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2007年1月の25件の記事

涙に宿る仏

 昨日は、一言でいうと、「ゆれる」一日。話す相手によって、その思いに巻き込まれて、ゆれに、ゆれていた。感傷的で、巻き込まれやすい自分。仏青の人達と穏やかに話し合って、気も晴れる。「で、あなたどうなの?」と問われると、「そうだろなー。みんな、大切で、信頼できる人達だなー。仲良く、笑顔でやっていきたいなー」。グルグル回って、最後は、うまい具合に先生に話をきいてもらうことになる。不思議なご縁。少し落ち着いてきた。当面の着地点も分かってきたのかなー。さっそく、そのあたりで動いていく。

 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」、ゆっりくと、長くお念仏させてもらう。

 ほんの少し留守にします。なにかいいものか生れればいいし、気分をかえてきます。

 しばらくブログもメールもおやすみ。

涙には、涙に宿る仏あり。その御仏を法蔵という。」(木村無相師)

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書初展ありました

Img_0033_1 書初展ありました。

ちょっと雰囲気だけでも、ご覧ください。

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和顔愛語の南無阿弥陀仏 

 昔から、いつまでもクヨクヨと悩むタイプである。同時に、幼いころから、強迫観念的に、完璧にやることを求められてきて、イライラしながら無理してきた気もする。いい意味での「いい加減さ」が必要だったのであろう。

 あくまで、その背景のひとつだが、一般家庭では味わえないほどの、皆様からの温かいご支援をいただき、とても恵まれた助力をいただいて育ってていただている。同時に、いい意味でも、悪い意味でも、他人の目を意識さぜるをおえないのも事実だった。

 それにしても、自分自身も含めて、自分の感情や、他人の感情(当然、そこから出る言葉や、滲み出る態度)に、かなり過敏に反応して、傷つくことが多い気がする。その意味では、感受性が豊かなのは結構だが、あまりに敏感すぎるのも、社会に適応するには、難しい時代に活きいてる。豊かな感受性と同時に、ある種の「鈍感力」というのもが、必要な場面が多い。身近な人間関係ではなおさらである。

 また、その自分の感情の出し方も、難しい。確かに、カタルシス的な効果もあるのだろうが、なかなか自分の本心や気持ちを表出しずらい社会でもある。最近、「思い切り泣ける映画が観たい」といった若者がいたが、「泣ける」とか「感動もの」といった、本や映画に人気が集まるのも、外からの刺激による感情の表出に飢えている面があるのかもしれない。ところが、これも出し方や、その状況、場所によっては、かなり留意が必要だ。いわば、感情のホメオスタシス、調整機能がうまく作動することが大切である。確かに、自己開示は大切なことだけれども、いつでもどこでも開き放しでは、危険このうえないし、他人をも巻き込みかねない。かといって、あまりにも閉じ放しでは、これまたしんどい話である。いつ「開き」、いつ「閉じる」か。大方の場合、「閉じ放し」で、突然、過激(過剰に)開き出して、自分も相手も傷つけて、自己嫌悪に陥り、さらに頑に「閉じ切って」しまう、極端なコミュニケーションをとるケースも多くなっている。たぶん、「きれやすい」のは子供や若者ばかりではない。いい大人だって、けっこう苦しんでいるようだ。

 正体のわからない何か大きな力に、常に追われ、抑圧されて、ビリビリしたムードが漂っている。ヒストリックな社会、過敏症で、監視され、少しの失敗も許されない社会の空気が蔓延し、すさんだ、荒い言葉が、ぽくたちを包んでいる。家庭も、学校も、職場も、地域もそうだ。ほんとうに自分に立ち返る、こころ安らぐ時間や場所はどこにあるのだろうか。

 臨終の一念までこの煩悩具足の身は直らない。しかし一方、広大な願いに生かされて、温かい光りに包まれているこの身に、なにかできることはないのだろうか。走るだけではなく、立ち止まってみる余裕すらないのだろうか。自分の思い通りに、子供や家族や、周りを支配するのではなく、ゆっくりと周りの人達を見回してみる。それが正しいと思うことであっても、自分の感情に振り回されて、怖い顔をして、大きな声をだし、弱い相手にぶつけていた、ある種、甘えていた自分が恥ずかしく思うこともある。

「和顔愛語-表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲みとって、よく受け入れ、雄々しく努めて励んで少しも怠ることがあった。

 自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになり、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた。」

 法蔵菩薩のご修行の一旦はこうである。こうして完成した、南無阿弥陀仏。称名念仏を怠っている自分こそが、いちばんの獅子身中の虫なのかもしれないなー。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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きっといいものができる

 「明日へのチケット」と、「イカとクジラ」の映画と映画の合間に、家内とランチをした。相談したいことがあった。いま、ちょっとドキドキしていることがある。毎年、出版計画を相談するが、どうも自分のものになると二の足を踏んでいた。一方、年々、周りのさまざまな皆さんからから、法話集の出版をお勧めをくださる声が大きななってきた。他人には勧められるのに、自分のことになると時機尚早ではと、消極的な気分になりがちだ。今回、大きくお尻を押してもらうことになった。どんなものになるのか、どんな形になるのかは分からないけれど、まずは、何かを実現させることが大切だということである。全面的に、ぼくを信じて、そのために時間や、お金を惜しまず、押し出してくれる彼女の信頼と、その包容力が有り難かった。プレッシャーや責任感を感じつつも、同時に、それを楽しむ勇気をもらったかもしれない。いいものができる気がする。

 夜は、初めてM先生(よく考えると華光はM先生ばかりだなー)と二人で飲んだ。いろいろと刺激をもらった。ぼくは、その大方が華光にしか基盤がないので、大学や研究等で活躍されている先生の声を聴かせてもらうことは、知的好奇心を刺激される。同時に、自分自身の役割を認識させてもらえる。第一、話していて楽しい。これがいちばんいい。世間のような接待やお付き合いにはない、温かさを強く感じた。ご法をことでは通じ合えることがいちばんうれしい。楽しかったなー。

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『明日へのチケット』と『イカとクジラ』

 昨日は、月曜日の振り替えで、映画を見にいた。「明日へのチケット、「イカとクジラ」。特に、「イカとクジラ」はよくできていた。知的階級に属する離婚した家庭の、コミニケーションの不全、特に、その両親の葛藤のストレスに巻き込まれた子供たちの姿が、とても自然に、リアルに描かれていた。なんともコミカルなタイトル(原題も同じ)と裏腹に、シリアスで、ときに辛辣で、ときに痛いほどの傷つけあう家庭を描いているが、このタイトルがとても大きな意味をもっていた。これは、楽しい映画ではないけれど、完成度は高い。お勧め度も高い。

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今日の仕事

 珍しく、高齢の方の相談が入った。年齢に関わらず、人生に悩み事は尽きない。また年齢に伴って、心配の中身も変わっていく。今回は、一般の「僧侶」としての知識が必要なケースだったが、どんな場合でも、できるだけ丁寧に聞いていこうと思うが、それが伝わるだけでも、安心感が生れるようだ。たまには、外の空気を吸って気分展開にもなるし、話し相手になってもらえたことを喜んで帰られた。

