愛別離苦
今年の三ケ日は、わりと静かでした。お参りは修正会に集中したので、3カ日に年始の同人もなく、訃報以外は電話もありませんでした。妻と子供たちは帰省中。4日間、ちょっとノンビリ、独身生活です。今日は、初自力と初映画(『上海の伯爵夫人』-これも喪失と再生のロマンス、メロドラマだった)。
自力整体。やっぱり自力の執心が抜けないのか。いえいえ、「からだ」の声を聞いてきました。からだってほんとうに正直ものですね。やっぱり無理をすると、強張りや硬さになって出てきます。暴飲暴食も元凶。欲望のままに生きることは、自分も損ない、他人をも蝕むことなんですね。お釈迦さまって、ほんとすごいわー。でも、分かっていてもやめらないのが凡夫だと見抜かれた親鸞さまも、またすごい。
さて、「おめでとうございます」の裏には寂しげな方もあった。年末に、突然、配偶者が急逝された方。まだ50歳台。とても元気、病気とも無縁だと思ったしたのに、ランニング中に突然の発症で、急逝。仏教で問題にする無常は、自分自身の身について、いわば一人称です。でも、もうひとつ、身近な家族(子供や配偶者だったり、親だったり)、とくに、突然の事故や病気のように、一見不条理(もちろん、仏教にはそんな死はない。あくまで因果の道理にもとづき、常に無常であり、無我の存在なのですが、まあ、いまは世間体ね)な死ほど、受け入れ難く、同時に悲嘆の大きなものはない。自分自身を苛み、怒りに苦しみ、時には新たな悲劇を生み出すケースも少なくはない。
肉親の死を前に、勇猛であるのは賢善精進の虚仮の姿。ほんとは、「愚かで、拙なげにして、歎き悲しむ」のが凡夫の真の姿だと、親鸞さまも、温かいまなざしでおっしゃっている(口伝抄)。悲しいものは悲しい。わが身を引き裂かれるほどつらいものはつらい。でもね。それでお終いではない。もうひとつ奥を聞かせてもらえるのが、この浄土真宗の聞法。そこにかかっている、ご本願を聞かせてもらわないと、これまた迷いの悲しみ、苦しみを果てし無く繰り返すだけ。この二人称の死の事実こそ、自分の死を問題にする上でも、また愛別離苦の現実を直視する上でも、また喪失からの新たな再生をし、成長する(または聞法の契機となる)意味でも、これほど大きなご催促はないのだが、現実は一足飛びにはいきませんわ。一歩、一歩寄り添っていかせてもらうしかない。きっとご縁ができますようにと願って止みません。
フィオリナさん>聞法進んでますか。輪読の華光誌は、ぼくの『不思議の中の不思議』というやつでしょうかね。
ネコ丸さん>今年もよろしく。そのとおりです。さすがよくわかりますね。皆さんの様子は、制約があるのでちょっと難しいですが、雰囲気だけでもね。
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