半日ですが)お参りしたくださいます。有り難いですね。

 今回は、お正信偈の「如来所以興出世、唯説弥陀本願海、五濁悪世群生海、応信如来如実言」のご文を味わいました。「如来」という言葉。「如」、真如より来生され、そして去っていかれる。また「海」という言葉でも深い意味があるし、おいそれと聞き流せるご文ではありません。では、誰のもとに、どのように、そしてなんのために如来さまはご出世されたのか。その活動相、活動される姿が、如来様そのものなんです。「唯」(ほかにあるのでも、比べるものがあるのでもなく)弥陀の本願海を「説く」そのひとつのためなんです。それは、誰のためか? つまり誰のためのお念仏なのかといえば、他でもない。「五濁悪世群生海」の、この私のためなんですね。そのために、真如からお出ましくださり、真如へと迷いの私を連れ去っていかれるお方が如来様。その如来様の如実の言葉を信じよ、つまり聞けよと。しかも、その如来様は、釈迦如来だけでなく、諸仏方すべてだと親鸞様はおっしゃています。つまり、お釈迦様のみならず、すべての三世十方の諸仏方は、五濁悪世の私々が、唯一救われる阿弥陀様のご本願を「ただ」説く為にだけご出世=お出ましになられたけわです。それを私に引きうけて考えれば、西光先生の言葉をかりれば、「○○(ご自分の名前をいれてみる)がこの世に生れてきた所以は、ただ、弥陀の本願海を聴くためである」ということになるわけですね。

 そんなことを詳しくお話しました。座談会では、東京支部の皆様だけでなく、アメリカから来られていたNさんご夫妻がご自身の体験やお味わいを篤く語ってくださり、とても熱気のあるご法座になりました。懇親会では、初めてお話できる方との会話が有意義で、時間がアッという間にすぎ、危うく新幹線に乗り遅れそうになったほどです。

 生きた法座は面白いです。このところ法座が楽しみでなりません。聴かせてもらいました。

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これから東京です。

  おはようごさいます。今日も、有り難い1日が始まりましたね。

 日曜日の広島支部法座や、その後のボイス・トレーニングで学んだことや気づいたことを書きたいけれど、ちょっとお休み。昨日も、4時間近くHPのことで相談したり、いろいろと雑用があったりで、遅れている華光誌が気にかかっています。

 これから東京支部法座。平日の日帰りです。行き帰りの新幹線で、誌上法話の下書きをなんとか仕上げたいですね。もう一息のところなんですがね。

 では、行ってきます。東京の皆さん、よろしく。特に、Mさんに久しぶりにお会いできるのが楽しみです。

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『東京大学のアルバート・アイラー』(続)

 なるほどね。ちょっと意味合いは違うけれども、聞法も、(特に、お聞かせいただい後は)同じじゃないかな。自分の身体、感性も大事だけれども、そこに学ぶ、聴く(聴聞、聖教)という行為がないと、単なる同じ味わいを繰り返し、自分を肯定するだけの聞法に終わる。もしくは、ただ聖教のみに寄っていると、なんら今の自己が問われることのない、真宗評論家に成り下がる。(けっこう、世間の大方かも…)。自分の気持ちを大事にする(聴きたいとか、今は聴きたくないとか、お許しで仕方ないとか、喜べないとか、単に有り難かってよかったとか)も大切にしたいけれども、それだけではないことを教えていただくと、聞法の幅も、ずいぶん広がるものです。当然、あるところで安住するほうが楽だし、そこを破って聴かせてもらうことはしんどいけれど、それこそが聞法の尊いポイント。実は、聴くという営みは、機と法とのある種の相剋でもあるのですから。例の三量(聖教量、現量、比量)を含めて、少しこじつけて、味わってみました。アルバート・アイラーがえらい話になってきましたなー。

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『東京大学のアルバート・アイラー』

 少し前に読んだ1冊だけれども、これはすごく面白かった。まずタイトルに引かれたけれど、これまで読んできたジャズの本は、「ジャズはニュー・オリンズで始まり…」といった類の歴史ものか、個人の趣味の趣向(といっても超人的に聞き込んだ人達)が歴史的CDを語るものが中心。唯一、愛読しているのは、アドリブソロを理解するための『ジャズを聴く』(ジャリー・コカー著)のみで、ほんとうに聴くべきものや、聴きどころを理論的にも、歴史的にも語った評論が、(特に日本では)停滞している感がしていた。

