畢竟依(ひっきょうえ)
さて、今日は、今年、 最初の広島支部法座。少し前に帰ってきました。
報恩講の余韻がまだ残っています。今回は、二座担当したうち、自分なりに聞法のポイントとなるお話だと思ったので、重複する方も、2、3名おられましたが、(まったく同じ内容ではないんですが)、敢えて、同じテーマで話しました。
前半は、畢竟依-究極の、最高の依り所は何かというテーマ。結局、何か、自分の依り所になるものがないと、人生は生きては行けない。常に何かを頼りにしている。
この世に生れてきたしばらくは、それは親でしょう。親(それに代わるもの)がないと、一時として生きられない。いま、うちの子がそうですわ。特に、3歳の子などは、母親の姿がみえないと「お母ちゃん、お母ちゃん、どこ?」と探し回っている。何か悲しいことがあった、転んだり、ビックリすることがあったら、「オカーチャン!!」と号泣。「よし、よし、お父ちゃんここやで」といっても、「お父ちゃん、ちがう!! おかあちゃん!!!」と、叫んでおります。そして、「お母ゃんと結婚したい」と言ったりする。上の子が「あかんなー。女同士は結婚できひんねんで。うちは、お父ちゃんと結婚するわ」(まあこれも無理な話ですが)。とにかく、親の存在は絶対なんです。(いまは、さまざまな親-子の葛藤や歪みが、大きな社会問題に発展して、これはこれで大問題ですが)。
それが、いつのまにか変わっていく。知らぬ間に、親が疎ましい存在になってくる。友達が大事、異性が大事、恋人、連れ合い、そして自分の子供と、新しい家族と、あて頼りになる対象が変わるんです。とうとう、年老いて親は殺しにかかるようになる。こんなところに、すえとおる真実なんかないわね。しかも、家族の愛情、絆も、ちょっと歯車狂えば、愛別離苦や怨憎会苦。愛するがゆえに、時に憎み争い、また身を裂かれる苦しみも味わっていく。それでも、哀れにも、懲りずに執着していくわですがね。
他にも、自分のからだを頼りにしたり、お金や財産を頼りにしたり、自分というものを頼りにしたり、まあ名誉、地位、信念、とにかくほんとうは頼りにならないものを、いつまでも続く、いちばん大切なもの、おれのものだと執着していくわけです。しかし、薄々、それがほんとうは危なっかしいものだと感じているので、一層、強固にするために、ますます執着し、罪業を重ねていく。自分を苦しめ、他人をも巻き込んでね。ねえ、そうでしょう。どんなに大切にしていても、死んだら置いていく。離れていく。燃やしたらなくなってしまう。それが大事、大事、大事、生きがい、生きがいと、いちばん、いちばんと、欲を起こし、怒りをぶちまけ、ふり回れながら生きている。この世には何一つとして、末通っていく真実なんかないのにね。それか分からない。
まあ、狂っているわけ。 実は、その罪業の姿も問題だけれども、大問題は、ほんとうのことがわからないこと。つまり、そんなふうに自分が狂っている、迷っているということがわからない-「無明」の存在なわけでしょう。これが迷いの元。ほんとうのことかほんとうとわからない。智慧がないわけ。それゆえ、また迷っていくわけです。
ここを聴かせてもらわないと、聞法にならないですね。「浅ましい自分」のところも大事ですが、実はそれすらわからない自分を知らせてもらえるわけです。
ゴチャゴチャしてきました。やっぱり疲れてますわ。後半は、四依(しえ)について話しましたが、また別の機会に。 法座あとで、広島の義姉に会って「ボイス・トレーニング」を体験してきました。初めてのことなので、ちょっと緊張もしましたが、いろいろと勉強になりました。
| 固定リンク
「法座と聞法」カテゴリの記事
- 京都支部法座~2月の連続法座(6)(2024.02.23)
- 第3回「長命の集い」2日目~2月の連続法座(5)(2024.02.21)
- 第3回「長命の集い」初日~2月の連続法座(4)(2024.02.20)
- 久しぶりの広島法座~2月の連続法座(3)(2024.02.19)
- 華光誌輪読は「同人さん…」~2月の連続法座(2)(2024.02.18)
コメント