 少し手直しした同人会ニュースの発送は若い人にまかせて、所轄官庁である京都府に提出する、宗教法人の役員や会計に関する書類を作製した。総会から4ケ月以内の提出が義務づけられている。この法律は、例のオウム事件以降、世論の後押しで成立したものである。宗教界からは、反発の声もある。罰則規定もあるが、以前は、提出拒否している法人もあったが、現状のところではどうなのだろうか。国家権力による、宗教への介入の前兆となるなどの危惧があるのだが、一方で、オウム事件の大暴走の後だっただけに、すんなりと受け入れられた面もある。現実は、難しい問題が横たわっている。

 子供のお迎えの後は、悟朗先生たちを交えて、来年度の法座の行事の確認を、ゆっくりとした。高齢にもかかわらず、ご法を活力に、まだまだ一線での活躍され、また皆様からも、ご支援いただいていることが、ほんとうに有り難い。報恩講で初めてお参りされた皆さんからの、感動的なお手紙もいくつか読ませていただいた。

 夜は、事務連絡会議。仏青、日礼、広報、テープ、書籍、会計、事務一般の責任者が顔を合せて、現状と、問題点などを分かち合う。いわゆる「ほう・れん・そう」であると同時に、問題をひとりの人が抱え込むのではなく、みんなで共有する場にしたいのである。

 初めて、ちょっと組織らしいことができるようになった。ここ10年のことを考えると、万感思いがあるといえば、大げさなようだけれども、それに近い。ほとんどひとりでやっていたことを、こうして分かち合えるようになっただけでも、素晴らしいのだ。当然、ぼく自身の仕事の内容も変わってきたし、その分、違った責任が生じている。仕事として働いている人も、ご恩報謝としてお願いしている人も、それぞれであるが、みんなの願いはひとつ。このお念仏をいかに自分が聴かせていただくのか。そしてその歓びをいかに、他の人達に分かち合えるのか。建前ではなく、純粋にそこで心をひとつにし、分かち合える人達を得たことが、ほんとうにうれしい。もちろん、課題も明らかになるし、当面の抱えている問題あるが、ひとりではなく、有機的に連帯していることが確認できただけでも、ずいぶん力をいただける。グズグズなんか思ってられないや。

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ボイス・トレーニング

 広島の法座が終わったあと義姉を訪ねた。繁華街を抜け、球場前、原爆ドームの前を通って、車で15分足らずだった。

 マン・ツー・マンで、「ボイス・トレーニング」を受けるためである。正月の帰省時に、一足早く試してきた家内の勧めで、すぐに飛びついた。昔のぼくなら考えられないほど積極的になったものである。これまでは初の体験をする前は、楽しみよりも不安を覚えるタイプ。ましてや、一対一で、しかも苦手な分野の体験。でも、最近は、未知なものにも、少しは楽しもうという余裕ができてきた。自分の変わりように、自分でも驚く。

 自分の声、嫌いだなー。世間の人よりも、テープから聞こえて来る自分の声を聞く機会が多少は多いが、どうも苦手だ。ましてや、正確な発音をしているかなど、これまで強く意識したことはない。ゆっくり話すとか、大きな声で話す程度の注意は払ってきたが、それより、話の内容のことばかりにウェイトを置いてきたと思う。しかし、これだけでは、不十分かもしれない。

 レイビアンによると、言葉によるコミニケーションにおいて、伝達されるものは、言語(バーバル)的なコミニケーションは、たったの7%! 残りの93%は、非言語(ノン・バーバル)的なコミニケーションである。そのうち、「音声の特徴」が、38%も占め、「表情や、手振り、動作」などの外観が、55%というから、いかに、声や、姿勢、態度が大切かというのである。たしかに、話を聞くときも、内容だけを聞いているのではない。表情や、声質や、言葉の端にあるためいきや、ときには沈黙のほうが、強く伝ってくることがある。

 それに、自分の話の内容にしても、メモや文章にすれば、多少、客観的にみることができる。しかし、話している声、姿勢、態度になると、ビデオに撮って細かくチャックしないかぎり、なかなか自分のものを知ることは難しい。逆に、他人の姿や話し方は、実によく分かる。よい例はもちろん、悪い例も、自分自身の鏡、先生になるのだ。「人のふりみて、我がふり直せ」といわけであるが、ここを意識すれば、教材はそこかしこにある。

  それなことを考えながら、緊張気味に事務所を訪ねた。これがびっくりするほど、いまの自分にビッタリした内容だった。単なる「声」のトレーニングではない。まずは、正しい姿勢から始まる。力みのない、自然体で、歪みのない姿勢こそが、楽で、きれいなからだを生み、それは外側だけでなく、内蔵もあるほんらいある場所にきっちりおさまっていくという。正しい立ち方、座り方、歩き方、天と地の気を受け取ることができる自然体からしか、ほんとうの「声」はなでいということだった。「声」-いま自分そのものである。その意識の改革から始める必要がある。常に、自分の正しい、自然体の姿勢を意識していく。これは単なる発声法ではないなー。相手に届く声、オーラのある、聞き手を包み込むような声こそが、本来の自分自身の声を取り戻すという、かなり魅力的なものだった。毎日、10分程度、100日間、まずは簡単なレッスンを始めてみよう。それは同時に、自分の耳を鍛えることにもなるという。自分の声を聞き分ける。相手の声の響きを聞くだけで、そのこころや気持ちもが、そこに込められている、現れて来ることまで、聞き分けることができるそうだ。「声」意識することで、「耳」までよくなるわけだ。

 さて、1年後、どんな変化があるのか、ないのか。それとも途中で終わってしまうか。来月も広島法座の後のレッスンの約束もしてきた。さてさて、乞、ご期待である。

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捨てるのは難しいな

 今日は、最初、オフにして映画2本の予定だったけれど、けっこう疲れていましたので、逆に子供のお迎え以外は、家で作業をすることにしました。ちょっと事務作業も溜まっていますしね。

 いまは、「同人会ニュース」の作製をしています。中心は、伊藤先生の昔の原稿を載せる作業。いまの言葉や漢字の使い方に改めるところがあったり、昔のニュアンスを残すほうがよかっと思うと、そのままにしています。

 「赤尾の道宗さん」の話題。有名なエピソードですが、奥さんとの京都参拝にでかけたときの財布(銀子)を捨てる話が、改めて聴かせてもらったきがします。紹介します。

「…女の旅は心が忙しい。着物はどれにしよう、あれにしよう。ヘソクリ金を留守中に盗まれては惜しいから、腹巻に隠さねばならぬ。その金で京都へ行けば、あれも欲しいこれも欲しい、親類の土産、下女の心付等々と考えながら、道宗共に家を出て、赤尾村から二里ばかり離れた小瀬峰峠にさしかかった。
 「もし旦那様。この頃は世の中が物騒で盗賊が旅人を裸にするという噂ですが、さようなことはないでしょうか」
 「それはあるな。私なんか何度も盗人に出会ったが、裸一つだけは残してくれるな」
 「わたしどうしましょう。腹巻に銀子を用意しているのですが…」
 「それは危ない。盗人は金のある人とない人とは、顔色を見ただけですぐにわかるものだ。奪われて泣く前に、この峠の道に捨てなさい─それとも銀子が欲しいのならば、赤尾へ帰ることだな。まだ日も早いでないか」
 「いや。せっかくここまで来たのだから、京へまいります。それではこの金は?」
「私は少年の頃に、金一文も持たず三日二夜は飲まず食わずでまいった。念仏者は、身も心も裸にならねば、法は聞けぬ。誰かが拾うて喜ぶだろうから、娑婆の執着の金はさっぱりと捨ててしまいなさい」
 妻は泣く泣く銀子を紙に並べて、峠の通り道に置いた。そうして後をふり返りつつ道を急いだ。小瀬峰峠を越えて二つ屋に来たところ、
 「もうあの銀子は、誰かが拾ったでしょうか」
 「誰もひろわぬが、お前が拾っている」
 「私は捨てたではありませんか」
 「…というのが拾っている証拠だ。道理 であなたの口から、一口の念仏も出ていない」

