捨てるのは難しいな
今日は、最初、オフにして映画2本の予定だったけれど、けっこう疲れていましたので、逆に子供のお迎え以外は、家で作業をすることにしました。ちょっと事務作業も溜まっていますしね。
いまは、「同人会ニュース」の作製をしています。中心は、伊藤先生の昔の原稿を載せる作業。いまの言葉や漢字の使い方に改めるところがあったり、昔のニュアンスを残すほうがよかっと思うと、そのままにしています。
「赤尾の道宗さん」の話題。有名なエピソードですが、奥さんとの京都参拝にでかけたときの財布(銀子)を捨てる話が、改めて聴かせてもらったきがします。紹介します。
「…女の旅は心が忙しい。着物はどれにしよう、あれにしよう。ヘソクリ金を留守中に盗まれては惜しいから、腹巻に隠さねばならぬ。その金で京都へ行けば、あれも欲しいこれも欲しい、親類の土産、下女の心付等々と考えながら、道宗共に家を出て、赤尾村から二里ばかり離れた小瀬峰峠にさしかかった。
「もし旦那様。この頃は世の中が物騒で盗賊が旅人を裸にするという噂ですが、さようなことはないでしょうか」
「それはあるな。私なんか何度も盗人に出会ったが、裸一つだけは残してくれるな」
「わたしどうしましょう。腹巻に銀子を用意しているのですが…」
「それは危ない。盗人は金のある人とない人とは、顔色を見ただけですぐにわかるものだ。奪われて泣く前に、この峠の道に捨てなさい─それとも銀子が欲しいのならば、赤尾へ帰ることだな。まだ日も早いでないか」
「いや。せっかくここまで来たのだから、京へまいります。それではこの金は?」
「私は少年の頃に、金一文も持たず三日二夜は飲まず食わずでまいった。念仏者は、身も心も裸にならねば、法は聞けぬ。誰かが拾うて喜ぶだろうから、娑婆の執着の金はさっぱりと捨ててしまいなさい」
妻は泣く泣く銀子を紙に並べて、峠の通り道に置いた。そうして後をふり返りつつ道を急いだ。小瀬峰峠を越えて二つ屋に来たところ、
「もうあの銀子は、誰かが拾ったでしょうか」
「誰もひろわぬが、お前が拾っている」
「私は捨てたではありませんか」
「…というのが拾っている証拠だ。道理 であなたの口から、一口の念仏も出ていない」
往年の道宗は母を縁として救われ、道宗の妻は、銀子を縁として救われた。各人のご縁は不思議である。』
「念仏者は、身も心も裸にならねば、法は聞けぬ。」そうですよね。捨てないと、入ってはこない(=聞けない)ですのもね。捨てた、捨てたといっても形だけ。こころのなかに、いつまでも「われのもの」と執着している凡夫の姿が、ここにありますものね。なかなか、執着の塊ですから、お金だけではないわ。自分の獲た地位も、知識も、信念も、はたまた自力の執心も、いったん身につけたものを捨てるのは、難しい。
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