494412419801  マルチリード奏者の菊池成孔と、大谷能生が、東京大学での一般教養の講義を行った前期分の講義録をまとめたのもの。同世代なので、70、80年代の時代的な引用も、またそのポップな語り口も抱腹絶倒だったが、その内容も目からうろこ。「ジャズ」を歴史的に読み解くというものだけれども、明らかに従来の歴史ものとは一線を画している。「モダンジャズ」を俎上に、その前史であるバッハの12平均律から、コード体系をとことんまで突き詰めて構築(記号化)したバークリー・メソッドを中心に、その後の展開のMIDIを挟み込んで、音の記号化という側面から、「モダンジャズ」が、「プレモダン」から「モダン」に至り、また「ポストモダン」に展開する必然が、スリリングに語れていきます。(まあ、なんのこっちゃ?ということでしょうが)。音楽好き、ジャズに関心のある方にのみ、お勧めの一冊です。

 で、最後に評論、批評する行為について触れられている。直接的には、本論とは関係ないけど、この下りもぼくには面白かったので、要約してみます。

 「批評」とは、人間の書く散文のひとつのジャンルだけれども、ネットの普及によって、批評という行為が爆発的に増幅し、日本人の書き文字が、今後批評文やコメントだけになってしまうのではないかというほど、日本人総批評家(コメンテーター)時代になっている。日夜、ジュースを買っては批評し、映画を見ては批評し、人物を見ては評している。〈ウーン確かにね。〉

 ところが、本来、批評という行為には、自分が実際に経験してた事柄以外へと開かれていく、外部的な視座・視点といったのもが不可避的に必要になってくる。つまり、それが歴史や理論だったりする。批評には、個人の嗜好、経験、身体性、心の問題といったパーソナルな要因が必要だけれども、当然、個人的なファクターと、外部からの批評視座とのあいだには、ノイズや軋轢が生じる。その内部(自分の身体の反応)と、外部(歴史や教育)との相剋を、どうにしかしてねじ込むのが批評という行為だと位置づけている。

 しかし、今日のネットでの批評の多くは、外部に目を向ける苦しさを放棄して、自分の身体性一辺倒の方向で塗りつぶされている。そこから生れるものは、現代の自分の尺にあったもの、気に入ったもの関しては「偏愛」する。自分の気に入らなかったものに関しては「目茶苦茶なクリーム」をつけるという、ある種の心理的な暴力ともいえる批評ばかりが増加している。〈辛口と称して批評するサイトに、よくみかけます。またそれが面白い場合もあるけれど、その時はその人の何かを削っているんだよね。〉 これは、ネットというツールの外部遮断的能力の高さにも起因して、また「分断して、統治する」という現代社会のシステムにもよるけれども、ともかく、批評するには、ただ自分の身体、感性だけでなく、何かを学習して、批評する作業が重要となる。

 要は、自分の好き嫌いの感情だけで書き飛ばす習慣から、歴史を学ぶ、つまり批評的視座を学ぶことは、それまで自分の外部にあった、自分とは関係ないと思っていたものとコミニュケートする行為であり、必然的に、自己像の更新も伴うもので、時に苦しい作業でもあるわけで、その相剋が批評となるのだと…。

 エーと、これからこれが、なぜかお味わいに展開します。(つづく)

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4月号の華光誌の作業開始

  4月号の華光誌の編集作業が始まりました。このところ、原稿の集まりがいま一つ。早くからお願いしているのですが、いざとなるとなかなかです。どうしても、〆切直前に、再度お願いするので、編集作業が遅れ気味になります。特に今回は、昨年同期より、10日は遅いスタートになりました。これから頑張らないとねー。4月号は、悟朗先生の誌上法話です。巻頭言は、20代の九州の若手先生に、また信仰体験記も、仏青の方にお願いしています(はやくお願いしますね)。年の差は、55歳以上あるわけです。でも、一味の味があるなんて、不思議な世界です。