往年の道宗は母を縁として救われ、道宗の妻は、銀子を縁として救われた。各人のご縁は不思議である。』

「念仏者は、身も心も裸にならねば、法は聞けぬ。」そうですよね。捨てないと、入ってはこない(=聞けない)ですのもね。捨てた、捨てたといっても形だけ。こころのなかに、いつまでも「われのもの」と執着している凡夫の姿が、ここにありますものね。なかなか、執着の塊ですから、お金だけではないわ。自分の獲た地位も、知識も、信念も、はたまた自力の執心も、いったん身につけたものを捨てるのは、難しい。

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畢竟依(ひっきょうえ)

  さて、今日は、今年、 最初の広島支部法座。少し前に帰ってきました。

報恩講の余韻がまだ残っています。今回は、二座担当したうち、自分なりに聞法のポイントとなるお話だと思ったので、重複する方も、2、3名おられましたが、(まったく同じ内容ではないんですが)、敢えて、同じテーマで話しました。

  前半は、畢竟依-究極の、最高の依り所は何かというテーマ。結局、何か、自分の依り所になるものがないと、人生は生きては行けない。常に何かを頼りにしている。

この世に生れてきたしばらくは、それは親でしょう。親(それに代わるもの)がないと、一時として生きられない。いま、うちの子がそうですわ。特に、3歳の子などは、母親の姿がみえないと「お母ちゃん、お母ちゃん、どこ?」と探し回っている。何か悲しいことがあった、転んだり、ビックリすることがあったら、「オカーチャン!!」と号泣。「よし、よし、お父ちゃんここやで」といっても、「お父ちゃん、ちがう!!   おかあちゃん!!!」と、叫んでおります。そして、「お母ゃんと結婚したい」と言ったりする。上の子が「あかんなー。女同士は結婚できひんねんで。うちは、お父ちゃんと結婚するわ」(まあこれも無理な話ですが)。とにかく、親の存在は絶対なんです。(いまは、さまざまな親-子の葛藤や歪みが、大きな社会問題に発展して、これはこれで大問題ですが)。

  それが、いつのまにか変わっていく。知らぬ間に、親が疎ましい存在になってくる。友達が大事、異性が大事、恋人、連れ合い、そして自分の子供と、新しい家族と、あて頼りになる対象が変わるんです。とうとう、年老いて親は殺しにかかるようになる。こんなところに、すえとおる真実なんかないわね。しかも、家族の愛情、絆も、ちょっと歯車狂えば、愛別離苦や怨憎会苦。愛するがゆえに、時に憎み争い、また身を裂かれる苦しみも味わっていく。それでも、哀れにも、懲りずに執着していくわですがね。

他にも、自分のからだを頼りにしたり、お金や財産を頼りにしたり、自分というものを頼りにしたり、まあ名誉、地位、信念、とにかくほんとうは頼りにならないものを、いつまでも続く、いちばん大切なもの、おれのものだと執着していくわけです。しかし、薄々、それがほんとうは危なっかしいものだと感じているので、一層、強固にするために、ますます執着し、罪業を重ねていく。自分を苦しめ、他人をも巻き込んでね。ねえ、そうでしょう。どんなに大切にしていても、死んだら置いていく。離れていく。燃やしたらなくなってしまう。それが大事、大事、大事、生きがい、生きがいと、いちばん、いちばんと、欲を起こし、怒りをぶちまけ、ふり回れながら生きている。この世には何一つとして、末通っていく真実なんかないのにね。それか分からない。

まあ、狂っているわけ。 実は、その罪業の姿も問題だけれども、大問題は、ほんとうのことがわからないこと。つまり、そんなふうに自分が狂っている、迷っているということがわからない-「無明」の存在なわけでしょう。これが迷いの元。ほんとうのことかほんとうとわからない。智慧がないわけ。それゆえ、また迷っていくわけです。

ここを聴かせてもらわないと、聞法にならないですね。「浅ましい自分」のところも大事ですが、実はそれすらわからない自分を知らせてもらえるわけです。

ゴチャゴチャしてきました。やっぱり疲れてますわ。後半は、四依(しえ)について話しましたが、また別の機会に。 法座あとで、広島の義姉に会って「ボイス・トレーニング」を体験してきました。初めてのことなので、ちょっと緊張もしましたが、いろいろと勉強になりました。

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半年経ちました

ブログを初めて、6ケ月が経過しました。この半年での累計のアクセス数も20,000件を超えました。最初、「読んでくれる人があるのかなー」とか、「こんなのでいいのかなー」と、半信半疑だった部分もあったけれど、意外な方からお声をかけていただくようになり、皆さんにも、ずいぶん励まされています。なによりも、この間、ご贔屓にしてくださる方が多かったことが、とても有り難いです。これからもよろしくお願いします。( ̄人 ̄)合掌...

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問題はぼく自身のところ

Img_0031  昨日は、同人会ニュースの作製を始めたが、夕方、子供のお迎えもかねて、気分、転換にカットに出かけた。長女の幼稚園の関係から、急に家族ぐるみのお付き合いになったので気楽である。あれこれ、お互い愚痴をこぼしながら、ついでに華光誌の新年号を渡してきた。短く髪を切ってもらうと、すっきりした気分である。ついでに、飾ってもらっている家内の絵も撮影させてもらった。なかなかいいでしょう。

 その足で、華光の新年会にでかけた。日頃お世話になっている伝道研究会の先生方や事務の皆さんと会食した。その後、二次会は、テーブルの都合で、3名、4名になった。MAUN.さんとM先生とご一緒した。おかげで、ぼく自身のところを聴いていただけた。このところ、すごく前向きな自分がいる。いろいろと積極的に新しいことにもチャレンジしている。人間関係もおおむね良好で、気分的にも張り切っている。でも、一方で、左の腹あたりにひっかかりというか、モヤモヤした感じが付きまとっている。ほぼ解決はしているが、まだ引き付いてる2、3の問題があるのだ。報恩講から、ちょっとそこがグーと意識されるようになってきた。3人でそれぞれ意見交換をしあったり、先生のお話を聴かせてもらったりしていた。自分のことに触れているうちに、さすがに号泣することはなかったけれど、グーと響くものがあった。自分自身の中なかのなにかに触れる気づきが起こる。これは、長年もっていた、そして取り組んでいるぼく自身の課題(テーマ)であり、特に11月から、個人的に12月ごろ、そして1月と、ごく狭い範囲でおこってきた問題に触発されて、出てきたぼく自身の課題である。

