白川静『文字講話』
先日、白川静博士が、96歳で逝去された。88歳から、京都で月一度の学習講演会を開かれていたが、興味をもちながらも、結局、聴講の機会は叶わないものとなった。その時の講演を、全4巻でまとめられたもの。口述なのでその点は多少は読みやすいのだか、凄まじい博覧強記、当代きっての碩学である。
いわゆる、白川字書三部作(もっとも凡人には、「常用字解」で十分ですよね)を始め、著作集を含め相当な量の書物や論文が刊行され、白川文字学、白川漢字学と称されるが、二千年近く続いた東アジアの漢字の字源解釈を覆すほどの力をもつだけでなく、中国の神話時代から綿々と続く、東アジア、東洋の原精神や風土に遡り、単なる「文字」に止まず、緻密かつ広大なスケールで、東洋の本来あるべき姿の回復を願い続けられたというのである。漢字文化圏が漢字を解体したとき、(韓国のハングル、中国の簡単字、そして日本の漢字政策の誤り)本来あるべき東アジアの平和は崩れ、争いがたえなくなったのは、不自然窮まりなことだと、漢字による、新たな東アジアの文化圏の構築を願われていた。出発は学問の機会もなく、独学で学び、学閥ももたず、その正当な評価は最晩年で、文化勲章受賞が94歳の時。しかも、最後の最後まで現役で活躍され、学問を追求するそのエネルギーは凄まじい物があったことが窺える。
京都新聞のコラムに、荀子の「口耳四寸の学」について書かれていた。君子の学は、耳から入って心まで辿りつく。体の隅々に行き渡り、立ち振る舞いに現われる。一方、小人の学は、耳から入って、口からすぐ出ていく。口から耳までの長さは、わずか四寸(12㎝ほど)しかない。とうてい五尺の体に行き渡ることはない。いくら、偉そうなこといっても、じっくりからだを通すことのない、聞きかじりの浅い学問の戒めである。
こんな人に言われると、グーの音もでない。ITの発展で、どんどん便利な社会に進化しているようだが、同時に、人間の浅はかさにも拍車がかかってるのではないか。知らないことは検索さえすれば、簡単に得たい情報が手に入る。しかも、簡単に「知った」だけで、分かったつもりになって、すぐに知ったかぶりをしてしまう。いくら学ぶことが、「真似る」ことであっても、猿真似ばかりしている身が恥ずかしくなる。でも、これからも、耳や目で得た知識を、すぐに分かったふりして、口に出していくのだろう。まあ、聞く方も聞く方だし…。このあたりはご容赦いただかないとなー。
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