 Img_0199さてさて、誕生日のお祝いに、家内からスニーカー(クツ)をプレゼント。サイズが少し合わなかったので、今日、交換してきました。お洒落で、きれいなクツなので、ちょっと見てやってください。法座に履いていく感じではないで、なかなかお目に入らないでしょうからね。

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2月14日の輪読法座

 今日は、2月14日。お花をいただいたり、思わぬプレゼントもあったりで、うれしい1日でした。どうもありがとう。小1の長女からも、学童の児童館での手作りのチョコをもらいました。見た目はいびつな「ドロダンゴ」なのに、これがとてもおいしいトリュフ。でもね、クラスの男の子へは、名前入りのハート型のチョコを作って、しっかりプレゼント。もうパパは負けています。(⌒~⌒ι)とほほ...。子供の成長にビックリです。

 さてさて本題へ。今日は、華光誌輪読法座。京都、大阪の方、12名がお参りされました。半数以上の方が、すでに始まっている自主的な輪読会のメンバーでしたが、仏青などの若い人の参加がなかったのは、少し残念かなー。

 誌上法話の輪読。小見出しずつ読んで、感想や質問を出し合いました。やっぱりいいですね。教えられます。自分でも、今回の誌上法話は、初心の方に向けて、丁寧な話の進め方だと再認識しました。気づくことがあったので、18日の広島法座でも、ここを読もうと思い立って、すぐに連絡しました。

 ただ、細かく読んでいくと、途中で話題が脱線して、本筋を見失うこともあったし、次の章に触れられていることが、先に疑問に出てきたりもするので、ある程度まとまったところまで読んで、座談にしたほうがいいという意見がでました。このあたりは、次回の課題です。話し易い人数だったので、ずいぶん本筋以外の話題(たとえば、学会員との法論のこととかね)がでました。ぼくも、唯識の三つの心(意識、マナ識、アラヤ識)やら、両重因縁(徳号の慈父と、光明の悲母を外縁として、信心の業識(ごっしき)が内因となる。内外の因縁が和合して、真実報土に生れる身となる)などの教義的なことにも触れて、答えたりもしました。結局、誌上法話の半分も進まず、こんな調子では、次号が始まるまでには、誌上法話、巻頭言、聖教のこころにしか入れないでしょう。体験記や随想にも、気になる記事がありますが、まずは、いろいろと試行錯誤しながら進めていきます。

 次回は、3月17日(土)昼1時30分を予定しています。進行も、曜日もいろいろやってみます。申し込みや参加費なども不要ですので、どうぞ奮ってご参加ください。

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華光誌輪読法座のご案内

      「華光誌輪読法座」

日時:2月14日(水)昼1時30分~4時30分ごろ
会場:華光会館(3階研修場)
内容:華光誌66-1号(最新号)の輪読。
 1回目は、誌上法話から始める予定です。

 今日は、ずいぶん、温かかったですね。春の陽気。運転免許証の更新に行きました。免許取得以来、無事故無違反の優良ドライバーなので、毎回5年間有効です。手続きも、1時間足らずで、すべて終了しました。前回が40歳の時。次回は(命があれば)、50歳ということになります。そう考えると、ちょっと感慨深いなー。

 さて明日は、初めての法座を開きます。あまり宣伝をしていないので、どれだけお参りされるかわかりません。

今回の趣旨のひとつは、華光会の法座が、皆さんのお参りしやすい土曜日、日曜日が中心なので、「週末が忙しい」という声(お坊さんに多い)もあって、平日法座の希望に答えるためです。これまでも、年に1~2度は、平日法座を開いています。でもね、案外、顔ぶれは週末でも、平日でも変化がないのが、実情です。冬季の間は昼間ですが、参加状況を見て、夜の集いにすることも検討します。

 そして、もうひとつは、各支部で、「連続無窮のお働き」の誌上法話を輪読しました。自分の書いたものなのに、改めて気づかせてもらえることも多かったです。みんなで、じっくりと、声に出して読むことの意義を再認識したことが大きいかったですね。