 具体的には、ちょっと触れ難いけれど、とにかくいままで生きてきた歩みは、華光という看板と、飾りのない自己自身との分け難い葛藤のようなものがある。ここ数年、長期的には、このテーマを課題として、悩みながらも、かなり克服してきたり、歩むべき方向性が見えてきたけれど、短期的には、やはりまだここに触れられると、しんどいものがある。外に問題があるのではない。その問題を縁とした、自分自身の課題があるから、そこに巻き込まれて悩むのであろう。(でも、自分自身のことがいちばん分からないものなー)

 一旦、起こってしまったコミニケーションを、元には戻せない。時計のハリは戻らないのだ 。なかったことにしたくても、出来ない。これがコミニケーションの鉄則だ。でも、新たなコミニケーションを結ぶことは出来る。それが、新たなよりよい方向に進むのであれば、こんな素晴らしいことはない。そのためには、時間もかかるかもしれないし、難しい点もたくさんある。関係が、一見、修復が不可能に見えることもあろう。一時的には、距離が必要なケース、後退にうつることもある。

 それでも、もし相手が信頼にとる人だと思うのなら、自分の成長の糧に、なにかを気づかせていただける、ご法を味わえる方になればいいと思っている。今回のことで、多岐ににわたって、ぼく自身もずいぶん教えられたが、何よりも、自分の自身の課題に触れられたことがいちばんよかった。(確かにこれ以上の厄介はゴメンだけどね)

 M先生から真宗カウンセリングを受けながら、その場の支払いは割り勘という、まったくもって有り難いことだった。

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意馬心猿~わが心にあきれていたが…~

  先月に引き続き、今月もご縁があって、スダルシャン・クリヤー呼吸法に出かけた。

 ヨガでからだをほぐしたあと、ロングの呼吸法に入る。不思議なもので、からだは静かにしているのに、こころはキョロキョロしっぱなしだ。その場でない、過去の思いや、そこにいない人に対しても、さまざまな思いや感情が絶え間なく出て来る。過去をクヨクヨ思い、未来を不安がる。おい、いまの自分は、どこにいるんだ! ほんとうにあきれるな。少しも静まることのないわが心は、まさに「意馬心猿」のたとえどおり。それでも、過度にとらわれることなく、また無理に抑え込むのでも、その感情や思いを否定するのでもなく、畏れずにその思いにまかせながら、こころを見つめて、呼吸を続けていた。過去のそれぞれの場面や言葉と共に、怒りのこころ、腹立ちのこころ、不安のこころ、嫉妬のこころが、ほんとうに絶え間ない。すると、その彼方に、傷つき、おびえ、震えている「子鹿」のような自分が、スーゥと明らかになってきた。と同時に、静かに一筋の涙が流れ出て、温かいものに包まれた。静かに短くお念仏させてもらった。

 毎回、違う体験がある。一回限り。今回は、疲れていたのか、ノリがいま一つ。激しいものはなにもなく、わりと静かな体験だった。

 さて、煩悩-「煩は、身をわずらはす」。「脳は、心をなやます」と、聖人は仰るが、まさに、この煩悩(感情)のために、わが身も、心も悩まされ、また周りの人達も巻き込んみ、迷いを繰り返してきたのだ。真実の南無阿弥陀仏に出会い、この迷い根切れをしないかぎり、苦しみからは逃れられないのが、浄土真宗の立場である。ただ、この煩悩のかなたにも、さらなる真の自分の姿があることは、大事に聴かせてもらっていいことである。

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真宗カウンセリング研究会・世話人会

 真宗カウンセリング研究会の世話人会があった。4月からの活動計画の相談である。昭和35年以来、47年目を迎える。西光先生亡きあと、研究会の存亡の危機もあったが、多少なりとも余剰金があるうちは、身の丈にあった活動を進めていくことで、現代表のM先生を中心に、ぼくが事務局長として補佐しながら、数名の世話人の協力のもとで、手弁当で続いている。もちろん、西光先生の熱情、功績が目立つのだが、組織としては、ズッーと事務方として支えてきてくださった、M先生の功績によるところが大きい。

 いまは派手な活動ではないが、これまでと変わらず、細々でも、月例会や、各種の研修会、聞法の集いなどを継続し、誠実に、開催し続けているという自負はある。そこで育っていた人達もかなりの数にのぼり、いまもまた新しい出会いがあるのだがら、ある種、胸を張ってもいいだろう。ちょっと余裕がでたのか、年一度は、なにか新しいワークなどの体験学習の機会も設けられるようになった。今年度は、アートセラピー、来年度は、プロセスワークなどの体験機会も考えている。

 創立以来、(とくに晩年は)繰り返し西光先生かおっしゃった研究会の趣旨がある。

1)ひもつきではない。(どの団体や会からも援助を受けぬ代わりに、自主的に運営されている、独立した集いであること)、自主独立した集まり。

2)決して強制はしない。(お世話もあくまで、自主的に、やりたい人がやっていく。たとえここに恩義があろうとも、義理立ては不要。)

3)西光ひとりではない。(研究会は、西光ひとりがやっているのではない。みんなに活躍の機会ある。)-西光先生だけにスボットライトがあたりすぎることを、極力さけておられた。

 3)は、先生亡きあと、真価が問われている。1)は、おかげで貧乏だし、事務所も仮住まい。また、創立以来の参加者であるM先生以外は、ぼくも(といっても、もう20年以上になるなー)含めて、わりとご縁の浅い人達が世話人が、二足、三足のわらじの一つとして、頑張っている。ほんとうは、もっともっと力のある諸先輩方も多いのだが、それぞれが各自の信じる道を歩んで活躍されているのも、、西光先生の2)の趣旨と、器量によるところが大きいのだろう。

 「真宗カウンセリング」の言葉の本家で、真宗の世界では全国区だが、活動は極めてローカル。これもまた本会のジレンマであるが、またこれも「らしさ」だろうか。

 身の丈にあったところで、来期も活動していくので、もし皆様とも、どこかで出会いの機会があれば楽しみです。

 

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打ちのめされました

 今年の報恩講は、すごいエネルギーが集まってきて、ほんとうに活気がある法座でした。予想以上に新鮮な顔ぶれが集ってこられた。こんなことは久しぶりです。ただ新しい方がおいでになったからではなくて、その方々が、目の色をかえてご聴聞されていた。それに、ぼくたちも、皆さんも動かされました。年配の方だけでなく、20代の方も多かったし、いろいろな方が、いろいろな角度から、初めて参加された方に関わっておられる姿が、ほんとうに尊かったです。結局、人のためじゃないですね。自分に問われて来る。

 法要があるので、分級座談会の時間はちょっと少なめになります。その分、ご法話のインパクトが強かったのではないでしょうか。

 ぼくの中でも、2日目の法話であげたご讃題にうちのめされました。ただ文面をではなくて、実際に声に出してみて、初めて自分の耳に届いてくることがあるんですね。

「…主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し、怨みを結ぶ…」 

 …忿(いか)りを成し、怨(うら)みを結ぶ。

 …猥(みだ)りがはしく死罪に坐(つみ)す。

 …予(よ)はその一つなり。

 相手が天皇であろうと、どんな権力者であろうとも、法に背いた罪、恩師法然上人への弾圧に対して、猛烈な怒りを、この身を全身を使って吐露されるその態度に、自主的に「念仏停止」している懈怠のわが身は言葉にならずに、皆さんの前で立ち尽くしてしまうだけでした。親鸞様の、私ひとりへの命がけのご苦労。いやそれ以上に、生身の親鸞さまの、憤怒のお声が聴けえてきました。あれ以上このテーマに触れてたいら、たぶんもうお話はできなかったと思います。それで、法話の中では、直接的にはこの「言葉」には触れることはありませんでした。

