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和顔愛語の南無阿弥陀仏 

 昔から、いつまでもクヨクヨと悩むタイプである。同時に、幼いころから、強迫観念的に、完璧にやることを求められてきて、イライラしながら無理してきた気もする。いい意味での「いい加減さ」が必要だったのであろう。

 あくまで、その背景のひとつだが、一般家庭では味わえないほどの、皆様からの温かいご支援をいただき、とても恵まれた助力をいただいて育ってていただている。同時に、いい意味でも、悪い意味でも、他人の目を意識さぜるをおえないのも事実だった。

 それにしても、自分自身も含めて、自分の感情や、他人の感情(当然、そこから出る言葉や、滲み出る態度)に、かなり過敏に反応して、傷つくことが多い気がする。その意味では、感受性が豊かなのは結構だが、あまりに敏感すぎるのも、社会に適応するには、難しい時代に活きいてる。豊かな感受性と同時に、ある種の「鈍感力」というのもが、必要な場面が多い。身近な人間関係ではなおさらである。

 また、その自分の感情の出し方も、難しい。確かに、カタルシス的な効果もあるのだろうが、なかなか自分の本心や気持ちを表出しずらい社会でもある。最近、「思い切り泣ける映画が観たい」といった若者がいたが、「泣ける」とか「感動もの」といった、本や映画に人気が集まるのも、外からの刺激による感情の表出に飢えている面があるのかもしれない。ところが、これも出し方や、その状況、場所によっては、かなり留意が必要だ。いわば、感情のホメオスタシス、調整機能がうまく作動することが大切である。確かに、自己開示は大切なことだけれども、いつでもどこでも開き放しでは、危険このうえないし、他人をも巻き込みかねない。かといって、あまりにも閉じ放しでは、これまたしんどい話である。いつ「開き」、いつ「閉じる」か。大方の場合、「閉じ放し」で、突然、過激(過剰に)開き出して、自分も相手も傷つけて、自己嫌悪に陥り、さらに頑に「閉じ切って」しまう、極端なコミュニケーションをとるケースも多くなっている。たぶん、「きれやすい」のは子供や若者ばかりではない。いい大人だって、けっこう苦しんでいるようだ。

 正体のわからない何か大きな力に、常に追われ、抑圧されて、ビリビリしたムードが漂っている。ヒストリックな社会、過敏症で、監視され、少しの失敗も許されない社会の空気が蔓延し、すさんだ、荒い言葉が、ぽくたちを包んでいる。家庭も、学校も、職場も、地域もそうだ。ほんとうに自分に立ち返る、こころ安らぐ時間や場所はどこにあるのだろうか。

 臨終の一念までこの煩悩具足の身は直らない。しかし一方、広大な願いに生かされて、温かい光りに包まれているこの身に、なにかできることはないのだろうか。走るだけではなく、立ち止まってみる余裕すらないのだろうか。自分の思い通りに、子供や家族や、周りを支配するのではなく、ゆっくりと周りの人達を見回してみる。それが正しいと思うことであっても、自分の感情に振り回されて、怖い顔をして、大きな声をだし、弱い相手にぶつけていた、ある種、甘えていた自分が恥ずかしく思うこともある。

「和顔愛語-表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲みとって、よく受け入れ、雄々しく努めて励んで少しも怠ることがあった。

 自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになり、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた。」

 法蔵菩薩のご修行の一旦はこうである。こうして完成した、南無阿弥陀仏。称名念仏を怠っている自分こそが、いちばんの獅子身中の虫なのかもしれないなー。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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コメント

感動した。

投稿: ねこ丸 | 2007年1月28日 (日) 02:12

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