« 半年経ちました | トップページ | 捨てるのは難しいな »

畢竟依(ひっきょうえ)

  さて、今日は、今年、 最初の広島支部法座。少し前に帰ってきました。

報恩講の余韻がまだ残っています。今回は、二座担当したうち、自分なりに聞法のポイントとなるお話だと思ったので、重複する方も、2、3名おられましたが、(まったく同じ内容ではないんですが)、敢えて、同じテーマで話しました。

  前半は、畢竟依-究極の、最高の依り所は何かというテーマ。結局、何か、自分の依り所になるものがないと、人生は生きては行けない。常に何かを頼りにしている。

この世に生れてきたしばらくは、それは親でしょう。親(それに代わるもの)がないと、一時として生きられない。いま、うちの子がそうですわ。特に、3歳の子などは、母親の姿がみえないと「お母ちゃん、お母ちゃん、どこ?」と探し回っている。何か悲しいことがあった、転んだり、ビックリすることがあったら、「オカーチャン!!」と号泣。「よし、よし、お父ちゃんここやで」といっても、「お父ちゃん、ちがう!!   おかあちゃん!!!」と、叫んでおります。そして、「お母ゃんと結婚したい」と言ったりする。上の子が「あかんなー。女同士は結婚できひんねんで。うちは、お父ちゃんと結婚するわ」(まあこれも無理な話ですが)。とにかく、親の存在は絶対なんです。(いまは、さまざまな親-子の葛藤や歪みが、大きな社会問題に発展して、これはこれで大問題ですが)。

  それが、いつのまにか変わっていく。知らぬ間に、親が疎ましい存在になってくる。友達が大事、異性が大事、恋人、連れ合い、そして自分の子供と、新しい家族と、あて頼りになる対象が変わるんです。とうとう、年老いて親は殺しにかかるようになる。こんなところに、すえとおる真実なんかないわね。しかも、家族の愛情、絆も、ちょっと歯車狂えば、愛別離苦や怨憎会苦。愛するがゆえに、時に憎み争い、また身を裂かれる苦しみも味わっていく。それでも、哀れにも、懲りずに執着していくわですがね。

他にも、自分のからだを頼りにしたり、お金や財産を頼りにしたり、自分というものを頼りにしたり、まあ名誉、地位、信念、とにかくほんとうは頼りにならないものを、いつまでも続く、いちばん大切なもの、おれのものだと執着していくわけです。しかし、薄々、それがほんとうは危なっかしいものだと感じているので、一層、強固にするために、ますます執着し、罪業を重ねていく。自分を苦しめ、他人をも巻き込んでね。ねえ、そうでしょう。どんなに大切にしていても、死んだら置いていく。離れていく。燃やしたらなくなってしまう。それが大事、大事、大事、生きがい、生きがいと、いちばん、いちばんと、欲を起こし、怒りをぶちまけ、ふり回れながら生きている。この世には何一つとして、末通っていく真実なんかないのにね。それか分からない。

まあ、狂っているわけ。 実は、その罪業の姿も問題だけれども、大問題は、ほんとうのことがわからないこと。つまり、そんなふうに自分が狂っている、迷っているということがわからない-「無明」の存在なわけでしょう。これが迷いの元。ほんとうのことかほんとうとわからない。智慧がないわけ。それゆえ、また迷っていくわけです。

ここを聴かせてもらわないと、聞法にならないですね。「浅ましい自分」のところも大事ですが、実はそれすらわからない自分を知らせてもらえるわけです。

ゴチャゴチャしてきました。やっぱり疲れてますわ。後半は、四依(しえ)について話しましたが、また別の機会に。 法座あとで、広島の義姉に会って「ボイス・トレーニング」を体験してきました。初めてのことなので、ちょっと緊張もしましたが、いろいろと勉強になりました。

|

« 半年経ちました | トップページ | 捨てるのは難しいな »

法座と聞法」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 畢竟依(ひっきょうえ):

« 半年経ちました | トップページ | 捨てるのは難しいな »