 あまりにも有名な言葉で、耳にタコなのですが、親鸞さまの声として届いてきました。戦前の真宗教団が削除した箇所。今日の浄土真宗の主流になっている、「生かされて生きる」などという、寝ぼけたムードはここにはありませんわ。

 しかしこれもただただ、仏恩の深さと、教示くだされた知識のご恩深いことをひたひら思い、どんな人倫の嘲(そし)りも恥とせず、また疑謗をする人も、そのことがご縁となって、必ず仏法を喜ぶ身となられることを願っておられる。

 今日は、「非僧非俗」の、非僧であることには熱心。肉食妻帯の、煩悩具足の在家止住をおおぴらにエンジョイしている。でも、非俗であることを、どこで発揮していくのでしょうか。お経があげられる、お葬式ができる、法話ができる、そんなことが、非俗の精神でしょうか。「禿」の字をもって、自らを「愚禿」と名乗られた親鸞様のお心と、あまりにもかけ離れたわが身が恥ずかしくなりました。

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報恩講の準備はOK

 法座の前は、準備でバタバタとしている。直前でも、キャンセルや追加があって、事務方もたいへんである。そうじの方は、昼は、仏具のおみがきなどで京都支部の有志の皆さんが、夜も仏青と、京都支部の有志の皆さんがお手伝いしてくださった。書き初めの準備もお手伝いくださった。

 ぼくは法話の準備が中心だったが、いつも焦ってしまう。遅くなってから、あれもこれもと不安を感じぎみになる。何十年も経験で、大丈夫なのはわかっているのに、なかなかここは難しい。一方で、この緊張感は、大事にしておきたいとも思う。貴重な時間をいたたくのだから、なるべく伝えたいことをしっかりとお話をしたい。だいたい準備はできたようだ。

 当たり前のようで、案外、昔はないがしろにしていたことは、体調面と、精神面を整えておくことだ。これは、事務の方やお手伝いの皆さんのおかげで、前日に事務やそうじにバタバタとせずともよくなったおかげ。朝は、自力整体をしてからだを整えたり、ゆったりとした気持ちで、法座に望むようにしている。皆さんが、悩み事やネガティブな感情をもってこれらることもある。一緒になって、焦って反応したり、イライラしていたのでは、申し訳ない。ぼく自身の働きは、たいしたことはできないかもしれない。しかし、せめて自分自身が、元気で、整った状態で臨みたいとは願っている。単純なようで、けっこうこれも難しい。今だって、小さな悩みやクヨクヨもある、体調面もいろいろな状態のときもある。それを一部で持ちながら、前を向いて、柔らかな、やさしい気持で進んで行ける感じがあれば、ほぼ心配はない。今回は、その点では、かなりグット・フィーリングで望めそう。今朝も、からだをほぐしながら、このからだをいたいだ不思議を味わっていた。ほんとうにここに仏法を聴く身をいただいことは、もったいない限りだ。そして、護られている幸せものだと思えてくる。そのおかげで、こうして生かせていただている。ただお念仏するしかない。

 明日は、始めての方も多いようだ。楽しみである。

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報恩講さま

 親鸞様の「報恩」を講(あきらか、つまびらかにする)の集まり。親鸞聖人のご恩徳を偲ぶ、華光の報恩講さまが間近です。華光では、華光大会や永代経法座のほうが大きな行事に思えますが、浄土真宗の門徒とって、親鸞聖人のご威徳を偲ぶ、仏恩に報謝する最重要な行事。蓮如さまにかかると、「この御正忌(ごしょうき=ともいう)を以て、報謝の志をはこばざらん行者においては、まことにもっと木石にひとしからんものなり」(御俗姓)とまでおっしゃておられる。

 さて、ここに来て講師のご都合で、先生が3名で臨むことに決まりました。法話は、四席あるで、ほんとうは1度は若手先生にもお願いしたいところですが、あまりに急だったので、今回は、急遽、ぼくが2回担当。こうなると、明日の深夜あたりで、ギリギリに焦ったりするわけだけど、まあこれも本業ですからね。このぐらいはやりませんといけません。

1月13日(土) 昼1時30分(法要)法話・ 夜7時(法要)法話

    14日(日) 朝9時 法話  昼 同  (法要)法話

 夜の法話と、朝の法話。夜は、短めで30分ぐらい。けっこうこのほうが難しくて、スロースターターなんで、モタモタ話していたら乗ってきたところで、お終いになりかねないものね。逆に朝は60分以内でね。長くならんように注意。

 1席は、東海の座談会の時にも触れた、「大智度論」の、「四依」(なにをよりどころにご聴聞するのか)を中心に。月を指(さ)す指(ゆび)の話を考えている。月(真理)を問題にしないで、指(言葉)ばかり問題している。指が太いとか、細いとか、ときには、「あいつらは、愚かにも指の根元を観ているが、オレは爪を観ているんだ」と自惚れている凡夫の姿というか、聞法の姿を話そうと思うが、これはまだ少しネタ不足。もうひとつなにかが必要。

 2席目は、今年は、親鸞聖人の流罪800年だそうなので(新潟の先生からいただいたの年賀状で知りました)、ちょっと「へえー」と思ったので、「報恩講」の意義と、流罪800年のところをからめる予定。時の体制から念仏を禁じられたのにもかかわらず、わが念仏の道を信じ、その専修念仏の勧め続けられたわけです。「信順する人は当然、逆謗もいつかは必ず仏縁となる」と、後序で語っておられるように、自身は、虚仮不実の身と自覚されながら、畏れることなく、隠れることなく真実の道を歩んでくださった、親鸞さまのお力があったればこそ、末法に生きる底下の泥凡夫の私のところにもお念仏が届いてきたわけです。ほんとうに、勿体ないことだなー。ムアミダブツ。
 こちらの方は、「非僧非俗」の精神や、時機相応の法などを、お伝えしたいことはいくつかあって、少し選択して、前日に回す必要があるかもしれませんね。

 親鸞様の精神に比べて、末世に生きる、わが姿はどうかかといえば、肉食妻帯し、在家止住で、「非僧」であることには胸を張るが、「非俗」の方は、なにか。ただお勤めができるとか、聖教に詳しいことが、その中身はないはず。そう考えるとこの「非僧非俗」の精神は、深く重いですわ。

 まあ、なかなかこのお念仏が広まらないのも、外からの圧力ならぬ、自分の判断で「念仏停止」(ちょうじ)。回りの目や社会のなかで、なるべく目立たぬように、出る杭にならないようにと、ヌクヌクと自分を楽しませることにしか熱心ではない、この自分自身の姿勢。おかげで、権力に睨まれることもなく、流罪にあうこともない。これじゃ、せっかくのお念仏が広まるわけないわね。恥ずかしい限りだけれど、これがほんとうの姿。でも、そこにも光り輝く南無阿弥陀仏が届いてるわけですから、これはこれは、勿体ない。