 来週は、東京支部法座ですが、やはり、21日(水)の平日に開催します。お参りされる方は、あらかじめ分かっているからと、有給を取って参加する方もあります。こちらも楽しみです。

  どちらも、どうぞお気軽にお参りください。

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寒中仏青が誕生日でした

 仏青寒中研修会でした。

 飛び入りもあり、32名の参加がありました。盛会でした。高校生もまじっていて、20歳以下の青年も4名いって、まぶしいかったです。

Img_0172  2月10日。ちょうど45歳の誕生日迎えました。この寒中仏青研修会の最中に誕生日になることが多いですね。40歳になった時にも、サプライズで、皆さんからお祝いしてもらいまたしたが、今回も懇親会の最中に、家内の手作りケーキでお祝いしてもらいました。今回は、子供たちも飾りつけを手伝ってくれました。若い、若いと自分で自負しておりましたが、すでに、参加者の母親よりも年上のケースもあります。

 仏青の方は、日数的に短く、アッという間に終了しました。正直、物足りなさを感じましたが、このあたりはこれからが発展途上で、逆にいうと未知数の楽しみもありますね。10台、20台の皆さんが、未熟でも、また遊び気分が抜けなくても、自分の言葉で、味わいを語ろうとしてくれる姿に、これまでのお育ての尊さを感じさせれらました。一時は、「仏青バブル」期があって、ワーアーと人数だけで多くて、かなりうわついた感じがしましたが、この5年で、ずいぶん仏青にも根付き、聞法の緒についた成長した姿を感じます。一方で、新しい人や、若い人たちが、楽しそうにご法座に参加される姿がまぶしいです。

 でも、所詮は、ひとりひとり。独り生れ、独り死ぬ。出て行く、後生はひとりのしのぎ。すばらしい法の友を得た歓びと共に、独りで聴き抜き、そして独りで慶べるご法の尊さに心を馳せて、お念仏させてもらっています。

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仏青研修会の法話

 明日は、寒中仏青研修会です。

 一時、固定した常連組で大盛況だった仏青も、徐々に新しい人が増えてきています。一方、常連組は安定した活躍を見せながらも、就職などで少しずつ顔ぶれが変化しています。

 明日も、初めての方や、比較的新しいご縁の方も多いですが、一方で、後生の一大事を求める人もいれば、常連でかなり聞き込んでいる人、惰性的に参加している人もいるわけですから、同じ「若い」といっても、一括りでは括りません。その意味では、皆さんに合うご法話をするのはなかなか難しい。

 今回の法話も、最初の素案は「法蔵菩薩のご修行」ということを考えていました。急遽、変更しました。というのも、家内の紹介で、また新しい人が来てくれますが、ほんとうに初めての聞法なので、ぼくのところは、なるべくこの方々に合せていきたいと思います。

 ただ、分かりやすいお話に努めたいけれど、仏法の難しいところは、分かりやすかったらそれでいいというものではないところですね。難解な仏教用語をやさしくしたらそれだけでいいのか。また聞き手のニーズにあった話ならそれでいいのか。というと、やはりそれだけでは、「けっこうでした」「ありがたいお話でした」で終わってしまう。

 やはり、いま、ここでお話聞いている「自分」というものが問題になる、仏様の視点から自分が問われる聴き方、そして、そのきっかけになるようなご法話が大切なんでしょう。単なる感動的な話、ためになる話、知的な理解を深めるだけなら、別に真宗のご聴聞でなくてもいいわけですからね。もちろん、法話ですべてを覆うわけではないけれども、皆さんの時間をいただいている以上、大切にしていきたいですが、けっしてやすい話ではない。ただ、話し手自身も、ご法に照らし、自分を問いながら話すしかないですね。

 テーマは、オーソドックスに「自分を知る」ということで考えています。まず、迷っている自分という位置づけがないと、聞法にならないわけですら…。「こころの四つの窓」の話をする予定です。

稜季の父ちゃんさん>お久しぶりですね。いつも深いお味わいをありがとう。こちらこそ、よろしくお願いします。

 

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進んで、退き、また進む。

 昨晩は、伝道研究会。最近は、『念仏の雄叫び』の輪読ですが、今回は、華光会のホームページの検討がテーマとなりました。このところ、ぼくの中でも、またごく身近な周辺の人達においても、HPと、またはそこから派生している諸問題で、かなりいろいろな動きがおこっています。日々、変化しているといってもいいでしょう。

 特に、教義的な問題に関しては、伝道研究会でも、チェックを入れるようにお願いしました。でも簡単に進みませんでした。その方針や有り様をめぐって、さまざまな角度から、活発な討論となって、細かな点の指摘も出ましたが、同時に大きな問題点を改めて、再確認することにもなりました。違った立場からの冷静な発言も聴けて、やはり相談する意義はあったと思いました。

 ただ、文面だけを切り離して知的に討議するには、まだ生々しい未解決の問題もあり、どうしても責任を痛感された人や、責めたり-責められたりという気分になるような場面もありました。これまで主体的に関わられた皆さんの気持ちや立場を考えると、その点への配慮が十分ではなかったのかもしれないなーと反省する点もあります。

 それぞれの思いがあって、結局、結論には至りませんでした。形式的な点検ではなくて、解体するような気持ちになって、改めて見直すことは、一見すると、当初、共有し合っていた方針からの後退、もしくは転向するような感じにみえます。しかし、長い目でみると、さらによりよいものが誕生する、建設的な方向に舵が切られていく予感もしています。産みの苦しみも大変だけれども、それをしっかり育んでいくのも大変な作業ですね。まずは、問題に誠実に向き合うことしかできませんが、それがひとつの持ち味のような気がして、その意味では、ぼくのなかでは、すこし光りが見えてきた気がしています。

 でも、これも所詮、いまのぼくの気持ちにすぎません。これから、このあたりどうメンバーと共有していくのか。これからが本番です。

 今夜は、この件でお会いして話し合う約束がありましたが、キャンセルになって、結局、家内とかなり話し合いました。夫婦でしっかり会話があるのはいいのだけれど、どうしても身内なればこそ、難しい点も多々ありますね。ぼくのほうが、雰囲気としてつらくあたるというか、責める感じで接しているようで、そこが相手に伝わっていく。HP問題以外に少し時間をかけて考えていく大切な問題も含まれているのですから、丁寧に関わられないといけないのにね。少し鷹揚に構える必要もあるとはわかりながらも、どうも器が小さいのか、ここは難しいとこですわー。なかなか、なかなかですね。

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帰って来ました

Img_0141_1  1週間、温暖な沖縄で、ゆっくりとした時間を過ごしてきました。

 ケイタイを持たないというのは、一見、不便なようで、こんな時は、とてもありがたいです。しばし、電話やメールなどの雑用から解放されて、身も心も、リフレッシュ。これも、消極的なぼくの背中をおして、時間も、経費も、惜しまずに押し出してくれた連れ合いと、事務の皆さんのおかげです。ありがとう。

 で、仕事の方は、これからが本番ですが、じっさいに動いてみて、難しさも感じたのと、同時に少し方向も見えてきた気がします。これまでに華光誌に書いたものをすべて読み、特に、誌上法話の17編を要約する作業が中心でした。まとめて読んだのは初めてで、これだけでもずいぶん勉強になりました。自分なりに思い通り書けているなーと思う部分と、話のもって行き方が同じ傾向で、伝えたいポイントがどれも同じ(よく考えると当たり前で、ブレたらたいへん)で、かつ何度か同じ例えを出しているんですね。同時に、華光の先生方(伊藤先生、増井先生はそうですが、けっこう西光先生の)影響を色濃く受けている部分もよくわかりました。ただ、自分自身の信仰に至る体験的話題がないのと、華光の人向けの部分(具体的な話題とか、人名とか)などを補う必要があるとも感じました。一編、一編は独立したもので、それなりに完結していているのですが、これがまとまるとなると、前後のつながりという意味では、同じように完結している点がネックになる気もしました。ただ単に6、7編を並べるのでなく、どうつなぐのか。また華光同人にしかわらかない話題をどうするのかなど、工夫が必要だとも思いましたね。

 とにかく、いましばらくは地道な作業を続けていきます。

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