 木石の身が、南無阿弥陀仏のおかげで黄金に成る 不思議。

 皆さんも、ご都合をつけて、ぜひお参りください。

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『聴くちから』~The Lost Art of Listening~

489976090609「世界は、「人間関係」で出来ている。して人間関係は「聴くちから」で出来ている。世界一、大切スキル「聴くちから」

という日本語のオビがついていた。これがなかなか面白かった。著者は、マイケル・P・ニコズルというアメリカのセラピスト。この手のアメリカもの、「成功のための10のステップ」とか、「これだけすれば、簡単にこんな変化が起こる」などという、耳障りだけがいいHOW TO物が多い。ところが、本書に好感をもったのは、著者自身も「聴けない自分」をよく押さえている。しかも、おいそれと身につくものでないことを示しつつも、なぜ「聴くことが大切なのか」を解説し、誰もが「誰かに話を聞いてもらいた。この気持ちを分かってほしい」という願いを抱きながら、「相手の話をきちんと聴くこと」が失われている現状を憂いているのである。大方の人は、「会話は自然に流れいく」という幻想を持っているが、実はほんとうに円滑に流れるには、一見、不自然なような「聴く」努力が必要だという。しかし、それは苦痛をともなうものでなはく、人間だけに与えられた特別な才能(ギフト)~確かにその通りですわ。言葉を話すのも人間だけなら、ほんとうに理解できるのも人間だけですよね~であり、日常のたゆまぬ努力を重ねることで、円滑なコミニケーションや豊かな人間関係を結ばれている。

 アクティブ・リスニング(積極的な傾聴)という言葉があるが、「言うは易し、行うは難し」で、実際の日常生活のなかでは、なかなかうまくいかない。その原因は何故かを知り、それを克服する実践を提唱されている。

 話をきちんと聴けない本当の理由は? まず、その重要さを理解していない。と同時に、ほんとうの自分自身に気づいていないからだが、主な原因として、

 1)私たちは、自分の欲求を抑えられない。

 2)私たちは、偏った話の聴き方をしている。

 3)私たちは、すぐ感情的な反応をしてしまう。

1)-①話し手に対して純粋な興味を持っている。

   ②自分の気持ちは抑えること(話を聴く時の鉄則)
    「支配したい」「指導したい」「変えたい」という欲求のある  ことに気づくこと。

    話を聴くことは、
    「自分自身を押し殺す」ことでもなければ
    相手に「負けること」「降参すること」でもなく、会話の指   導権争いでもない。 

   ③話を聴くことは大変なこと

   ④五つの状況パターン
    ⑴雑念や雑音などに気をとらわれてしまう
    ⑵次に何を言おうかと考えてしまう
    ⑶自分の解釈を述べてしまう
    ⑷「相手を支配したい」という気持ちが働く
    ⑸自分の問題で頭がいっぱい

   ⑤聴いていないのに、聴いているふりのパターン
    ⑴「そういえば私も…」(ホンネ、「次は私が話す番だ」)
    ⑵「まあ、なんてひどい」(過剰なまでの同情)
    ⑶「そだな、もし僕がきみなら」(ホンネ、愚痴ってないで  行動を起こせ)
    ⑷」こんな面白い話、聞いたことある」(ホンネ、聞いてい  ても退屈なの)
    ⑸「そんなことくらいでくよくよするなよ」(一見、励まし)  (ホンネ、君の悩みなんてたいしたことないんだよ)
 

話を聞くときに大切なのは

①話を聴くときの基本的スキル
 1)第一ステップ 「注意を払う」
 2)第二ステップ 「相手の考えを認める」
  -①自分の話は後回しにしよう
  -②訊きたいことがあるときは、あらかじめ伝えておこう。
  -③話し手に(ちゃんと聞いていますよ)というサインを送ろう
  -④どうしても集中できない時は素直にそう言おう(純粋さ)
 3)第三ステップ 「自分の理解を確認する」
  -①相手の言葉をフィードバックしよう
  -②話の要点を自分の言葉で確認しよう

②言い争いを避けるためのスキル
  1)「他人の気持ちに責任を感じる必要はない」という考え方を身につけよう
  2)自分の主張に固執するのはやめよう。

などというのである。専門書ではなく、具体的なエピソードが多くてわかりやすいです。

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いろいろ動きだします。

  今日は、早朝から予定が変更になる長い1日だった。

 家内が、報恩講のボスティングに新聞配達より早く出かけた。下の子が目を覚まして、一緒に寝たりしたが、無事、完了した模様。ある種、ザルで水を掬うかのような作業。目に見えた効果がすぐには現れることはない。しかし、地道に、繰り返していくようである。何事も、前向きにチャレンジしている。

 HPにアップしている『念仏のすくい』の絵本を、出版できないか。『念仏の雄叫び』をお世話してくださった編集者の方に相談してみた。華光のことを理解してくださっているので、助かる。さっそく、「今日にでも会館に窺います」とのことで、夕方にお会いすることになった。

 「今日のお参りはないですか?」。祥月命日のお参りを促す連絡。昔から、たった1軒だけ、年忌法要にかかわらず、祥月にお参りしているご家庭がある。今年は、父はまったく予定していなかったようである。急きょ、代理で窺うことになった。車がなかったので、探し探し自転車で走ったが、予想していたところより少し遠かった。冬に、衣で自転車の長距離は、なかなか難しかい。マンションに引っ越しされて、仏壇の向きを気にされていた。確かに、端にタンスに向いて置いてあって、ぼくが座るともう誰も座れない。「こちらの壁につけられたらどうですか」と提案すると、「それでは北向きになるのですが、そのことで困っています」とおっしゃる。長年、お参りしていても、なかなか自分自身の問題として聞法聴聞にいたるのは、稀である。あくまで、故人(仏さん)の供養が中心なのである。それでも、少しづつお話もしているようだが、1年に1、2度で、どれだけの効果があるかといえば、これもまた簡単ではない。ただ、子供のころ、書道教室に通っておられた同世代の代になられて、少しは話ができるようになったか。不安に感じるお思いを受け止めながら、浄土真宗では、方角など言わないこと。故人を拝むではなく、阿弥陀様に帰依する教えであることなどを、相手に合せてやんわりと話してきた。

 着替えたら、編集者が来館。絵本を観てもらう。内容云々以前に、出版界も厳しい。とくに、仏教系の幼児教育関係への食い込みを考えておられたが、ニーズが限られる。どう動くかがわからないが、まずは一歩。初めての分野なので、こちらとしても、いろいろと調査し、積極的に動いてみる必要がある。ぼく自身も、法話集をまとめたいと計画している。ただ書くだけでなく、どのような形で世に問うのか。総合的な判断も必要だが、まずは動きださないと始まらない。

 報恩講も、法話や分級で予定が変更になりそう。夜には、カウンセリング研修会も始まったりで、バタバタと1日が過ぎていった。気分転換に、21時45分からのレイトショーを1本。珍しくアニメ。筒井康隆原作の『パブリカ』。縄文ボーイさん、なかなか傑作でしたよ。

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『麦の穂を揺らす風』

Muginoho_tn_1  昨年12月に観た、ケン・ローチの『麦の穂を揺らす風』。カンヌのパルムドール(最高賞)受賞作。大いに期待していた。彼の弱者や、苦悩する若者に向けた視線の温かさ、鋭さ、そして繊細さに共鳴することが多い。(とくに、彼自身の幼年期の投影であろう『ケス』と、貧困に喘ぎ、図らずも犯罪に手を染める若者の苦悩を描いた『sweet sixteen』が好きだ)

 今回は、英国人の彼が、真っ 向からアイルランド問題を、歴史的な視線で、しかも名もなき人達の、無数に積み重ねられたであろう不条理な弾圧や犠牲に光りを当てた作品。

 第一次大戦後、緑深きアイルランドで、医師になる将来を捨てイギリスからの独立闘争に身を投じる、青年デミアン(『プルートで朝食を』で女装していた彼(女?))が、主人公。多くの犠牲と、ゲリラ闘争の末に、イギリスは(従属的な独立)という懐柔政策を行う。その結果は、アイルランド内部で、昨日までの味方同士の争いとなる。支持派・完全独立派が敵・味方に分離して、すさまじい内戦を引き起こす。昨日までの友が、親子、兄弟、恋人が引き裂かれて、またしても悲劇が繰り返されていくのである。

 ある種、つらい映画だ。しかし深い問題意識がここにはある。単純な人間讃歌でも、空想的な戦争反対でもない何かが伝わって来る。愚かな人間の行為に関わらない、アイルランドの豊かな自然と、その映像美。英国や権力側の過酷な弾圧の数々。しかし、単純に「正義か邪悪」という単純な二者択一ではなく、善の中にも、悪あり、善あり。また悪の中にも善あり、悪あり。同一の個人においても、国家においても、立場や状況によって、それもまた刻々と変化していくという事実を、常に見据えている。また、テロや暴力が突然、起こるのではなく、そこに連なるまでの過去の歴史(因果ですね)が必ずあり、そのプロセスを丁寧に理解しない限り、力での弾圧や抑圧だけでは、憎しみの連鎖を繰り返すことをも示しているように思えた。

 独立戦争中に、裏切った友人を処刑するシーン。そして、内戦時に、兄弟が敵味方となり、またしても、一方を処刑するシーン。そしてその、死後の事後処理の逸話が、ある種のシンメトリー(対称的)をなしていて、この暗示部分にこころを揺さぶられた。

 決して甘くはないが、観て損はない名作。

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「常持智慧剣 擬破煩悩賊」寒山詩 雁門書

 急に寒くなりましたね。京都も、朝のうちは雪。10時すぎにはみぞれとなり、あとは、昼過ぎまで、冷たい雨が降っていました。北国では、豪雪や強風で被害が出ているようでしたが、皆さんのところは、いかがでしたか?

 ここ数日は、、報恩講の申し込みの電話番(まだお申し込みのない方はお早めに。明日が〆切です)ですが、メールやFAXでの申し込みが増えていますが、初めての方からの問い合わせや申し込みの電話も増えてきています。有り難い。

 もう ひとつは、年始の恒例で、これも華光のひとつの行事。書き初めに取り組みました。修正会がすみ、報恩Img_0022_2講までには仕上げたいので、受験勉強や卒論の時は苦しかったのをよく覚えています。今年も、子供たちが帰省している間が、チャンス。

 お手本をいただきました。今年は、寒山の詩。たぶん、寒山、拾得の、寒山だと思うが、これがなかなか有り難い文章。

 「常持智慧剣 擬破煩悩賊」寒山詩 雁門書、と揮毫(きごう)させてもらいました。(常に、智慧の剣を持って、擬する煩悩の賊う破る) ウーン、勇ましい。真宗ならば、「名号の智慧の剣をもって、自力の執心(無明の闇)につきつけて破る」ということになりましょう。

 1日にだいたい2時間程度、3日ほどかけて、一応仕上げました。ほんとうは、もっともっと書かないといけないんでしょうが、この程度でお許しいただきます。それにそう苦労もなく(お手本が立派ですから)書けるようになりましたが、書いているうちにだんたんわからなくなりますね。ズラズラ並べていますが、1枚選んで落款印を押し、表装してもらいます。

 「雁門」(がんもん)-やっと出てきました。ぼくの雅号(がごう=書などのときに使う呼び名ですね)。初めて中国旅行に行ったときに、落款印(らっかんいん=書などに押す、平たくいうとハンコですわ)を、彫ってもらうことにしたのですが、まだぼくは雅号をもっていませんでした。ちょうど、玄中寺(げんちゅうじ)に向かう汽車の中で思いついたのが、この号です。これは、曇鸞大師(どんらん・だいし)の別名。というより、昔の宗学者(しゅうがくしゃ)は、高僧方を呼び捨てにするなど畏れおおい限り。それで、その方のお住まいの地名で呼びかえられたわけです。七高僧にはそれぞれあるわけですね。それに、加えてこの雁門には、「仏門」という意味もあるので、これはいいぞと、畏れ多くもいただきました。でも、いただきものでしょう。あくまでお借りしている。それで、日頃は、雁門(がんもん)ではなく「かりもん」といっております。ここに書いていることも、どうせあっちこっこちから、借りてきたものばかりだしなーという自戒も込めて、このニックネームにしているわけです。でも、なかなか「雁門」のところうまく書けません。やっぱーまだ自分のものになってないですね。

 『「かりもん」ってどういう意味?』と、わざわざご質問してくださった、TさんやKさん、お分かりいただいたでしょうか?

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カラス~大量廃棄の現実~

 今朝、ゴミの日。ほんの少し出遅れた。別にゴミ収集に送れたわけではないが、カラスや野良ネコ避けのゴミネットを出すのが少し遅くなった。会館の横が、自然とゴミの集積場になって、それをカラスが狙っているのだ。袋が破られカラスの餌食になっていた。正月、5日間のゴミ。有料化にともなって、多少ゴミは減ったものの、さすが年始は多い。鳴き声に、早く気がついたので被害は1袋のだけですんだが、ネットをかけ、あたりを掃除する間も、電柱の天辺に2羽のカラスが、こちらの様子を窺っている。ついでに、水撒きをし、玄関の清掃をすると、ここは無理と思ったのだろ。今日はあっちこちっで大量のゴミが出ている。カラスは、別のゴミを狙いだして、動きだした。

 ぼくにとっては、野良ネコやカラスの餌食になって、目の前の道が汚くなることが不快だという、自己中心的なものだけれども、もっともっと根の深い問題がここにはある。ぼくたちの現代生活の、まぎれもない事実。大量生産、大量消費、そして大量廃棄。少々ゴミを有料化しても、簡単に解決される問題ではない。しかも、家庭ゴミの4割が食べ残しの食品。しかも手付かずまま(パックのラップのまま)廃棄されるものが15%以上あると、数年前に京都市の調査記録が出た。それを抜け目なく狙う動物たちがいるのも、当然だ。

 案外、人間のいのちを粗末にすることも、ここに直結しているのじゃないかなー。生き物(食べ物)、生きとし生きるもののいのちを粗末にして、わがいのちのみ尊いなんて理屈は成り立たないものね。一気にお釈迦様の時代に帰ることは無理だ。しかし、在家止住、肉食妻帯の浄土真宗の精神なら、今の社会にも働きかけることができるのではないか。他力のお念仏に遇って、ほんとうに勿体ないことを教えていただく以外には、道はないんじゃないかーとも思いますが、皆さん、いかがでしょうかね。

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愛別離苦

 今年の三ケ日は、わりと静かでした。お参りは修正会に集中したので、3カ日に年始の同人もなく、訃報以外は電話もありませんでした。妻と子供たちは帰省中。4日間、ちょっとノンビリ、独身生活です。今日は、初自力と初映画(『上海の伯爵夫人』-これも喪失と再生のロマンス、メロドラマだった)。

 自力整体。やっぱり自力の執心が抜けないのか。いえいえ、「からだ」の声を聞いてきました。からだってほんとうに正直ものですね。やっぱり無理をすると、強張りや硬さになって出てきます。暴飲暴食も元凶。欲望のままに生きることは、自分も損ない、他人をも蝕むことなんですね。お釈迦さまって、ほんとすごいわー。でも、分かっていてもやめらないのが凡夫だと見抜かれた親鸞さまも、またすごい。

 さて、「おめでとうございます」の裏には寂しげな方もあった。年末に、突然、配偶者が急逝された方。まだ50歳台。とても元気、病気とも無縁だと思ったしたのに、ランニング中に突然の発症で、急逝。仏教で問題にする無常は、自分自身の身について、いわば一人称です。でも、もうひとつ、身近な家族(子供や配偶者だったり、親だったり)、とくに、突然の事故や病気のように、一見不条理(もちろん、仏教にはそんな死はない。あくまで因果の道理にもとづき、常に無常であり、無我の存在なのですが、まあ、いまは世間体ね)な死ほど、受け入れ難く、同時に悲嘆の大きなものはない。自分自身を苛み、怒りに苦しみ、時には新たな悲劇を生み出すケースも少なくはない。

 肉親の死を前に、勇猛であるのは賢善精進の虚仮の姿。ほんとは、「愚かで、拙なげにして、歎き悲しむ」のが凡夫の真の姿だと、親鸞さまも、温かいまなざしでおっしゃっている(口伝抄)。悲しいものは悲しい。わが身を引き裂かれるほどつらいものはつらい。でもね。それでお終いではない。もうひとつ奥を聞かせてもらえるのが、この浄土真宗の聞法。そこにかかっている、ご本願を聞かせてもらわないと、これまた迷いの悲しみ、苦しみを果てし無く繰り返すだけ。この二人称の死の事実こそ、自分の死を問題にする上でも、また愛別離苦の現実を直視する上でも、また喪失からの新たな再生をし、成長する(または聞法の契機となる)意味でも、これほど大きなご催促はないのだが、現実は一足飛びにはいきませんわ。一歩、一歩寄り添っていかせてもらうしかない。きっとご縁ができますようにと願って止みません。

フィオリナさん>聞法進んでますか。輪読の華光誌は、ぼくの『不思議の中の不思議』というやつでしょうかね。

ネコ丸さん>今年もよろしく。そのとおりです。さすがよくわかりますね。皆さんの様子は、制約があるのでちょっと難しいですが、雰囲気だけでもね。

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無常は待ったなし

 修正会のあとは、帰省中の姉一家と共に、家族一同で祇園の町家を改装したイタリアンのお店で会食しましたが、それ以降、2日、3日は、子供と公園で遊んだ以外は、寝正月。パソコンも開かず、書類や日記の整理しておりました。でも、今日の午前中に、同人のご主人の訃報。直接的な華光同人ではありませんが、そのお家では、度々(今も)法座のお宿をしてくださり、故人も元気な時はお参りしてくださっていました。しかも晩年に、お念仏の心に触れられるようになり、高齢に伴って、長期で入院をされていましたが、ベットでも大きな声で称名されていたそうです。この世のことはだんだんと不自由になっても、お念仏のことだけは不思議と通じるのだと、奥様もおっしゃていました。お正月とは、人間の勝手な都合で、大無常は待ったなし。お悔やみ電報をうちながら、しみじみと味わわさせられます。

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1月1日は修正会

Img_0006_1  元日。華光会館でも、お昼から修正会のご法座が勤まります。浄土真宗に限らず、仏教のどの宗派でも、正月に厳修される法要を「修正会」と申します。旧暦の二月に厳修される場合は、修二会ですね。本願寺派では 、「元旦会」とも申しますが、だいたいそれは早朝など、午前中に勤まるわけで、華光会館は、午後からの法要と法話なので、創建以来、修正会と称しています。母が座談の時に、「有り難いことに、創建以来、お正月のお飾り(鏡餅)用のもち米と、お仏飯の小豆は、いつも江原(現日高支部)の方からのお供物で、一度も買ったことがないです」と。一般の伝統あるお寺なら当たり前のとこでも、こと新興の華光会では、これはますます尊いことだと思いましたね。その方々が、別にお正月にお参りできるわけではないのですがね。ずっーと、同じ方々がお世話くださっています。ここにも、目に見えないおかけがあります。

 さて、今日の朝は、京都在住で、帰省していない学生さんなど仏青の方をお招きして、一緒におせちでお祝いしました。

 華光会館の修正会は、午後1時30分から。今年、天気よかったですね。穏やかな元日となりました。ちょっとお参りの方は少なめです、35名程度でした。京都の方が中心ですが、東海支部の方、高山支部の方も、かなり人数ありました。大阪の方はありましたが、奈良方面の方が、ほとんどなかったような気がします。

 ご一緒に「正信偈」をあげ、そのあと、華光節(別名悟朗流)で、「現世利益和讃」を唱和し、「御文章」をいただきます。そのあとは、ご法話、そして記念撮影や休憩のあと、新春の信仰座談会が残りの半分の時間です。(ここが世間の修正会とのいちばんの違いでしょうね)

 さっそくデジカメで風景を撮影しました。顔が映らないように配慮したので、いい写真ではありませんが、雰囲気だけでもお味わいください。この写真を見る  (ねえ、いつもの法座とそう変わらないでしょう。)

 「現世利益和讃」を唱和する以外は、特別、普段の法座とは違いはありませんが、 ご法話は、真宗興隆時のエピソードに始まって、いのちの尊厳、そして世間(今生)と出世間(後生)の峻別。とくに、何が起こってきても、「無明の闇」があけまして、ほんとうにおめでとうごさいます」という身には、まさに無碍の一道。今生のことで何一つ畏れるものがないとの心境を、数え83歳の老境の身で、力強くお話いただきました。座談会は、皆様、一口ずつですが、濃~い味わいを語られましたから、1周回るだけで、1時間45分ぐらいかかって時間切れとなりました。年末年始、もしくは新春の所感などをお持ちの方もあって、座談会はいろいろと話題豊富だった気がします。

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新春のご挨拶

 あけましておめでとうございます。

 12月31日のエントリーから、まだ3時間ほどですが、2007年もよろしくお願いいたします。「かゆい、かゆい」という下の子を寝かしつかせて、あれから、夫婦でスパークリングワインをあけまして、お祝いしています。例年、昨年を振り返り、いろいろと話をします。今年も、「自分を大切にする」ことができたらいいと話しておりました。もちろん、法がなければ意味ないですから、自灯明・法灯明にも通ずる心ですね。

 ともかく、本年もよろしくお願いいたします。

南無阿弥陀仏

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